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原料高騰で…駄菓子の定番「糸引きあめ」、唯一のメーカーが廃業

毎日新聞 7/13(日) 10:15 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/a57fb395dcfa2b562a4d6cc8070388b5a1fdf30f

 

( 307379 )  2025/07/14 05:58:35  
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糸引きあめの製造が2024年5月末で終了することが報じられた。

国内唯一のメーカー、耕生製菓(愛知県豊橋市)が高騰する原材料と工場の老朽化により廃業する。

糸引きあめはかつて駄菓子屋で人気の商品で、1回10円で楽しめる遊びの要素もあったが、製造が手間で他社も撤退し、耕生製菓だけが続けてきた。

最近では少人数で製造を行っていたが、経営状況が厳しく、事業継承の要望も断っている。

駄菓子屋研究専門家は、業界の二極化が進んでいることに懸念を示した。

耕生製菓は現在、工場の解体や書類整理を行っており、今後の心情について三恵子さんが語った。

(要約)

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糸引きあめは、糸を引っ張ってあめを選ぶ=大阪市北区で2024年12月24日、梅田麻衣子撮影 

 

 あめの中から出ている糸を束ねて、くじのように引くことができる「糸引きあめ」の製造が、5月末で終了した。国内唯一のメーカーだった耕生製菓(愛知県豊橋市)が、原料の高騰や工場の老朽化などで廃業したためだ。夫の津野耕一郎社長(72)と一緒に会社を切り盛りしていた三恵子さん(69)は「長年心を込めて製造していたので、少し残念なのと寂しさを感じています。多くのねぎらいの言葉やお手紙をいただき、感謝しております」と話す。 

 

 製造終了した5月末に、耕生製菓をたずねた。豊橋駅からほど近く、大通りから少し入った場所に、耕生製菓はあった。工場は築70年以上。「古いので写さないでくださいね」と、三恵子さんは少し恥ずかしそうに笑う。三恵子さんの写真もNGだったが、立ち居振る舞いが若々しく、長年会社を支えてきただけあって、芯の強さを感じた。 

 

 糸引きあめは、かつては駄菓子屋の定番商品だった。1回10円程度で糸を引き、先についているあめをもらう仕組み。あめの大きさは数種類あり、大きなものが「当たり」になる。駄菓子屋の前では、最近でも口の端から糸を垂らしてあめを食べる子どもを見かけた。しかし、製造に手間がかかることなどから他のメーカーが相次いで製造を中止。耕生製菓のみが続けていたが、駄菓子屋の減少に加え、原材料の高騰が経営を圧迫した。工場の老朽化や津野社長の体調不良も重なり、廃業を決断した。 

 

 耕生製菓は戦後間もなく創業し、たん切りあめなどを製造していた。「当時は、近所の人が缶を持ってあめを買いに来たと聞いています」と三恵子さん。糸引きあめの製造を始めたのは1950年代半ばで、当時は糸引きあめを作るメーカーが、近所だけでも4軒ほどあった。耕生製菓の出荷量が一番多かったのは80年代中ごろ。かつては十数人の従業員がおり、住み込みで働く人もいたという。 

 

 最近では、津野社長と三恵子さんを含め、6人で製造していた。製造工程は、ほとんどが手作業だ。砂糖をくぼませた型に、砂糖や水あめを溶かしたあめの原料を一つ一つ流し入れ、固まる前に糸を差し込んでいく。糸がついたあめを30個束ねて輪ゴムで結び、袋詰めする。あめの袋を箱に詰め、ひもをかけて出荷する。製品は「フルーツ引」「シャンペンサイダー」「コーラ糸引」の3種類。1番人気は、箱にレトロな絵柄のイチゴが描かれ、あめがカラフルな「フルーツ引」で、他の2種類の10倍以上出荷していた。 

 

 事業継承の打診もあったが、いずれも断った。「引き継ぎたいと言っていただくのはありがたいですけど、よそで作るのは難しいと思います」と三恵子さんは明かす。ここ数年は、ほとんど利益がでない状態。原料や包装資材があまりに急激に高騰したため、適正価格への値上げや、販売方法の変更について検討することすらできなかったという。 

 

 糸引きあめがなくなることについて、駄菓子屋研究家の土橋真さんは「駄菓子業界は、比較的体力のあるメーカーと中小零細の二極化している。経営者の体調不良や機械の故障などで中小零細は潮時と考えるケースが多い。仕方が無いですが……」と残念がる。耕生製菓は、工場解体や書類整理などを進めている。「今はバタバタしていますが、すべて終われば、もっと寂しくなるんですかね」。寂しげな、でも少しさっぱりした三恵子さんの表情が印象に残った。【水津聡子】 

 

 

( 307380 )  2025/07/14 05:58:35  
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駄菓子屋文化の衰退とそれに対する懐かしさが、コメントの中に強く表れています。

多くの人々が、糸引きあめとの思い出を語り、その楽しさや無邪気さを思い出しています。

特に、駄菓子を購入する際のワクワク感や、当たるかどうかのドキドキが、子供時代の楽しい思い出として語られており、「子供時代の一部」であったことが伺えます。

 

 

一方で、原材料費の高騰や少子化による市場縮小、消費税や物価の上昇により、駄菓子屋が経営困難に直面している現実があります。

個人経営の駄菓子屋が減少する中で、「大手の量産品」としての駄菓子が増え、昔ながらの手作りの楽しさが失われていることへの嘆きも見受けられます。

 

 

また、中には現代の食品衛生基準や嗜好の変化に伴い、昔の駄菓子のような商品が無くなることへの安心感よりも、寂しさや懐かしさの意見が目立ちました。

そして、駄菓子を通しての地域コミュニケーションの大切さや、思い出を育む場としての役割が消えつつあることへの懸念も表明されています。

 

 

全体として、駄菓子屋の歴史や文化に対する感謝の気持ちと、現代社会の変化に伴う切なさが強調されています。

駄菓子はただの食べ物ではなく、思い出の象徴としての位置づけがされており、消えていくことへの惜しみや懐かしさが、多くの人々の心に残っていることが感じられます。

(まとめ)

( 307382 )  2025/07/14 05:58:35  
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=+=+=+=+= 

 

切ないですね。でも、時代の流れかと思います。 

 

「糸引きあめ」はあみだくじのような遊び感覚があったので、面白かった。昔は、アタリの飴玉は結構大きかったのですが、今は物価の高騰などの影響で、アタリでも昔のハズレ程の大きさになってしまった。それほど、経営状況はひっ迫していたという事です。 

 

駄菓子の醍醐味は、その遊び心にある。アタリ、ハズレや、面白い仕掛けなど、素朴で魅力がいっぱい詰まっているものが多くあった。それが廃れていくのは切ない気持ちになります。 

