( 317225 ) 2025/08/19 02:59:49 2 00 街の裸婦像は時代にそぐわない? 撤去の動き、各地で…小学生「見ていて恥ずかしくなる」読売新聞オンライン 8/18(月) 7:14 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/5ff1bc59e8f4fff9c506dbeb8b401decfbc905b5 |
( 317228 ) 2025/08/19 02:59:49 0 00 中央公園に設置されている少女の裸像(高松市で)=枡田直也撮影
公園や駅前、橋上にある裸婦像が、公共の場にふさわしくないとして、自治体が撤去する動きが相次いでいる。裸婦像は戦後に撤去された軍人像に代わり、「平和の象徴」として全国各地に建てられたが、「時代にそぐわない」「美術館に展示すべきだ」との指摘も出ている。(高松総局 黒川絵理)
高松市中心部にある市中央公園。約3・5ヘクタールの園内には、市出身の文豪・菊池寛や読売巨人軍の名監督・水原茂氏ら計31体の像などが設置されている。その中には、少女2人が向かい合って立つ裸像もある。
市によると、1989年に地元のライオンズクラブから寄贈された。2023年以降、同園の再整備計画を検討してきた有識者らの会合で「時代にそぐわないモニュメントがある」と指摘され、校外学習で訪れた小学生からも「見ていて恥ずかしくなる」との意見が出た。
市は「人々の価値観が変化しており、児童の裸像を公共空間で不特定多数が目にするのは望ましくない」と判断。8月下旬に始まる再整備工事で撤去する方針という。
一方、少女の裸像の作者で、彫刻家の阿部誠一さん(94)(愛媛県今治市)は読売新聞の取材に「撤去は残念だ」と語った。作品名は「女の子・二人」で、1988年の瀬戸大橋開通を記念して制作した。阿部さんは「裸像はみずみずしい命そのもので、橋で成長する四国・本州地域の美しさを表現した。園内に残すべきだと思う」と話した。市から撤去についての連絡はないという。
十和田湖畔に建つ乙女の像。高村光太郎の作品(青森県十和田市)
全国の記念碑を研究する亜細亜大の高山陽子教授によると、戦前は軍人や偉人の像が公共空間に建てられたが、戦中の金属不足や戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の方針で撤去された。代わりに登場したのが裸婦像だった。1951年に東京都千代田区に置かれた「平和の群像」が国内の公共空間で初めての裸婦像とされ、その後、平和や愛の象徴として各地に広まったという。
高山教授は「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」と話す。
女性の裸像の設置場所を巡っては、他の地域でも見直しが進んでいる。
兵庫県宝塚市にある宝塚大橋には、手のひらの上で裸の女性が踊る像が設置されていた。橋の改修工事に伴い、2021年に撤去され、元の場所に戻すかどうかが議論になった。橋を管理する県は「見たくないとの意見が一定数ある」として設置しない方針を決定。土木事務所で保管している。
静岡市では、中心部の駿府城公園周辺に女性や少女の裸像が7体設置され、静岡駅前広場にもフランスの画家・ルノワールの裸婦像2体がある。
難波喬司市長は昨年12月の記者会見で「市内に裸婦像が多すぎる」と語った上で、「しっかり鑑賞できる美術館などに置くのが適切ではないか」と述べた。市は有識者らに意見を求めており、対応を検討している。
神戸大の宮下規久朗教授(美術史)は「近年、児童の裸に対する社会の目が厳しくなっている一方で、設置から数十年経(た)ち、風景に同化している裸像もある。市民から意見を募り、撤去の是非を慎重に判断すべきだ」と語る。
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( 317227 ) 2025/08/19 02:59:49 1 00 この議論では、公共の場に設置された裸婦像の位置づけとその受容について、様々な意見が飛び交っています。
1. **公共の場と私的空間の区別**: 一部の人々は、裸婦像は美術館のような特定の場所に設置されるべきだと主張しています。
2. **文化的感受性の変化**: 時代とともに価値観が変わることは自然であり、裸婦像が公共の場に設置されることが不適切になってきたという意見も見られます。
3. **異なる視点の尊重**: 同時に、裸婦像は美の象徴や生命力を表現するものとして称賛される一方で、個人が持つ異なる感覚を尊重し、意見を反映した判断が必要だという意見も多く見受けられます。
4. **歴史的・文化的背景**: 日本の文化や歴史における裸婦像の意義についても議論があり、現在の感覚だけで撤去することには疑問を持つ人もいます。
5. **アート教育の重要性**: 芸術作品としての価値を理解するためには、教育が重要であるとの意見もあります。
これらの意見を基に、公共の場での裸婦像の設置やその取り扱いについては、文化的・歴史的視点を尊重しつつ、現代の多様な価値観を考慮していくことが求められていると言えます。 | ( 317229 ) 2025/08/19 02:59:49 0 00 =+=+=+=+=
アメリカに20年とドイツに3年住んでいた。 私はこの「日本では裸婦像が子どもも見る公共の場に設置されている」という状況を、アメリカに住んでいる時の日本旅行記のテレビ番組の中で、その案内人が驚いているのを観て初めて意識した。 それからはアメリカやドイツに裸婦像ってないかな。。と時々目を凝らして歩いたりしたが、確かに見かけなかったかもしれない。 比較して美術館にはとても多い。 うーん。。 ただ、個人的には、だからなんだ?と思う。 最近は「日本ファースト」ではないが、日本人を最も大事にすると同時に、その思想や思考や慣習だって、これからは日本人が自信を持って自分達でいろいろな価値観を決めれば良い。 違うか? こんな小さな話題だって、直ぐに「欧米では。。」となる日本。 日本人ファーストの前に、先ずは日本人の独自の物事の指標を構築する事が先ではないか? ちなみに欧米の指標の基本はキリスト教だよ。
