( 301242 )  2025/06/22 03:52:53  
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特攻兵に「ヒロポン」注射 新潟の元軍医、晩年も後悔

共同通信 6/21(土) 6:47 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/ed1b0371790392bf4cc97d2e16a75a29fa97b983

 

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太平洋戦争末期、蒲原宏さんは新潟市の海軍軍医として、特攻隊員に覚醒剤として実はヒロポンを注射し続けていた。

彼は200人以上に注射を行い、後悔の念を晩年まで持ち続けた。

(要約)

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非戦を訴える元海軍軍医の蒲原宏さん=2024年12月、新潟市 

 

 太平洋戦争末期、日本軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵の艦船に突撃を試み、多くの若者が犠牲になった。特攻隊員は、ヒロポン(覚醒剤)を打って基地を飛び立った。新潟市の元海軍軍医蒲原宏さん=3月に101歳で死去=は、覚醒剤と知らずに約200人に注射し続けた。生前の取材に「とんでもないことをした」と語り、晩年まで後悔の念は消えなかった。 

 

 1941年、新潟医科大(現新潟大医学部)に入学。講義打ち切り後、軍医学校で学び、45年2月、鹿児島県の海軍航空隊串良基地に配属された。 

 

 同年3月の沖縄戦開始後、戦況が悪化する中、上官に「目が覚める薬」と言われ、特攻隊員への注射を指示された。長さ約3センチの茶色いアンプルに入った透明の液体が何か分からなかったが、指示通り敗戦まで打ち続けた。 

 

 特攻直前の隊員は、無口で目がぎょろぎょろしていた。死を覚悟し、諦めたようだった。「軍医さんはいいですね。死ななくていいんだもん」と言われたこともあった。前線に出ない蒲原さんは、返す言葉がなかった。 

 

 

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戦争に関する話題が中心で、特に戦争の非人道性や戦争体験者の苦悩が強く反映されています。

戦争を避けるためには外交や国力、軍備の重要性が指摘されていますが、それでも戦争の恐ろしさや後遺症は避けられない現実として語られています。

戦争体験者や軍医の後悔、覚醒剤の使用など、戦争の犠牲や苦しみが背景にあります。

 

 

また、戦争とは無縁な現代の若者に向けて、戦争のリアルな姿や平和の尊さ、戦争を繰り返さないための考え方の重要性が訴えられています。

戦争体験者の話や戦争の実態を通じて、戦争をリアルに理解し、平和な未来を築いていくことへの意識が高まっている様子がうかがえます。

 

 

(まとめ)

( 301246 )  2025/06/22 03:52:53  
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このような話を聞くと戦争は兎に角、理不尽。生き残っても、誹謗中傷、悲しみはなくならない。だから戦争は反対とコメントすると、他国が攻めてきたら、どうするのか?反政府主義か?とか返ってくる。なんで戦争をしない、させない、おこさせないという発想にならないのか?戦争抑止のためには軍備も必要と思うし、相手に戦争をしかけたら損と思わせる外交、基礎的な国力が必要と考える。 

 

▲10491 ▼835 

 

=+=+=+=+= 

 

現代では戦争のメリットはなく、デメリットのみである。にもかかわらず戦争を行う国は後を絶たない。戦争はなぜするのかに対して、人の攻撃性がある限り無くせない説があります。ではその人の攻撃性が戦争に至らないようにするしかない。その一つがスポーツとされています。 

資本主義での経済拡大方法に新しい知恵が出るかがキーとなります。経済拡大の現時点での唯一の方法は人口増加です。人口が増加すれば資源が枯渇、攻撃の絶対数も増加します。人口減少の仕組みの構築が人類でできれば戦争のない世界の実現に大きく近づくと感じる。 

 

▲175 ▼71 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻隊員にヒロポンを打ったのは昔から既成事実として知っていたが、隊員の名誉のためにヒロポンを省略して語られる事がほとんどだと思う。 

実際には戦争に美談など無いし、極端な言い方をすれば英雄もいない。 

洗脳、狂気、恐怖、良心の喪失などが兵士の心理だったと思う。 

だから、隠したい事実も含めて正確に伝えることが平和への第一歩だと思う。 

 

▲23 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

非常に恐ろしい、そしてとても悲しい話ですね。 

医者なのだから当然何を注射しているかは把握しているものだと普通であれば思ってしまいます。 

上官の命令は絶対なので、言われるがまま、得体の知れない液体を注射しなければならない。 

軍医なのでもちろん医療行為は行なっていたのでしょうが、ただただ注射する技術がある人材要員として駆り出されてたということでしょうか? 

しかもその注射の目的等も知らされないままというのは残酷だし、悲しすぎすね。後悔は計り知れなかったのではないかと思います。 

 

▲266 ▼17 

 

=+=+=+=+= 

 

>死を覚悟し、諦めたようだった。「軍医さんはいいですね。死ななくていいんだもん」と言われたこともあった。前線に出ない蒲原さんは、返す言葉がなかった 

 

これが戦争の怖いところ。 

ただ命令するだけの人たちの罪は重い。 

戦うのは自分の意思でが最も大事。だけど誰も殺し合わないのが理想。 

 

平和な世の中になってほしい 

 

▲5623 ▼174 

 

=+=+=+=+= 

 

2代目水戸黄門を演じた俳優・西村晃さんは、 

その記事中の串良基地の特攻隊員として3回出撃したが、 

3回とも機体の故障で引き返したという。 

 

その部隊で戦後も生き残ったのは、西村さんと 

友人だった裏千家当主だった千玄室さんの二人だけ。 

 

千さんは百歳超えたが、最近も鹿屋で講演するなどお元気な様子。 

 

▲3193 ▼93 

 

=+=+=+=+= 

 

これヒロポンの話ではないと思う。ヒロポンは戦前は眠気覚ましとして一般販売されていた。軍で使われていたのはそれよりはるかに強力な薬。ある特攻兵の話を読んだが、出撃前に菊の紋章入りのチョコを渡され、食べると体が熱くなって恐怖も疲労も感じない。生還したが、戦後も長く後遺症に苦しんだと言う。現代のウクライナで、撃たれても前進し続けるロシアの「ゾンビ兵」の話もあったが、今も昔も戦場では、人間を生きる機械へと変えてしまう薬が存在し続けているのだと思う 

 

▲3529 ▼317 

 

=+=+=+=+= 

 

貴重なお話です。元軍医さんの長年の後悔は辛かったでしょう。戦争歴史の書物をいくつか読んだことありますが、健常な感覚では特攻などできないでしょう。何かしらの薬物投与で、死への恐怖心を無さないと、敵に自らの命差し出して飛び込むなんて、恐ろしくてできない。特攻隊はじめ、戦争で戦った軍人方々の体験談を聞くと、改めて戦争は絶対してはならないと感じました。 

 

▲931 ▼59 

 

=+=+=+=+= 

 

