( 317143 ) 2025/08/18 06:27:26 0 00 新島(画像:海上保安庁)
かつて東京の若者が夏の思い出を作るために大勢押し寄せるスポットがふたつあった。山は山梨県の清里、海は東京都の新島だ。廃墟となった建物が残り、今も話題になる清里に比べ、新島は伊豆諸島の離島という立地もあってか、あまり顧みられていない。あのブームは一体何だったのか。改めて振り返ってみよう。
新島は伊豆諸島に属し、東京都新島村の行政区画にある島である。東京から南へ約160km、静岡県下田市からは南東に約36kmの距離に位置する。比較的本州に近いが、豊かな自然環境が保たれている。空気は清浄で、星空や海の美しさは首都圏とは比べ物にならない。気候は年間を通じて温暖であり、冬には「西ん風」と呼ばれる強い西風が吹くことが多い。
新島は約1万7000年前の噴火で形成された火山島だ。最高地点は宮塚山の標高432mである。最新の噴火は886年に起こり、島の南半分の向山を形成した。地震活動も活発で、1991(平成3)年や2000年には群発地震による被害が出たが、インフラは復旧している。島の地質は白く美しい流紋岩が多く、向山で採掘される抗火石は建築や装飾に珍重される。
周辺海域は黒潮の影響を受け、多様な海洋生物が集まる。セミクジラやマッコウクジラ、ザトウクジラ、ウミガメ、イルカなど希少動物が見られ、1989年には国内初のキタゾウアザラシも確認された。かつてはニホンアシカの繁殖地でもあった。
歴史は縄文時代までさかのぼる。江戸時代から明治初期にかけては政治犯の流刑地として使われた。島には独自の方言や伝統儀式、民話や妖怪伝説が根付いている。流人墓地や刑場跡など歴史の痕跡も多い。
交通は東海汽船の大型貨客船や高速ジェット船が東京や熱海と新島を結ぶ。隣接する島々との連絡には村営連絡船が活躍する。空路では新中央航空のドルニエ228型機が調布飛行場と結び、所要時間は約30分だ。
産業は漁業、農業、観光が中心である。漁業ではサバやイセエビ、トビウオなどが水揚げされ、名産のくさやも知られる。農業はアシタバや芋の栽培が盛んで、焼酎やワインなど加工品も生産されている。観光ではサーフィンが盛んで、世界的に有名な羽伏浦海岸ではプロの大会も開かれている。海水浴やキャンプ、無料温泉施設も人気だ。
観光スポットには白ママ断崖、流人墓地、日蓮宗三松山長榮寺、モヤイ像、新島村博物館、新島ガラスアートセンターなどがある。通信環境も整備され、2018年には光ファイバーが開通した。携帯電話はNTTドコモとソフトバンクの利用が中心で、一部山間部ではauが圏外となる。
新島への所要時間(画像:東海汽船)
新島が夏になると若者が集まる島となった歴史は古く、昭和40年代から始まったとされる。発端は定かでないが、広い砂浜にサーファーが集まり、女性誌や若者向け雑誌で紹介されたことで若者がさらに増えた。
新島の繁栄は清里と並び、バブル景気期のものと誤解されがちだが、実際は長期間にわたって続いていた。竹芝桟橋(東京都港区)を8時30分(ジェット船)、23時(大型客船)に出港する東海汽船の船に乗れば、ひと晩で新島に到着する(7月19日~8月24日)。当時は高校生でも努力してお金を貯めれば行ける、いわば“夢の島”だった。
当時の若者にとっての夢は出会いだった。今ではやや懐かしい価値観かもしれないが、繁栄期の新島は
「ナンパ島」
とも呼ばれた。若い男女が恋人探しのために友人と連れ立って訪れる場所だったのだ。
男女が積極的に恋人を求めて行動するスタイルはバブル期にピークを迎えたが、新島はその10年以上前から、恋人を求める若者の聖地だった。
ディスコのイメージ(画像:写真AC)
戦後史を見ると、若者が政治に情熱を注いだ学生運動の時代は1970年代初頭で終わった。その後、数年の停滞期を経て1980年代に入り、恋愛が若者にとって最大の関心事となった。
新島のブームを見ると、1970年代中盤にはすでに恋愛を重視する若者が現れていたことがわかる。彼らは竹芝桟橋を出発した時点で盛り上がっていた。