 

▲4760 ▼169 

 

=+=+=+=+= 

 

5歳くらいのときに駄菓子屋にいったのを覚えています。細長いビニールに入ったカラフルなゼリー、猫のキャラクターのついたフーセンガム、串に刺していた丸いカステラ棒、袋に入った甘納豆のくじ、30円握りしめて、キラキラに見えるお菓子やくじをどれにしようか真剣に見つめていたものです。もちろん記事の糸引き飴、何回もやりました。イチゴが出るとうれしかった。また一度だけ当たり?なのか3倍くらいの大きさの飴が当たった。食品衛生法とかコンプライアンスとか今では再現できない子供の居場所が確かに昭和にはあった。 

永い間、思いでの美味しい飴を製造いただき、ありがとうございました。またご苦労さまでした。 

 

▲182 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子が色々無くなるのは寂しいですね。小学校の時はよく近所の駄菓子屋で色んな駄菓子を友達と競争して買っていました。 

そういうのが友達や近所のおばさんとのコミュニケーションになり、地域を皆で守っていく礎になっていたと思います。 

顔も見ずに通信だけでつながっている現代に一抹の寂しさを感じます。 

 

▲48 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋で一番大好きでした。つい先日も、箱買いをしようと、2軒回って見つかりませんでした。こういうことだったんですね、残念です。 

糸引アメ、さくらんぼ餅、モロッコヨーグル、シガレット、カタヌキ、グッピーラムネ、風船ガム、水飴。細いガラスに入ったきれいな色の寒天ゼリー、コーティングされた砂糖を嘗める紙テープのようなもの、仕切りのついた大きな箱にいろんな駄菓子が入っているのを何が当たるのかドキドキしながら開けたこと、菓子ではないけど、指から煙がでるものもありましたね。 

いつまでもあのワクワクを覚えています。 

 

▲1203 ▼30 

 

=+=+=+=+= 

 

消費税を国民から搾り取ることで、大企業減税ばかり実行せずに、こういう中小零細企業がやっていけるような国づくりをしてほしい。 

移民政策が今話題となっていますが、外国の学生に全体の4割も支援したり、数年前に来た外国人に生活保護を受給させるよりも、こういう伝統的な日本の文化を継続している人達に支援金を出してほしい。 

 

▲1561 ▼195 

 

=+=+=+=+= 

 

いいんじゃないですか。 

駄菓子などの影響で、昭和の子供達の虫歯の罹患率もひどいものでした。 

今は、保護者の方の意識も高まり、ジュースを飲んだことがない小学生や、お菓子も年に数回しか食べないお子様も多いですからね。 

虫歯の罹患率もかなり下がり、日本は衛生大国として世界で一番虫歯のない国をめざしましょうよ。 

日本が世界に誇れる分野をどんどん作りましょうよ。 

 

▲12 ▼224 

 

=+=+=+=+= 

 

大手のメーカーは後継者もいるだろうけど、 

街の小さな工場では物価高騰だけでなく、後継者問題もありそうですね。 

 

お菓子屋さんだけでなく、飲食店も個人経営されている所は高齢化で以前から行っていた所が何店舗か閉業しました。 

チェーン店も美味しいので利用しますが、個人の所もそこでしか食べられない味で好きです。 

昔から食べれた馴染みの味が食べられないのはさみしいです。 

 

▲981 ▼50 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしいですね。子どものころ、母にお小遣いをもらって近くの駄菓子屋さんへ走って行き、糸を引くのが楽しみで、引いたアメを口に入れていたのを思い出しました。 

インバウンドで来日する外国からの方々も日本の駄菓子屋で、いろんなお菓子を手にとって食べるのが楽しいと言われますね。 

その一つが廃業になってなくなるのはさびしいですが、心の中に思い出として残ってゆきますね。長年ありがとうございました。 

 

▲843 ▼20 

 

=+=+=+=+= 

 

こういう商品、ありましたね。 

学校近くにあった、学校用品、兼、駄菓子屋にあった記憶があります。 

お店の女主人、人当たりがキツくて、子供達界隈では「怖いおばさん」と名物になっていた。 

 

でも、懐かしいなぁ。 

時代の流れと言ってしまえば、そうだけど、子供時代のものが少しづつ姿を消していくのは、心の拠り所が削られていくようで、切ないものですね。 

 

▲442 ▼24 

 

=+=+=+=+= 

 

事業継承の打診もあったが、いずれも断った。「引き継ぎたいと言っていただくのはありがたいですけど、よそで作るのは難しいと思います」 

 

全ては原材料高騰で昔のまま価格維持できてるのは中小で個人でやっている事業、人件費やらも家族だけで多少なり抑えられてきたと思う 

 

他の業者がやれば価格維持は困難で値上げして売るでしょう 

そうなると今までの努力はなんだったかと、悲しい気持ちになりますよね 

 

であれば自分達だけで閉めたい思いがあるんだと思います 

 

寂しい思いもありますが、長い間お疲れ様でした 

 

▲614 ▼16 

 

 

=+=+=+=+= 

 

コンビニやドラッグストアでも駄菓子コーナーがあるが、キッチリ包装がされていてバーコードが印刷できるスペースも必要みたいですね。 

個人で営業している駄菓子屋が激減している今、このタイプの飴は保管や個別対応が難しいのだろう。 

私が幼い頃はニッキ風味がついた紙や、えげつない色をした寒天?ゼリーが入った細長い筒が売られていて、今考えると、よくこのような商品食べてたなーと思う。 

 

▲528 ▼58 

 

=+=+=+=+= 

 

長年にわたり、「糸引きあめ」の製造に尽力された耕生製菓の皆様、本当にお疲れ様でした。駄菓子屋の定番として、多くの子どもたちに夢と笑顔を届けてくださったこと、心より感謝申し上げます。手作業で一つ一つ丁寧に作られていたというお話を伺い、皆様の深い愛情と情熱を感じました。時代の流れとはいえ、伝統の味が失われるのは寂しい限りですが、皆様が紡いでこられた歴史と温かい思い出は、決して色褪せることはありません。どうぞ、第二の人生を楽しんでください。本当にありがとうございました。 

 

▲295 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

うわー 

さびしいですね 

東北地方ですが自分の通った小学校の前に駄菓子やさんがあって一番思い出にのこっているのがこの糸引き飴 

友達とたべるのがたのしみでした 

うちは親が衛生面とか厳しくて屋台とか駄菓子やさんのも買ってもらえなかった 

ここにこっそり寄り道したのが思い出 

ピンクがでるとうれしかった 

長年お疲れ様でした 

 

▲325 ▼19 

 

=+=+=+=+= 

 