先の大戦では私の義理の祖父もフィリピン沖で撃沈され遺骨の回収も当然ながらありません 実家では写真も儚げな優しい微笑みが見えました 

義理の父も戦後本当に物心ともに辛い時代を過ごし、数年前にほとんど当時のことは話さずに亡くなりました 

人生を揺るがした戦争は生涯に渡り痛恨の極みだったと思います 

妻からは親戚中をたらい回しにされて苦しい青春時代だったようです 

このようなことが日本全国で私たちの先人が受けたことを絶対に忘れてはならないと思います 

戦後先進国となり戦争放棄国として80年以上明日の命の不安がない今を生きる我々の使命は子や孫へバトンをつなぐこと 

また、暑い夏がやってきます 

学生にとって楽しい夏休みは同時に終戦記念日を挟みます 

亡くなった300万人の命に対して平和な日本であると証明するのは現在の我々の命題でもあります 

日本人として戦争のない有難さを肝に銘じて微力ながら社会貢献していきたいです 

 

▲1749 ▼66 

 

=+=+=+=+= 

 

ショート動画をご覧になった方もおられるでしょうが、特攻隊員や学徒動員のモノクロ写真を元にAI加工したカラー動画があります。製作者の意図は判りかねますが、皆、微笑む動画になっています。見るたびに胸が詰まります。せめて残された写真くらいは笑顔で、という意図だと受け止めています。 

 

▲1106 ▼108 

 

 

=+=+=+=+= 

 

こういうことは当然有り得ると思う。第2次世界大戦のドイツのフランス進行は信じられないくらいの電撃作戦で、人間技では考えられないと言われた。ほとんど睡眠も取らない行軍で、後から組織的な薬物使用によるものだった。 

日本でも戦地でPTSDを起こした兵隊は国府台の陸軍病院に集められ、外部に漏れないよう完全に秘匿されたらしい。その数は万を超えたとの噂があるが、戦争のリアルとして実に悲惨な話だ。 

 

▲811 ▼58 

 

=+=+=+=+= 

 

「ヒロポン」  

 

覚醒剤の軍隊での使用は当時は珍しいことではなかったようです。 有名な第二次世界大戦でドイツ軍が採用した「電撃戦」、あの驚異の進軍速度、戦線を維持するため兵士達を支えたのがこの「覚醒剤」でした。 

 

独軍兵士は何日も「眠らず」驚異的な戦闘を続けられたといいます。 もちろんその後の揺り戻しは凄まじく、発狂や廃人寸前になる兵士もでたようです。 

 

一方、すでに死が確定している日本の特攻兵達。平常心で飛ぶなんて、、 

向精神薬で一時的にせよ恐怖をなだめられたのであれば、それはかすかな「救い」だったのではないでしょうかね。 

 

▲1078 ▼136 

 

=+=+=+=+= 

 

祖父に戦争の話を聞いて育ってきました。祖父は広島の原爆投下時に通信兵として広島市内におり、爆風で負傷し、負傷兵として二次被害を免れたそうです。そんな私も40歳になりました。子供も3人います。本当に幸せです。だからこそ、人生の節目として、この夏に知覧、江田島、平和記念館に行ってこようと思います。 

 

▲568 ▼29 

 

=+=+=+=+= 

 

お話して下さった事に心から感謝したいです。どれだけの重荷であったか察するに余りあります。戦争は絶対あってはならないし、特攻という人類史上でも最悪級の非人道的な作戦を実行するに至った背景を一部の軍人の暴走によるもので終わらせず、国民として当事者の一人と思ってこれからの時代を生きていく上での学びにしなければならないと思う。 

 

▲593 ▼28 

 

=+=+=+=+= 

 

海軍の夜間戦闘機乗りの手記を読みました。彼は「夜間視力を上げる薬」を何度も注射されたそうです。軍医は「牛4頭分の脊椎から、アンプル1本分が作れる特別な薬」と語ったそうで、パイロットは「そんな貴重な薬を処方されるとは」と、自尊心をくすぐられたそうです。 

 だが復員後、この人は神経の発作に襲われるようになりました。列車に乗っていると強い緊張と不快感、呼吸困難に見舞われて降りてしまったりする。医師に相談すると「軍隊経験があるのでは」と質問されました。パイロットの前歴と注射の件を話すと、医師から「同じ症状の方が結構おられます。あれは実は覚醒剤」と、初めて真相を知らされたそうです。 

 覚醒剤は、海軍では戦闘機パイロットや陸攻パイロット、特攻隊員に使われ、軍需工場労働者にも「猫目錠」という眠気防止剤として与えられたそうです。同様の薬剤研究は他国にもあり、戦争は人間を使い捨てにすることが分かります。 

 

▲400 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

戦争と言うのは一旦始まれば、終わりが見えなくなって、行き着く所まで行ってしまうと言うのが、よく分かりますね。もう敵地へ突っ込みしか能が無くなって、それでも負けを認めずに全国民を戦争に突っ込ませようと言う、とんでもない暴挙。まともな精神では居られず、覚醒剤のような現実逃避出来るような薬物が必要だったと言うことかと思います。現在は中東やウクライナでも戦争が勃発してますが、こうした体験は国際社会にも発信して、戦争について考えるのは、かつての失敗を繰り返さない為にも大切かと思います。 

 

▲207 ▼16 

 

=+=+=+=+= 

 

誰もがわからない中、正しいと言われたことを盲目的に行っていた時代。 

そうならないように我々は正しいものを見極める目と頭が必要。いろんな意見を否定するのではなく、取り込んで自分を作っていきたい。 

後悔させる人生を子どもたちにはおくらせたくない。 

しっかり伝えて、話し合っていきたいと思う。 

こういう気持ちになると教えて頂き本当に有難いです。 

 

▲273 ▼16 

 

=+=+=+=+= 

 

戦後から亡くなられるまで一生記憶に残る出来事だったんですよね。戦争体験者はずっと記憶には残るんだろうけど、この方は自分の意思より国の命令のもと軍医として覚醒剤を注射して尚一生苦しい気持ちを忘れられないと思います。戦争体験者が少なくなってきてる今こんな記事を見るのは本当大切な事だし後世にも伝えていって欲しいです。 

 

▲47 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

極限状態で戦うため、目前の死の恐怖を撹乱するための覚醒剤、戦争の恐ろしさを改めて感じます。 

今は命の危険が脅かされるわけでもなく、食べることにも困ってない学生等が、安易な好奇心からか違法(またはグレーな)薬物に軽々しく手を出しますね。 

今も世界では毎日爆撃に怯え、最低限の食事さえ取れない人も多くいる中で、ご飯を食べれて暖かい布団で眠れる尊さを感じられない人たちが不思議でなりません。 

戦争の残虐さ、悲惨さを語り継いでいく重要性を感じます。 

 

▲152 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃は政治家の靖国参拝の報道を見るたびに、なぜA級戦犯が祀られてるところに参拝するんだろうと憤りを感じてた。 