当時の様子は『週刊サンケイ』1977(昭和42)年9月1日号に記録されている。若者が持ち込んだラジカセからは流行歌やロックが大音量で流れていた。船内の騒音は80デシベルを超えた。80デシベルは
・地下鉄や電車の車内 ・ピアノの音
と同程度の大きさである。ポニーテールの若い女性が目立ち、ロマンチックなムードとはかけ離れた賑わいだった。
出会いへの期待感と友人同士の旅行の気楽さ、船での一泊という非日常の興奮が重なり、若者たちは盛り上がっていた。迎える島も単なる鄙びた離島ではなかった。ディスコやビヤガーデンがあり、完全なリゾート地として機能していた。
当時の新島の人口は約2500人(2025年8月時点では2364人)だったが、夏季には10万人の観光客が訪れた。これは夏の短期間に集中したもので、「混雑」という言葉だけでは表現できない賑わいだった。
夜になると若者のテンションはさらに上がり、砂浜では自然発生的に花火が打ち上げられた。観光振興のためではなく、若者たちが勝手に始めたものだった。
砂浜に続く道沿いにはディスコやビヤガーデンに加え、若者向けの店が軒を連ねていた。女性が歩くだけで頻繁に声をかけられる光景は、現代の日本では想像しにくいものだった。
田代まさし『新島の伝説』(画像:エピックレコードジャパン)
1986(昭和61)年にリリースされたシングル『新島の伝説』で、新島の賑わいが再び話題となった。歌ったのは田代まさし。作詞は秋元康、作曲は鈴木雅之という豪華な制作陣が揃った。歌詞は、新島に行けばひと夏のアバンチュールがあり、大人になれるという内容だ。YouTubeでも聞ける。
男女が多く集まるため、出会いのチャンスは豊富だった。インターネットのない時代、口コミや雑誌記事を頼りに若者は想像力を膨らませた。特に高校生は必死にアルバイトに励み、新島を目指した。単なる努力ではなく、親を説得する苦労もあった。
冷静に考えれば、一瞬で恋に落ちる相手と出会うのは難しい。しかし、多くの若者が「もしかしたら」と期待し、必死に挑んだ。現代の冷笑の中でも、かつて熱く燃えた若者たちを誰も笑えない。
新島(画像:写真AC)
かつて新島が若者に人気だった理由は、当時の社会の仕組みや価値観が大きく関わっている。まず、情報技術が十分に発達していなかったことがある。スマートフォンやインターネットがなかったため、情報は口コミや雑誌、口伝えに限られていた。このため、若者の想像力が刺激され、実際よりも魅力的なイメージが広がった。情報があふれる今とは違い、場所の神秘さが人々を引きつけたのだ。
当時の経済は高度成長期の影響を受けており、努力すれば報われるという期待が強かった。高校生でもアルバイトをして新島に行ける「手の届く夢」が存在した。この点は、現在の経済の不安定さや若者の収入減少とは大きく異なる。今は経済的な制約が、若者の自由な移動や旅行への投資を難しくしている。
家族や地域の価値観も異なっていた。かつては親世代も、若者の外出や恋愛に対して比較的寛容だった。そのため、若者は自由に行動し、多様な人間関係を作ることができた。現代は家族構造の変化や都市化の進展で、若者の孤立感が増えている。恋愛や交流の場もオンラインに移り、実際の出会いの場は減っている。ナンパ文化の衰退はその一例である。
交通インフラは発展し、離島へのアクセスはよくなった。しかし、若者の価値観の変化で、多くの人が同じ場所に集まる行動は減っている。多様な余暇の選択肢や消費の変化が、特定の場所に集中する経済効果を小さくしている。このことは地域観光の分散化を促すが、一方で大量集客による経済活性化の持続可能性には疑問も生じている。
これらのことから、新島のかつてのにぎわいは、当時の社会構造や経済状況、価値観、技術環境が重なって起きた現象だとわかる。現代で同じようなブームを作るには、交通や情報インフラだけでなく、若者の経済的安定や自由度、実際の交流の場づくりなど、多くの課題を同時に解決する必要がある。新島の歴史は、社会や経済の変化に対応した地域活性化や若者の価値観の見直しに向けた重要なヒントを与えている。
大島とおる(離島・へき地ライター)
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