▲20153 ▼2804
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時代と共に人々の感性は変わるものですが、私は少し大げさだと感じます。昔は、日活ロマンポルノの看板が通学路にあっても、特に問題になることはありませんでした。当時の社会には、そうした表現と日常の風景を切り離して受け入れる寛容さがあったように思います。
平和を願って建てられた芸術作品としての裸婦像を、性的な視点だけで判断し、撤去するのは、時代の流れに乗りすぎているのではないでしょうか。公共の場にある芸術の価値を、もう少し広い視野で考えるべきだと思います。
▲187 ▼106
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それこそ海外はキリスト教の影響で、美術館の絵や彫刻の一部に布をかけて隠す、という展示方法になったこともありますね。ほとんどの場合、彫刻の裸婦像は女性らしい曲線の表現はあれど、肉感的な感じはあまりなく、思春期の子が多少気にする程度で、最近のフィクションのほうがよほど性的な表現に感じます。どちらかと言えば、銅の高騰で蛇口まで盗まれるほどですので、窃盗を心配した方がいいような気はします。
▲4055 ▼371
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なんだか寂しいです。子どもの頃なんとも思わなかった派なので、今はそこまでしないといけないのかと思います。性的なことを想像し犯罪につながることが実は昔からあって、最近明るみになりだしたのか、色々なよくない刺激が増えてきたせいで、こんなに変えなきゃいけなくなってしまったのか。 昨日たまたま久しぶりのドラマを見ていて、これ再放送ないのは、また、今の時代にそぐわないからなのか、ふと考えました。そうやってドラマも見せれるものが減ってきたせいか、ドラマは昔の方が断然面白いです。 こんな感じで、時代の流れで隠さなきゃいけないものが増えていくんですね。
▲507 ▼199
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私は公共の場の裸婦像を気まずく感じていた一人ですが、その中でも「躍動感の表現」のようなアクロバティックなポーズの裸婦像に辟易していました。
芸術と言えば聞こえはいいが、もしそれが、躍動感あふれるポーズのたくましい男性の裸体像でだったら、男性は恥ずかしさを感じないのか…と思います。 設置するなら場所を選んでほしいです。
▲85 ▼13
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「命の瑞々しさ」や「平和」の象徴として裸婦像がふさわしい、という発想は賛否あると思う(どちらとも言えない)が、
裸婦像をじっくり見ている男性がいたら「変質者かも」と周囲の主に女性が思うような社会にはなっていると思う。
芸術作品をじっくり味わうために、そう言う外野の雑音に邪魔されないように、美術館や博物館の敷地内に限定するなどの対応が必要かも。
▲4887 ▼767
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どっちでもいいかな、と思ってしまいました。どうでもいいではなくて「美術作品なのだから公の場にあってもいい」とも思うし「子どもが戸惑う(恥ずかしい、嫌がる)なら撤去」という判断もありと思う。 強いて言うなら生活の中で美術作品に触れることができるのはいいことなので、裸婦像を見て恥ずかしがったり、反射的ににやけてしまったりする子どもの当然の反応を、大人がちゃんと受け止めてあげればいいのでは。
▲3450 ▼491
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芸術の域に昇華された像として、また「豊かさ」「情緒の解放」「平和」などの象徴的な意味を帯びるものとして、さまざまな彫刻家の裸婦像を公共空間に設置する一定の傾向があったのではないかと考えます。
しかし、裸婦像のもつ象徴的な意味は多岐にわたっていて、 当初重く見ていた意味よりも、別の意味をよみとる傾向が強まったことがあると思う。
撤去するかどうかは、外国の公共空間のありように合わせる必要はないと思います。住民の方、その場所を大切に思ってきた方、性別を問わず裸婦の彫刻に(性的にではなく)癒された経験のある方、他の像がよりふさわしいと思ってきた方など、意見を集約して決めてほしい。
▲298 ▼44
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時代と共に価値観が変わるのは仕方がない物の、像としての価値は変わらないかむしろ高いと思います。 しかるべき美術館を設けて在りし日の写真と共に作者と当時の制作に携わった人の思いを後世に残す様にしてほしいとも思いますし、こういうのは国立でするべき案件だとも思います。
絶対に倉庫の中で適当保管を続けてどさくさに紛れて廃棄して、もう処分しちゃいましたごめんなさいで終わらせようなんて考えないでほしいと思いますし、それをさせない様に当該地域の識者の方には運動をお願いしたいなと思います。
▲1386 ▼192
