( 316548 ) 2025/08/16 05:38:25 0 00 3月に日本高野連から厳重注意処分を受けていたことが判明した広陵高校野球部。同校、堀正和校長は2回戦以降の出場の辞退を表明し、謝罪した(写真:写真:スポーツ報知/アフロ)
野球部の暴力問題に揺れる広陵高校の堀正和校長は8月10日、甲子園球場で会見を開き、2回戦以降の出場辞退を表明した。
野球部では、今年1月に複数の野球部員が下級生の部員に対し暴力をふるう事案が発生し、3月に日本高野連から厳重注意処分を受けていたことが判明している。また、大会中に監督やコーチから暴力を受けたという複数の情報がSNSで拡散され、騒ぎに便乗して寮の爆破予告まで出る事態になった。
■会見で「誹謗中傷」に苦言、炎上に油を注ぐ
だが、会見において「現在、SNS等で発信されている画像や投稿の中には、事実と異なる内容、臆測に基づく投稿、生徒の写真等を報道等から盗用した投稿、関係しない生徒への誹謗中傷」が飛び交う状況を憂慮すると表明し、「生徒および職員の名誉と安全を保護する」ことを強調したことがかえって火に油を注ぐ結果となった。
高校が野球部の暴力問題に対する適切な対処よりも、「SNSによる誹謗中傷から生徒を守る」という側面を打ち出したからである。
早速X(旧Twitter)では、「SNSのせい」がトレンド入りした。それを受けて、広島市議の椋木太一氏は、Xに「SNSのせいにして、学校側が被害者ポジションを取っていると見透かされている証左だ」と投稿。賛同する声が広がった。
■なぜ運動部で「しごき」文化が残るのか
ネット上では「シンプルに犯罪では」「なぜ加害者ではなく被害者が転校に?」などの声も上がっている今回の事件。
まだ、詳細が定かでない部分もあるが、部員間の暴力事案と処分が行われたことは高校側も認めており、かつ野球部の指導体制について抜本的な見直しを図ることなどを配布資料に明記していたことから、相当深刻な問題があったことは疑いないだろう。
「私は、今般の事態を日本のスポーツ史上最大の危機と捉えています」――これは2013年に下村博文文部科学相(当時)が、柔道女子前代表監督らによる暴力行為問題を受けて出したメッセージであるが、10年以上も前に「日本のスポーツ史上最大の危機」と文科相をして言わしめた出来事を経ても、なぜ暴力を容認する文化が温存され続けるのだろうか。
スポーツの分野ではびこっている暴力やしごきは必ずと言っていいほど監督やコーチなどの指導者の言動を通じて、選手など下位の者に継承されていく。
とりわけチームスポーツでは、「呼吸を合わせる」という言葉に象徴的なように、身体を同調させることが非常に重要になる。これが連帯責任といったお馴染みの考え方と結び付き、独特の文化を形成する。
そこでは、選手は指導者に全幅の信頼を寄せ、絶対的に従うことが前提になっているため、体罰を含むその指導方針をすべて肯定的に受容する傾向が生じる。特に過去の勝率など実績がある指導者ほどそうなる傾向が強い。
体罰=暴力が場合によっては容認される文化の影響下では、それが選手間においても当然のようにコミュニケーションの手段となるのだ。そして、恐るべきことであるが、その場合、一般社会の視点は嘘のように消え失せるのである。
■一般社会より軍隊に近い環境だ
これはよく考えれば日本の歴史において軍隊が培ってきた文化に近い。歴史学者の大濱徹也は、かつての日本の軍隊について、「自己を中心とする絶対的世界をきずいていた」と論じている。「そこでは、一般の世俗社会における価値観や通念が通用するはずもなく、軍がきずいた階級序列下の価値が何よりも重視された」と(以下、『天皇の軍隊』講談社学術文庫)。
一般社会では、暴行や傷害事件となり得ることも、一歩兵営をくぐれば指導という名の下に一切が容認された。大濱は、日露戦争後に入隊した初年兵の回想を踏まえて、軍隊内ではありとあらゆるリンチが横行していたと指摘し、日清戦争から第2次世界大戦にかけて私的制裁が下士官の当然の権利とされていく過程があったと述べている。以下に初年兵の回想を引用する。
