( 304854 )  2025/07/05 04:45:03  
00

日本の教育制度や評価方法に関する議論が繰り広げられている多くのコメントから、主要な傾向や論調を以下のようにまとめます。

 

 

1. **評価方法に対する不満**: 多くの意見が、現行の評価方法が教員や生徒にとって過度な負担を強いていることを指摘しています。

特に、観点別評価の導入による評価基準が複雑化し、現場での運用が難しいという声が多数見られます。

 

 

2. **学習態度や意欲の評価の難しさ**: 学習態度や意欲を評価に入れることの難しさについても多くのコメントがあり、主観的な要素が強く出てしまうことが懸念されています。

評価されるべき努力や姿勢が不公平に反映されることに対する不満の声もあります。

 

 

3. **制度の頻繁な変更に対する批判**: 教育制度や評価基準が短期間で変わることに対する不安や批判が多く、安定した基準の重要性が強調されています。

それによって、教育現場の混乱や教員の負担増加が問題視されています。

 

 

4. **個性の尊重と評価**: 特に内向的な子どもや、特技に特化した子どもに対する評価の不公平感(態度・意欲に基づく評価が不利になること)も多く指摘されています。

これに関連して、子どもたちの個性や努力が十分に評価されないのではないかという懸念も表明されています。

 

 

5. **教育における目的の再考**: 制度の根本的な見直しや、教育の本来の目的(能力の育成)に立ち返る必要性が強調され、「評価が目的化している」現象への警鐘が鳴らされています。

 

 

6. **教育の質と改革の必要性**: 教育制度の改革を求める声が多く、特に教員の負担軽減や、現場の意見を反映した実効性のある制度が求められています。

 

 

(まとめ)教育制度や評価方法に対する不満が多く寄せられ、特に現在の評価方式が教員や生徒に大きな負担をかけていることや、学習態度の評価の難しさ、制度の頻繁な変更に対する批判が目立つ。

また、個々の生徒の特性や努力を適切に評価するための方法論についての議論が続いている。

教育の目的を再考し、教師の負担軽減を実現する必要性も強調されている。

( 304856 )  2025/07/05 04:45:03  
00

=+=+=+=+= 

 

退職教員です。 

文科省は,まず現行の評価方法が「労多くして功少なし」であることを認めなければならない。 

これまでも文科省は10年経過教員研修を法制化したにもかかわらず,免許更新制度を導入して失敗したり,現行の観点別評価で失敗したりと本当にロクなことをしてこなかった。 

めぐりめぐって教員不足問題がおこり,その解決策もない。指導力不足教員や問題教員の対応もできない。 

今こそ御用学者ではないメンバーによる本当の教育再生会議をやってはどうか。 

 

▲4418 ▼159 

 

=+=+=+=+= 

 

我が子は感情の起伏が小さい子でコミュニケーションの能力に難があり、一方で多動傾向もあるため、何かに一生懸命取り組む姿勢が非常に伝わりづらい。 

好奇心も勉強意欲もあるのだが勉強に集中し、やり気が合るようにみえない。だが実際、中学受験も自らやると言い出し、日頃のテストも点数はしっかり取っており、自由研究では教育機関からの表彰も受けるなど努力家だったりする。 

ただ親から見ても時折“やる気ないのか?”と思ってしまうくらいなので、教師によっては努力する姿勢がない、テストはいいがやる気がないと思うようで、この意欲態度評価が5段階で1をつけられる事も多く、中学では外部模試での成績はいいのに内申が全くつかず、本人は非常に苦しんでいた。 

教師も人。元気いっぱいでコミニュケーション能力の高い子ほど態度の評価は高くなる。我が子のような子は努力が数字評価以外で報われず、受験は苦労し、あまりに不公平だったと思う 

 

▲212 ▼325 

 

=+=+=+=+= 

 

まず、関心意欲態度などを評定の観点に入れたことが間違いであったと釈明しなければならない。評価評定、数値に馴染まない、意欲などを観点に入れたことが大きな過ちである。現場はそれに四苦八苦してノート提出などで誤魔化してきた。これは、評価をつけたことがない大学教授や専門家たちが理想を語った結果である。それを文科省が進めてきたんだから間違っていましたというべきだ!数値で表せないものを入れてきた愚かな学習評価であった。大いに反省すべし。でも、しないだろうね。理想と現実の乖離。これが今の学校教育制度である。 

 

▲2187 ▼173 

 

=+=+=+=+= 

 

日本の古い教育制度を見直す時期です。服装、身なり、社会に出れば、茶髪であろうが、ピアスをしていようが関係ありません。生徒指導の中でも特に時間を取られている学校も多いでしょう。制服も、靴も、すべて決まっている学校が多くあります。見直しましょう。制服はあるけど、基本自由です。学校指定のジャージもありますが基本自由です。個性を認める。学校とはこうあるべきだ、児童生徒とはこうあるべきだ、今の時代に追いついていない考えだと思う。良い学校に進学したら、良い仕事につける。その時代でもない。そもそも、良い仕事に出会うには、それぞれの価値観に基づいた就職先です。 

 

▲53 ▼301 

 

=+=+=+=+= 

 

学習態度の評価が現場の負担になるのであれば 

それを外すのはアリなんじゃないかと思う 

 

ただ、担任や副担任、関わる先生が 

態度に問題のある生徒は意識してチェックし 

懇談などでご家庭にお伝えしたり 

改善方法をご家庭と一緒に模索するということは 

大切だと思うので 

そちらの方にエネルギーを割いてもらった方が 

親としては有り難いかなとも思う 

 

難しいですね 

 

▲26 ▼30 

 

=+=+=+=+= 

 

良い面としては評価がしやすくなる。 

悪い面では点を取られた時に学習態度でマイナス評価をすることが難しくなるのではないか。つまり点さえ取れば何をしてもいいということになる。それをどうするのかだよ。はっきり言って邪魔をしないのは別にいいけど、邪魔をする場合には評価を下げるという抑止力が必要だと思う。 

 

▲1871 ▼294 

 

=+=+=+=+= 

 

メリットデメリットがあると思う。 

点さえ取れれば、何でもヨシになりかねない危険性も含んでいるようにも感じる。 

 

態度が悪くても、点が取れているから高評価。 

学校に来てなくても、点が取れていれば高評価。 

イジメや悪質な授業の邪魔をしても、点さえ取れれば‥ 

これらは全て例えだけれど、こういった事への抑止力が無ければ、さらなる崩壊も容易に考えられると思うのは、現場に携わる者からの危機感からです。 

 

点が取れていなくても、がんばっている子は沢山います。 

そういう生徒たちの評価が出来る幅を残して欲しいと思います。 

 

▲299 ▼96 

 

=+=+=+=+= 

 

それならば、全国統一の試験をやってわかりやすい形で成績を出せばいい。そうすれば、学校によった評定の矛盾がなくなる。進度も合わせられる。 

ただ、学力だけでその人を計らないし、勉強はできないかもしれないけど、周りなために動ける、人として優れている点を出せる形にしてほしい。 

 

▲1153 ▼123 

 

=+=+=+=+= 

 

