( 307046 ) 2025/07/13 04:12:01 0 00 参政党が良いか悪いかの議論にとらわれていると「本質」を見逃してしまう Photo:JIJI
● 「日本人ファースト」が支持を得るのは “歴史の必然”だ
「日本人ファースト」を掲げる参政党が急速に支持を広げている。
筆者もある参政党候補者の街頭演説を聞きに行ったら、聴衆の数自体はそこまで多くなかったものの、思っていたよりも若い人たちの姿があって驚いた。
一方、「出る杭は打たれる」ということなのか、批判的な声も増えている。
例えば、参政党候補者は、日本人よりも外国人が優遇されているということを盛んに訴えている。メディアの中にはこれは「デマ」であり、外国人差別や排外主義を煽っていると厳しく批判するところもある。また、代表の神谷宗幣氏が演説で「高齢の女性は子どもが産めない」などと発言したことも、女性差別だと市民団体が抗議をしている。
確かに筆者が街頭演説を聞いていたときも、「参政党ナチス」というプラカードを掲げた人が候補者に近づこうとしては、警備担当者に追いかけまわされていた。
さらに、参政党は「新日本国憲法」(構想案)を公表している。こちらも国家主権に偏り過ぎているとして、憲法学者や有識者から「右とか左とか以前の怪文書」「国民主権を否定するなんて憲法を読んだことがない人がつくったの?」などボロカスに叩かれている。
ちなみに、2大スクープ週刊誌の今週のトップ記事は「参政党 神谷宗幣は日本のトランプか?」(週刊文春)、「参政党神谷代表の危うい実像」(週刊新潮)。神谷代表を“数字の取れるスター”として完全にロックオンした形だ。
こういう話を聞くと、「こんな問題だらけの政党が支持を拡大しているなんて最近の日本人ヤバくない?」と心配になる人も多いだろう。だが、歴史を冷静に振り返ると、特に驚くような現象ではない。
これまでも日本では、経済的に苦しくなって社会に閉塞感が漂ったときに、不安になった大衆が「日本人ファースト」のような主張にわっと飛びつくということがたびたび起きているのだ。
例えば1930年代、「日本第一主義」「日本至上主義」「日本主義」という言葉に多くの日本人が飛びついた。
政治運動も取り締まっていた朝鮮総督府警務局が1933年12月に発行した「高等警察用語辞典」には以下のように説明されている。
《日本主義は端的に云へば日本本位主義、日本第一主義、日本至上主義である。国際生活、政治生活、経済生活、文化生活等の一切の部面を通じて終始「日本」に立脚して意識し思念することである。(中略)全一無私一君萬民の専制政治の実現を強調するものである》(290ページ、旧字体は新字体に変換)
なぜそんなにも日本、日本と意識するようになったのかというと、日本社会に閉塞感が漂い、未来に明るい兆しが見えなかったからだ。
国内では「昭和恐慌」が起きて農民や労働者の貧困が問題化していた。相次ぐ小作・労働争議やマルクス主義の流行に治安当局は頭を痛めていた。また、国外へ目を移すと、1931年に陸軍が起こした満州事変によって、日本は国際社会で全方向から批判されて、孤立の道を歩んでいた。
このままでは日本はどうなってしまうのか。そんな不安にかられた庶民たちを勇気づけたのが「日本第一主義」だったのである。
ここまで言えば、なぜ令和日本の有権者の心を「日本人ファースト」がわしづかみしているのかおわかりだろう。
「昭和恐慌」ほどではないが今の日本は30年間、低成長・低賃金が固定化している。人口減少で社会保障が膨大に膨れ上がり、国の借金は世界最悪の1300兆円を超えている。国外へ目を移すと、中国は領空・領海侵犯を繰り返すなどやりたい放題、同盟国のアメリカも「自国第一主義」を唱えて無理難題を押し付けてくる。
このままでは日本はどうなってしまうのか。そんな不安にかられた人々を勇気づけているのが「日本人ファースト」なのだ。
参政党は戦前の「日本第一主義者」と同じく、終始「日本」に立脚して意識し思念している。今回の参院選でも「日本人ファースト」と共に「これ以上、日本を壊すな!」というキャッチフレーズを掲げている。前回の衆院選では「日本をなめるな」だった。
実質賃金のマイナスが続き、物価だけは上がって日々の生活に疲弊して、政治への希望も失って、未来に希望も抱けない人々の中に、いっそのこと「全一無私一君萬民の専制政治」をやってもらいたいと願う者が増えても不思議ではない。
この時代に学べるのはそれだけではない。このようなスローガンを掲げて、体現する政治家を多くの日本人が「ヒーロー」として扱いがち、ということも歴史はちゃんと証明している。
● 参政党をボロクソに叩く人に “熱狂の正体”は見えない
1933年、閉塞感の漂う日本で絶大な人気を得た政治家がいる。満州事変の国際的な批判に抗議する形で、国際連盟から脱退した外務大臣・松岡洋右だ。
当時の日本人は、満州事変というのは、中国側が仕掛けてきた非道な排日運動に対し、我慢に我慢を重ねてきた日本側がついにブチキレた結果という認識だ。そのため国際連盟の脱退というニュースは多くの日本人に「横暴な白人列強に一泡吹かせた」と受け取られた。
そこで1933年4月にジュネーブから「浅間丸」で横浜港に戻った松岡は、まるで大谷翔平選手のような「国民的英雄」として扱われたのである。