今は駄菓子屋や駄菓子以外のアミューズメントや嗜好品が溢れてますからね。 

とはいえ一時代、駄菓子屋は間違いなく地域の子供達の一大アミューズメントの一つであり、一部先生や親には睨まれながらも、間違いなく子供達の心の拠り所の一つでした。 

淋しくもありますが、これも時代の流れですね。 

今まで本当にお疲れ様でした。 

私もたくさんワクワクキラキラさせてもらった1人です。本当に本当にありがとうございました。 

 

▲85 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

昔、豊橋のまちなか巡りに参加したことがあって、このメーカーを教えてくれた。同時に市民に馴染みの甘味処やパン屋さんなども合わせて何軒も。どれも数百円で楽しめる庶民的なお店。 

今は寂れた街並みの合間にマンションか建つようになって、紹介のお店の大半は無くなってしまった。いろいろ物価高で当時のような楽しみ方も難しい時代になった。 

今思うと、まちなか巡りでこういう楽しみ方があるんだ、という視野を広げてくれた当時のガイド(企画担当者)さんに感謝だ。でもこの企画、数年で途絶えてしまった。噂では熱心な担当さんを追い出したとかいう話。目先の利益を追うような人たちに理解されなかったらしい。街の魅力って一体何?映えないからこそ知る人ぞ知る!という魅力があったのに…とても残念に思う。 

 

▲26 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子は子供が小遣いで買えるもの、という前提があるので安くないといけないという固定観念がある。加えてターゲットである子供を育てる親の手取りは増えるどころか、実質賃金は目減りする中、政府は増税する始末。少子化は止まる気配もなく、子供の数はどんどん減っている。 

これでは商品の値上げも難しく、廃業は免れないだろう。 

 

▲492 ▼56 

 

=+=+=+=+= 

 

子どもの頃から馴染みのあった糸引きあめ…大きなあめ(当たりと自分で思っていた笑)口に入らないほど大きかった覚えがありますが、それを引いた時の感激は、今も忘れられません。残念ではありますが、時代の流れでしょう。今日は、大きな飴取れるかなぁと夢を見させてもらったこと。ありがとうございました。今までお疲れ様でした。 

 

▲118 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

原料の高騰や設備の老朽化とのことですが、一番はマーケットの縮小でしょうね。子供の数は減っているし駄菓子屋も減りました。そして駄菓子屋で売ってこその商品ですのでスーパー等では魅力が無くなりますし。時代の流れで仕方ないのかと思いますが、倒産ではなく廃業というのは少し良かったなと思いました。お疲れ様でした。 

 

▲27 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

ワクワクするお菓子が減っていてつまんないな。子供の頃にはシガレットチョコや5円があるよ、紐飴、ジュエルリング、セコイヤチョコレート、チロルチョコにうまい棒⋯大好きだったなぁ。ドンキ売っているものもあるけど、大袋で買うと楽しみが減るんよね。昔はガムも自動販売機を模したパッケージだったような気がする。 

 

▲172 ▼31 

 

=+=+=+=+= 

 

とても懐かしいですね、よく小学の時、家の近くの駄菓子屋で、糸引き飴を買って舐めていた記憶があります。結構、飴の大きさもバラツキがあって、とにかく大きな飴を当てたいと思って引き当てようとしてました。その当時の懐かしい記憶が蘇って来るのと同時に、その駄菓子の製造メーカーが無くなってしまうのは、残念かと思います。単価が安いですから、薄利の中で、原材料費の高騰と言った所で経営環境は厳しさは増しますよね。駄菓子屋も以前よりは減っているでしょうし、致し方が無い所もあるかと思います。今まで、子供たちに安くて、楽しくて、美味しいあめを届けてくれてありがとうと言いたいです。 

 

▲11 ▼4 

 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃、沢山買いました。 

それこそ300円出して袋買いもしましたので、無くなってしまうのは寂しいですね。 

昔は写真のフルーツ飴以外にもコーラとサイダーがありました(すべて同じ会社が製造)。 

 

原材料高騰は令和に始まったことではなく、20年ぐらい前から飴のサイズがだんだんと小さくなっていました。 

2000年代初頭の頃は、飴1つのサイズが記事写真の2倍ほどありました。誇張表現ではなく、本当にハッキリと写真の2倍のサイズがありました。時代の流れとはいえ、つらいですね。 

 

いままで美味しい飴を提供していただき、ありがとうございました。 

 

▲9 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

糸引きあめ、長く製造してくださりありがとうございました。お疲れ様です。70代ですが60年以上前は何度か購入させていただきました。一人で10円玉を握り駄菓子屋に買いに行きました。申し訳ありませんが最近は駄菓子屋に行ってません。廃業という記事を読んで、お礼を伝えてたくコメントを書かせていただきました。繰り返しになりますが、糸引きあめを食べて遊んだ世代の一人として感謝の言葉を送らせていただきます。今後のご多幸を祈念します。 

 

▲22 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃は五円十円の飴やお菓子で楽しんでましたね 

駄菓子屋的なお店ってか田舎だったので何でも商店的な店先で多くの子供達が集まってました 

今や商業施設の中に駄菓子屋再現してますが値段も今の価格ですしね 

価格転換や商品を少なく小さくしてしのいでたりと企業努力の結晶だと感じます 

 

▲16 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしいなぁ、私が子供の頃は、つり飴と呼んで駄菓子屋さんで、よく買いました。 

昔の駄菓子は、当たり付きがほとんどで、友達と、あたり、はずれで一喜一憂したもんです!仮面ライダースナックも、ラッキーカードでアルバムが当たったり、昭和世代の子供達にとって夢の場所でした。 

飴製造の方々、ご苦労さまでした、そしてありがとうございました。 

 

▲5 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃わくわくしながら糸引きましたね 

駄菓子は決められたお金でどれにしょうか?と迷いながら買う楽しさあります 

小さな会社は後継ぎ問題や物価高で廃棄されてるとこが多くなっていると聞きました 

子供の頃の思い出がひとつづつなくなっていくのは寂しいです 

経営者のご夫婦にありがとうございましたの気持ちをお伝えしたいです 

 

▲13 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

なんだか寂しくなりますね。 

小さい頃駄菓子屋さんに10円持って買いに行き、お目当ての飴を引けるかとドキドキしながら紐を引いた記憶があります。 

懐かしいな。 

外れてもイチゴ味の飴で、美味しかった。 

古き良き時代がまた一つ失われて行くでしょうが、そんな事の繰り返しなのでしょうね。 

楽しい時間をありがとうございました。 

 