なかなか思い切ったことをしますね。中学校で講師をしていますが(それまでは正規教員17年)、2観点評価だと授業中寝てようが、教員に反抗してようが、全く評価に入らないということですね。名称はどうでもいいのですが、学びに向かう力(ほぼほぼ意欲・授業態度)を入れないとなると、教員の授業力が相当試される状態になると思います。私も今年苦労していますが、学びに後ろ向きの生徒たちを前向き(学びに向かう)にさせるのは、大変です。教育現場に困難をまたふりまいてくれそうですね、文科省さんは。 

 

▲1363 ▼264 

 

=+=+=+=+= 

 

学習評価をする際の材料は、客観的に評価できるものである必要があります。そうでないと、教師の個人的な感情で評価が変わる可能性があるからです。 

では、生徒の学習に対する「粘り強さ」などの主体性を何をもって客観的評価できるのか?ノート提出などを形式的なものと断ずるのは些か早計だと思います。指定された要素を一定の水準で書いているか(書こうとしているか)など、主体性を測れるような内容がノートにあれば、十分評価に値すると思います。 

基本的に、定期考査などでは「知識技能」「思考判断表現」は点数化できますが、「主体的に〜」という観点は日常の授業や課題への取り組み姿勢を評価するしかありません。乱暴にいえば、「提出物さえ出せば貰える点数」が評定の中にあることは、学力に劣る生徒を救うことができる要素です。理想的には評価とはそういうものではないのは承知していますが、現在の進路システムでは無視できない要素です。 

 

▲596 ▼135 

 

 

=+=+=+=+= 

 

観点別評価についてもやったり、やらなくなったりと繰り返してきました。しかも、その度に検証を行なっていないと先輩教員から聞いています。その他のことでも同様のことが多いらしいですが、その度に学校も混乱しています。何年度生からスタートとされるので、同じ学校のシステムが2通りとなります。本当に有意義なものであるのかないのか、よく考えて頻繁に変更はしないでいただきたい。 

 

▲453 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

日本の教育の最大の問題点は,「評価」を中心にしていることだと思う。 

本来は,「こういう能力を身に付けてほしい」というのが先にあって,それを達成するための手段として「評価」があるはず。 

しかし,日本の教育は,「どうやって高い評価を得るか」が目的になっている。 

逆に言うと,「評価」の対象にならないものは軽視される。 

 

学習態度は本来「評価」するようなものではないのだが,「評価」の対象にしないと,学校で軽視される。 

かといって,今のように「評価」の対象にすると,課題の提出回数などで評価するなど形式的になる。 

 

▲560 ▼78 

 

=+=+=+=+= 

 

「適切な評価が難しいとされ、現場の負担が重いとの指摘が出ていた。」 

からの結論は、「評定の枠外にするが、観点としては残す。」 

ん⁇ 

結局、観点別での評価は残るため、主体的に取り組む態度について、今後も教員は評価を続けなければならない。現場の負担軽減はなにもなされることなく、教員の立場からするとどこに反映されるでもない評価をつけ続けることになる。本当に意味のない改革ばかりよくも思いつくなと思う。 

 

▲138 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

定年退職した元教師です。 

中学校の実技教科は、教科の時間数が少ないため一人の教師が全学年を教えることになりやすい。 

最後に勤めた学校の場合、音楽、美術、技術・家庭の教師は、学校に一人づつしかいなかったので、それぞれの教師が約600人を教えていた。 

約600人を学期ごとに観点別で評価するのは、大変な労力と時間が必要だ。 

成績締め切り前の数日は、よく深夜まで残業した。 

たぶん観点別評価を考えた人たちは、実技教科なんて頭になかったんだろうと思う。 

 

▲193 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

主体的に取り組む態度なんて採点するのがとても難しく、授業中に何回発言したか教師が記録したものを使うこともある。ただし発言機会が平等に与えられないものだから、必然的に教師のお気に入りの生徒の回数が増え、結果的に客観的で平等な採点にならない。問題は、そうした評価基準でつけられた採点が、公立高校の入試で占める割合が高い県があること。文科省は自分たちがどれだけ子どもの可能性を摘んでいるかきちんと反省すべき。 

 

▲102 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

行動評価はしたほうが良いと思いますよ。 

私語が多い、学習妨害する、授業中歩き回る、などはそのまま社会生活の姿になります。学童で子どもを見てますが、親の見ていないところでの子どもの行動には行き過ぎたものが多いと感じます。とくに放任の子どもは、他の子どもの学習や生活を妨げてます。理想論ではありません、このまま大人にしてはいけないと感じます。 

 

▲27 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

小学生の子供が人見知りな性格で、毎年一学期の通知表はひどいものです。テストの点は良く提出物も忘れませんが、毎年クラス替えで担任の先生も変わるので、一学期は発言しないし先生に話しかけられても固まってしまい、面談でも「お家ではおしゃべりしますか」とか、終いには「私嫌われてしまっていますか」と仰る先生もおられます。 

本人の気質を変えることはなかなか難しく、このまま公立に上がったら確実に内申を取れないので、子供と相談した結果、私立受験することにしました。 

 

▲239 ▼70 

 

=+=+=+=+= 

 

子供だからこそ学習態度の評価が必要でしょう。評価が難しい?数値化できない?その評価方法を具体的に示すのが文科省の仕事でしょう。教師の負担が大きのは文科省が現場任せしているからでは。スポーツの試合ではないのだから学習に結果だけを求めるのではなく、日々の努力、態度、意欲が結果(成長)に結びつくのだからその過程を評価してあげてほしい。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

意欲や態度を評定に入れるのは難しいことだとは思いますが、点さえとれれば良いという子に対しての抑止力になっていたのは事実で、なくなることで先生が生徒をどこまでコントロールできるのかが新しく問題になりますね。学級崩壊を防ぐ手段にはなっていたかと思います。 

そう言う負担を減らすのも効果があると思いますが、もっと教員数を増やして先生の負担を軽くしてあげたいです。 

 

▲144 ▼37 

 

=+=+=+=+= 

 

教育学部で、教育理論の基礎として 

「学力とは、習得する力と意欲の両方を指す」 

と習った。意欲も、学力の一つなんだと。 

 

理科の実験や家庭科の調理実習にふざけて危ないことをするとか、 

そういう極端な子の評点を下げることは私は悪いとは思わない。 

微妙な差はつけなくていいが、危険な行為は評点に反映させてもいい。 

 

▲124 ▼16 

 

 

=+=+=+=+= 

 

現中学生の親です。宿題や小テストすべてに、3つの観点の点数をつける枠があったり、夏の宿題では、1日1ページと指定されているが、スペースがあるものは少ないと見なすので、1ページをさらに半分に分割して埋めなければいけないなど、勉強に対するプレッシャーや負荷が高く、とても全ての生徒が対応できるものではないと思い疑問に感じています。これでは学ぶ楽しさを感じる余裕もありません。 

 

▲38 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

読んでて思ったんだけど、学習に向かう意欲、関心、態度は、測ることが難しいけど、私語や、不適切な言動で授業妨害したり立ち歩いたり寝ていたり、そういうふうにしていても注意はするけれども、何も効力がないため、ますます学校の教育が難しくなるんじゃないかな。そういう風にするんだったら、子どもにまかせてそもそも注意をしないとか、通知表の評定もなくていいんじゃないかな。学校からいっさいの評価をなくしてみたらどうかな思ったりしていました。 