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子供の頃は恥ずかしく思っていましたが、大人になると美しいなと思ったりしたし、服を着ていると時代性が出てしまうので、裸なのが普遍的な美なんだろうなと思うようになりました。 子供が恥ずかしがるのは今も昔もだと思いますが、臭いものに蓋をするのではなく、裸の人と裸像は違うということや、何を表現しているのかなどを言葉で伝えていくことが文化なのではないかなと思います。
▲1803 ▼379
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もうかなり前、まだCATVで放送大学が見れてた頃に美術の講義でこれを扱っていた女性の教授がいらっしゃいました。「あぁ、そういう見方もあるのか」と感じると同時に、一度そういう見方をしてしまうと難しいだろうなと感じました。この記事を読んで、アート作品を見ようという意識がない時、あるいはそもそもそういう意識がない人もいる公共の場には合わないものになってきたのかなと感じました。
▲1419 ▼187
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裸体の像が性的なものとは思わないが、昔に比べ漁師町などでもリアルな裸体を目にすることは減ったと思う。だから公園などの裸体像に対しても、見慣れない、そぐわないという感覚かと思う。 地元には若い男性の裸体像が公共機関の庭にあったけれど、寒そう、可哀想と女児らが言ってた。それなら屋内に置いてあげたいという気持ちも分かる。
▲1131 ▼151
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別に時代の流れとかでなく、昔からなんとなく裸像を見ると居心地悪く感じていたという人、少なくないのでは。ただ「これが芸術です」と言われると自分が無粋で不勉強なようで、声をあげにくかった。
芸術としての裸像は理解できる。服を着せると、一気に時代や国や年齢などの属性が付与されてしまい、純粋に生命を表現しにくくなる。 ただ、公共の場には一種の無難さ、誰でも直視できることも重要な要件では。誰でもいつでも楽しめるものであってほしい。
▲860 ▼84
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裸の男性像は力強さなど芸術性はあると思いますが街中では見かけません。美術館がほとんどかと。ずっと思っていたけど女性像もなんで裸?平和の象徴がなんで全裸の女性なのか、服を着ていてもいいと思うけど。裸の彫像は体のパーツが撫でられてツルツルになっている事がありますよね。私は美術館展示が望ましいと思います。男女の裸の像は街中で突然見たくないです。 裸婦が美しいでしょ?平和でしょ?と押し付けられているので。服を着た女性像では平和の象徴にならないのって芸術家の表現力の限界なのでは?
▲1010 ▼163
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子供の頃から「なんで銅像だったらハダカが許されるのだろう?」と思っていました。欧米云々はどうでも良いですが、観ていてドギマギするような像が普通の日常の景色に在る日本って面白いですよね(しかもほとんど若い女性裸像)。同時に不愉快に思ってきた人もいるでしょう。 美術館におさめておくのが妥当かと思います。
▲957 ▼144
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近所の公園にも裸婦像がいくつかあります。 犬の散歩で犬が良くそこで立ち止まってしまうので仕方なくというかじっくり見てしまいます。何というか、やっぱり時代と合わないなぁってみんな思ってるだろうな、このポーズは何を表したいのかなかな…なんてことを都度思います。 だって、なんで女の人の裸が銅像や石像なら公園に置いてオッケーなんでしょね。芸術家さんには申し訳ないが裸婦像は美術館でじっくりその素晴らしさをわかる人に見てもらったほうが良くないですかね。恥ずかしいとか言わない方々に見ていただいた方がよっぽどいいかと。
時代とは言っても、私は子供の頃から何十年も恥ずかしい気持ちで裸婦像の前を通ってましたよ。
▲906 ▼192
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社会の不満が蓄積し、正義や道徳の名のもとに叩けるものを皆探している。 大きな社会の変革期、明治の初め、廃仏毀釈の時には、民衆も一緒になって寺を襲い、貴重な仏像が破壊され、燃やされた。 今回の撤去はそこまで過激でないものの、成功体験を目にした市民からの苦情はどんどん増え、裸婦像撤去の動きはゆるく全国に伝播していくだろう。 その際にはどうか作品を雑に扱わず、いつか日の目が見えるその日まで丁寧に保管してもらいたい。
▲743 ▼135
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制作者や設置側にそういう意図が無かったのは確かなんだと思うが、目にする側の印象はまた別だろうし、更に街なかで目にする彫刻で男性の裸体像の方が少ないのはどうした訳か、とも思う。男性像も数はあるけど、古代ギリシャ彫刻のような古典的作品を除くと大体は着衣だし。なぜか女性は裸体像が多く、女性から見れば多少なりとも気恥ずかしいものなのだが(子供の裸体像にも言える)、それを“芸術、生命の美しさ”と言いくるめられてきたような気もする。理想的に均整のとれた肉体美やその生命力を表現するなら性別に関係ないよねと思うのだが。また子供の無垢な存在感を表現する為だから裸体、というのも何だか分かるようで分からない。 時代というか、長らく口に出せずにいた“モヤモヤ”をやっと言える様になってきたんだと思うな。
