( 311206 )  2025/07/28 04:09:39  
00

1945年9月RAAで「乾杯の歌」を歌う占領軍兵士たち(Keystone / 特派員 / ゲッティイメージズ) 

 

今年、日本は終戦から80年を迎える。敗戦後、占領下におかれた日本で、国主導で占領軍への売春が行われた事実はあまり知られていない。「日本女性を守るために」との名目で戦後2日目の初の閣議で占領軍向けの慰安所設置を決め、約10日後には最初の慰安所が開業した。慰安所は全国へと広がり、やがて「パンパン」と呼ばれる街娼を生んだ。国策だった売春は“性の防波堤”になったのだろうか。占領下の女性の実態を調査してきた近現代女性史の研究者、平井和子さんに聞いた。(文・写真:ジャーナリスト・田中瑠衣子/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 

 

1945年8月15日、天皇はポツダム宣言の受諾と、太平洋戦争の終結を玉音放送で国民に告げた。その2日後、東久邇宮稔彦内閣が成立。同内閣が初閣議で真っ先に取り上げたのは「外国駐屯軍」のための「慰安所」をつくることだった。 

8月18日、内務省は各都道府県警へ「一定の区域に限定し、外国駐屯軍向けの慰安所設置を求める」という秘密通牒を出した。通牒は無線電信で行われた。 

 

<外国駐屯軍慰安施設等整備要領 

三、警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする。 

性的慰安施設 

飲食施設 

娯楽場> 

 

東京で慰安所の設置・運営を任されたのが「特殊慰安施設協会」(Recreation & Amusement Association、RAA)だ。芸妓や飲食店などを扱うサービス業7団体により、8月23日に設立された。 

 

女性を募集するRAAの新聞広告 

 

終戦からわずか3日後。今後の戦後処理もあるなか、政府は国策として外国人向けの売春を進めた。なぜこれほど慰安所開設を急いだのか。占領期の性売買について研究してきた平井和子さんは、過去の日本軍の行いに懸念があったためと指摘する。 

 

「南京事件の旧日本兵による性暴力が頭にあったのだと思います。人数には論争がありますが、日中戦争中の1937年、中国の首都・南京で旧日本軍が一般の人たちを殺害、また略奪や性暴力などをした事件です。自分たちが南京でしたことがブーメランのように戻ってくる恐れがあった。だから急いだのでしょう」 

 

当時警視総監だった坂信弥は、国務大臣・近衛文麿に官邸に呼び出され、「手下に任せないで、君自身でやってくれ」と言われたと、後に雑誌で述べている。 

 

「坂は日中戦争のころ鹿児島県警察部長として、(のちに神風特別攻撃隊の出撃基地となる)鹿屋航空隊基地の近くに慰安所をつくった人です。政府の要請からたった10日ほどで慰安所を開設できたのは戦地で旧日本軍の慰安所をつくってきたベースがあったからでしょう」 

 

 

近現代女性史の研究者・平井和子さん 

 

通牒によると、特殊慰安施設に従事する女性としては「芸妓、公私娼妓(しょうぎ。性売買に携わる女性)、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に」充てると政府は考えていた。その発想には男性から見た女性の“二分化”があると平井さんは言う。 

 

「“良家の子女”(一般女性)を守りたいから、性の防波堤にするのは性売買女性という考えです。でも娼妓たちは最初、外国人を相手にすることを嫌がりました。女性集めを担当した警視庁の係長は遊郭を回って頼み込んだ、と後に雑誌で振り返っています」 

 

だが、慰安所拡大にあたり娼妓だけでは足りなかった。結果的に戦争で疲弊した“素人”の女性たちも初期段階から募集することになった。 

 

「銀座のRAA本部に看板を立て、新聞広告も出しました。調査では広告は北海道から鹿児島まで全国の地方紙で確認できます。衣食住や高給を約束し、前借(ぜんしゃく)にも応じました。最初の募集で集めた女性たちは1360人という記録が残っています」 

 