 

▲63 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

我が家には複数子どもがいるので、通信簿は先生に気に入られているかを知るツールでしかないのだという考えにいきつきました。 

テストの点数がいかによくても内向的な子は学習態度で下げられて4どまり。 

テストの点数は劣っていても、外では猫かぶりの積極的な子は5をもらえています。 

理解力などは、教科によって得意不得意がでますが、学習態度は全ての教科にあります。特に小学校では1人の先生が通信簿をつけるので、内向的な性格が、全ての教科においてマイナス要素になるのです。今の状況は学習態度の影響があまりに大きすぎます。 

結果、我が家で1番勉強好きで理解力もある子は内向的なので通信簿が最も悪いです。 

枠外にするのは、ある程度賛成です。 

 

▲4 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

現役教員です。ノートの提出とか授業妨害の話は、この評価の認識が誤っていると感じます。 

本来の「主体的に学習に取り組む態度」は、どのように学習に取り組み、学習の質を高めたのかを見取るものです。ノートを提出することを見取りの観点にしている教員のレベルがそもそも低すぎるし、保護者にも十分に意図が伝わっていないのではないでしょうか。見取りが難しいのは事実ですが、一方で教員の怠慢を感じます。 

教員は、児童が何度も学習をやり直せる単元構成や、自分に適した学習方略を模索する支援をしなければいけません。それが結果的に、テストの点数や教科の理解にとどまらない「生きる力」を育むこと、知識技能や思考判断表現力の育成に繋がるのです。 

改定の趣旨だと、学力向上に難がある児童を結果だけで評価するゆとり前への逆行に思われます。点を取らせるだけに塾に行けばいいという短絡的な流れを生み出す恐れがあるのではないでしょうか。 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

私は中学生の時、塾で勉強していたので、学校の勉強には何の興味もありませんでした。でも提出物をきちんと出し、手をあげて発言し、綺麗なノートを書かなければ、成績が下がり、推薦がもらえなくなるので頑張っていました。本心をいえばどれもやりたくなかった。学校の勉強は簡単だったし、塾の参考資料だけで十分だった。これからはそこを頑張っても成績に反映されないのであれば、私みたいな子供たちは積極的に発言したり、綺麗なノートをとったりしなくなる子がある一定数いるでしょうね。今では板書もタブレットのカメラで撮るだけの子供もいますからね。 

 

▲70 ▼25 

 

=+=+=+=+= 

 

子供が高校受験の時には内申点に泣かされました。学習態度やテストの成績も良かったが、まったく納得できない評価でした。テストだけでない総合評価だから、と言われたら親としても文句の言いようがない。(文句をつけたら、内申点に響く可能性もあるので) 

どれだけ評価方法をこねくり回しても、粘り強さなどの数値化できない基準があると、結局、評価はブラックボックスになってしまう。 

中高の成績の付け方は、テストの点数や提出物の提出などで明確にわかる指標をもとに、評価すべきだと思う。 

最後の最後まで、ブラックボックスを残すような制度はどれだけ修正したところで、本質は何も変わらないでしょう。 

 

▲72 ▼24 

 

=+=+=+=+= 

 

学習態度を評価し、適切に褒め伸ばしたり、課題を共有していくことは学習サイクルを適切に育む上で、義務教育ほど重要だと思います。 

学習態度を評定に反映させるのが難しいのは確かです。 

 

とは言え、ICT活用により、ドリル教材などでは取り組み進度や選択・記述内容が見られるようになりましたし、再提出がなされたか見られて便利でした。 

他、ワークシート、振り返りシートの活用、メタ認知…どこが得意で教科のどこが苦手かを把握し取り組む力、挙手・発言、提出物など、関心・意欲・態度をエクセルシートで重みをつけて評価しました。 

 

私は知識技能等含め、適切に評価評定できていたのですが、エクセルが苦手な先生方も多く、通知表の時期になると残業の先生方も多かったですね。 

今は校務支援システムが進化して楽になったかもしれません。 

今後は各教科の文章を考えることにかえって困惑する先生方も多くなるんじゃないかと感じます。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

中学校の定期テスト、業者の実力テストでは3年間マンモス校でほぼ学年一位だった私。そして明らかに親より頭が良い我が子。 

 

私たち2人から見て、公立小学校は、人生勉強にはなったが、学力の向上にはかなりマイナスだった。図書室で本を読むのが一番プラスだったと思うが、放課後の短時間だけだったのが残念。 

 

が、私の昭和の公立中学は、態度の評価が無く、成績開示(本人にのみ)もあったので、授業は塾の方が段違いに良かったが通知表と試験成績は勉強意欲の向上にはつながった。定期テストで確実に95点以上、満点を狙うには、基礎知識を完璧に覚える必要があり、範囲の無い実力テストのためにはその覚えた知識を整理して頭の中にしまっておく必要があった。 

 

やはり知識を覚えることは重要だ。最近ハヤリの思考力や想像力、論理構成力に閃きは、多くの基礎知識とそれをつなぐ論理やストーリーが頭の中に無いと育成できない。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

「思考力・判断力・表現力」の方が、「主体的な態度」より評定が難しいです。 

特に「思考力や判断力」は、数値に表れないだけに、かなりの観察眼がなければ評価できません。 

それに比べて「主体的な態度」は、授業中の様子ですぐ判断できます。 

ざっくりと言うと、「主体的な態度」は、学習に一生懸命取り組んでいる児童生徒は「A」であり、授業中にも関わらず、立ち歩きやふざけてばかりいる児童生徒は「Ç」としています。 

このような子どもは特に小学校で顕著に多くなっています。 

もちろん文科省の言う「主体的な態度」の趣旨は、もっと高尚なものではあるでしょうが...。 

現場のものとしては、学習態度が極めて悪い児童生徒には、「戒め」の意味が強いです。 

体罰や強い口調での指導は禁止されているので、教員にとっては、最後の「伝家の宝刀」であったのですが、これがなくなると、教員は本当に歯抜けになってしまいます。 

 

▲28 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

「観点としては残す」の意味がよく分からないが、態度が悪くてもテストの点さえ良ければいいということになれば塾で既に学んでいる子は学校の授業は簡単すぎたりもう知っていることばかりなので寝ていてもいいということになるのではないか。 

寝ているのならまだいいけど、退屈なので騒いで他の生徒の邪魔をする子もいるかも知れない。 

評定には入らなくても何らかの査定項目を作り、成績表に記されるべきだと思う。 

 

▲29 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

現状公立の高校受験は、如何に先生に良い顔をして内申点を貰えるかにかかっていて正直不健全 

先生側も限りある5の振り分けで保護者からクレームを受けるくらいなら、テストの点数だけにした方が精神的にも楽で良い 

本質的に学習態度が良い子は社会に出たら自然と良い評価を受けることになるのでそれで良いと思います 

 

▲50 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

「ノートの提出頻度など形式的な事実で判断するといった例が散見される他」 

 

