( 304995 ) 2025/07/05 07:29:24 0 00 中小企業の利益は過去最高を記録しており、最低賃金引き上げに耐えられない状況ではない、といいます(撮影:梅谷秀司)
オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。 退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼の著書『給料の上げ方――日本人みんなで豊かになる』では、日本人の給料を上げるための方法が詳しく解説されている。
「いまの日本の給料は、日本人のまじめさや能力にふさわしい水準ではありません。そんな低水準の給料でもガマンして働いている、その『ガマン』によって、いまの日本経済のシステムは成り立っています。でも、そんなのは絶対におかしい」
そう語るアトキンソン氏に、これからの日本に必要なことを解説してもらう。
■2025年も最低賃金を「100円」引き上げるべき
石破総理は、2020年代中に最低賃金を1500円へ引き上げることを決定しました。これは、岸田前総理が目標としていた2030年代半ばから計画を前倒しした形です。
現在の最低賃金の全国加重平均は1055円であり、この目標を達成するには年平均7.3%の引き上げが必要です。
2025年については単純計算で77円増の1132円となりますが、昨今の物価上昇や、そもそも日本の最低賃金が国際的に低い水準にあることを勘案すれば、100円増の1155円とすべきでしょう。
事実、2023年時点で日本の購買力調整済み最低賃金はポーランドよりも低く、先進国の中で最低水準にあります。
言うまでもなく、最低賃金近傍で働く人々は低所得者層です。最低賃金の引き上げは、減税と違って、高所得者層にまで恩恵をもたらすことで財政を悪化させる心配はありません。
この政策は、財政の悪化を伴う減税や給付金とは異なり、個人の所得そのものを増やすことで手取り額を増加させるものです。そのため、経済合理性が高く、持続可能性のある手法と言えます。
最低賃金の引き上げが議論される際、必ず企業の、特に中小企業の経営体力が懸念されます。しかし、結論から言えば、その心配は無用です。
■最低賃金のイメージは幻想だらけ
まず、厚生労働省の平成26年の調査(データはやや古いものの)によると、最低賃金の1.15倍未満で働く労働者は約420万人です。このうち、従業員100人超の中堅・大企業に勤務する労働者は240万人(うち大企業は130万人)にのぼります。
これは、驚くべきデータです。最低賃金近傍で働く労働者のうち、実に6割近くが中堅・大企業に、約3割が大企業に雇用されていることを示しています。
「最低賃金で働く人は中小企業に集中しており、引き上げは中小企業を直撃する」という一般的なイメージは、実態とは異なります。大企業や多くの中堅企業にとって、最低賃金の引き上げは十分に吸収可能です。
次に業種別の分布を見ると、「最低賃金の引き上げは町工場のような製造業を苦しめる」というイメージもまた、実態とは異なることがわかります。
データ上、最低賃金近傍の労働者が最も多い業種は、卸売・小売業、宿泊・飲食サービス業といった、比較的生産性の低い分野です。これらの業種で最低賃金の1.15倍未満で働く人は約265万人と、全体の63%を占めています。一方、製造業では約75万人で、その大半は女性でした。
これらの業種では、最低賃金が低いがゆえに生産性向上のインセンティブが働きにくいという悪循環に陥っています。つまり、最低賃金が低いがために、生産性を上げなくても済んでいるわけです。最低賃金を引き上げることが、生産性改善への動機付けとなるのです。
したがって、「最低賃金の引き上げで製造業が困窮する」という見方は、データを無視したイメージ論に過ぎません。もともと生産性の高い製造業には、賃金引き上げに対応する体力があると考えられます。
■企業の対応力は十分にある
さらに、企業収益が過去最高水準で推移している点も見逃せません。法人企業統計によれば、2023年度の全産業の経常利益は106.8兆円と初めて100兆円を突破しました。これは2010年度の43.7兆円の2.4倍、2000年度の3.0倍にのぼります。
この好調さは大企業に限った話でも、輸出企業の増益が全体をひっぱっているわけでもありません。