8月28日、最初の占領軍の慰安所「小町園」が、東京・大森海岸に開業した。記録では上陸一番乗りの占領軍兵士が押し寄せたという。「楽々」「花月」「乙女」……大森海岸には次々と慰安所が開設され、占領軍が駐留する福生や三鷹、立川、調布などにも広がった。東京だけでRAAの慰安所は23カ所に上った。 

 

1945年頃新規開業した「銀座のオアシス」で踊る占領軍兵士と日本人女性(Keystone / 特派員 / ゲッティイメージズ) 

 

全国各地にも都道府県警が設置した慰安所ができた。平井さんが都道府県警の資料などを基に作成した地図では、北海道から鹿児島まで全国にあったことがわかる。開設方法はさまざまだった。 

 

「例えば神奈川は国より先に慰安所をつくることを決めています。『玉音放送』は8月15日正午ですが、警察は午後3時の会議で慰安所設置を確認しました。警察署が自ら女性を集め、運営するノウハウは『神奈川方式』と呼ばれ、全国から視察がきたほどです。占領軍の命令でつくったケースもあり、米側は日本側へ性病管理を厳しく求め、『日米合作』ともいえます」 

 

集められた女性たちにとって性売買は苦行だった。 

 

一日何十人もの兵士の相手をさせられ、自殺した女性もいる。女性たちの声は日本ではほぼ残されていないが、平井さんはGHQ(連合国軍総司令部)民間諜報局の検閲記録から女性たちの手紙を発見した。 

 

<ついにわたしは(売春を)承諾した。最初の二、三日は幸せだった。しかし、その後は悲嘆に暮れている。わたしは1000円の前借契約に束縛され、この拷問から楽になることをはかない望みにしている>(1947年『占領軍治安・諜報月報』第三巻。平井和子訳) 

 

<若い少女の秘密の告白:ここでの実際の状況はわたしが思っていたことと全く反対だ。わたしはこの家が料理屋だと聞いてここへやって来た。しかし、売春宿だった。ルニとわたしはとても残念で毎晩泣いている。この手紙をトイレで書いている。なぜなら、主人がこのことを知ったらわたしをひどく叱るからだ>(1946年『占領軍治安・諜報月報』第一巻。平井和子訳) 

 

 

横須賀の「慰安所」と占領軍兵士たち 

 

慰安所に行って初めて自分の仕事がわかった女性もいることがうかがえる。戦火で家を失い、夫が帰還せず衣服や食べ物に困った女性たちが、家族を養うために応募してきた例が多いと平井さんは言う。 

 

「広島県警史には『白米は毎日四合、油、牛肉、砂糖等物資の面は充分斡旋する』との記述が残っています。原爆により今日の食べ物にも困る中で、このような条件を魅力に感じた女性もいるでしょう」 

 

警察史と新聞で確認できる全国の占領軍「慰安所」(平井和子さん作成) 

 

1946年初頭には全国各地に慰安所が広がった。だが、間もなくそのあり方は変わっていくことになった。 

 

最初の開業から半年後の1946年3月、RAAの慰安所は立ち入り禁止になった。性病が流行したためだ。RAAや各地の慰安所で働いていた女性たちは、街に出て占領兵を相手にする「パンパン」と呼ばれる街娼になっていく。旧遊郭や基地周辺は警察が黙認する性売買地区、いわゆる「赤線」地域になった。 

 

わずか半年で慰安所が閉鎖された背景には、性病以外の理由もあったと平井さんは言う。 

 

「一つはアメリカの新聞記者たちが、日本女性と遊ぶ米兵の記事を本国に送り、ひんしゅくを買ったこと。もう一つは米兵と公然と交際する『パンパン』は『よき占領』を世界にアピールするのに、マイナスだったからです。GHQは、米兵が日本人からどう見られているかの調査を毎月行っていました。それほどアメリカ本国、旧ソ連をはじめとする世界から、そして日本人からの評価を気にしていました」 

 

性病が蔓延しオフリミッツ(立ち入り禁止)になった「慰安所」(フランス軍事博物館蔵、平井和子さん提供) 

 

1953年の厚生省の調査によると、全国の基地周辺には約4万5000人の散娼(組織に属さない娼婦)がいた。ただしこの数は登録し、定期性病検査を受けた女性たちだけで、実際は2倍、3倍の数だったと考えられる。 