▲17 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

これな。 

子供の頃、お祭りの出店で楽しかったよ。 

大きな飴が獲れないかと、何回もお金使って糸を引いた。 

大きな飴に繋がってる糸を逆から引っ張ったら引けなかった。 

「なんだ、糸が束ねてあるところで縛ってあるじゃん」 

こんな思い出があります。 

もちろんゲームではなく、駄菓子屋さんに普通に売っていました。 

もう、60年くらい前になるが、よく買ったよ。 

表面にザラメの砂糖がついていたね。 

長い間、ご苦労様でした。 

 

▲127 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋がまだあった頃、たまにやりました。大きな飴が引けると嬉しかった。 

おばあちゃんの目を盗んで、糸を引かず、飴を掴んで抜き取った奴が目の前にいて許せなかった。当時は小学低学年で相手は大きな奴だった為に文句言えなくて、おばあちゃんに言いつけようにも、そのおばあちゃんも何かと怖いおばあちゃんで言いにくかった。 

それでも勇気を振り絞って、糸の束持っておばあちゃんを呼んだら「ズルしちゃいかん!」って慌てて飛んできて怒られた。 

その悔しさ、40年近く経っても忘れない笑 

 

▲48 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

ある一定以上の世代ならば、誰もが一度はやったことがある糸引きアメ。 

いまならば着色料を気にするところだけど、当時はカラフルな色といかにもな味に、惹かれてました。 

 

どこの小学校にも、校門出たところの近くに駄菓子屋があったし、「買い食い禁止」って先生に言われながらも、つい10円20円握って寄って帰っていたのが懐かしい。 

 

こうやって、また、昭和が平成が遠くなっていきますね。 

 

▲7 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

今の「駄菓子」と称するお菓子は、大規模なメーカーが全国のスーパー、コンビニ、モールで買えるような大量に生産するものばかりだが、本来のお菓子は駄菓子屋だけに小規模に置いてあるものだった。 

だから、どこでも買えない安っぽさ、希少性、安さ、そして喜びが混ざった楽しさがあったのだ。 

ガラス管ゼリー、ニッキ紙、剥き出しで売ってたチョコカステラなどが淘汰されていった。安物の玩具も無くなっていった。 

もうあの頃には衛生的にも生活水準的にも戻らないけど、寂しいです。 

 

▲6 ▼3 

 

 

=+=+=+=+= 

 

10円玉を握りしめて兄妹で駄菓子屋さんに通った頃。一番のお気に入りが糸引き飴でした。何色の飴を引くのか、飴は大きいか小さいか…ワクワクしながら糸を引きました。食べる時がこれまた楽しかった。上を向いて口を開け、糸の先に付いた飴をパクッと…50年以上前の話です。懐かしい幸せな思い出です。 

長い間作り続けて下さって有難うございました。 

お疲れ様でした。 

 

▲12 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

青春の1ページが終わってしまう。プールの帰りに一番大きな紐飴ひけて、ウッウキで帰ったらのは良い思い出です。 

息子と娘にも紐飴をギリギリ体験させてあげれたのは私の人生で良い思い出です。 

 

紐飴に出会ったのは近所の駄菓子屋、友達のお兄ちゃんが口から紐を垂らして飴を食べてるのが凄くかっこよく見えたの思いだしました。 

 

▲10 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

地元、豊橋で作られていたとは、この記事を読んで初めて知りました。愛知県は駄菓子メーカーが多いことは知っていたのですが… 

子供のころ、よく近所の駄菓子屋で買いました。ハズレになる、円錐形のイチゴのアメが大好きでした。 

永年にわたり、子供たちを楽しませてくれて、ありがとうございました。 

 

▲29 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ラーメンには「1000円の壁」と言われる消費者の価格抵抗線があるとされるが、駄菓子の壁はそれよりさらに厳しいことは想像に難くない。10円の値上げすら簡単ではないだろう。これだけ商品の値上げが相次いでもいまだに200g税込み20円で売られているもやしと同じような状況だ。インフレ経済に転換してもなお消費者が「今の値段じゃないと買わない」というのは実質その商品へのニーズがないのと同じだ。それでは先行きの見通しはなく、廃業するのも仕方がない。値上げできないのなら収益性はないわけだから後を継ぐ者も当然いない。こうした昔ながらの商品は今後も数多く消えていくだろう。 

 

▲120 ▼12 

 

=+=+=+=+= 

 

長きに渡り多くの少年少女の日常に寄り添い、多くの思い出と共にあった「糸引きあめ」を作り続けてくれたことに心より感謝申し上げます。 

持っている糸が泥だらけになって母親からは嫌がられましたが、思い返せばどこで何をしていても糸を垂らしていた少年時代です。 

駄菓子に関しては他にも色々と生産中止になってしまった品物は少なくありませんが、 

あの頃の思い出にはいつも駄菓子が伴っていて、一生忘れません。 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

私の子供の頃には各町内に最低一軒は駄菓子屋がありました。 

フルーツ引きと言ってたのですね〜 

あのタコ糸を引いた時にでかいメロンやパイナップルのアメが動くと嬉しさでドキドキしたものでした。 

しかし最終的に横の小さなハズレアメが手元に来るとガッカリと言うか友達と笑えたものでしたが、私達の子供時代の1ページに残る思い出を作ってくれていたのは確かです。 

 

今までありがとうございました! 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

今は「駄菓子」はコンビニやスーパーで買う。 

雑多に並んだ個人商店は少ないから、糸引き飴のような販売形態は難しいよね。 

かつては当たりくじ付きの駄菓子もあったが、交換の必要なものは予め仕入れの時に差額分として多めに入っていた。だから出来たけどA店で買ったものをB店に5個とか持ち込まれたら利益じゃなくなる。 

流通や販売形態で消えてしまっていくのは時代の流れだろうね。 

50円でも手にいっぱい買えた時代は…もう無い。寂しい。 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

こういった懐かしい駄菓子は、いまでもスーパーの片隅や卸問屋の販売店にあるけど、そこはまとめて購入してレジを通って買うから普通の買い物と変わらない。 

当時を知ってるものとしてはやっぱり小さな個人店でおばちゃんがいて、 

お金を手渡しで渡して 

1個づつ購入しては食べ、また購入しては友達とわいわい遊ぶのが楽しかった。 

この情緒ある風情はもう近所ではなくなったけどいい思い出です。 

 

▲12 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

今10代の我が子たちも縁日や駄菓子屋で楽しませて貰いました。 

瓶ラムネや駄菓子も浅草辺りの小さな工場で作られていた事が多くて、コロナ禍とインボイスで追いやられた事業主も多いのではないでしょうか? 