でも大人になって仕事で靖国神社に行くことがあり、そこで特攻隊員の辞世や家族に宛てた手紙をみて涙が止まらなかった。20歳前後の若者なのに自分のことより親や弟妹のことを心配していた。 

そもそも戦争を始めた人たちとその犠牲になった若い軍人たちを一緒に祀るのはどうなのかという思いはあるが、それ以降靖国参拝について憤りは感じなくなった。 

参拝ではなく過去を知る意味で靖国神社には行ったほうが良いと思う。 

 

▲250 ▼63 

 

 

=+=+=+=+= 

 

軍医が、自分が何を打っているから、わからずに注射するって怖ろしいですね。それが覚醒剤だなんて。戦時中でも国を動かす人、政治家、官僚、経営者なんていたんですが、戦後はその人達が日本社会から排除されると思いきや、共産党に対抗するために日本を強くしないといけないということで、日本の社会で活躍するようになったんですよね。その時代の人は死んじゃったけど、その時代の考え方とかをなんとなく引き継ぐ人たちが日本の中心にいるんじゃないかと心配になります。 

 

▲368 ▼45 

 

=+=+=+=+= 

 

1930年代後半には「慢性中毒をもたらす可能性」が指摘されはじめていたけれど、メリットが大きいとして「合法」のままだった。街の薬局などでも入手可能だったのよな。日本で禁止されるようになったのは戦後の1951年(昭和26年)覚せい剤取締法が成立して以降。軍人や労働者だけでなく、一般にも広く流通していたため、有名芸能人や作家などにも中毒者が多くいた。 

 

▲184 ▼10 

 

=+=+=+=+= 

 

戦争を知らない世代にとって貴重な体験談であり教訓とすべき事であると感じます。 

戦争という常軌を逸した状況の中で、個々が正常な判断をするのは難しいと思います。 

当時の行為を悔やむ体験者と、彼らを見て育つ私達。 

同じ轍を踏まないように日々考える事が大事だと思います。 

 

▲27 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻関連の記念館を鹿児島県内で3ヶ所(知覧・鹿屋・万世)見て回りました。 

どこも「命令に従うしかなかった若者たち」の現実が胸に迫ります。 

 

「目が覚める薬」と言われて、ヒロポンを注射していたという元軍医の証言。 

それを後になって知り、「とんでもないことをした」と悔やみ続けた人生。 

 

加害か被害か、白黒では割り切れないのが戦争の本質だと思います。 

特攻は決して美談ではなく、命の尊厳が踏みにじられた歴史として、きちんと向き合い語り継ぐべきです。 

 

▲17 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

考え方が変わった時代まで生きてきたのだから、当時の当たり前とその後の当たり前で葛藤するに決まっている。同じく生き抜いた人が当時は当たり前だったからと慰めたところで自責の念は晴れないかもしれない。 

唯一は特攻で先に逝った者が向こうの世界で「お陰様で無事に軍神になることが出来ました」と言ってもらうことだろう。 

さぞ生き苦しい勝ったと思われます。 

このような死ぬも生きるも苦しい人たちの守ってくれた日本をこれからも大事にしないといけません。 

 

▲6 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

当時の航空隊の基地にいた人たちの回想録を読んでみると、ヒロポンを使用したという話はあまりなかったように思う。確か夜間に出撃する戦闘機の乗員に「暗視ホルモン」という薬物が投与されたという話があって、それがヒロポンもしくは覚醒剤だとする主張や薬物ではないという主張もあったが、結局何を投与されていたのか不明。ただ投与者は戦後かなりの間、異常な感覚に悩まされたという。当時はヒロポンは疲労回復用として軍隊のみならず各方面で使用されていたようだけど、この軍医さんがいた鹿児島の基地ではヒロポンを使用していたかもしれない。「暗視ホルモン」をヒロポンだといったのはこの元軍医じゃなかったかな? 

 

▲137 ▼43 

 

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ザ・パシフィック (The Pacific):第二次世界大戦の太平洋戦線に送られたアメリカ海兵隊員たちの姿を描いた大作ドラマです。実にリアルに描かれています。戦闘シーンは本物のようです。戦争ドラマの最高傑作です。是非ご覧になってください。 

 

▲10 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

この方には後悔の気持ちとかがあるのかもしれませんが、 

もし仮に自分が特攻隊として出撃しなければならないとしたら、意識のしっかりした状態だととても怖くて出来そうにないのでこういう措置を望むと思います。 

ですが、このようなことを二度とないように日本が戦争のない場所でありつづけてほしいです。 

 

▲27 ▼2 

 

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以前聞いた話では、夜間戦闘機「月光」の搭乗員も「夜目が効くようになる薬」と言われて「何かを注射された」そうです。無事に生き残って終戦を迎えることができたが、戦争が終わって随分経ってからも時折、精神が不安定になりイライラする、人の持っている傘など尖ったものが自分に突き刺さってくるような錯覚を覚えてパニックが起き、公共の場に出にくくなったなど、後遺症に悩まされたそうです。 

 

▲90 ▼3 

 

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あの当時のことは、聞いたことしか知らないけど、ああするしか他になかった。というのが本音だと思う。誰が好き好んで特攻なんてできるだろう。 

怖くて怖くて、ヒロポンが唯一の救いだったろうと、私は思うし、そう思っていないと、やらせなさすぎる。大東亜戦争。この言葉も、思想も都合が悪いと歴史から消されてしまったけど、覚えてる人は語り継いでいくべきだと思うし、何が正義かなんて関係なく、その時の事実は事実なんだと、残していくべきだと思う。 

 

▲107 ▼17 

 

 

=+=+=+=+= 

 

「戦意高揚剤」 

死に向かう兵士に異常な興奮状態を作り出した薬でも、死の恐怖の中で絶望しながら死ぬのと、どっちが「マシ」だったのでしょう。 

嫌味を言われるのも、今で言ういわゆる「メンタルケア」です。 

私は軍医として間違っていたとは思いません。 

気休めにもなりませんが、その時代に「やるべき事」をやり、後世に是非を投げかけた貴方を尊敬します。 

ご冥福をお祈り致します。 

 

▲185 ▼68 

 

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有楽町駅前の綺麗なビル内に大昔、B先生と仰る有名なドクターが開業して居られました。アメリカンファーマシーの上?か近くは間違い無く、患者は引きも切らず押し寄せ、政財界でも名の通った(通った事も有る)方々が大多数でした。 

 

いつもニコニコされ、リハビリスペースの間をトコトコ歩き、患者に細々声を掛けリラックスさせ、こちらも自然と笑顔になる先生でした。 

好々爺とは先生の事と申し上げましたが・・・後で人伝に聞けば軍医任官で戦地を周り、辛く危険で悲しい目にも度々遭われたとか・・・ 

 

あの方こそ、天国にいていただかなければならないと、今でも有り難く思い出します。 

 

▲46 ▼30 

 