「演習中も集合が遅いとか、整頓が悪いとかいうことで営庭から厩舎を3、4周の馳け足を懲罰として課せられたり、ときには隊列に伍していて、姿勢が悪いとか、銃の担ぎ方がいけないとかで、いきなりビンタに見舞れたり、突き飛ばされたりもしたが、それらはまだ序の口で、特に内務において無茶苦茶な刑罰をうけた。 消灯後の闇の中で不動の姿勢をとらされている自分の顔面をビシャリ、ビシャリと往復ビンタで平手打ちされる。その瞬間、眼から火が出て、暗闇がパッと明るく見える感じがする」(同前)
このような理不尽極まりない暴力は決して過去の遺物などではない。次に示す2つの文章を読んでみてほしい。
「高校時代は(指導者に)強く殴られて鼻の骨が折れた部員もいました。他の高校との練習試合では選手がコーチから殴られ、引きずられ、熱いコーヒーをかけられているのを目にしました。そのように威圧的な指導はどの高校でも目にする機会は多かったです」
「毎日誰かしら殴られてたし、試合中とかも……。本当にどれだけ殴られたかってくらい殴られた。私がキャプテンだったのもある。……髪の毛引っ張られたり、蹴られたりもした。……(顔)が殴られすぎて青くなって。……血が出たことも」
いずれも国際的人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチが取りまとめた報告書に記載されていたインタビュー調査の証言である。1つ目は、1990年代後半に千葉県の高校でバスケ部に所属していた元プロバスケットボール選手の男性、2つ目は、2000年代半ばから後半にかけて愛知県の高校でキャプテンをしていた元プロバスケットボール選手の女性だ(以上、「数えきれないほど叩かれて」日本のスポーツにおける子どもの虐待/2020年 07月 20日/HRW)。
大濱のいう「一般の世俗社会における価値観や通念」が及ばない「絶対的世界」が支配していたことはもちろんだが、暴力の正当化に「愛の鞭」という言葉を用いていたことも、前述の軍隊の回想と共通している。政治学者の丸山眞男は、このような極めて凄惨な暴力の上意下達を「抑圧の移譲」と呼んだ(古矢旬編・注『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫)。
「日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順次移譲して行くことによって全体のバランスが保持されているような体系」であり、そこにおいては本人の自由な主体的意識は存在せず、自分の行動を制約する良心は機能していない。自分が上の者にされた振る舞いを今度は自分が下の者にするのである。
これがただの組織と異なるのは、激しい運動やトレーニングなどの延長線上で身体に染み込まされる形で「移譲」されることだ。これこそが体罰=暴力の実相といえる。
このような身体性を共有したメンバーは、「苦楽をともにする」の「苦」に、体罰も包摂されてしまうため、その暴力性のインパクトが緩和され、むしろ鈍感になり得る。
■閉鎖的な環境が問題を根深くする
しかも、学校という空間そのものが「自己を中心とする絶対的世界」に陥りやすい。ブラック校則などがまさしくそれを体現しているが、ここには一般社会における法律や常識よりも自分たちの“掟”が優越するという確信がある。
そうなると、掟を破った個人に対する度が過ぎた制裁についても許容されることになる。それがSNSを介して初めて暴かれたという経緯が意味するところは大きい。
同様の聖域は、学校だけではなく、さまざまな企業や団体においても生じ得る。家族などの単位も例外ではない。だが、身体性がかかわるようなものは、強い同調性が働きやすく離脱が難しい面がある。
繰り返すが、一般社会で犯罪行為として認識される出来事が総じて不問に付されるのは、これまで紹介してきた私的制裁を正当なものとして捉える信仰共同体を生きているからにほかならない。
わたしたちは今回の不祥事をスポーツ特有の事象とみなしやすいが、ここには日本社会に巣くっている普遍的な問題が露呈していることをもっと認識すべきだろう。
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真鍋 厚 :評論家、著述家
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