戦前戦後と日本は個人や家族経営の職人さんに守られて来た品物や業界が少なからずあるけれど、政府がお金出して守らないといずれ日本のアイデンティティごと技術も共にこの世からなくなりそう。 

 

▲105 ▼12 

 

=+=+=+=+= 

 

昔から馴染みあるお菓子が消えるって寂しいですね。一回も欲しいやつを引き当てた事ないけど食べてたなぁ。お手伝い頑張って貰ったお小遣いで近所の駄菓子屋に行ってって光景が当たり前でしたが今ではイオンの中に駄菓子屋風な店があったりくらいで昔ながらのおばちゃんがやってるお店って無くなりましたね。お金がなくても10円、20円で買えてたし50円合ったらちょっと贅沢に買えてたのに今では、、、消費税が高すぎて子供にとってそうゆう経験や思い出が作れなくなって残念で仕方ありません。自民党のせいですね。 

 

▲19 ▼10 

 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋文化そのものが絶滅危惧種です。 

昔は公園の近所で、駄菓子、ガチャガチャ、ゲームが楽しめる唯一の場所だったのが、今や、100均、コンビニ、大型商業施設といろいろあります。 

売っていた、銀玉鉄砲、手投げ飛行機なども、現代では遊んでいると怒られます。 

1丁目1番地みたいにかつての駄菓子屋を再現しているお店もありますが… 

悪ガキが集まっていた、本来の駄菓子屋は 

古き良き日本の風景と懐かしむことしか出来ないですね。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

もう50年近く経つでしょうか、下町深川育ちの自分は駄菓子屋に行っては、小遣いを握りしめて色んな駄菓子を買った思い出が。 

そのレパートリーの中には、勿論糸引き飴もありました。 

また懐かしい駄菓子がひとつ消えていく・・・時代の流れで仕方ない部分はありますが、やはりさみしいですね。 

 

▲11 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしいですね。 

子供の頃必ず大当たりの大きな飴を引き当てる同級生がいました。 

毎回必ず当たるので、なんで、と聞いたら「最初に欲しい飴をちょっと引いてどの糸か分かるようにするんだよ」 

と、言われました。 

結局ズルをしていたんです。 

駄菓子屋のお婆さんは目も悪いしそこまでは気が付かなかった見たいです。 

彼はあまり勉強は出来ませんでしたが、万事要領が良くて高卒後建築業に従事し、その後建築の足場を作る会社を起こしました。 

従業員が50人くらいの地方ではわりと大きな会社までにしましたが、50歳の若さで息子に後を譲り、本人は旅行やゴルフ三昧で優雅に暮らしています。 

一生懸命勉強して難関大学から大企業に入った友人達よりも彼が1番人生をエンジョイしているように見えます。 

私はと言えば、彼にズルを教えてもらっても後ろめたさや怖さからそれは出来ませんでしたね。 

社会で成功する人ってそんなものですかね。 

 

▲6 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

>>耕生製菓の出荷量が一番多かったのは80年代中ごろ。かつては十数人の従業員がおり、住み込みで働く人もいたという。 

 

80年代中ごろといえば、高度経済成長が終わりを告げ、しかし好景気の勢いはさらに加速してゆきあの”バブル景気”に入る直前ですね、、、。子供も多く、まだ街中のいたるところに駄菓子屋が残っていたと思います。 

 

住み込みもいたなんて、本当にすごい時期だなぁと。 

 

見たところ、「フルーツ糸引」「コーラ糸引」は販売形式的にスーパーに置くのは難しいのかもしれませんが、今の子供も好みそうですし、「シャンペンサイダー」なんかは見た目のかわいらしさもあって全然通用しそうですが、、、こちらは(採算さえどうにかなれば、他メーカーが製造するなどして)残るのでしょうかね、、、。 

 

寂しい限りですが、長年頑張られてきた小さな企業に脚光が当たる、そして1つの時代を思い出す良い記事だなと思いました。 

 

▲21 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしいですね 

子供の頃駄菓子屋で買ってました 

一度だけデカい飴を引いた記憶があります 

今は駄菓子屋も閉店してしまい紐飴も見なくなってましたがこれも時代の流れでしょうね 

子供の頃は平成に入ってましたが平成の前半で田舎だったので紐飴以外にもきなこ棒とかきな粉付きのあんこ玉とか当たりのある駄菓子はまだ売ってました 

 

▲3 ▼0 

 

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町の駄菓子屋さんもほとんど見掛けなくなったし、子供たちが小銭を握りしめて、手持ちの範囲内で買い物を楽しむ時代では無くなったという事ですね… 

スーパーやコンビニでも売っているビッグカツ、餅太郎、チョコバット、よっちゃんいか…無くならないで欲しい。 

 

▲198 ▼8 

 

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駄菓子に限らず、全ての商材に言える事なのですが会社が存続出来るだけの利益が出せない、利益が出せるだけの売価を市場が許さないのであれば商売として成立しません。 

 

ただ、私は「○○円の壁」みたいなものを気にし過ぎていると感じています。 

 

ひょっとしたら「倍の価格でもいいから継続して欲しい」と考えている消費者もそれなりに居たのかも知れないし… 

 

「ウチはこの値段で売る!この値段じゃないと事業継続出来ない!駄目ならそこまでだ!変えない為に変えるんだ!」って感覚も今後の日本経済には必要なのではないでしょうか? 

 

日本人って「今まで通り」が好きだからさ… 

 

▲5 ▼1 

 

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正直今の子供で糸引きあめを知っている子供がどのくらいいるのだろうか? 

昭和世代の自分だと10円をもって大きい飴が当たるかどうかが楽しみであり双璧のスーパーボールも同じ楽しみがありました 

材料費の高騰後継者問題などいろいろあると思いますが 

一番はこれらを取り扱う駄菓子屋が無くなっていく事だと思います 

自分が小学生、中学生の頃は学校の側に1.2軒は必ずだ菓子やがあれましたが… 

少なくとも自分の地域ではもう駄菓子屋そのものがありません 

自分が小学生の時は一日の小遣いが50円で50円でどれくらいものが買えるのか 

10円の商品5個かそこに20円30円のお菓子を絡めるのか、そういった楽しみがありました…とても寂しい記事です… 

 

▲9 ▼2 

 

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55年前、時には妹を連れてよく行っていた駄菓子屋。必ず買うこの糸引き飴のイチゴ味が大好きだったな!当時5円か10円だった。それと麦芽を練った様なソフトな飴に割り箸が突き刺してありチョコをコーティングしたビガーというお菓子も後継者不足だろうか30年前ぐらいには姿を消した。ショッピングセンターに昔なつかし駄菓子屋さんがある。その中には昔よく買った駄菓子が一部頑張って売られている。ある人の人生と一緒、いつかは誰も知らない歴史の中に埋もれて行くんだと思うとなんだか寂しいね。 

 

▲14 ▼2 

 