 

占領直後と比べ、米兵との関係性にも変化があった。 

 

「占領初期とその後の米兵が違っていたことも関係があると考えています。初期に駐留した米兵たちは、生きるか死ぬかの戦場で生き残り、上陸一番乗りを狙ってきました。勝者である彼らは、敵の女性を戦利品のように扱い、兵士の相手をした女性たちはものすごい性暴力にさらされたと思います。でも1945年12月ぐらいには、初期に来た実戦部隊は帰国し、入れ替わります。軍政学校で占領国民への対応を学んできた兵士たちは、日本女性の目には民主的でレディーファーストに映り、そこに惹かれた女性もいました」 

 

 

占領兵と日本人女性の間に生まれたのが「GIベビー」だ。正確な数は分かっていないが、望まれない誕生もあり、施設に預けられた子もいる。国は1948年に「不良な子孫の出生を防止する」と不妊手術を強いる旧優生保護法をつくった。「産婦人科医が中絶手術をしても堕胎罪にはならない」と“免罪符”がついた法律だ。平井さんは「その背景には民族の純血を守る観点から、占領兵との間の子を出産させないようにするという意図もあります」と話す。 

 

「でも法律ができる前から中絶手術は秘密裏に行われていました。旧満洲からの引き揚げ時に旧ソ連兵の性暴力で妊娠した女性たちに対して、厚生省の指示で『水際作戦』として福岡県の二日市保養所などで行われていたことが知られています。これまで医師らによる女性救済の物語として語られてきましたが、近年は女性たちの痛みに即した報道がなされるようになってきました」 

 

1946年、民主化を進めるGHQの指令で、政府は戦前から続いてきた公娼制度を廃止した。だが、私娼や赤線地帯での売春は続き、女性議員たちが中心になり売春防止法制定の機運が高まる。事業者の強い反対で廃案や否決を繰り返し、ようやく1956年に売春防止法が成立。売買春と売春あっせん業は違法になった。赤線は廃業し、女性たちは仕事を失った。 

 

平井さんは、若い世代にも占領期の性暴力問題を伝えている 

 

平井さんは「売春防止法には大きな問題があります」と指摘する。 

 

「明治以降の国家による女性の性的管理・搾取を廃止したことには意義があります。でも、売買春の禁止をうたいながらも、罰せられるのは事実上『性を売る側』だけ。2022年の法改正まで、条文には女性を『更生』させるといった差別的表現も含まれていました。仕事を失った女性が自立する制度や支援も脆弱でした」 

 

占領下に置かれた日本で、占領兵による日本女性の性被害をなくし、純血を守るという考えから始まった国主導の売春。結局、この国策が戦後の日本にもたらしたものは何だったのか。 

 

「RAA関係者は1960年代の新聞座談会で『占領兵の慰安施設を作らなければレイプがすごく増えただろう』と自己肯定的に振り返っています。しかしそれは逆で、彼らが集めた女性たちは『慰安所』の閉鎖で街頭や基地周辺へ流れ出し、売買春を押し広げました。また、国策として女性を差し出したことは、日本人女性を簡単に、安く、いつでも買える存在だと米兵たちに学ばせてしまった。この態度は女性だけではなく、戦後の日本国家に対する米国の態度と二重写しになります。RAAの起点にある『性的慰安を与えなければ、男性は暴走する』という現代にまで続く『男性神話』が信じられている限り、形を変えてRAAのようなものはつくられていくと思います」 

 

【参考文献】 

『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』平井和子著 

『敗戦と赤線 国策売春の時代』加藤政洋著 

 

 

田中瑠衣子 

ジャーナリスト。北海道新聞、繊維専門紙記者を経てフリーに。 

 

--- 

「 

 

」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。戦後80年が迫る中、戦争当時の記録や戦争体験者の生の声に直接触れる機会は少なくなっています。しかし昨年から続くウクライナ侵攻など、現代社会においても戦争は過去のものとは言えません。こうした悲劇を繰り返さないために、戦争について知るきっかけを提供すべくコンテンツを発信していきます。 

 

 

 
 

IMAGE