学習指導要領や文科相所轄の国立教育政策研究所の資料でも、「主体的に学習に取り組む態度」の判断材料としてノートの評価を挙げているわけで。 

ノート作りを指導する能力が高い教員ならば、評価材料に値し、学習効率を高めるノートを生徒に書かせることも可能です。 

「態度」の評価もここ数年で導入されたわけでもなく、「関心・意欲・態度」の評価はずっと以前からありましたから、全員ではなくとも多くの教員が文科省の方針に何とか対応しようと研究し続けてきました。 

その努力を文科省につぶされるのはイライラしますね。 

 

残念なことですが、勉強不足の教員が作るテストは難易度がバラバラで、そんなテストで評価を出すのもどうかと。 

それこそ、文科省が全国標準の試験を作り、それを元に成績を出すシステムを作るのはどうですかね。 

採点もPC・AIで自動で。 

 

▲8 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

またまた文科省の迷走かぁ… 

絶対評価と同時に導入された観点別評価は、導入当時には学校間や教員間において評価のつけ方に大きなバラツキがあった。 

しかし、校内研修、市内研修における同一教科部会において観点別評価をどのようにしてつければよいか?を、各教員が自身の方法を紹介したり、出揃った方法について何度も協議をしながら現場の智慧を以てほぼ定着させてきた。 

公立高校側も入学試検の内申点を、五段階評価だけでなく、三段階の観点別評価も点数化するなど工夫をしてきた。 

小中学校では「主体的に学習に取り組む態度」の評価も、如何に主観によらぬ客観性材料を以て行うかを工夫してきたにも拘らず、今さら評価がつけにくいとか難しいというのは、教員以外の想像にすぎない。 

文科省は余計な改革や、朝令暮改によって現場を混乱させることなく、現場が築いてきた努力とその成果を無駄にしないでもらいたい。 

 

▲8 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

関心、意欲、態度を観点として考慮するのはともかく、適切に評価するとなると技術的に難しく方法論として確立できるのか深刻な疑義がある。 

現場の先生方の労も多く、そのくせうわべだけの学習姿勢を装うすべに長けた児童生徒に騙されたケースも多いだろう。採用面接で担当者に表面的な好印象を与え、取り入る詐術を身につけた者が終身雇用の既得権益を獲得するのに似ている。関心、意欲、態度をみたいならその成果たる試験や課題の結果で判断すればよい。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

まず、適当にころころ変えることをやめて欲しい。現在の評価制度だって、4年ほど前に変えたばかりで、2~3年間は移行期間で複数の対応を取らなければならない。働き方改革どころか、文科省が足を引っ張っている。 

次に、生徒の評価について純粋な能力だけだったらマイナスになる生徒が出てくる。いわゆる欠点『1』という評価を付けたくないから態度や努力店で加点が増えるようにしてクリアしているのに、純粋に得点だけにした場合プラスの材料が減る可能性が出てくる(それなのに入試の定員内不合格や成績不良による留年には神経をとがらせる)。 

本当に頼むから、もう少し現場を見て判断してほしい。要らない仕事を増やすのは止めて欲しい。 

ゆとり教育の時もそうだが、自分たちの下知を見直す、振り返ることを文科省の役人さんたちは行って欲しい。 

 

▲168 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

明治の頃や戦後の教育立て直しの頃と異なり、これからの教育はほぼほぼ自由で良いよ。かくがっこうの現場に任せたほうが良い。 

税金の無駄使いをカットするってよく言われてますが、それならば、まず文科省を完全に廃止することから始めればよろしい。はっきり言って、これまでろくなことをしてきていない。予算などつくもので、毎年毎年くだらんことばかり発案してきている。これからは教育行政は民間なり研究機関なりに任せば良いのよ。それも緩〜くしばるぐらいでちょうどよいとは思います。先生の質も生徒の伸びやかさも変わってくると思いますよ。 

 

▲25 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

中学校のころ、授業が退屈で仕方ありませんでした。 

分からない人に合わせなきゃいけないのは分かるんですが、自分としてはもどかしくて、さっさとその日の授業範囲を終わらせて、ぼーっとしてました。 

別に授業の邪魔をしてるわけじゃないし、テストの点数も取れてたのに、授業態度が悪いとされて、納得のいかない評価でした。 

結局内申点が届かず希望の公立高校に行けず。 

 

その後の大学受験は、勉強の結果がストレートに反映されて、よっぽど公正に感じました。 

 

授業の妨害したりするのは論外としても、先生の主観に任せた評価は不公平を生む気がします。 

 

▲1 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

単純に、都道府県単位の統一模試を年数回実施すれば良いと思う 

学校によってテストができても評定が伸びない、バラツキがあるのは神奈川県だけ? 

神奈川県は県統一試験すら実施しないで内申が決まる 

そんなフェアでない仕組みをやらされる教員と生徒の身にもなって欲しい 

 

▲0 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

主体性は大事です。どんな委員やクラブ、グループワークで何をしたか。 

 企業では、こういう内申なく学歴だけで採用したら、協調性や主体性がなくて仕事しない、なんてよくあり、クビにもできず、本当にみんな困っています。 

 リーダーやマネージャー、サポーターを学校や課外活動でしたことない子供は、大人になってもできるはずがありません。 

 どういう大人になるか、子供の時からの記録が大事だと思います。 

 eq,主体性。 

 エントリーシートの添削のお手伝いをボランティアしたことありますが、どの子供にも素晴らしい体験や成長があり、お話を聞くだけですごくエネルギーが必要でした。 

 人を育て、見ることは、とても労力が必要なことです。 

 

▲0 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

授業の妨害となる行為をする人(会話)、遅刻の常習犯。真面目に授業を受けている人にとって授業の態度や意欲の評価はあって良いものだと考える(とくに高校、大学)。そんな人がテストの点が良くても人として、社会に出た時の評価は…??どうだろう?と考える。 

評価というものは、あらゆる方向から総合的に評価するものと考える。 

 

▲70 ▼27 

 

 

=+=+=+=+= 

 

そもそも評価規準や評価基準,評価者の異なる調査書を合否判定の材料に使うことが間違いではないですか?調査書はその生徒が卒業資格を取得しているか否かが判定できれば良いのではないでしょうか。合否の判定はそれぞれの大学が作成した判定規準で判断すればよい。高校は自校の卒業資格を認証するのみ。大学は高校の評価に惑わされずに独自の評価により,欲しい人材を発掘する。そうすれば高校の教員の負担は軽減されるし大学も公平な物差しで受験生を評価できるようになるのに・・・ 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

学校ごとに基準が違う。もっと言えば担任ごとに違う。さらに、小中の教員みちゃ昨今の人手不足の影響もあり、さらに言えばそれ以前から質に問題がある。好き嫌いが成績に反映される(好き嫌いで成績をつけるとは言っていません。)、そもそも教員よりも賢い子供も多いなどから内申点を入試に用いるという制度自体廃止するべきです。 

実力一本勝負にも問題がありますが、内申点にはそれ以上に問題がある 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

成績さえ良ければ、それなりの評価がもらえるとなると、授業中にうるさい生徒や歩き回る生徒もそれなりの評価をもらえてしまうということ?。 

真面目に授業受けていても態度が良くても、成績が悪い人は評価は悪くなるってことですよね?? 