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うわぁ、懐かしい!!未だに駄菓子を見る度に、「これよく食べてたなぁ」と当時のことを思い出します。駄菓子って見るだけでワクワクする。小学生の頃は家に帰ったら祖母から100円をもらって、それを握りしめて駄菓子屋さんに行き、計算しながら買っていました。今は100円で何が買えるだろう、、物価高をひしひしと感じます。 

 

▲17 ▼0 

 

 

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懐かしいなぁ。中には大きな飴が数個あり ドキドキしながら糸を選んだのを鮮明に思い出します。 

自分も地元ですが、消費税が導入された頃から 駄菓子屋さんの減少が進んだ様に感じます。 

申し訳なさそうに103円ねって言ったおばさん、子供から消費税なんか取れるかって100円までは消費税取らなかったおじさん。今 本気で見直さないと大変な事になりそうですね。 残念ですが、長い間お疲れ様でした。 

 

▲2 ▼1 

 

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懐かしい。 

小学生の頃、ワクワクしながらよく買っていました。私自身は下町育ちということもあってか、近所に駄菓子屋さんが7〜8軒もある環境で育ちましたが、今は駄菓子屋さん自体見かけません。 

Google mapで当時通っていた駄菓子屋さんを見て回りましたが全てマンションや駐車場、戸建て住宅に変わっていました。 

寂しいですが、時代の流れなのでしょうね。 

沢山の思い出をありがとうございました。 

 

▲4 ▼0 

 

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懐かしいと同時に寂しいですね。確か梅ジャムも無くなりましたよね。 

今考えると駄菓子屋は、他のクラスの生徒と仲良くなる貴重な遊び場でもありましたし、大人たちが知恵を絞ってつくりだした遊び心のある駄菓子が多かったです。 

それが無くなるとなると、やはり寂しいですね。 

 

▲5 ▼3 

 

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幼い頃、たいへんお世話になりました。大玉が出ると嬉しくてねー。でも実は小さい方が甘いパウダーが多くておいしかったりして^_^ 

くじを引くという高揚感とその場で食べる楽しさとで、駄菓子屋さんではいつも人気でしたね。 

最盛期が80年代ということは、第二次ベビーブームの我々の頃ですね。今と違って子供がたくさんいましたから、いつもどこも賑わっていたように思います。人が減り、スマホで遊ぶ時代。すっかりかわってしまいました。 

長い間日本の子供達のためにありがとうございました。 

 

▲2 ▼1 

 

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長いことお疲れ様でした。いま駄菓子屋さん自体が減っていますよね、、スマホでポチれば何でも家に届く便利な時代ですが、例えば学校は違うけど同年代の近所の子供同士や、お店のおじさんおばさんとの他人同士のコミュニケーションの場として駄菓子屋さんはとてもいい経験ができていたと思います。 

仕方ないのかもですが、やはり寂しいですね。 

 

▲4 ▼1 

 

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近所にあった駄菓子屋さんで、売れ残った糸引きあめを1つの缶容器にいれ、熱でそのまま溶かして色んな色の飴の塊にし、割って食べさせてくれた謎の思い出があります。 

子供のころはちゃんと引きました。ありがとうございます! 

 

▲6 ▼2 

 

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数年前には缶飴も消えてしまったし 

非常にさみしいですね 

いろいろなお菓子も飴も世の中には沢山あるけど 

あの味や紐にはなつかしい思いもある 

まだ世の中に在庫ある内に 

買って食べたいと思います 

今までありがとうございました 

 

▲2 ▼0 

 

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昔は遊び心のあるお菓子がたくさんあって楽しかった 

今はきっちり包装されていて、確かに味覚的には上がったかもしれないけど 

楽しかった子供時代の思い出が次々になくなっていくのは切ないね 

当たりが出た時はうれしかったなあ 

 

▲8 ▼3 

 

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小さい頃私が通っていた公文式にはお楽しみ会というのがあって、勉強を普段頑張っているご褒美に色々な駄菓子を食べられる日を教室の先生が企画してくれてました。 

友人と一緒にこの糸引きあめを引いて、好きなやつ引けるかなー!とワクワクしてた気持ちを思い出しました。無くなってしまうのは寂しいです。 

 

▲7 ▼2 

 

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駄菓子は単価が安い割に材料費は高騰しているので、零細では存続は難しいでしょう。 

業界が大手を中心に商標自体を買い取る形で統廃合するくらいしかないのではないかな。 

石川県では地元製菓会社が廃業する業者から商標をいただいて「ビーバー」のようにヒットすることもあるのだし、そう言った取組みがあってもいいと思いますね。 

最近の駄菓子はスーパーやドラッグストア店舗の子供用お菓子コーナーに移ってしまっているので、昔みたいな駄菓子屋に遊びに行くような感覚は薄れてしまってますね。 

 

▲11 ▼2 

 

 

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「梅ジャム」も事業承継を断ったんだよね。製造ノウハウを持ったまま廃業されました。事業継承を断った理由はたいてい「よそで作るのは難しい」「同じ味は出せない」というもの。「私の代で終わりですよ」という職人気質というか気持ちはわかるんだけど、せめて製造手順とかレシピとかを映像に残して国会図書館とかにアーカイブできないもんかな。今なら味の成分とか厳格に数値化できる時代なんだし。ただ「糸引きあめ」は味よりも製造工程の問題だから、類似の品が世に出ても文句は言われないと思う。 

菓子メーカーとしての規模は少し大きくなるけど「ムギムギ」を製造していた愛知県の会社が、菓子製造から撤退する時に商標や製造手順を高知県の会社に譲渡したおかげで、今でもそのままの味が食べられるようになっている。 

今でも時折話題になる「どりこの」も製法を公開していれば幻の飲料にならなかったと思うんだけどね。 

 

▲11 ▼24 

 

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今、駄菓子屋さんがないですものね。おばちゃんとお金のやり取りをして、ちょこっと話すのがすごく楽しかったのに。糸引きあめも楽しかったな。何色が出るかななんてわくわくして。数年前、ある集まりの子どもへの景品菓子で、予算も限られてるから駄菓子はどうかと言ったら、美味しくないから嫌だと言われた。美味しい美味しくないじゃなくて、ただ単に楽しくてわくわくするんだけどなぁと思った記憶がある。私は駄菓子に思い出がいっぱいあります。 

 

▲5 ▼1 

 

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これは残念。 

原料高騰や老朽化による廃業とのことですが、今、このスタイルで販売できるお店はそうないでしょうからいずれはなくなってしまう商品だったのかもしれません。 

しかし10円で30個入りなら、普通の家庭でも難なく購入できますね。箱売りして、家族や友達と当たり外れでも楽しむこともできたのかなと思うと、違う道もあったのではと寂しくなります。 

 

川越の菓子屋横丁にある飴屋さんでは糸引き飴を売っていました。広く流通していないものなら、他でも作られているかもしれません。 

 

▲5 ▼4 

 

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少し前に家族が見つけてくれ、まとめて購入し皆に配ってくれて最後の一袋を大事に子どもたちと食べてます!今日はどの紐にしようかな(^^)とワクワクしながら♪私も小さいときにこの飴が家にあると嬉しかった思い出があります!子どもたちにも同じことが出来て良かった! 