▲198 ▼21
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時代の流れで価値観が変わるのならば、仕方ない部分もあるのかなと思います。 一方で、公共の場で気軽に通りすがりに芸術作品を観ることが出来るのは貴重なふれあいの機会でもある。大衆の目に留まる箇所にあるものは、配慮は十分に必要と思うが、触れる機会そのものまでを奪うようなことにはならないように、撤去後に代替の作品を置くなど、そういう配慮もしてほしいです。
▲172 ▼47
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40代だけど、子供の頃からとても違和感がありました。 こういった彫像って服を着てるのより裸の方が多いんじゃ?と思うほど数が多いように思います。(実際はどうかは別として) 設置場所にちなんでいるなど文化的背景があるのならかまわないと思うけど、場所的にも関係なくて唐突に置かれているものとか、なんで?とか思ってました。 これって昔コンビニでアダルトな雑誌が平然と売られていたりしたのにも意識的には同じように思う。 絵画にも裸を描いたものもあるけれど、多くの人が行き交う外にある彫像とは違いますしね。 「最近は何でもかんでも禁止されていく」と文句を言う人多そうだし、まあそういうの多いけど、これに関しては感覚的に違和感や不快感を抱く気持ちは分かるように思います。
▲233 ▼42
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「アート」として捉えてもらう為なら、やはり美術館に展示されるのが好ましいかと。 公共の場に置かれるという事はその分色んな視点で見る人が多いだろうから、恥ずかしい、卑猥、等マイナスイメージに捉えられる事があるのも仕方がないと思う。
個人的な意見としては、裸婦像が街中にあるのを見たからといって何とも思わないが、意味合いが伝わる置かれ方で無いのであれば別に無くても良いと思う。
▲87 ▼12
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最近、今までそこにあったものが、現在の考えで変えられることが多くなっているように思います。今に始まったことではないかもしれませんが、公園の遊具が安全面から撤去されたり。私が子供の頃、公共の場所に置かれた裸婦像やヌードが出てくる映画がテレビで放送された時、あぁ綺麗だなぁ、美しいなぁと思って見た記憶がありますが、そう思う人ばかりではないんですね。裸婦像を管理している人が、撤去するか否かを検討し、告知をした上で撤去するなり置くなりすればいかがでしょうか、
▲429 ▼143
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公共の場っていうのは、時代にそぐわなくなったと感じます。 設置したときの考え・思いや芸術性も分かりますが、裸婦の絵画を公共の場に飾るかと言われればノーでしょう。銅像も同じではないでしょうか。 でも、有名な彫刻家が作られた作品も多いでしょうから、美術館等でみたい人が見れる様に、展示できればよいですね。
▲30 ▼5
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駅前にも女性の裸像があるし、結構あちこちに見かけますね。 言われてみれば確かに女性の裸像があちこちにあるのは恥ずかしく思う人がいるのも納得できます。 芸術作品云々より女性の裸像ですからね。じっと眺めていたりしたら変に思われるでしょうし、ない方が落ち着くような気がします。小学生の率直な感想でしょう。
▲248 ▼34
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芸術の観点から見ると、裸像は長い歴史を持つ芸術表現の一つであり、人間の美しさや生命力、感情の豊かさを象徴するものです。しかし、現代社会では文化的背景や倫理観の変化により、公共空間での受容度が異なってきています。
芸術作品はその時代の価値観や美意識を反映するものであり、議論が生まれること自体が社会の成熟を示しています。作品の意義を理解するためには、その芸術的価値だけでなく、設置場所や社会的文脈も考慮する必要があります。市民の意見を尊重しつつ、教育的な視点から芸術の意義を伝える努力も重要です。
▲107 ▼38
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昔、地元の街の裸婦像にブラジャーを着用されられるいたずら?をされたという話を思い出しました。想像しただけでもブラがあると生々しくて途端に卑猥になりますね。 芸術作品としておいてあるのでしょうが、わざわざ街に置くことはないだろうと常々思っていました。なぜ裸婦?なぜ男性ではない?なぜ動物ではない?私は動物の像があればいいのにと思います。私は小便小僧も違和感を感じます。裸の像は風雨にさらされるところではなくて、美術館でじっくり見たいです。
▲223 ▼30
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肝心の映画人や画家など芸術に関わる人間が芸術だと言いながら、個人的欲望を満たすような行為に走った事例が近年多く報じられているのも一因かと思います。 やはりそのような仕事に関わる人間こそより慎重であるべきかと。 個人的にこのような事態は残念ですが、いつか日常に戻ってきて文化的成熟を感じさせてほしいと思います。
▲141 ▼31