確かに成績は大切だけど、そこプラス学習態度なんじゃないですか?。 

公平なようで、不公平な気がする。 

 

▲68 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

主体的に取り組めば、知識技能、思考判断表現が、さらに高まると考えているようだが、そうだろうか。必ずしもそうとは言いきれない。やる気は認めるが、できない生徒はできない。できる生徒は何をやってもある程度できるが、主体的とは言えないレベル。主体性が観点にあることで中下位の生徒がなんとか救われ、上位はそのままだ。主体性が評定から外れると中下位の生徒は相対的に地盤沈下状態だ。二極化することになりそうだ。 

 

▲35 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

学習態度が評価から外れることに反発する声が多いですが、私はある側面では学習態度は枠外どころか、完全に評価から外れてもよいと思っています。 

現行の評価制度では、観点別のABC評価でCをつけた子どもに対して、評価をBに上げるために個別の指導を十分に行ったのかも問われます。 

要するに、成績が悪いのは子どもだけの問題ではなく、教師の指導力の問題ともされるのです。 

しかし、学習態度まで評価の一部とされても、極度の怠惰、反抗などは、家庭のしつけも必要で、授業担当の教師一人ではどうにもならないことがあります。 

現行でも、次期要領でも評価をする以上、子どもの学習態度が悪いのを教師のせいにされかねません。 

学習態度が評価から外れると、「評価されるから」という子どもへの歯止め効果は無くなりますが、教師は逆に学力向上に専念することができ、学習意欲が無い子どもは自己責任として扱うことができるようになると思います。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

評価に客観性を求めるなら相対評価が最も客観的だよ。だってさ、点数という誰にでも分かり比較しやすい基準で評価するのだから。だが、絶対評価を導入したのは客観性よりも個々の子供の頑張りを評価するためでは無かったのか?客観性というなら絶対評価は止めるべき。個々の子供の頑張っている所=人それぞれ頑張っている違う所を評価するのだから、誰が見ても分かるようには出来ない=しようとすれば表面的な分かりやすい発言回数とか提出物とか数で表せる事のみを評価しなくてはいけないからね。そもそも、絶対評価は差を付けて合否を決める受験との相性が良くない。なのに、絶対評価を取り入れながら、その評価で合否を決める推薦入試等を導入するからおかしくなるのだ。 

子ども一人ひとりを評価するという理想を掲げながら、その為に入試制度を変えるコストをケチっているから問題が起こる。まあ、態度なんて塾では躾指導できないからね。 

 

▲45 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

「主体的」と言われても引っ込み思案な我が子はその項目でいつも引っかかり評定が上がらなかった。 

特に授業を妨害したり、不真面目な態度をとるような子でもありません。ただただ静かにしているだけ。テストの点は良かったと思いますが、「4」すらも届かない。来年2月、現在通知表はオール3に近いのに偏差値65オーバーの公立高校を受験しようとしています。塾の模試でも点数だけなら合格圏内です。でも、公立高校受験は評定も大事だからどうなるかわかりません。いっそ私立にシフトチェンジしたほうが良いのか悩みどころです。 

 

▲25 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

普通に授業を受けてても学習態度を4とか3とかじゃあその差はなに?って感じでした。 

 

それならやってもやらなくてもいい課題を何回提出できてたかとかで全て提出できてたら5とかで意欲を数値化してほしいです。 

 

教科ごとの先生とかクラス沢山もってたら、ひとりひとりの意欲がどうだったかなんて覚えてないでしょ。気に入られてる人が点数高くなるようになってる。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

主体的、対話的で深い学び、この評価はまず現状ではほとんどAの付かない観点で、Cは無制限につけてよしとされています。まず、知識・技能、思考・判断・表現がともにAでないと実現できない内容を求められています。学んですぐ実生活に活かすなど、実際無理です。カリキュラムに盛り込まれている学習内容を駆け足で進めていかなければならなく、そうじっくり学びを深める時間は子どもたちにはないでしょう。関心、意欲、態度観点は復活してほしいです。 

 

▲23 ▼24 

 

=+=+=+=+= 

 

教員不足で採用基準が下がる流れの今、この変更は急務だと思う。恣意や感情に左右されやすい主体的項目の評価は、評価側の高いモラルと観察眼が必要です。第一、この評価基準にしてから肝心の子どもの主体性は向上したのでしょうか。かえって評価を気にして行動するようになり、逆効果だと思う。 

 

▲52 ▼54 

 

 

=+=+=+=+= 

 

中学1、2年の時、数学テスト100点とってたのに、5段階評価で3でした。べつに授業中ふざけていたわけでも、宿題やってなかったわけではありませんでしたが。。先生の授業がつまんなすぎて、発言なしだったからかなー。放課後、先生から、数学の勉強をどうやってるのか?とよく聞かれました。先生の授業でない事は確かとは言えませんでしたが。 

内申書で都立高とか受験校決めたりするのもやめた方がいいと思う。内申点って先生にとって、生徒をコントロールする脅しツールになってるから。生徒や親は、おかしいなと思う事があっても、この脅しツールがあるから、なかなか言い出せないんですよ。教師による性加害ももしかしたら、それでいい出せない子だっているかもしれませんよ! 

 

▲96 ▼25 

 

=+=+=+=+= 

 

主体的に学習に取り組む態度、息子はこれに悩まされて成績がつかず、最後まで志望校を悩んだ挙句、実力勝負で倍率の高い私立大の付属高校を受験しましたが繰り上げ候補者どまり。都立には魅力を感じないからと、最初に気に入った私立の男子校に進学しました。 

今が楽しそうだから、それはそれで良かったのかもしれないけど… 

数学のテストで100点をとっても、全ての問題を解説付きで解き直してレポートとして再提出する、それって中学では普通ですか?山積みのプリントに埋もれて提出漏れは出るし、積極的に手を挙げて答えるタイプでもなし、陽キャではないから目立たず、先生たちに気に入られるでもない。 

でもそんなことが成績に影響するなんて理不尽だとずっと思っていました。 

高校に行ってまわりのみんなの話を聞いて、自分の中学がいかにやばかったのかが分かった、と本人は言っていました。 

やはり学校によって違いすぎるのは問題だと思います。 

 

▲18 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

主体性の評価を観点別評価から除外する、というのはとても良いことだと思います。 

文部科学省も主体性の評価を観点別評価の一つとしたことが現行制度の問題だと認識しているのでしょうね。 

「知識 技能」「思考力 判断力 表現力」と異なりペーパーテストなどでの客観的な評価が難しいからです。 

時期学習指導要領からと言わず、現行の学習指導要領を一部改定して、現在の3観点を2観点に変えても良いぐらいです。 

 

▲8 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

私は学習態度最悪の子どもでした。 

大学進学までは順調に上手くいったものの、自由な大学では律してくれる人がいないため、課題提出・講義出席が全くできず三留してやっと卒業。 

結局心療内科に行ったら発達障害と診断されました。 

薬を服用し始めてから症状は治まりましたが、同時に、周囲の人々に大変な迷惑をかけて生き永らえてきたことを客観視できるようになり、日々反省しています。 

 