長い期間、ありがとうございました! 

 

▲3 ▼5 

 

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「駄菓子といえば何?」と聞かれたら、一番に思い出すのが『糸引きあめ』と『あたりはずれの入っているのらくろのチューインガム』です。小学生のころの楽しい思い出。 

メーカーの廃業は残念です。 

10~20円で売って、利が出て経済がまわっていたなんてすごいことなのだと、大人になって思います。 

今はどこも巨大な企業でないと経済がまわらないのは、なんと表現したらいいのかわかりませんが残念です。 

 

▲4 ▼2 

 

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駄菓子屋自体が消費税とインボイスの影響で、廃業に追い込まれているんだよね。スーパーやコンビニなら問題無いだろうが、年老いたおばあちゃんの駄菓子屋に卸し業者に領収書を渡す時にインボイスを登録してないと消費税は、卸し業者負担になるからね。子供も少なくなっているしここら辺でって店閉めれば製造業者も売り上げ減るから廃業するだろな。おばあちゃんの駄菓子屋なんかどんだけの売り上げなんだかそこから消費税を国はせしめる訳でしょう。 

 

▲2 ▼1 

 

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子供の射幸心をあおる販売方法 

駄菓子屋の魅力の一つでも有ったよね 

 

今はガチャが射幸心を 

捉えるのに成功してそう 

 

十円玉握りしめて何を買おうかと 

ワクワクするする瞬間 

100円札を持ってる時には 

自分がヒーローの様に成れたように 

500円札が500円玉に変わり 

時代が移り変わっても駄菓子は 

変わらず子供たちを楽しませていた事実 

 

これからの子供達を僕たちは 

どうやって楽しませたらいいのかな? 

 

▲1 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

価格面の問題は大きい・・。 

 

実質、1個数円で製造しないと駄目ですし、手作業で仕分けして袋詰め。 

原材料云々よりも、時間当たりのコストが問題。 

つまり、ご夫婦は低賃金で働いて構わなかったが、新規の人材が育つわけが無かった。 

 

どこも、こういう町工場は、サラリーマンの最低賃金より遥かに低い賃金で稼働してるんですね。 

 

ノスタルジィーに浸り、何時までもそれが有ると思い込んでしまう。 

又、時がたてば、何処かの企業がそれなりの復刻をするかもしれません。 

 

今まで有難うございました。 

PS:一番ハズレ?のイチゴ型が好きでした。 

なんせ、口に入れやすかったですから。 

 

▲2 ▼0 

 

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無理に事業継続もしなくていいと思う。 

その時代の人達にしか作れないものもあって。あくまでも、その時代に必要だったモノだし。 

衛生面も今はうるさいし。 

駄菓子屋自体、寂しいけれども必要性が薄れてて。 

昔はスマホなんて無かったから、学校で遊ぶ約束しそこなったら(毎日宿題に日記があったので)、駄菓子屋行って遊び相手見つけることよくやってたなぁ。途中で遭遇も多かった。 

今はそれがSNSの場ってことなのかな。 

 

いずれ時代が必要とすれば、また復活するよ。だから、作り方とかは文献として一応残しておいて欲しい。 

全く同じものは作れないだろうけど、それもまた一興(この表現でいいか判らないけれども)だと。 

 

▲14 ▼18 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしい。 

20年くらい前かな、学童保育だった時に帰りの会の時は必ずこの飴を配られた。 

どのサイズが出るかわからないワクワク感は今も覚えています。 

大きいのがでて喜ぶ子、それを見ていいな〜という声も全部懐かしい。 

 

なくなるのは寂しいけど、長年お疲れ様でした。 

 

▲22 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃100円玉握って近所の駄菓子屋さんによく通っていた時この糸引き飴をよく買って大きい飴が当たるとすっごく嬉しかった事を懐かしく思っています それが無くなるのは本当に残念です 今でも時々駄菓子屋さんに通って懐かしさに浸っています 

 

▲2 ▼0 

 

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近所のスーパーにも駄菓子屋だという店が軒を出しているが、昭和の駄菓子屋とは商品も売り方も微妙に違うんだよね。記事のアメは紐アメと呼んでいたけど駄菓子屋では当時1回10円。紐アメの他にも黒棒も幅の大きさで当たり外れがあったり、ガムボールの色で景品が付いたりして、駄菓子屋って何かとくじ引きの当たり外れで手に出来るお菓子の大きさが変わるのが当たり前だったんですよ。クジ以外の物は酢イカ、ソースカツとか20~30円する物が多かった気がするね。紐アメの人気が高かったのは、ハズレのイチゴでも長持ちしたから。今一番人気のうまい棒は、私は余り知らないなぁ(歳が・・・)。 

今の駄菓子屋で懐かしいと思ってたまに買うのはカルメ焼きですね。50円でラムネが飲めるのはリッチ層。関係ないけどラムネのフタって逆ネジで簡単に開くよ。今もあるのかな。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

懐かしいですね。 

最近は個人経営の駄菓子屋もほとんど見かけなくなったのもあったと思います。 

数年前になくなった梅ジャムもほとんど一人で七十年続けてきたけど息子らにも引き継がせずに終わらせたし、継承して続けるほど儲けていくのはやはり難しい事ですね。。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子は安いからこその駄菓子。 

それでも、物価が上がれば、 

その物価に合わせて値上げするのは、 

当然のこと。 

一方で、急激な原材料価格の高騰は、 

変化しにくい、させにくい町工場には大打撃なのだろう。 

長い間、それぞれの時代の子どもたちを楽しませてくれてありがとうございました。 

 

▲10 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

本当に大きい飴に繋がっている紐はあるのか?と思いながらも、大きい飴来い!と気合を入れて紐を選んだ記憶があります。 

少子高齢化で子供がドンドン減ってますし、国も本気でそれを止めようとしていませんから、子供向けの産業は今後尻すぼみが見えている。 

長い間お疲れさまでした。 

 

▲68 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋...、子供の頃の良き思い出...。 

子供のお小遣い20~30円を抱きしめて通い、十分満足できる駄菓子に有り付けた。 

今の子供事情は分からないが、少なくとも「スマホをいじっている時点で、昔よりは裕福」だろう。 

今の時代で流行るとは思わない。仕方なく淘汰されていくのだろう。 

しかし、あの伝統は失わないでほしい。 

少なくとも俺が食いたいと思っているし、他にもいるだろう。 

レトロ店や、ノスタルジック店などで「永続してほしい。」 

 