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大叔父が特攻だった。しかし戦争終盤の16歳の志願兵で、順番が来る前に終戦を迎えた。農家の末子だった為自分には何も無い、飛行機の整備をすれば終戦後ポッポ屋になれるぞと言われて決めたそうだ。志願のため軍人恩給も貰えず苦労したようだ。命があったのに実家には帰れなかった。偶然にも近所の人が東京で大叔父とばったり会ったのをきっかけに、家族は長い間探し続けて、やっと出会えた。なぜか祖父にそっくりなこのおじいさんが小さい頃大好きだった。祖父も亡くなり私も学生になった頃、遊びに来て沢山お酒を飲んだ夜に大叔父は、特攻の話をしてくれた。ドラム缶にためた雨水にわくボウフラをよく食べた。体の大きい立派な先輩方、尊敬する人ほど早く飛んで行ってしまった。あの辺りを飛んでいた時下を行った大きな軍艦には(戦死した)兄貴が乗っていたかもしれん。東條があの時こう判断すれば…。戦争の話はこの時だけ。戦争は誰も幸せにしない。 

 

▲40 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

当時、眠気覚ましや疲労回復の目的で、世界各国でアンフェタミン系薬物(日本では「ヒロポン」など)が使用されていました。日本軍においても、長距離飛行任務や夜間作戦に従事する搭乗員に対して、ヒロポンが使用された記録があります。 

ただし、特攻機の多くは鹿児島などから沖縄周辺の米艦隊を目指す比較的短時間(約3時間以内)の飛行であり、任務の性質上、精密な三角測量と視認による最終目標への体当たりが求められる繊細な作戦でした。 

戦後のヒロポン中毒者の精神状態を参照する限り、使用者が冷静な判断力や正確な操縦を保つことは困難であったと推察されます。このことから、鹿児島の特攻任務においては、ヒロポンの使用は限定的だったか、あるいは使用されなかった可能性があると考えられます。 

記事が事実なら、特攻機を誘導していた誘導機は連日出撃しており、帰りも飛行のため、ヒロポンを使用していた可能性も否定できません。 

 

▲17 ▼18 

 

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戦時中の医科大学では6年間の医学コースの他に、4年間の軍医養成コースが設置されていました。一般大学から学徒動員されるようになったため、合法的徴兵逃れとして有力者の子弟がこの軍医養成コースに入学しています。蒲原氏も新潟市にある蒲原神社の跡取りであり、戦後は医師とともに蒲原神社の宮司として永らく活動されました。 

 

▲11 ▼0 

 

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軍国主義の中、当時の若者達の命が軽んじられ(若者に限られないことも併せて)、自己の命にかかわる決定から完全に疎外されていたという事実は、「英霊」という綺麗なワードでは塗り隠すことができない残酷なものだと思います。 

愛国単語で気持ちが楽になるのは罪ではない、でもそれは戦争で死ななかった人だけなんだな。 

今を生きる私達は、日々この事について思いを新たにして、これからの日本や世界をどうしていきたいのか考えていきたい。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

まず今の6年生と違って医学部なのに4年程しかない。医学部生は学生の間戦争に行くのは免除なので、早く戦地に出すべく短くなったようです。 

研修もなくすぐに戦地に出た医者の知識は今より少なかったに違いありません。 

その当時の歳の何倍もの時間心を苦しめられて過ごされた事に涙がでます。 

ご冥福をお祈りします。 

 

▲2 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

こういう話には頭が下がる。 

極限まで外交交渉を尽くして戦争を避けるべしというのは当然のこととして、国と国のケンカが始まってしまった以上、一丸となって全力を尽くしたのは立派だったと思う。そして、いわゆる戦争世代は、いくさには負けてしまったが、その後頑張って高度経済成長期をもたらしてくれた。 

自分を含めた戦後世代は、大した苦労もせず平和と成長した経済を享受してきた。そのまま漫然と老境に至った感じで、後の世代に何を残せたかと思うと、特筆すべきものはなく、忸怩たる思いがある。 

 

▲8 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

今の平和な時代の若者が遊びで背徳感を味わうために禁止薬物に手を出すこととは全く違う状況。  

特攻隊員として出撃しなければならない事は決まっていて覆せない日のこと。痛み止めのようなもの。当事者にとっては救いだったのでは。 

 

責められるべきは自分の利益のために他人の命を駒にしてそういう状況を積極的に作っていた人たち。私たちは、当時の国民みんなが彼らのプロパガンダに乗せられてしまって特攻隊に旗を振ったということを忘れてはいけないと思う。 

 

▲92 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

自分も幼い頃、昭和40年代でしたが祖父の家で押し入れの茶箱に入っていた父の復員当時の軍服を見せられた時に、一緒に銀色のアルミの小さな楕円形の箱を見つけました。これは注射器が入っていたそうです!戦後もしばらくは疲労回復の名目で一般人も夜勤の時などヒロポンを打っていたようです!凄い時代ですね! 

 

▲32 ▼1 

 

 

=+=+=+=+= 

 

戦争や紛争が現在も多くある昨今。たとえ、戦争や紛争が終わったとしても、その国々の軋轢や摩擦は消えないだろう。又、戦争などで帰還した軍人の多くが、PTSDなどによる戦闘ストレス反応を起こして精神を病んでしまい、戦時かのフラッシュバックや物音などで錯乱してしまう。又、身体異常も起きる。歩行や起立困難、震えなどに一生苦しむ。それらの記録は今も見る事が出来る。いかに人間が変わってしまうかを理解していない。交感神経が常に優位になり、興奮した状態が続いて、顔も険しく老いた感じて目もボーっとした状態や逆にカッと開いてる人間が普通の日常生活に戻れなくなる。昨今はその後遺症を題材とした映画があるが、まだまだ認知されていない。戦う姿ばかりでは無い。その人間の一生を左右する事を国や政府は考えないといけない。理由は様々あるだろうが、戦いばかりでは無い部分にも視野を向けないといけない。 

 

▲12 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

19世紀以降の戦争は、国民国家の総力戦となり、特定の戦士階級や傭兵による戦闘から、徴兵された一般市民による戦闘となった。普通の人達が市民を巻き込みながら殺しあい、同時に科学技術の進歩により大量殺戮が可能となった。つまり戦闘行為は中世的な英雄達が行うものではなく、普通の人達による大量殺戮となった。多くの人にとって精神的に極めて耐えがたいものだ。そして覚醒剤等の精神薬が開発されWW2では各国の軍隊で利用された。 

特に特攻隊の場合、出撃までの眠れない日々を経て出撃つまり飛行機を長時間操縦する訳で、覚醒剤が極めて有効と考えられた。死に行く人に薬物の常習性や副作用などは考慮されない。この様に狂気の中の合理性があった訳だ。 

現在でも戦争と薬物の関係は続き、ウクライナ戦争で「ロシアのワグネル兵は撃たれてもゾンビの様に向かって来る」と薬物の関与が疑われた。兵士にとって戦闘が狂気の沙汰である事は間違いない。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