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公共の場に置かれている裸婦像は日本特有のものであると思う。 欧米やアジア圏では宗教的な傾向から裸婦像を設置していないが、性的文化がおおらかで寛容な古代ギリシャでは男女共に裸の石像がそこかしこに設置されていた。 江戸時代までの日本も古代ギリシャまでとはいかないが、かなり性に対してかなり寛容なところがあった。 裸をタブー視することは疑問だが、時代によって価値観は変化するものではあるので仕方ないことだとは思う。 しかし世界のスタンダードを右に倣えで真似る必要もないのではと思う。
▲53 ▼6
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芸術作品といわれるものにも時代や流行がある。昔は裸婦像がアヴァンギャルドや革新を表現していたのかもしれないが、今はそういう時代でもない。地方の会社に出向くと、応接間とか玄関に大きな風景画が飾ってあったりするが、往々にして絵が古くトーンも暗くて今一つ。古い会社が更に古ぼけて見えてしまっているなんて状況はたくさんある。
公園や公共の場に芸術を置きたいというのは、昔の日本の価値観だったのだろうと思う。正直、今の価値観なら不要だろう。撤去して自治体の美術品として別の屋根付き施設に移せばよい。
▲7 ▼4
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平和の象徴として、少女の裸体をモチーフにすることについては、芸術作品であることを考えれば、表現の自由だろう。 裸体がいけないとなれば、男女どちらの裸体もいけない、というのが、性差別撤廃の理念に沿ったものであると思う。 ただ、この表現方法について、様々な受け止め方や意見があることを考えれば、展示場所は美術館などの建屋内や屋外での展示に限定する、という意見にも一理があるとも思う。
▲14 ▼4
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私は大学生の時にアートにハマって、それまで理解できなかった裸像も素直に「美しい」と感じるようになりました。 花を見て「美しい」と感じるように均整のとれたシルエットは目を奪われますし、堅い素材なのに躍動感を感じる、作り物なのに視線を感じるなど、見どころはたくさんあります。 でも、この記事を読んで、公共の場においては、何の知識もなくても楽しめる、多くの人が享受できるものの方が良いのかもな、と思いました。公園などは「みんなのもの」なんですから。アカデミックである必要もないし。 裸像を見て子供がいやらしいと感じるかは人それぞれだと思いますが、少なくとも「変」「違和感」と感じる子は多いんじゃないかな。 ちなみに私の息子は小さい時に公園に設置されていた風車のような風を受けて回るオブジェを喜んで見ていました。また、ステンドグラスのような、光が当たると色が映るものも万人受けしそうだなぁと思います。
▲10 ▼7
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多様性の広がりが、既存の文化や権威を解体していく流れになるのはしょうがないと思います。この件で「芸術を破壊するつもりか」と言う人は、その「芸術」が色んな人の我慢の上で成り立ってきたことをもう令和なので知ってください。人間讃歌としての芸術作品なら老若男女あまねく裸像があって然るべきだし。 そもそも芸術って、何かを美しいと思うこと、何かに心揺り動かされることが制作動機の根幹ですよね。遥か昔に男性作家が若い裸婦の姿を美しいと思った。同じ感覚が同時代の男性芸術家の共感を呼んで男性芸術界隈で「裸婦像=芸術」が脈々と受け継がれてきた。人類全体の芸術の中で「芸術」としての裸婦像ってそんなものに過ぎないのに(というかリビドー由来の作品はどれも当然受ける人にしか受けない)、それに羞恥や嫌悪を覚える層にまで「芸術」と押し付けるのは迷惑行為です。平和の象徴なら可愛い犬像を置きましょう(猫派との争いの予感)。
▲12 ▼1
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芸術作品を性的に見る人が多くいる事にビックリしている。芸術家が表現した裸婦像とただの裸婦とは明らかに違うのに。子供ならいざ知らず、そう言った事は美術の時間にしっかり教育していくべきだと思う。目に見えるものだけが世界ではない。作品に見える精神性を受け取ることは、そんなに難しい事ではないと思うが。 そのかわり、万人の目に触れる場所に設置される物は、裸婦像であっても、抽象物であっても、設置する人の感性は問われると思う。
▲0 ▼0
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うーん。難しい問題ですね… 人によって捉え方が全然違うかも。
少し前に出先の公園に裸婦像があり小2の娘になんで裸の女の人があるの?!とびっくりして聞かれ、私の知識で出来る限り説明をしましたが、納得したようなしてないような。
今の子供たちは、プライベートゾーンなど小さい時から性教育を受けているので、私たちが子供の頃よりもびっくりするかもしれません。 裸婦像を芸術と捉えるか、性的なものと捉えるかは子供には難しいし、大人でも人それぞれ価値観が違いそうです。
私は同性なので裸婦像はあまり気になりませんが、娘と同じ位の少女の裸の像には嫌悪感を感じてしまいます。
▲83 ▼9
