( 314573 )  2025/08/09 04:13:02  
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被爆地・広島出身の俳優、綾瀬はるかが、戦後80年の節目にアメリカに渡った。これまで20年間、取材で日本各地をまわり、戦争体験者の貴重な話を聞いてきた綾瀬だが、当時の“敵国”アメリカで戦争体験を聞いたことは余りない。取材を進めると、アメリカではマイノリティーとして差別の対象になっていた日系人と黒人との間に知られざる絆があったことを知る。そして、こうした個人の絆をも引き裂こうとする戦争の残酷な実態、情報操作の恐ろしさを実感した。(TBS/JNN 戦後80年特番「なぜ君は戦争に?」ディレクター・嶋田万佑子) 

 

大谷翔平の活躍に沸くアメリカ・ロサンゼルス。ダウンタウンから車で20分ほどの距離に「Jフラット」と呼ばれる街があったことは、余り知られていない。この地には、100年以上前から、リトルトーキョーで働く日系人が多く暮らしていた。 

 

「Jフラット」で撮影された日系人たちの写真 

 

綾瀬はるかは、Jフラットで生まれ育った98歳のアフリカ系アメリカ人を訪ねた。バーバラ・マーシャル・ウィリアムスさん。80年前はまだ高校生で、バーバラさんの家の両隣には日系人家族が住んでいた。バーバラさんは当時を懐かしむように、微笑みながら話し始めた。 

 

「近所の子どもはみんな空き地や道で一緒に遊んでいました。母はケータリングの仕事をしていて、お客さんに出す食事が余ると、隣のホシザキさんの家に持っていきました。翌日にはホシザキさんが何かをお返しに持ってきます。本当に私たちは家族のようだったんです」 

 

白人が支配的だったアメリカ社会。当時、公共施設の分離や教育機会の制限など、黒人に対しては差別があった。「Jフラット」には日系人のほかにも移民が多く、自然と連帯感が生まれていったと言う。みんなが肩を寄せ合って暮らしていたとバーバラさんは振り返る。 

 

Jフラットで生まれ育ったバーバラ・マーシャル・ウィリアムスさん(98) 

 

しかし、戦争が、バーバラさんと日系人たちとの絆を引き裂こうとする。1942年、アメリカ政府は日系人を敵とみなし「敵性外国人法」を適用、全米各地の強制収容所に送った。その数は12万人以上にも上る。 

 

「私の隣人たちは、まずサンタアニタ競馬場に送られ、馬小屋に住まわされました。あまりにも突然のことで他に受け入れ先がなかったからです。隣人や友人が馬小屋で暮らすことになるなんて、本当に衝撃的で、心が痛みました」 

 

バーバラさんは、日系人たちが収容所に送られる日の朝のことを、鮮明に覚えていた。 

バーバラさんの母は、ベーコンやたまごを焼いて朝食を用意し、出発前の日系人たちにふるまった。 

 

「私は悲しくて涙を流していましたが、日系人たちは本当に毅然としていました。とても落ち着いていました。本当はとても辛かったはずです。家を離れなければならなかったのですから。」 

 

バーバラさんは、涙ながらにそう話した。 

 

 

「Jフラット」の“隣人”を抱くバーバラさん(1940年頃撮影) 

 

日系人たちを隔離したアメリカ政府はさらに、反日プロパガンダを推し進めていく。当時の映画館では、日本人が出っ歯で大きな眼鏡をかけた姿で描かれたアニメが流れた。『GO HOME(国へ帰れ)』や『WHY ARE YOU HERE (なぜアメリカにいるんだ)』というような言葉とともに、日本人はいつも悪役で、必ず殺される側だった。 

アメリカ政府の情報操作とそれに流されていくアメリカの人々…。しかし黒人として、差別されることの残酷さを知るバーバラさんは、こうしたアメリカ国内の空気に深く傷つくとともに、恐怖を感じたと言う。 

 

「心が痛かった。彼らが差別されるのはとても辛いことでしたし、あってはならないことでした。私たちの隣人がいなくなってしまった後、Jフラットに残された私たちはさらに結束を強めました。自分たちも昔のように、奴隷として連れていかれるのではないか、どこかに隔離されるのではないかと思ったのです」 

 

当時を振り返るバーバラさん 

 

1945年8月6日、アメリカは史上初の原爆を投下した。 

 

「新聞に、爆弾が落とされた瞬間や、巨大なキノコ雲の写真が載っていました。その雲はとても大きく、灰が広範囲に広がっていったと書かれていました。原爆が投下されたと知って人々は喜んでいました。でも私は、その爆弾がもたらした壊滅的な被害を思うと、複雑な気持ちでした」 

 

バーバラさんは当時、十分理解することができずにいたと振り返る。原爆で亡くなったのは、Jフラットで共に暮らした日系人たちの家族かもしれない。18歳にとって原爆投下は、理解するには大きすぎる出来事だったのかもしれない。 

そして8月15日、日本が降伏。長かった戦争が終わった。 

 

「人々は終戦を祝い、道路で歓声をあげていましたが、私は到底喜べませんでした」 

 

バーバラさんと向かい合う綾瀬はるか 

 

実はバーバラさん、今年5月に日本旅行から帰ったばかりだった。孫のロビンさんにクルーズ旅行をプレゼントされたのだ。98歳という高齢だが、東京や大阪などを訪れ、大いに楽しんだと言う。日本滞在中のホテルである女性との再会も果たした。 

 

「私と夫は40年以上前から、日本人の学生をホームステイで受け入れてきました。そのときの学生のうちの一人が電車で会いに来てくれたんです。私たちは、もう40年以上、文通を続けてきましたから」 

 

バーバラさんは戦後もずっと、日系人や日本人と、家族のようにして関わり続けてきた。 

 

「(日本人との)違いなんて感じたことはありません。日系人の方々が収容所に向かうとき、集まって朝食をとりました。あたたかなひとときでした。そうして生まれたつながりは簡単に切れるものではありません。私の心はあのころから変わっていません。日系人は私の人生の一部で、家族でもあります。あなたも含めてね」 

 

 

何度も頷きながら聞く綾瀬はるか 

 

包み込むような温かい笑顔でそう話したバーバラさん。綾瀬は何度もうなずきながら、バーバラさんの目を見つめて聞いた。 

 

「国と国との争いが、個人との関係も離れ離れにしてしまう…戦争について、伝えたいことはありますか?」 

 

「人々がなぜ分かり合えないのか、不思議でなりませんでした。今も同じです。人々は分かり合えず、世界中で戦争が起きています。それはとても悲しいことです。人と人は向き合って、話し合い、理解しようとするべきです。今はそういう時代ではなくなってしまったように思いますが」 

 

人と人とのつながりを引き裂こうとする戦争。しかし、それを乗り越えて育まれた絆が確かにあった…。取材を終えて綾瀬は、この20年間に戦争体験者への取材で聞いた「ある言葉」をかみしめていた。 

 

「とても貴重な証言を私たちにのこしてくださったことを心から感謝しています。これまで戦争に関する取材をしてきましたが、戦争を体験した方からお聞きした『あなたたちは戦争を知らない世代だし経験していないから、とにかく考えて想像することが大切だ』という言葉が心に残っています。小さなことかもしれませんが、日々のそういうことが、まず大事だと感じました」 

 

※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュース、noteによる戦後80年プロジェクト「 

 

」の共同連携企画です。記事で紹介した「収容所に送られたアメリカの日系人」についての情報を募集しています。心当たりのある方は「戦後80年 

 

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