苦しいご心中はお察しします。 

 

しかしやらなければ上官に何されるか分からないし…… 

当時は上官や軍の指示に異論を言う事は許されない時代でしたからね。 

 

やむを得ない事だったと思います。 

当時の日本と軍部が異常すぎたのです。 

 

でもそうやって後悔の思いを持たれ、その気持ちを語られた事は良い事だと思います。 

それだけでもやれる事を十分にやられたと思います。 

 

戦争の異常さと悲惨さは、いつまでも語り継いでいき、決して風化させてはならない。 

 

戦争の怖さを知らない若い世代が多い現代だからこそ、今一度戦争の浅ましい姿を多くの人に伝えていくべきだと思います。 

 

▲20 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

生まれて初めて知った訳では無いこの事実を踏まえ、あの戦争の末期に陸海空で色々行われた「特攻攻撃」、これを発案した人、命令と言う「強制」した人はとても罪深いし1ミリも美化するつもりは無い。しかし散って逝った大勢の陸海空軍兵の方(勿論 特攻じゃない作戦で逝った方も同じ) は記事の様に薬物を使ったんだろう、使って無い場合も有るだろうあらゆる背景が有った筈だが、それらを踏まえても彼等は無駄な作戦なのも、勝てない戦なのも解っているし、心の底から行きたく無い!って思いを全部飲み込んで、後の日本の為、残された家族の為にと「自身を無理矢理 言い聞かせて」逝ったのだ と言う事を我々は忘れてはいけない。 

 

▲50 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

医師としては後悔かもしれないが、死に向かう兵士の苦痛を和らげるとすればと考えてしまう。ナチスが覚醒剤の軍事利用を最初に開いた1938年に始まった。兵士のドーピングによって戦闘に非対称性が生まれ、そのためイギリス、アメリカ、日本がこれに続き、自国の軍隊に覚醒剤の配布を許可したのは、むしろ戦争の条理だった。3500万錠以上が兵士に支給された。撃墜のリスクを回避するために、ロンドン空爆は夜間に行なうようになったが、出撃したパイロットにもペルビチンが支給。イギリス空軍は眠気防止のためにアメリカで市販されていた「ベンゼドリン」を自発的に服用していたが、のちにこれが軍の正式な支給品となった。 

 

▲11 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

一番残念なのは、これから死にゆく若者が命を懸けて最期の行動を取ろうと言う時に覚醒剤で通常の感情や意思決定能力を奪われていたことです。当時合法の薬物だったかどうかは関係ないです。 

 

死への恐怖、家族との別れの辛さ、もっと長生きしたかったという無念さ、運命が決した以上は特攻を成功させるという覚悟、人によって色々な感情があったでしょうが、そういったことと本来の形で向き合うことが出来なかったということが気の毒でなりません。 

 

操縦時や特攻時の集中力向上、恐怖心の除去、逃亡防止のための理性抑制、などの理由から「安全なところにいる人」が作戦上の合理性から指示したのでしょうが、特攻で肉体的な死を強制するだけでなく最期の瞬間の尊厳まで奪っていたことに残酷さを感じます。 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻を逃れられるわけではないし、正気で人間爆弾になんてなるのは苦しすぎるから薬物で気分を高揚させたのは、兵隊さんにとっては良かったのかと思う。自分が特攻隊員だったら出撃前に意識が朦朧とするまでお酒を多量に飲むとかそうでもしなければとても任務を果たせないと思う。そうまでして特攻に送られた20代前後の青年達の無念を思うと涙が出てきます。裸足のゲンとか蛍の墓が子供にトラウマを与えるとか害悪を訴える輩に腹が立って仕方ありません。こういう苦しい事が2度と起きないためにも辛くても苦しくても、見たり聞いたりして語り継いでいく必要があるのです。 

 

▲11 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

覚せい剤の戦場使用はよくある話だ。ドイツ軍も電撃作戦をそれで成功させたという話もある。こう言ってはなんだが当時としては仕方ない話で日本に居た以上は何かしら戦争への協力は不可避だったというだけだ。 

また覚せい剤を打たれた兵士に関して敢えて言えば「死を覚悟」する特攻隊において「正気で立ち向かう」方がよっほど残酷だ。覚せい剤の「多幸感・高揚感」の効果が、そういう運命から免れない兵士のメンタルにはむしろ役にたったと考えた方がいい。そもそもが敗戦確実な戦況でもあがき続け「特攻作戦」まで始めた軍部の戦争遂行の戦略が根本から間違っているのであって、その中における個々の行為がどうこう言っても仕方ないのである。 

 

▲6 ▼0 

 

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漫画版「銀河英雄伝説」でも語られていましたね。眠気や恐怖心がなくなり、食欲等も抑えられ兵士にはいいことづくめ、と。ただし兵士を使う側には、の話で兵士は後で後遺症に苦しむことになる。ヒロポンなんて前後も使われていたが他の覚醒剤と比べて早く効き目が薄れるとか。その分回数も増え使った反動、影響は大きかったろう。 

 

▲0 ▼1 

 

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ドラマ「坂の上の雲」で乃木希典率いる第三軍が激しい消耗を強いられている際、乃木を助けようと指揮を預かった児玉源太郎は乃木のそれまでの方針を改め、進軍中の味方の後方より援護射撃すべしと唱える場面があります。 

部下の将校が「皇軍兵士を味方が打つことなどできません」というと児玉は「これまでどれほどの兵の命が無駄に失われてきたことか。援護射撃戦法の方が遥かに損耗は少ない」と一喝し作戦は決定して日露戦争の天王山である203高地争奪戦は日本の勝利に終わります。 

戦争を起こすこと自体が愚かであるとの認識ですが、敵国が勝手に攻め入った際にはこれを迎撃するほかはないというのが実際です。 

特攻隊員の方々の捨て身の攻撃によって米軍は日本軍を心底恐れ、日本分割統治を避けられたことに繋がったのも史実です。 

この医師の後悔は個人的信条としては理解できますが、この注射を有難いと感じた特攻隊員も多くいたかもしれません。 

 

▲11 ▼14 

 

 

=+=+=+=+= 

 

どうなんだろう…。 

あの時代、特攻は御国の為と言われ絶対命令だった。行きたくない、怖いと思った人もいて、その人達にしてあげられた最期の優しさだったかもしれない。 

理不尽な世の中で何が善悪か判断はつかなかったと思う。 

今、あの時の事を「間違った事だった・後悔してる」と思える時代になっただけで…その時代に生きていてその立場ならそれが当たり前だったってだけなんじゃないかな。 

それもこれも多くの犠牲者の上で成り立っているんだよね。確かに過ちだったかもしれないけど、我々は感謝すべきじゃないかなぁ。 

 

▲22 ▼8 

 

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戦争は人為的に起こされるものです 

画策する人間達がいるということ 

そして、そういう人達は、絶対戦場には行かない 

安全なところで、見物している 

何も知らない、何も悪くない人達が犠牲になる 

 