▲169 ▼39 

 

=+=+=+=+= 

 

そもそも知識理解と思考力を見とるものとしてテストやプリント類があるが、提出物のマル付けは教師の仕事では無いと裁判事例が出ている。 

 

テストやプリント類以外で知識理解や思考力を評価する手立てを示してほしいです。 

 

▲25 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

一人の先生の授業をみんなで聞く、という授業形態がもう難しくなっているのでは?やる気がない生徒にひきずられて授業がグダグダになるより、中学からは授業の前半は基本的な内容はスタサプみたいなんで個人的にどんどん進めて、先生はわからないところを個人的に補足する。後半はより理解を深めたり探求するためのグループワークやディスカッションの形を取る、等、授業の進め方の抜本的改革をしてほしい。 

 

▲60 ▼63 

 

=+=+=+=+= 

 

評定外にすると授業を邪魔する子に抑止力が無くなると言いますが 

そんなのあっても無くても気にしないのでうるさい子はうるさいままだと思いますし 

むしろこのファジーな要素を恣意的な運用に悪用してた慣習があったと思うので 

功罪以前に純粋な問題として淘汰された印象を受けます 

実は自分も成績優秀にも関わらず授業態度が悪いという理由で 

中学3年時に異常に内申が低くなった事がありました 

それまではそんな減点は無かったですし受験前で尚更真面目に取り組んでたのにです 

受験合格後に絶対おかしいと思い全員の前で担任に聞いたことがあったのですが 

志望校には受かったのだからどうでも良いだろうと嫌な顔をされた事を未だに根に持ってます 

両親より塾のベテラン先生がこれに激怒して電話しようとしたのを止めた程です 

公立は学習態度を理由に調整して合格が危うい子に融通するのだと仰ってました 

それが漸く是正されたのでしょう 

 

▲9 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

自分の時代にも学習態度を抜いて欲しかった 

態度が悪かった訳ではないけど 

得意教科は一度学習したら理解してしまうんだよ 

同じことを教えられてもつまらないし、聞きたく無くなるのは当たり前 

それが学習態度が悪いという評価をいつももらっていた 

そのくせ授業中に問題出すと、いつも最後に模範解答を求められるしたまったもんじゃなかった 

宿題もほぼやらなかったし、テスト結果だけの成績表では無かった 

態度は教員の主観も入るし、テストの結果だけで決めてくれる時代だったら入った高校や大学もかなり変わっただろうから人生も変わっただろうね 

 

▲3 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

関心意欲態度を評定に含めたのは間違い。 

先生が生徒の授業中の態度を見て判断しますが、これは担当先生の教え方や授業の質によって生徒の関心度や学習意欲は大きく違うと思います。 

当たり先生の授業は、先生も上手く進行して丁寧にわかりやすく興味深い教え方をしますが、ハズレ先生の授業は面白みもなく、ただただ淡々と進めるだけで時折成績をチラつかせるようなことを言ったりもする。 

生徒の授業態度だけでなく、ノートやレポートの書き方や課題のクオリティなどその先生の理想と好みが合致したもの、私的感情を入れて決める先生もいらっしゃるから、内申の評定方法を見直す必要は大いにあると思います。 

 

▲8 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

昔の教育と今の教育の違いは、昔の教育には色々な場面で「車のハンドルのあそび」に相当する部分があったようだ。今は評価制度にしろ、研修制度にしろ「あそび」はまったく感じられない。常にゆとりのない教育現場ではないかと思われる。教員の病気求職者の増加、不登校生徒の増加、教員志望者の減少、すべて「あそび」のない教育現場に起因するのではないか。 

 

▲2 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

授業態度による評定は本当に無くしてほしかった。 

この項目は先生の主観でしかなくて、体育とか特に顕著です。 

例えば運動神経が無くても性格が明るければ高評価。運動神経はあっても性格が内向的な人は普通より低い評価が確定してしまいます。 

 

努力をしても明るく振る舞えるよう、性格を変えなくてはいけないという酷な評価となっており、即刻やめるべき。 

 

▲14 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

観点別評価は教員の疲労を伴います。 

成績がいい生徒は授業をいい加減に聞いていても点を取れます。 

逆に点が取れるので授業がつまらないものになっている生徒もいます。 

そういう意味で、学習態度が評価に反映される今回の学習指導要領はおかしいのです。 

 

テストの成績だけで評価するなとよく言われますが 

教科の評価はテストの成績で評価するべきです。 

授業で教えたこと、ここは抑えておいてほしいことがテストに出されるわけです。 

生徒の中には勉強したところが出た勉強していないところが出たで運不運を言う人がいますが 

それは違います。 

ここは大事なところだろうと思うから勉強した。 

大事なところがわからずやみくもに勉強した結果がテストの成績なのです。 

 

日頃の頑張りは人間性の面での評価で十分です。 

内申書には、その生徒がどういう生徒かを評価しコメントする欄があります。 

そこに書き込めば十分だと思います。 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

「よい評価が欲しければ、意欲を前面に出してまじめにやれ」になっちゃったところが現状のシステムにおけるマズイ点ですね。そもそも「主体的な態度」など、先生に言われて身につけるもんでもないし。あと、単純なペーパーテストで評価の大部分が決まるところもマズイ。英語なら、評価の半分がしゃべる能力、書く能力で決まるとすれば、授業をさぼるような生徒は好成績をとれません。もし、読解・リスニング・英作文・英会話・英語議論のすべての項目において上位15%に入れるような生徒であれば、たとえその生徒が賤しい人間性であったとしても、高い成績を与えるべきだとは思いますが、ほとんどの生徒はそうはならないでしょう。「主体的な態度」を外すのは結構ですが、もっともっと生徒の学力を図るデータを増やす必要があるのではないかと思います。まぁ多忙すぎて無理かなとも思うんですが。 

 あんまり多くを学校に求めすぎないでほしいですね。 

 

▲67 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

先生に権限がなく、評定の理由を親からつめられるともたないからといって、評価をあきらめるのか。どんどん深みにはまってる気がする。 

 

あるいは、子供の方も評価されるから頑張る雰囲気ではないのかもしれない。 

むしろ評価方法が悪いと親にいいつけるのかもしれない。 

 

子供のやる気はいったいどうやって生み出されるのだろうか。恐ろしい社会になった。 

 

がんばった時に先生に褒めてもらえる時代に生まれ、悪いことをしたときに先生にぶっとばしてもらえる時代に生まれてよかったなと思う。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

子供ってのを福祉的な手法で評価すると、家庭状況だの兄弟の数、使えるお金、何歳まで自由にやれるか、居住環境、勉強部屋の状況等、子供を取り巻く環境全部を評価するってのが評価になるんだろう。 

学校教育的評価は、勉強がどれほど頭に入っているか、それをどれ程アウトプット出来るか、そういうのが主体になってくる感じ。 

後者は前者の一部って考え方で評価出来た方がいいんじゃないかな? 