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こういった苦情や抗議に素直に従う自治体が増えているのは何故だろう。 一個人の意見としては「どちらでもいい」が正直なところ。 令和に入ってマイノリティが声が世の中に大きく反映されるようになってきた気がする。それ自体を悪いとは思わないが、なんでも規制やら撤去やらしていくとマジョリティにとって住みにくい環境になりそう。 自治体も撤去するにも冷静にどちらの声が大きいか見極めて慎重に事を進めて欲しい。
▲56 ▼27
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どんどんホワイト社会のが広がりつつあるね。 もう全部撤去しちゃえばモニュメントなんて、 何かに似てるとか不愉快なんて言われないように 公園とかも遊具は危険で予算が無いので撤去や使用禁止ってところ増えてるよね。並木も落ち葉や管理に金かかるし野鳥が住み着くから全部伐採とか、 もうガッチガチのぎっちぎちにして目障りや余計なもの苦情が出る可能性にあるもの全部無くせば?みんなそれが望みでしょ。
▲91 ▼23
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色々な意見を見ながら考えています
じゃ、隠れて見るものかというと、それは芸術として捉えているというより性的題材としてとらえるようにみえます
かといって公共の場の芸術作品だからと言ってまじまじと見るのも憚られ 結局遠目にみたりして
美術館にあったからとて、あまり近づいてじっくりは見にくいかな
結局どこにあってもよく見られない気がします
となると、公共の場にあるからといってよくよく見られるわけでもないので、どちらでもよいかな 風景の中にあるなら有ってもよいかなと思います
▲6 ▼19
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男の人にとって若い女性の身体は命溢れ芸術的に見えるのかもしれませんが、女性からすると若くないと女性の価値がないのだと裸婦像をみて思ってしまいます。 小学生が恥ずかしいからというより同性からするとモデルになった人は大丈夫だったのかな?と心配しながら見てしまいました。 リアルな裸婦像は美術館なり、個人のお庭の方がふさわしいと思います。
▲76 ▼15
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裸婦像は芸術として造られてきたものが多いのではないでしょうか。恥ずかしくなるという気持ちも分かりますが、欧州の文化、博物館の展示などについて聞くと、恥ずかしくならないような生物学、性教育的な視点での学びが必要なのではとつくづく思います。子どもが尋ねてきた時に、大人が恥ずかしがらずに説明できればよいのではと思います。個人的にはボディラインや露出、幼さを強調したアニメの広告が堂々と公の場のあちこちに貼られていることの方が恥ずかしさを感じます。
▲2 ▼7
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昔、大阪の御堂筋で裸の彫刻に服を着せて問題になったことがあったなぁ。 お地蔵さんにも傘をかけて雨露をしのぐのがあります。 裸婦像は日本にはそぐわないキリスト教の影響もありますが、季節によって服を着せたりして四季を感じるのもいいと思います。
▲277 ▼99
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裸婦像は、個人的には子供の頃から、意識してしまうとなんとなく気まずいような気分になります。裸自体が芸術だというのなら、裸の男性や子供や老人の像は、裸婦像ほどは見かけないのは何故ですかね? 家具のようなものだと割り切っていますが、不特定多数の視界に強制的に入る場所よりは、見たい人だけが見られる場所に展示すればいいと思います。
▲15 ▼3
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芸術作品である裸婦像をどの様な視点で観るのかが問題なんだろな。 公園や公共の場所に設置されているからって誰もが邪な気持ちで観る訳じゃないだろうし美術館にあるからって誰もが美術品として観ているとは限らない。 設置されている芸術作品が背景・風景に対し自然に溶け込んでいれば借景も含めた景観として問題はないんじゃないかな。 設置場所によっては非常に唐突感が伴うものもあるかもしれないので設置環境への配慮は必要かと思う。
▲43 ▼8
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日本家屋の構造を引き合いに、日本人の空間認識が「空間を明確な一線で区切らずに緩やかに繋げていく」という文化を持つことはよく指摘されるところかと思われます。さらに、ウチ・ソトという文化的背景もあります。日本人の感覚としては、通りや公園も、美術館も庭園も、等しく「公共空間」という意識が強いのではないかと思われます。 一方で欧米では、美術館や庭園がそれぞれ望んだ者だけが楽しむ、公と隔離された空間として認識され、(近代においては)ほぼそこに限って裸婦像が展示されてきた、という歴史があったのでしょう。ところが西洋に倣う目線でそれを見た日本人は、公にこういったものを展示して良いのだと受け止め、街頭を含め展示されるようになったのではないかと思われます。それが、今までは「芸術作品なら許される」という認識で許容されてきたものが、ネットで「公」が広がるとともにそことの整合性を取り始めたのかもしれません。
▲50 ▼30
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平和、生命の瑞々しさ・・・といった作品の意図は大変よくわかります。一方で、40年ほど前、小学生だった私も同じく、裸婦像などを見かけて恥ずかしさを感じていましたし、それを茶化してふざける子どももいました。子どもが作品を性的な目で見ることは今に始まった事ではないと思います。それがどれだけの影響を与えるのか・・・専門家に解説してもらいたいです。