昔と違い、真実が明るみに出やすくなった 

戦争が起こる仕組みを知れば、バカバカしくて戦場に行くなんて気にはならなくなります 

戦争を繰り返さないように、真実を知ること、気づくことが大切になる 

 

▲52 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

戦争の記憶が風化して行くのは残念。わたし、50代半ばのおばちゃんだが、倖い戦争体験を直接聞けた。私の両親も戦前の生まれ。終戦の年は両親共に4歳頃。父は九州の飛行場の近くが実家で頻繁に空襲があったそうだ。その度に家が揺れて生きた心地がしなかったと言っていたよ。母は同じ九州でも大分の国東半島の田舎だったから空襲に被害は泣かったけどB29が飛んでいくのを何度も見たと言っていたよ。ホントに当時の事を知りたいなら鹿児島の知覧に行ってほしいと思う。17、8の子供たちの手紙を読むとホントに泣ける。達筆な字で両親に書いた手紙などを今の若い人たちに必ず見てもらいたいとせつに願うよ。 

 

▲12 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

生前親父が話していた。海軍の工厰兵として呉にいた時上官だった人に特攻隊に志願したいと相談したら死に急ぐなと諭されて断念したと。又ある時ポロッと皆がお国の為と死に急ぎしたが、今思えば上の人間に乗せられていたんだとも話した。 

戦争の事は多くを語ることはありませんでしたが、時々独り言の様に話すことが有りました。親父は青春時代全てが戦争でした。きっと色々な思いがありながらも語らなかったのだと思います。 

 

▲18 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

この手の話は日本軍だけでなく、世界中で行われて来た戦争の闇の部分です。まともな神経では戦闘と分かっていても敵を殺すなんて容易ではないですからね。そんな錯乱状態になってるから民間人への手出しとか虐殺行為は起こり得ますよね。敗戦国であり自虐的史観で日本軍が悪く言われますが、戦場中ではアメリカも爆撃以外にも戦闘機が日本上空飛んできて民間人に向かって機銃掃射してきたって言うんですから。恐らく覚醒剤やっていたでしょうね。 

何れにせよ、戦争は怖いです。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

注射によるヒロポンの接種が広まったのは、もっぱら戦後の事で、戦前は主に錠剤での服用だったようです。 

 

もちろん、戦後に広まったヒロポン注射の出所は軍放出品なので、完全に蒲原氏の証言を嘘と言い切ることはできませんが、戦後に流布された旧軍部を批判するプロパガンダと自身の記憶を混同してしまっている可能性は高いと考えられます。 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

ヒロポンは「疲労をポンと解消する」のが名前の由来であるとの俗説も存在するほどの強壮薬であり、戦後の覚せい剤取締法制定までは全くの合法薬でした。 

それを今になって現在の価値基準に当てはめて批判するというのは、事後法で人を裁こうとする最もやってはいけないことです。 

申し訳ないが、私はこの手のお爺さんの懺悔を見るたびに、晩年を迎えて人生の終焉が近づくことで何か足跡や爪痕を残したい気持ちからの自己主張的行動であると理解し、静観することにしています。 

 

▲11 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

造船企業の職場の戦争経験者には色々と戦時中の話をお聴きしました。造船所空襲や陸軍兵でのインドネシアやフィリピンでの闘いでの昼夜無い闘いでのヒロポンや覚醒剤や大麻などなどの麻薬に頼っての体力増強で敗戦後の企業での作業にも栄養剤として造船街の薬局ではヒロポンは販売されでいました。東京でも同じで日本の経済復活にはヒロポン中毒患者が沢山出ましたからね、団塊世代は過酷な環境下で頑張って日本を経済大国に発展させました。 

 

▲1 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻攻撃という特異な作戦を美化することなく、真実の姿を明らかにすることは重要であると思います。振武寮の存在等ももっと広めるべきでしょう。 

特攻の犠牲者の方たちにも「過ちは二度と繰り返しません」という慰霊儀式はもっと大々的に行うべきであると思います。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ヒロポンは戦後でも合法で落語家が宣伝もしてたな。 

ただ有害性や非常に依存性が強いこと、それに伴って犯罪も多発した事で禁止薬物になった。 

薬物は絶対に手を出してはいけないもの。極限な状態で戦争に生かせるためにヒロポンを投与する。 

理解はできるし後悔も分かる。 

ただ実施のこの様なケースを目の当たりにしたとき人間はどの様に対処していくのだろうか?? 

 

▲15 ▼1 

 

 

=+=+=+=+= 

 

興奮剤としてや痛み止めにも使われましたね、しかし近代未だに世界で戦争は終わりません、これは政治の違いやそんな事だけではなく人類の性質、欲望が有るからでそれに依って人類が生き永らえる根本かも知れません、所謂生物は弱ければ死に耐えます、現在の各国の人類は生き永らえた人達です。それは垣根や国境が有るのと同様、個人単位でもありますから宿命と言えばそうなのでしょう、それらを知ってか知らずか宗教が与えられていますがではそんな昔に人間を知り尽くしたかのような教えがなぜ古代に存在したかです。世界に国境が無くなるとすれば限られた人口しか存在しないでしょう。という個人的な感想です、既に過去となった日本の戦争時代でも明日は分かりません。それほど政治はとても大切だと感じます国の決定事項に逆らってしまえばテロやクーデターになりますね、多数決が良いとは限りませんが。 

 

▲0 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

ヒロポンは元々ただの商品名であり、類似の薬物は同業他社からも何種類も販売されていて、戦後しばらくして国内で禁止になるまで普通に一般向けに流通していた。 

単にヒロポンがそのシェアでダントツで知名度や認知が高かったので、覚醒剤の別名としてのヒロポンが今でも残っている。 

 

▲7 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

たくさんのこのような証言を聞くと今の平和の尊さがわかるが、単に戦争が悪い、武力を持つことが悪いと決めつけて良いのか?あの当時、軍事力を持たなかったらどうなっていたのか?アジアやアフリカのように切り刻まれて植民地にされていたかもしれない。 

戦後、政府は国民に受認を求め、国民も経済成長と引き換えにうやむやにしてきた。戦後の枠組みの中で歴史観は歪められ、まともな検証は封じられてきた。 

必要なのはきちんとした検証とそれを教育で伝えていくことだと思うしそれが償いだと思う。 

 

▲11 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

『軍医さんは死なないからいいですね』このようなその時その時のリアルな言葉、胸に響きます。 

私の祖母は、広島の原爆投下時、救護で広島市内に行ったそうです。私が大人になって聞いた時 

『婦人会で子どもがいなかったのが私だけで、行かないといけなくなった』 

『おかゆをあげてと言われても、口が裂けてて全部こぼれる。どうやってあげたらいいのか分からなかった』 

など、その時の現場が思い浮かぶようなことでした。また被爆者手帳がもらえて医療費が無料になったので、子ども2人に迷惑かけなくて済んだことは良かったとも言っていました。 