成績は同じようでも、進学するよりは早めに働かせた方が良い人もいるだろう。 

環境のマイナス面を取り除く事で、自然と勉強能力が上がる事もありえる。 

そんなの当然分かってるわいって言われるだろうけど、分かっていれば、こんな感じの教育格差にはなって来なかったようにも感じる。 

極端な事を言えば、勉強の方はユーチューブに任せて、福祉的含めた評価、分析、調整、人生の見守りなんかを先生にやって貰った方が上手くいかないかね? 

 

▲2 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

提出物を期限までに要求されたクオリティで提出する事は社会人にとって最も重要な資質ではないだろうか? 

検討している当人も期日までに答申を提出する必要はあるし、事務方は素案を提出する必要があろう。官僚だって期日までに答弁資料をまとめて大臣や秘書官に提出する必要がある。 

それに民間も製品を期日までに納品するという形で提出するし、サービス業も客に適切なタイミングでサービスを提供するという形で提出しなければならない。それが出来ない者はどんなに頭が良く能力があっても評価されることは無い。 

人々は毎日何かを提出しているし、それによって社会は成立している。態度を評価から外すことは社会を破滅させるだけだ。遅効性のテロ攻撃に等しい。 

 

▲7 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

反対ですね。 

そもそも、勉強でも、大人なら仕事でも、結果が出るまでの過程を評価するというのは必要で、だから昔から通知表には「向上心」現行の「主体的に学習に取り組む態度」というものがある。 

この項目を省くということは、=テストの点だけで評価するということになり、それは一見公平に見えるが、例えば今まではあまり頑張れていなくて、最近頑張り出したけど復習が足りず点には結びついていない子なんかは評価できない。 

 

子どもは、努力して結果を出した経験が少ない分、努力して結果に結びつきづらいと諦めも早い傾向がある。そこをどう拾うかも教育のひとつ。 

 

教員の負担というが、たとえば提出物を出させてチェックし返却するという作業が負担というなら、それこそ学校事務のアルバイトを増やすなり、宿題をタブレット教材にすることで自動添削するなど他のやり方はあるだろう。 

負担のため項目ごと無くすのは、大きな間違い。 

 

▲1 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

現役教員です。 

正直「態度を点数に」って危ういと思っているので数値化できるものでしか評価していません。 

ほんとに40人前後の態度を授業しながら見れているのか、主観ゼロで客観的に評価できるのか、懐疑的です。アカハラにも繋がりかねません。 

現状は提出物(出したか出してないか、遅れてないか、クオリティでなく完成度で判定)、小テストの点くらいでしかテスト点以外の評価はつけていません。 

 

生徒たちの授業態度には特に困ってないので、正直なところ授業態度に響くぞーという脅しが必要なのは力量不足かなと思いますね…。 

 

▲5 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

理想論だけで観点別評価の制度を導入したが、教員も生徒も誰も得をしていないと思う。文科省はこんなどうでもいいことを議論してる暇があったら持続可能な部活動・実践的な英語教育・教育格差の解消など本当に大事(そして非常に難しい)問題に正面から取り組んで欲しい。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

今の評定は一切やめた方がいい。私は予備校で英語講師をしているが、高3生の中には、10回に1回くらいbとdを書き間違える生徒がいる。My bog is sick today.と書いていて、「は?」と聞いても何が間違えているのかすらわからない。なのに学校での英語の評定は4。学校での提出物はちゃんと出しているようだし、学校の単語の小テストなどは80%程度は取れている。ただ、先週の学校の小テストで出た単語の意味を聞くとチンプンカンプンな解答をする。まったく定着していない。テストのための勉強しかせず、一切定着しない。 

 

こんな生徒に評定の5段階で4なんて与えるべきではない。これでは生徒が勘違いしてしまう。最近は総合選抜で推薦入学を目指す生徒が増えてはいるが、彼の目指す学部は医学部。ほとんどが一般入試で入学する。生徒に勘違いさせてはいけない。 

 

▲13 ▼6 

 

 

=+=+=+=+= 

 

公立小学校の授業では同じことを何度も説明されるので、一度でわかった子がずっと興味を維持して主体的に取り組むのは、なかなか難しいと思います。 

もちろん我慢できる子も多いと思いますが、おとなしく座っていることが主体的か?というと、どうなんでしょう。 

 

落ちこぼれをできるだけ減らすには有効だと思いますが、テストの点数が充分な子が主体性とやらで通知表下げられるのは残念です。 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

個々の子どもの生育に有益な評価になるなら意味はあるかもしれないけど、上から目線で管理する感じで、できないことはその子が悪いという評価ならただ序列をつけてるだけだと思う。 

できないことを出来るように教え育てられなかった学校の評価の方をより厳しくして改善の手立てを考える方が先にくる問題なのでは。 

 

やること多いのはやらなくてもいいことが多いからだし。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

テストの結果で評価すればいいんですよ。 

実のないことを実施し,観点別が良い学びに繋がると言ってできないのは教員の努力不足のように言ってきたことを文科省や学者たちは反省してほしい。 

やったふりをする児童生徒が生まれ,建前ばかりの学校になってしましった。 

しっかり働く国民を育てることが公教育の根幹なのに夢や自分探しの国民を育ててしまった。 

 

▲9 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

文章評価を入れても、いくつかテンプレートを作って似たような子たちに割り振るだけになる。そこにどれだけ重みがあるのでしょう。そして、重みを得難い評価を苦労してつけないといけない教員の負担…予想がつきませんか?文科省の皆さん。高校の評価の信憑性がないから、大学のAO入試でまさに“試されて”、そこで初めて現実に気づく子もいます。今の評価は良い所を見るという意図があるようですが、やりたいこと、得意なことだけじゃダメで「やるべきことをやる」根本的な態度を育てないといけないのではないでしょうか。 

 

▲12 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

無くしてくれて良かったね。 

「主体的に~」などの項目で評価を分けなければならないから、提出物で悲鳴を上げている中学生を救うことになる。 

これを読んでいる皆様、次のような課題を提出するに当たって、どのようにお答えになりますが?中学1年生までの経験と知識とでお考え下さい。 

(数学) 

①正負の数の学習を終えて、良かったことを答えなさい。 

②正負の数の学習を終えて、生活に生かすことを答えなさい。 

③直線と平行(平面図形)の学習を終えて、生活に生かすことを答えなさい。 

評価Aを勝ち取る答を考えられますか? 

数学の評価のために、某中学校で実際に生徒に課された課題です。 

このような「意味不明な課題」を生徒に課すこと自体、訳がわかりません。 

 

▲9 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

現場負担の問題だけでなく、適切な評価が難しいという面を認めるならば、 

次期指導要領を待たずに早急に対応すべきだ。 

 

今後5年近くも、適切な評価が困難なまま、時に不適切な評価を受けて進路を決定づけられる生徒が出るのをそのまま放置するのは、行政の怠慢であり、生徒に対する人権の侵害行為でもある。 

 

その上で、こんな煩雑且つ不公平な観点別評価を早急に教育現場に強いた文部科学省の責任は、厳しく追及されるべきだ。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

建前では絶対評価のはずの内申点制度なのに、5をつける人の割合は決まっているって何度も現場の先生や管理職の先生に言われました。 

 

この制度についてある議員さんに話したら学習態度の項目から何とかしていきましょうと応えてくれて教育委員会に掛け合ってくれたのですが、その後、学習態度の評価がしづらいせいか提出課題が大量に増えたそうです。 

 

先生も生徒も親も疲弊させるだけのこの制度やめましょう 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

昔ある少年の勉強を教えてました。 

すごくいい子なんだが持病で薬を飲んでいて、 

その副作用で睡魔が襲ってくることが多々ありました。 

で、学校での評定はかなり低い。 

定期テストの点数は良いのに。 

理由は「授業態度が悪い」から。 

薬の副作用があるって学校に伝えてあったのに。 

それから何十年。 

いまだに根本のシステムは変わってなかったんですよね。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

そもそも通知表いる? 