中小企業の経常利益も25.4兆円と過去最高を更新しています。これは2010年度の2.4倍、2000年度の2.2倍でした。物価高やこれまでの最低賃金引き上げを経てもなお、中小企業も利益を拡大させているのです。
仮に、最低賃金近傍で働く420万人が全員フルタイム(年間2000時間)で働いていると仮定しても、時給を100円引き上げた場合の人件費増加額は8400億円です。これは、企業全体の利益規模から見れば、決して懸念すべき金額ではありません。
■「毎年恒例の反対論」を乗り越える
第二次安倍政権以降、最低賃金が1000円を目指して引き上げられる過程で、日本商工会議所などを中心に「中小企業は耐えられない」「価格転嫁はできない」「倒産が増える」「失業者が増える」との懸念が毎年表明されてきました。
しかし、事実は異なります。2012年度から現在までに最低賃金が749円から1055円へと1.41倍に上昇した間、企業数は25万社(6.9%)、雇用者数も319万人(6.9%)増加しています。価格転嫁ができずに減益になっているどころか、大きな増益となっています。
近年の倒産件数の増加を懸念する声もあります。東京商工リサーチによると、2024年の倒産件数は1万0006社で、2021年の6030社より大きく増えています。しかし、これは1998年以降、歴史的に見て異常な低水準で推移してきたものが、やや正常化に向かっているに過ぎません。
現在の倒産率は企業数全体の0.29%にすぎず、1960年代以降の平均0.61%を大きく下回っています。企業は生き物ですから、生まれて成長し、いずれはなくなっていくものです。企業の倒産は経済の新陳代謝を促す側面も持ち合わせており、件数が極端に少ない状態が必ずしも健全とは言えないのです。
■なぜ商工会議所は「最低賃金引き上げ」に反対なのか
日本商工会議所の反対意見については、その立場を理解する必要があります。
同所は労働者ではなく、あくまで中小企業経営者の利益を代表する団体です。したがって、人件費の増加につながる政策に反対するのは、その立場からの当然の主張(ポジショントーク)と言えます。それによって日本経済がどうなるかは、二次的な要素なのでしょう。
事実、日本商工会議所の反論は、かなり恣意的になっていると感じます。
仮に人件費8400億円の増加分のうち、労働者数比で7割にあたる5880億円を中小企業が負担すると試算しても、25.4兆円の経常利益に対してわずか2.3%の減益要因に過ぎません。ほとんどの中小企業は十分に対応できるはずで、対応できないのはごく一部に過ぎないと考えます。
■労働者を困窮させる中小企業「護送船団方式」の廃止を
こうした状況は、一部の経営が困難な企業を基準に「中小企業がつぶれる!」と全体を論じる、いわば「護送船団方式」的な発想と言えます。私が銀行アナリストだった時代、銀行業界もこの方式によって活力を失い、金融危機に陥りました。いまの農業も、同じ理由で危機に直面しています。
一部の企業を過度に保護することは、産業全体の競争力を削ぐ結果につながりかねないのです。
その一部の企業にとって最低賃金の引き上げが困難であるからといって、その企業の経営者を保護するために、最低賃金近傍で働く420万人もの労働者の賃上げを抑制することは、論理的整合性を欠き、ひいては日本経済の停滞を招くことになります。
ごく一部の経営者の反対を聞き入れてしまうと、全員の賃上げが進まず、実質賃金が下がってしまいます。それをごまかすために、消費税を減税などでさらに財政を悪化させる政策は論外です。物価高対策は民間の賃上げが王道で、民間が賃上げしない代わりに、減税によって手取りを増やすのは愚策そのものです。
深刻な人手不足にある現在、仮に賃上げに耐えられない企業が少数出たとしても、そこで働く労働者は、より良い条件を提示する企業へ転職することが可能です。これは労働移動を促し、労働者個人の生活水準向上にも繋がります。
このように、最低賃金の引き上げは、国民の所得を増やし、最低賃金で働く大半の労働者は女性であるため男女賃金格差の是正を促進し、高齢者の所得も増えて消費も増えますので、多くの関係者にとって大きな利益をもたらす「ウィン・ウィン」の政策なのです。
デービッド・アトキンソン :小西美術工藝社社長
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