全体を大きく学ぶのも大切ですが、ひとりひとりの経験を聞くのもまた大切な学びとも思います。 

 

▲7 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

映画やドラマ、小説等で、帰還兵が無気力になったり人が変わったようになった設定が多い。 

戦場の激しさや悲惨さを目の当たりにして、自分だけが生き残った後悔で次の新たな生活に踏み出せないのかと思ってた。 

もしかしたら戦場で栄養剤や気付け薬として注射されてたのがヒロポンだったとしたら、軍隊は本当に救いがない。 

そういえば、最近の作品にヒロポンはあまり出てこない。 

長い年月をかけて無かったことにされてるようで怖い 

 

▲12 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻隊の方達を思う一心でした事だと思います。特攻隊記念館へ何度も行きましたが、特攻隊の皆さんの胸中理解できます。でも飛び立たねばならない。そんな彼らを思うと仕方なかった。胸中わかります。特攻隊の皆さん考えは大人、でも年齢は子供だったのです。特攻は恐怖です。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

戦中戦後の混乱期、恐らく四年間も医学を学んでいない臨床経験が皆無の即席医師に、責任を感じさせるのは無理がある。 

また抗生物質ペニシリンの有効性を確認する臨床試験は1942年から海外で行われた医学レベル。 

 

今でこそ怖い薬だと言えるかそれはかなりの後出し。医学はアップトゥデイトなので今日の常識は明日の非常識になることは多々ある。医師が忘れてはならない事は日々の勉強と研鑽のみ。 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

漫画の内容が全て正しいとは思わないけど、戦争の悲惨さも、ヒロポンの恐ろしさも、全て学校の図書室にあった「はだしのゲン」で学ぶことができた。 

学校の図書室に漫画やラノベ等を置くことに批判の声もあるんだろうけど、内容次第では図書室に置いたり、授業の教材として使うことも許されていいと思う 

 

▲15 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

今の価値観で良し悪しを計るのは、どうなんでしょうか? 

過去に遡れば遡るほど、どこのエリアでも今の価値観では、考えられない 

所業が良しとされてきました。今でも、日本の価値観とは相いれない風習を維持している国やエリアもある訳です。戦時中の事を今の時代に照らし合わせるのは、ナンセンスとしか思えません。唯一戦争を避ける方法があるとすれば、どこにも攻められない強さを持って、こちらからはどこにも攻め込まない事です。 

 

▲1 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

何にも悪く無いんですけどね...... 

戦争と聞くと、戦時中に青春を過ごした祖父母以上に、戦争を戦場で体験し、多くを失ったのに、非常に穏やかだった亡くなった曽祖父を思い出す。 

遺された僕達にできる事は、戦争をしない事。 

この超絶広いのに更に広がり続けている宇宙に、無数にある銀河の一つ天の川銀河の、その中にまた無数にある恒星の一つ太陽、その周りを回ってる地球に偶奇跡か偶然か産まれた僕達人類。 

同族同士で殺し合うのは、先人達の貴重な経験から学んで、もうやめましょうよ。 

 

▲9 ▼1 

 

 

=+=+=+=+= 

 

私の祖父の兄も特攻隊員だったそうです。とても優秀な人だったと、祖父は今でも話してます。どれほど怖かったでしょう。どんな日々を過ごしていたのでしょう。送り出した家族もどれほど辛かったでしょう。仏壇の写真は軍服を着ていますが、強く優しく微笑んでいる20歳の青年であり祖父の大切な“兄”です。心が痛みます。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

航空機のパイロットに錠剤など服用させるのは 

「眠気止め」という意味もあります。 

 

飛行機は居眠りすると墜落してしまうので。 

覚せい剤で眠らず覚醒してないといけない。 

 

現代は安全な眠気止め薬としてトメルミンなどもありますが。 

2018年(平成30年)現在、処方箋医薬品として「ヒロポン」「ヒロポン錠」が製造されており、都道府県知事から施用機関の指定を受けた医療機関からの注文に対応している。とWikipediaに書いてありました。 

 

▲84 ▼44 

 

=+=+=+=+= 

 

何もこれは日本に限った事では無く世界中で行われていた事です 

 

覚せい剤は文字通り「覚醒(目を覚ます)」させる為に世界で軍用利用されていました 

その歴史の始まりはナチスが覚醒剤の軍事利用を最初に開いた1938年に始まり 兵士のドーピングによって戦闘に非対称性が生まれ、英、米、日がこれに続き自国の軍隊に覚醒剤の配布を許可したのは、むしろ戦争の条理だった。 

とあります 

現在でも狂人の様な事件が稀に起こっていますよね 

 

「覚せい剤」は「目覚まし薬」みたいな扱いをされて深刻な副作用や中毒は無視されていた訳で 

その前はアヘンが痛み止めとして使用されて強い鎮痛作用が重宝されていたんだし 

軽度で言えばタバコも似た様なもんです 

 

今オリンピック等で使われているドーピングもロシアあたりでは兵士に転用されているのでしょうね 

 

当時のお医者さん達は知らなかったはずだし 

そこまで自分を責める必要も意味も無いですよ 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

召集令状が来たら、バンザイって親が送り出すんだもんね。 

どんな気持ちでバンザイをしていたのか。 

少年兵も親もどれほど悲しかったことだろうか。 

 

そしてとうとうその日が来たら、こうして本当の最後に見送る人達と、少年兵…どれほど悲しかったことだろう。 

 

日本は皆さんが礎になっているんだよね。 

戦争もなく、自由があるのは、戦争を経験した人達のおかげです。 

まだ100年も経ってないんだよね。 

 

▲22 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

その時代、その立場での価値観の話ですから。 

刀を持ってた時代は人を切ってた訳ですし。 

特攻隊の彼らだって、その時は「正義」だった。 

今の価値観で裁く話ではないと思います。 

その時代、必死に生きてた人々。 

ただ、優秀な若い命。生きていてくれてたら、日本の過去も未来も違ってたかもしれない。 

 

▲5 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

メタンフェタミンは日本が、アンフェタミンはドイツが抽出に成功し、効果に気づいたナチスが兵士に与えると、たちまち枢軸国や連合国で使用されるようになった覚醒剤。戦中戦後に深刻な覚醒剤中毒の蔓延をもたらした。覚醒剤は第二次世界大戦の激戦化の一因とも言われている 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

これはさすがにないと思います。医師の職業倫理上、どういった効果、副作用が起きるかを理解したうえで、医師の判断で投与する、しないを決めるものだからです。よくわからないものを投与するなら、わざわざ医師に頼らなくても上官か何かが無理やり注射しているでしょう。 

あり得るのは、薬のラベルが偽だったか、他の薬と偽って渡されていたのではないでしょうか。 

わけのわからないものを注射するなんて、一般人はともかく医師にできるはずがありません! 