▲15 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃によく食べました 

一度、箱買いして子供達にあげたら喜んで食べてました 

今はお菓子もたくさん種類がありコンビニ等で手軽に買える時代、子供だけで公園で遊ぶことも少ないですし時代的に難しいのかなと思います。寂しいですが今までありがとうございました 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

私が子供の頃住んでいた地域には、個人経営の駄菓子屋が5軒ほどあった。駄菓子屋ではなくても個人商店で、日用品を主に扱っている中、お店の一部に駄菓子コーナーが有るお店など。 

放課後は子どもの社交場になっていましたね。 

現在は個人商店は全て無くなり、駄菓子屋も1軒のみに。学校が終わるとそのまま習い事や塾、学童に行く子が多いから、その駄菓子屋も幼稚園児とママ位しか利用者が居ない。 

週末ショッピングモールの中の駄菓子屋が親子連れで繁盛しているけど、今の子が大人になった時は、駄菓子屋のイメージはショッピングモールなのかな。 

 

▲6 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

政権与党がトヨタが儲かるようにしつこく円安政策を行って内需をないがしろにした結果でもありますね。子供の頃、駄菓子屋で買った覚えがありますがすごく寂しいです。今度の選挙では我々のことをきちんと考えてくれる政党に投票しようと改めて思いました 

 

▲5 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋さん、今は、ホントに見なくなりましたもんね。 

子どもの頃、駄菓子屋さんは、放課後の待ち合わせの場所でした。そして、そこの店主のばあちゃんがよくできた人で‥‥ランドセル持ってる子(下校中)には絶対売らない。学校がまだやってる時間に買いに行っても(ちょっと中学校抜け出して‥‥笑)絶対売ってくれない。と徹底したばあちゃんでした。「俺ら客やで?」って何回、言い合いしたことか(笑)でもテスト良かったって報告したら、ちょっとおまけしてくれたりとか。そんなやりとりを思い出しました。 

先日、帰省した時に見ると、当然その駄菓子屋はなく‥‥寂しい気持ちになりましたね。昭和の思い出です。 

 

▲3 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子屋さん、懐かしい。子供たちがお店にきて、マイペースでお菓子買う時間に笑顔で付き合ってくれていたおばあちゃんやおじいちゃんは大変だったのではないかな?そんなに利益出る商売でもないしね。今、大人になって楽しい時間を過ごせたことに感謝しています。 

 

▲3 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

息子たちの通っていた小学校で、以前バザーがあって私が担当していたダーツコーナーの景品の一つが糸引き飴でした。(ハズレても必ず糸引き飴がもらえる) 

みんな糸引き飴が欲しくて来てくれ、歩いてる子どもたちの口から糸がだらーんって垂れているのを見るのが楽しかったです 

もう糸引き飴、手に入らないんですね。思い出の品になっちゃいました… 

 

▲11 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

手作業で作ってたんだ! 

小さい頃に駄菓子屋さんで買って食べたなぁ。 

私が通ってた駄菓子屋さんもなくなってしまむたけど、今はららぽとかそういうのに駄菓子屋さんみたいなお店入ってますが街にあるのと商業施設にあるのだとなんか違いますよね、 

 

100均いくとこんなものが100円?!私が子供の頃の100均ってどこのか分からない文房具とか謎の雑貨しかなかったのに…なんでも100均で買えるじゃん!となる一方で 

 

お菓子含め食品は本当に高くなってますよね。 

昔は100円で買えたのに…って。 

不思議です。 

 

利益が出ないながらもギリギリまで続けてくださったことに感謝します。 

子供の頃のワクワク感は忘れません。 

 

昔ながらの機械とかも壊れたら後継機種がないものもあったりするので今後こういうことがまた増えるのかな… 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

もう何年も手にした事さえ無いのに、無くなってしまうと聞くととても悲しいです。(売り上げに貢献もしないで何言ってんだ。ですよね) 

小学生の頃、10円玉握って、唯一自分がお店で買えるオヤツでした。 

表面のザラザラした砂糖と、お世辞にも身体に良さそうでは無い飴と。舌も紅く染まり。 

でも、小学生の頃の思い出と共にあります。 

なんかやだ、やだ! 

でも、時代の流れなのか…。 

悲しいです。 

 

▲3 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

駄菓子の売り方が変わってきている以上、大手企業がお祭りをターゲットにして限定販売するとかじゃないと継続は難しいだろう 

今は虫歯になるといって飴自体を控えることも少なくないし、なんなら高齢者のほうがいつでも飴を持っているという印象 

寂しいがこれも時代の流れってやつで仕方がないんだろうな 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

子ども時代の楽しいひと時を支えていただきありがとうございました 

飴自体もごろごろとした大粒で今でも砂糖のざらつきや香りを思い出せます 

飴自体だけでもとてもおいしく、ヒモで遊びながら食べることが子どもにはなんと楽しかったことか 

遊び心あるお菓子をありがとうございました 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃あった駄菓子屋は、今は全てなくなっているが、小遣いもらっての使い道は、ほとんどが駄菓子屋だった。この飴も買ったことはあるが見たのはこの記事の写真が久々で、現物は40年以上見ていない。これも時代の流れで致し方ないことだと思うが、なんとなく寂しさも感じた記事だった。 

 

▲8 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

本当に残念です。頑張って選んでた思い出があります。 

おばあちゃんのお店と呼ぶ店があり、私が大人になったら駄菓子屋をやりたいと本気で思っていました。 

子供の頃の子供の頃から、いとこなど小さい子の面倒を見るのも好きだし、駄菓子が好きで父に連れ言ってもらって50過ぎの今でもどんな駄菓子があったかを覚えています。 

今も昔の駄菓子が好きですが、叶わない夢になってしまいましたね。 

知る人ぞ知る「チョコたん」って飴(から芋飴が棒に刺さってチョコが掛かってる菓子)も無くなっているだろうな… 

 

▲4 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

小さい頃、駄菓子屋さんで大変お世話になりました。 

いちご味はハズレで他の飴を引き当てたらあたりで他駄菓子一個プレゼントの時代でした。 

今の時代駄菓子屋のおばちゃんやおじちゃんと子供との束の間やりとりを継承する店は減っただろうな。懐かしい。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

人生初体験の駄菓子屋の最初の1個目はこれだった気がする。カラフルでキラキラしててでもクジだから何色がでるかわからないドキドキ感がたまらなくて絶対やる!って決めてた。 

最近駄菓子屋自体みないけどこういう体験型の商品もかなり減ったよね。 

 

▲2 ▼0 

 

 

 
 

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