▲3 ▼2
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ChatGPT 5によるファクトチェック: 「日本だけ」に限定されるわけではありません。欧米にも公共空間で裸像が設置されている例が多数存在します。パリの チュイルリー庭園(ルーヴル美術館近く)には、35体近くの裸像(ニンフや女神像)が散在しており、まさに公共の空間として一般に開放されています。ノルウェー・オスロのヴィーゲランド公園(Frogner Park)には、200体以上の裸の男女・子どもの彫像があり、屋外で自由に鑑賞可能です。イギリス・クロスビー・ビーチには、アンソニー・ゴームリーの裸像が100体並ぶ「Another Place」があり、公共のビーチに設置されています。アジアでも、韓国・**済州ラブランド(Jeju Loveland)**のような風俗・教育を含む彫刻公園には、性的表現を含んだ裸像が多数展示されており、屋外で観賞できます。
▲8 ▼8
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時代にそぐわない・・・人は過去の価値観より、現在のそれが素晴らしいと思っていて、そういうところも実際あるのだけれども、昔の人よりも劣っていたり、鈍くなったりする面も同時に確実に存在していると思っている。だから無垢な子供がそう思っている、自治体の長がそう思っているということで、様々な意見の議論をやめたりすることはしてほしくないなと思っている。全面的に一方が正しいと思っている意見を押し付けるのではなく、そこから出てくる矛盾を時間をかけて丁寧に議論してほしいなと思っている。
▲23 ▼15
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時代にそぐわないというか、何故それが設置されているのかという意味合いを知らないから、単純に見ていて恥ずかしいのだと思う。まぁ平和の象徴が裸婦像というのもなんで??ともなるかもしれないが。自分の近所の図書館にも設置されているが、まじまじ見たことはないな。これを期に新たな平和の象徴の像を建てていくのも一つの手だと思う。
▲40 ▼7
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博物館の外に裸婦像がありますが、小学生の頃から人前でジロジロ見るのが嫌でした。他の人も直視していなかったような…。土偶まではいかなくてもメリハリボディはどの角度から見ても裸体そのものです。せめて美術館の室内なら芸術的ですが。 今のようにSNSで声をあげる人もいませんし、ましてや撤去してほしいわけでもありませんが、全国的に同じように設置していて思う所も一緒だなと思いました。
▲3 ▼1
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正直、なんで裸体の像なんだろう、と感じます。 時代がどうのこうのより、それを見て何を感じたら良いのかが分かりません。 昔でも同じように感じていた人は多いと思います。 裸体を芸術として披露するのはギリシャ等の影響だと思いますが、寧ろ着衣があってこそ作成された時代を感じられるし、ちゃんと見ることができると思います。 個人的、私的に作成された作品ならどんなものでも良いと思いますが、公的、公共に設置するなら、その環境に合わせてそれなりのものを設置すべきだと思います。 裸体の像を公共の場に展示することは、センスがないと感じます。
▲27 ▼6
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多くの人が不快に思うのなら撤去し展示場所を変えるのも検討すべきと思うが、一部のノイジーマイノリティの意見に屈するのではなく、広く市民アンケートを取るなどして判断していただきたい。 また、ただ撤去するだけでは美術館等の引き取りがなければそのまま打ち捨てられるだけとなり、製作者へのリスペクトに欠けたりや文化の散逸となるため嫁ぎ先までしっかり世話して欲しい。その像が無くなって思い出が壊される人もいると思う。
▲106 ▼40
=+=+=+=+=
うーん、どうなんだろう。像によるのかもしれないけどそれぞれその時代に作られた意味や背景があるはずでそれをきちんと示していない、理解していないままなのが問題。日本は性的なものや汚いものに対して蓋をして見えなくするという方針を取りがちだけど、それではいけないと思う。 単に見た目だけの話では終わらせずに一度撤去したものは二度と戻ることは無いのだから本当にふさわしくないのか、きちんと考える必要があると思います。
▲23 ▼22
=+=+=+=+=
裸婦像が芸術だとしても、芸術の世界でも男女は全く平等ではなく、女性が搾取されていた結果裸婦像が多いことが明らかになっている。また、有名画家が小児性 愛者だったという事実が明らかになり問題になったりもしている。そんな流れで、裸婦像が撤去されるのは自然なことなのではないかと。皆が見て楽しく元気になれるような銅像を置けば良いと思う。
▲5 ▼0
=+=+=+=+=
どちらでも良いが、海外に合わせる必要はない。欧米でも、ギリシャ時代やルネサンスにおいては、神が人間を作った。だから人間の裸体は最も美しい美の規範だ という考えで裸体彫刻が溢れた。日本でも江戸時代はおおらかだった。裸体だからという尺度ではなく、置かれる場所と彫像のコンセプトとの整合性や、彫像のアートとしての価値等から判断すれば良いのでは?
