( 303315 ) 2025/06/29 06:20:55 0 00 置き配のイメージ(画像:写真AC)
2025年6月、宅配のしくみが静かに、けれど確実に変わろうとしている。「置き配の標準化」という国土交通省の方針は、もはや消費者の便利さや配達員の負担といった話を超えて、都市での暮らしのかたちそのものを変えようとしている。
しかし、制度をつくるうえで、本当に確かな考え方とは、案外むかしに立ち返ることなのかもしれない。
例えば、「不在なら荷物を持ち帰る」という、かつての宅配のルールを復活させる。誰もいない家の前に荷物を置いて立ち去るよりも、荷物を持ち帰って不在票を入れる。そして、荷物を受け取りたい人は営業所まで取りに行くか、もう一度届けてほしいときはお金を払って再配達を申し込む。
考えてみれば、しくみはとても単純である。だが、物流全体の流れとして見るなら、じつに理にかなっている。
この「昔のまま」のやり方こそ、いまの日本にもっとも合っているのではないか。そう思わせる理由は、けっして少なくない。
置き配のイメージ(画像:写真AC)
まず、今の宅配の仕組みが抱える問題点を見ておく必要がある。
玄関先に荷物を置く「置き配」には、不安がつきまとう。それは印象ではなく、実際の問題として存在している。荷物は盗まれるおそれがあり、誤った場所に届けられたときの責任もはっきりしない。都市では荷物を置く場所すら足りない。建物の構造も、配達を助けるどころか邪魔になっている。
受け取る人が家にいても、インターホンに応じず「不在」と判断され、荷物が置かれたままになる例もある。その結果、荷物の再配達や滞留はなくならない。制度が変わっても、現実は変わっていない。
こうした現状に対し、「不在なら持ち帰る」という以前のやり方には、明確なルールがある。配達の時間に家にいなければ、荷物は営業所に戻される。受け取る人にはふたつの選択肢がある。
・営業所まで取りに行くか ・有料で再配達を申し込むか
である。
この仕組みの大きな特徴は、利用者の行動を変える力がある点にある。配達が無料であることが当然だったため、人々は「不在」であることにあまり注意を払わなかった。しかし、有料となれば状況は変わる。在宅して荷物を確実に受け取る。日時を正確に指定する。営業所まで取りに行く。こうした行動が自然と増える。配達の負担は一部、利用者の側に移り、都市全体の物流が安定するようになる。
もちろん、「営業所まで取りに行くのは不便だ」という意見もあるだろう。しかし、それは宅配に過剰な便利さを求めてきた結果ではないか。家の玄関先まで届けることを前提とした生活は、宅配網を必要以上に広げてしまった。その副作用として、配達員の不足や再配達の増加、そして二酸化炭素の排出量が増えるという問題が起きている。
都市の交通における最大の問題点は、「玄関口まで届ける」という構造そのものにある。もし受け取る人が、週末にまとめて営業所で荷物を受け取るようになれば、最後の区間の配達にかかる負担は大きく減る。人が動けば、モノの移動距離は短くなる。これは、都市全体の輸送距離を減らす根本的な方法といえる。
今の都市は、人が動かず、モノだけが動く構造になっている。表面上は便利に見えるが、実際には大きな非効率を生んでいる。受け取る人が少しだけ動くことで、社会全体の流通効率は大きく改善される。
営業所は都市のなかに網の目のように点在している。多くの人の生活圏から半径2キロ以内に位置している。「荷物を取りに行く」という行動は、非現実的ではない。少しの工夫と意識の変化があれば、十分に成立する。
置き配のイメージ(画像:写真AC)
この「以前の制度に戻す案」は、大きな資金を必要としないという点でも優れている。今の制度を変えようとすれば、防犯設備の強化や宅配ボックスの設置、さらに宅配ロボットの導入までが求められる。こうした新しい設備や技術には、当然ながら多くの費用がかかる。
けれども、それによって利益を得るのは、一部の高所得の家庭や大きな企業に限られている。地方やアパート、単身者向けの住宅では、使える資源がもともと少ない。そうした場所にまで、すべて一律のやり方を押しつければ、かえって格差が広がるだけである。
その点、「不在なら持ち帰る」という方法には、大がかりな設備は必要ない。不在票一枚と、受け取る人の動くだけの意志があればよい。それだけで制度が成り立つ。これは、誰にとっても公平な仕組みだといえる。制度が簡単であるということは、多くの人にとって使いやすいという意味でもある。
さらにこの方法は、「配達にどれだけの手間がかかっているか」ということを、はっきりと示す役割も持つ。今のしくみでは、どんなに時間や労力がかかっても送料は変わらない。ときには無料となることさえある。しかし、配達には人の働きや、ガソリン代、そして時間が使われている。その費用は、見えないかたちで誰かが負担しているにすぎない。
もし再配達に追加の料金が必要になれば、初めて「かかった手間に見合った価格」が生まれる。荷物を安く買いたいのであれば、置き配や営業所での受け取りを選べばよい。手渡しでの受け取りを希望するなら、その分の料金を払う必要がある。こうして、配達の手段ごとに値段と方法が対応することで、新しいかたちのルールができあがる。
つまり、昔の制度に戻すことは、都市で進みすぎた自動化の考え方に対する、ひとつの修正でもある。人が少しだけ手間を引き受けることで、今の配送のしくみはもう一度、長く続けられるものへと変わっていく。それは、社会全体の負担を軽くし、配達に使われる資源をもっと公平に分けることにもつながっていく。
置き配のイメージ(画像:写真AC)
結論から書こう。置き配の標準化に不安を覚えるのであれば、大がかりなインフラ整備に頼る必要はない。対策は単純である。かつてのやり方に戻せばよい。不在ならば荷物を持ち帰る。必要があれば、有料で再配達を申し込む。それだけで制度は成立する。
この仕組みが導入されれば、多くの人が配達時間を正確に指定するようになる。そして、荷物が届く時間に家にいることを意識するようになる。さらに、自ら営業所に出向けば、生活のなかに「移動すること」が再び取り戻される。
これは宅配の話であると同時に、都市に「人の動き」を取り戻すという意味を持つ。
配送のあり方は、すでに「便利かどうか」を超えた段階にある。社会全体が、自律的にどこまで機能できるか。それを問う局面に入っている。
このような時代において、答えはひとつである。制度は常に未来へ進めばよいというものではない。かつて機能していた仕組みを、現代の工夫とともに見直す。その選択こそが、都市の物流を持続可能なものとする、もっとも確実な道である。
ただ今は、置き配が当たり前になりつつある。もしそれが嫌なら、自分で営業所まで取りに行く。それだけのことである。
清原研哉(考察ライター)
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