そんな“松岡旋風”は1年たっても衰えることはなかった。1934年、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が「日本孤立せず 国際聯盟脱退一周年」(旧字体は新字体に変換)という松岡の談話集を出版。ここで彼は国民の溜飲が下がる“マジカルワード”を口にしている。
「日本第一主義で行かない結果手足をずるずるとくくられてしまふ。(中略)だんだんくくられてしまつて、後になつて気がつくとそこはまた大和民族には正義があるんだから、黙つて居(を)らん。どうも政治家ばかりに何時(いつ)も委(まか)して置くもんだからこんな事になつてしまつたが、しかしこれも自業自得だから仕方がない。このまま亡びるより他に仕方はない、という程弱い民族ではありません」(87〜88ページ、旧字体は新字体に変換)
こうして「誇り高き大和民族による日本第一主義」という考え方に国民はどんどん熱狂していくのである。
しかし、いくら日本人が「日本中心で物事を考えるべき」と叫んだところで、他の国は知ったことではない。結果、どんどん孤立して経済も疲弊していく。そうやってさらに弱った日本人はどうなるかというと、「国家主義」へのめり込んでいくようになる。
このあたりは、著作が内務省によって発売禁止処分になってもファシズムと共産主義に抵抗し続けた東京帝国大学経済学部の河合栄治郎教授の「分析」が参考になる。
「吾が国の政治経済等の一切が行詰りの状勢にあり、陰鬱の気が全社会に漲りつつあるは、今日に始まつたことではない。(中略)マルキシズムが吾が国に不相当の勢力をえたのも、この心理に依存することが多いのであるが、マルシズムに結局信を置き得ない国民は、対案を国家主義に求めたのである」(『フアッシズム批判』(日本論評社) 116ページ、旧字体は新字体に変換)
こうして国家主義が台頭していく中で1938年に「国家総動員法」ができる。そして2年後、“日本人ファースト政治家”として確固たる地位を築いていた松岡が主導した日独伊三国同盟が締結される。アメリカ、イギリス、ソ連が敵視していたナチスドイツと手を組んだことで、日本の運命は完全に決まった。
このような「日本第一主義からの国家主義へ」という流れは、令和日本でも案外簡単に「再現」されるのではないかと思っている。
政治経済も行き詰まって陰鬱とした今の日本で、政府に失望した有権者がどこに票を投じるのか。
NHKが政党支持率を調べた世論調査では、立憲民主党が8.5%や日本共産党が3.1%であることからもわかるように、リベラルな政党は支持を集められていない。保守色を強めている国民民主党は5.1%で1週間前と比べて0.7ポイント下がった。あれもダメ、これも期待できないとなると、「国家主義」に流れる人もあらわれるはずだ。
参政党はそういうニーズの受け皿になる可能性がある。実際、同調査での支持率は4.2%で1週間前から1.1ポイント上昇した。同党は憲法構想案でも「国家主義」を隠していない。
「個人や団体の利益は、健康や安全、環境や文化等、将来の世代にわたって必要な公益のもとに得られることに留意し、その追求は、公益に配慮して行うことを要する」(第六条 公共の利益)
この「日本の利益のためには国民の利益は制限されなくてはいけない」というのは、国家総動員法と根っこの部分は同じである。我々国民は「日本」あっての存在なので、「日本」を守るという公益のためには個人の生活や経済活動はすべて国の管理下に置かれなくてはいけないという考え方なのだ。
さて、こういう話をすると、参政党の支持者の皆さんは批判されているように感じるかもしれないが、筆者にそういう意図はない。
「国家主義」という問題の原因は参政党ではなく、「世論の暴走」にあるからだ。
よく日本が国家主義に傾倒した時代の話になると、「軍部が暴走した」とか「近衛文麿や松岡洋佑のようなポピュリズム政治家が悪い」ということになる。だが、先ほど松岡が国民的英雄になったことからもわかるように、全ては国民が望んだ結果である。
拍手喝采したのは国際連盟脱退だけではない。1941年12月の真珠湾攻撃は日本中がサッカーW杯で優勝したかのようなお祭り騒ぎで、大多数の国民が「戦争賛成」だった。
あのとき、もし軍部や政治家が「日米戦争は絶対回避」を貫いていたら、怒りにかられた民衆が暴動を起こして、政治家や軍人の家族に危害が加えられていた。クーデターも起こりえただろう。
ドイツのように独裁者があらわれて国民を戦争に煽動したわけではない。日本の場合、世論が「横暴な白人列強に思い知らせろ」と熱狂し、政治家や軍がポピュリズムに流れて暴走をしただけだ。
それと同じで、もし日本がこれから「国家主義」が台頭することがあったとしても、それは参政党がどうこうではなく、我々国民が自ら選んだ道だということが言いたいのである。
人間はたかだか100年、200年ぽっちでは成長しない。だから同じ行動・同じ過ちを繰り返す。それをどうにか回避できないかということで「歴史学」が生まれた。
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