できてるかどうかなんて、普段から見てたら分かるから当てにしてないって子供の頃から父に言われてました。 

テスト結果や宿題の解き具合、普段の会話内容が学力のある程度の判断材料って。 

未だに父の頭脳に敵わない。 

だから、教師としてある程度こちらもそれなりの根拠で今評価してますが、通知表で難癖つけてくる人って自分の子どもを自分で信じてないんだなと思えるようになりました。 

食事しても食べログ評価でしか味を感じられないタイプと同じ。 

我が子の才能や能力、性格くらい接してたら分かるだろ。 

だからオープンスクールとか参観日とかやってんでしょ。 

子育てしてて子ども見る能力自分で育ててよね。 

幸いそういう我が子がわからない系の保護者いなかったから、何も困ってないけど。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

難しいね。確かに関心意欲態度は教師の主観も入るところで、評定に組み込むのは難しい。学年で複数の教科担当がいる場合の、評定の足並みをそろえる負担もある。しかし、関心意欲態度を評定に入れないことのデメリットもある。まずは、学力・能力だけが評定に反映される点だ。勉強は苦手でテストの点数はとれないが、普段の授業を頑張っている、宿題を頑張って取り組んでいる子の努力が評定に反映されない点だ。あとは、宿題の提出が評定に入らないとわかれば、ますます宿題しない子も増えるだろう。今回の検討は、教師の負担は減るが、子ども達のためになっているかは微妙、といったところに感じる。 

 

▲108 ▼95 

 

 

=+=+=+=+= 

 

評価はしやすくなるだろうが、努力だけでわずかに浮かばれていた子にとっては全ての望みを絶たれ、評定の1を受け入れることになるのかも。俺はあまりいいとは思わない。 

そもそも学力とは何なのか。今目の前の子供が持っている力だけで評価していいものか疑問に思う。 

大人になった時の能力は小学校、中学校、高等学校などで評価されたそれとはかなり違うような気がしてならない。 

教員の働き方改革にしても同様だが、近頃文部科学省がやることは、どうもやることなすことすべて、いい方向に向かわないようなことばかりのように思うのは俺だけだろうか。 

 

▲111 ▼50 

 

=+=+=+=+= 

 

3観点別評価やめてくれ、そんなの教師の主観による要素が大きい。テストの得点が低くても、関心・主体的が高ければAになるのか?AAA ABA ABCこんな評価でなく、テストの点数をもとに平均点の上下で並び替えて評価すればいい。文科省の誰かが自分の手柄づくりに学校が利用されているだけ。教員離れの要因の1つがこの評価制度である。文科省の人3年間学校で3観点で授業やって評価してください。 

 

▲61 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

高校の教員しているが、文科省は現場の意見を聞こうとしない。理想ばかり追い求めて現場を疲弊させる。現場では現学習指導要領が出される前から「これは無理でしょ」皆が言っていた。文科省が提示した「主体的に学習に取り組む態度」の具体例は現場では教科担当の主観で評価するしかないものばかりであり、どう考えても「絵に描いた餅」状態で事が進んだ学校が殆どだと思う。 

生徒層がまとまっており(いい子が多い)、教員数が多く、ICTが進んだ大都市部の学校をモデル校としたのが問題。ほとんどの学校が、生徒層が広く(いい子も悪い子もいる)、教員数が少なく、ICT化が進んでいない地方の学校なので、そういう学校をモデル校とすれば、もっと現場に即した学習指導要領になると強く思う。文科省はもっと現場の教員の目線に下げ、本当に必要で実現可能な教育は何かを考えて欲しい。 

 

▲1 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

でも、それがないと能力的に全く評価できない子が出てきてしまうのも事実。 

テストができなくても、ノートを真面目にとっているとか、挙手を頑張っているような子はそこで評価してあげることができる。 

もちろん、通知表以外でも価値付けてあげることはできるが、生徒としてはやっぱり通知表でAがもらえることは励みになるだろうし 

 

▲30 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

『主体的に学習に取り組む態度』は教育で育てたい重要な要素であり、いわゆる内申点でも本来重視されるべき観点。ただし、学習態度の良し悪しを生徒本人に告げた場合に、その根拠を明示しにくい問題は確かにある。ポイントは『主体的』と言う抽象的な理想を評価に盛り込んでしまったところにあるのではないか。 

 

▲1 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

そもそも主体的かどうかなんて、客観的な評価なんてできるわけがない。鉛筆は進んでなく、ぼーっとしてるように見えて授業が終わっても、頭はフル回転し、主体的だった可能性は0ではない。 

粘り強さ?そんなもの評価する側によって違うし、全ての教員が全員同じ評価なんてできない。だから、ノートの提出回数や発表の回数で評価したくなる。なぜなら、数字で表れるから分かりやすいから。 

テストの点数など、数字以外のものに客観性を求めるのは難しすぎる。ただ、教員側が悩むだけならまだしも、子どもたちの進路にも影響してくるからたちが悪い。こんなものは最初から所見で評価しているんだから、早く辞めるべき。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

東京のある地域では中学受験が盛んで、常に評価を気にしていて、それだけ意識高くやってきます。 

そのかわり、非認知能力は乏しく、生活力に欠けます。ほんとに紐も結べないのに、歴史の難しい知識をひけらかす子もいたりします。 

評価を気にしすぎるあまり、頭でっかちになり、全然生活と結びついてないのです。 

 

▲31 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

この評価基準については、文科省においても時代とともに試行錯誤をしているのでしょう。その試行錯誤に振り回される現場についても、よく考えていただきたい。結果だけを評価対象とするのか、そのプロセスも見るのか、項目としては1つでしょうが、その意味合いは全然異なります。 

評価される学生も、目的が変わってしまうのではないでしょうか。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

結果が全てで、塾で勉強して考査で良い点が取れれば、授業で寝ていても良いという仕組みにしたいのか? 

 

学習への主体性を数字で測るのはかなり難しいのは理解できる。 

ただ、学校は人間教育をしているという視点で考えた時に、塾と同じで良いのか、さらに学力偏重な世の中にならないかが気掛かりである。 

 

▲35 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

中学、高校いずれにしても、何でつけても成績は一緒です。試験だけでつけても、大変な苦労をして評価した、さまざまな提出物を加味しても、です。 

教員経験者なら表立っては言わなくても、皆感じていることです。 

やってもやっても終わらない教員の仕事を少しでも減らすため、今すぐ観点別評価をやめてほしいです。 

 

▲8 ▼0 

 

 

 
 

IMAGE