 

▲4 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

今更この方を責めても何にもならないが、医師であるにもかかわらず、なんの薬か不明のものを他人に注射するとは、あまりにも浅はかだ。完全に死なない守られた立場に置かれると、こうまで他人の死に鈍感になるものだろうか。終戦後、医師を続けたのだろうが、無神経も甚だしい発言だ。せめてこんなことは語らず、墓場に持っていくべきだったと思う。 

 

▲4 ▼21 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻隊を決して美化してはいけない。 

志願制を建前上とっていたが、事実上上官からの強制でしかなかった。上官らは部下の命を、命とはみなしていなかった。 

まだまだ生きたかったのにという隊員の悔しさに思いを寄せると、悔しさしかない。 

あのような特攻を2度と繰り返さないことを心に誓わねば。 

 

▲13 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

戦後しばらくはヒロポンは普通に販売されていた。 

医者にも世間の一般人にもヒロポンは危険、という認識はなかった。なので後悔しても仕方ない。 

それと、特攻機のパイロットに限らず、海軍は長距離を飛ばなければいけなかったので、眠気に負けないようにヒロポンを打っていた。 

記事を読んだ人は、敵艦に突っ込む恐怖を和らげるため、感覚を麻痺させて特攻させるため、と誤った印象を持たせるように意図的に書かれた記事。 

毎年この時期、この元軍医の話しが掲載される。 

共同通信らしいね。 

 

▲4 ▼6 

 

 

=+=+=+=+= 

 

知覧の特攻会館で家族や恋人に宛てた手紙の達筆さに驚きました。10代の優秀な隊員が覚悟したとは言え、恐ろしくて壮絶で、気楽に甘えた自分の人生観が変わりました。 

父は衛生兵でしたが帰還しても、誰にも戦争中の話をしませんでした。 

今で言うPTSD気味だったんだと思います。 

特攻隊員は出撃前に未成年でも酒を飲み、また覚醒剤も使われたんだと思うと胸が締付けられます。 

何年経っても忘れてはいけない、語り継がなければいけない戦争です。 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

勿論現在覚醒剤を使用するのは違法だが此の時代はむしろ良い事だと思う、戦闘機で敵の艦船に体当たりは普通は過酷で恐怖心を少しでも和らげるのには良かったと思う、勿論特攻事態駄目だけど時代が時代だから覚醒剤はせめてもの温情の気持ちと思いたい 

 

▲14 ▼20 

 

=+=+=+=+= 

 

戦争は大義を掲げてさも美しいようなことのようにお偉いさんは人々を扇動するが、戦争の最前線は兵士が極限状態で使い捨てられてたんだよね。精神的に肉体的に追い詰められた兵士にとっては覚醒剤は救いではあったと思うよ。映画のプライベートライアンでもう助からない重症者にモルヒネを打っていたがそれを思い出した。 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

比較してはいけないのかもしれないけども、新型コロナ禍の一番ひどい時の外出自粛の際の同調圧力は日本人としても怖かったたですよね。 

 

感染症でもあれなのだから、戦時の同調圧力といったら半端ないのだろうなと、これから戦火にのまれないことを祈りますよね。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

隊員でも軍医でも、どちらの立場も辛かっただろうな 

亡くなる時の恐怖も然り、その注射を隊員に打ち続けたという罪の意識というか、自責の念を一生背負って生きていく辛さも然り 

戦争なんかしないでもっと平和的に生きていく術を極めたいですね 

 

▲3 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

後悔は当たり前でしょうね。 

 

人間というのはここまで愚かになれるんですね。 

お国のためという名目で少年を火の海に投げ込んだ国家も、それを送りだした親も、近年愛知県で開催された日本の少年兵を揶揄した韓国映画を絶賛していたTV局メディアも、みんな愚かでした。 

 

これからはこの教訓を元にみんなで賢くなり、幸せになっていきましょう。 

 

▲2 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

イタリアドイツでどのようなことが言われているか分からないけど、 

日本は独裁者による独裁政治が行われての戦争突入ではないと感じている 

軍部の暴走とか新聞によって世論が煽られたとか複合的な要因があったにせよ、明確に日本の歴史観として検証されていないし、国としての立場もないように思う 

だから、日本が悪い、戦争責任、靖国は戦犯が祀られている!戦後賠償だ!とか言われるのではないか 

表面的には「天皇陛下万歳」と言って亡くなった人も居るだろうけど、そんなに単純に命を賭せるとは思えない 

なんでも利用したんだと思う 

最期に思うのは、自分が命を散らして家族や大切な人守る思いがほとんどだったと思う 

そう思ってても怖くなくなる訳ではないだろう 

救いではあったかもしれない 

それでも、個人が背負うにはあまりにも辛い話… 

語りたくない事を語ってくれる存在ももう数年で居なくなる 

ちゃんと、知らないといけないことだと思う 

 

▲115 ▼22 

 

=+=+=+=+= 

 

先の戦争を大東亜戦争というのか太平洋戦争というのか人によって違うと思いますし、その当時の日本の置かれた状況から開戦に向かった経緯と、結果欧米の植民民地の解放に繋がった戦争の事実は変わることはないと思ってます。そしてその戦争の最中、特攻隊の方達が進んでなのか無念の思いだったかも私には分かりませんでしたが、こう言った証言があると正気ではなかったと考えざるを得ません。特攻で命を落とされた方の尊厳を傷つけるつもりは毛頭ないですが、やはりあの戦争末期、戦況を優位に進めて國體護持を確約しての和平交渉を進めようとした等の理由があったとしても、やはり特攻は間違った判断だったと思いますし、あの特攻を考え実行させた軍部には戦後日本人自ら何かしらの戦争責任を問う必要があったんじゃないかと思います。 

 

▲3 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

特攻隊は本当に狂気の沙汰。 

これを他人事やただの歴史上の出来事と捉えてはいけないと思う。 

 

ほんの数十年前のことで、今を生きる私たちと何ら変わらない同じ人間たちがやったこと。 

またいつ何時こういうことが起きてもおかしくないという、人間の恐ろしさを自覚することは大切だと思う。 

特に日本人の生真面目さや異常なほどのマナーの良さは、その延長線上に特攻隊のような狂気に繋がりかねないような危うさを感じることがある。 

 

三島由紀夫も言っていた「人間の本当の姿っていうのは、もしそのまま直視したらすごいものだと思うんですよ」という言葉はその通りだと感じる。 

 

▲1 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

祖父が戦争の話はしたがらなかったが 

お酒を飲んだり寝ていてもうなされるのか 

銃を持つ仕草をして変貌するのが子供ながらに 

怖かったです。 

普段は子煩悩で孫の私は竹トンボや竹馬を一緒に作ったりして貰いました。 

普通の精神状態では特攻隊なんて出来なかったのだと察します。 

祖父も亡くなるまで精神的後遺症が残っていたのだと 

大人になった今では察します。 

 

▲5 ▼0 

 

 

 
 

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