▲45 ▼32
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芸術に対する寛容さ、しいては文化に対する寛容さは人々の豊さと関係性が深いです。高度経済成長時以前、世間は豊さの実感と豊になる期待、安心で溢れ近代芸術の発展を促しました。経済が停滞し期待と安心が薄れた今、このような芸術排除の流れは正に時代に沿っているのかもしれません。 私自身は寛容であった頃が懐かしく、現状に寂しさを覚える次第です。
▲83 ▼64
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昔はバラエティー番組でもドラマでもおっぱいポロリは当たり前だった。ライオンが草食動物を襲うシーンもゴールデン番組で普通に流れてて内臓を食いちぎる所までしっかり放送されてた。今はそれらの放送は出来なくなり目にする機会もなくなった。目にする機会がなくなれば「恥ずかしくなる」と思うのは当然。学習ノートの昆虫も気持ちが悪いから花に変える、津波の映像や戦争の悲惨な写真や映像も見せないようにする。なにもかにもシャットアウトしたらどうなるんだろうと思ってしまう。
▲78 ▼47
=+=+=+=+=
同じ裸でも大きく手を広げたポーズと 頭を抱えてうずくまるポーズでは印象が大きく違うように 裸そのものは解放感を表現し それを見て恐怖感を持つ人はないかと思います。同じ裸婦像でも狭い空間に展示するのと 公共の日常の空間に展示するのとでは印象も違います。岡本太郎の作品を見ればわかるように 芸術とは単に美術館に閉じ込めておくものではなく 広く皆の目に触れ楽しませるものだと思います。
▲7 ▼9
=+=+=+=+=
撤去された後の裸婦像の扱いはどうするんだろう。 美術館とかに寄贈されるなら良いけど、廃棄するんだったらもったいない気がする。寄贈が難し行ければオークションで販売して公園の保全費用に充てるとか、せめて何か有効活用されると良いな。
▲44 ▼9
=+=+=+=+=
女性をモデルにした像で撤去する動きがあるならば、小便小僧をはじめ男性の同様のものも時代にそぐわないということになる。 絶対にどうなっているか目につく場所はあるし、なんだったらギミックまで再現されている様子は明らかに女性をモデルにした像よりも露骨すぎる。この様子になんとも思わないのだろうか。子供だからどうでもいいということか。 女性をモデルにした像の場合は、そうしたギミックのあるようなものは作られている像があるという記憶はない。 一時期話題になった、特定の部位を精巧に再現したものを展示したことで、猥褻物陳列罪で処分されたことを考えると、難しいところではある。 設置をしていた当時は芸術として割り切れていた部分はあったということを考えると、そのあたりのことも状況が変わったのかと改めて思う。なぜこの種のものも存在するかしっかり取り上げなければ撤去に動くことも仕方ないとは思う部分もある。
▲46 ▼15
=+=+=+=+=
社会の不満が蓄積し、正義や道徳の名のもとに叩けるものを皆探している。 大きな社会の変革期、明治の初め、廃仏毀釈の時には、民衆も一緒になって寺を襲い、貴重な仏像が破壊され、燃やされた。 今回の撤去はそこまで過激でないものの、成功体験を目にした市民からの苦情はどんどん増え、裸婦像撤去の動きはゆるく全国に伝播していくだろう。 その際にはどうか作品を雑に扱わず、いつか日の目が見えるその日まで丁寧に保管してもらいたい。
▲12 ▼15
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時代の流れと言えば、戦後の復興時期と今では、価値観も変化しているのでしょう。 戦争が終わり、徴兵や空襲等も無くなり平和な世の中となったばかりの頃なら、裸像も平和の象徴と考えたり、または気にしてなかったと思うけれども、今現在の裸と言う言葉は、意味合いが変わっていますよね。例えば、学校教師ですら小学生を盗撮する時代ですし、AIの発達で顔写真から裸体画像を作成する事も出来てしまう。 昔は、裸体を平和になったと思えたかも知れませんが、現在では、性的に見てしまうようになってしまったと言う事ですね。 性的な情報・画像も、今では幼い子供ですら簡単にネットで検索・閲覧可能な時代。ネット普及前なら、店や自販機等で購入する必要がありました。色々な情報が簡単に入手可能な時代となった現在では、昔と考え方に違いが出てくるのも当然と思う。 昔は合法でも、今は違法となる事もある。 今現在にあった方法を検討した方が良い。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
小学生の頃から画集を見たり展覧会に行く機会が多かったからか、街角に裸婦像があっても特に違和感も恥ずかしさもありませんでした。説明書きとか読んで、なんでこの形か考えてみたり。 まあ市の所有物だから市民の意見を聴くのもありですが、何かちょっと中世ヨーロッパで古い絵画や壁画に布や植物を描き足しまくっていたのを思い出してしまいます。
▲4 ▼2
=+=+=+=+=
女性の身体が美しく感じる人がいて、今もコンテストが開かれている 男性の身体が美しく感じる人がいて、今もコンテストが開かれている だけど美術だと作品にされる数としては圧倒的に女性の裸像 ダメだというわけではなく、製作者の偏りはあるのは事実ではある コンテストに興味がない人もいれば、日本の奥ゆかしさに対して反対に感じる人もいる 美術としての価値は否定しないし、公共の場で裸を展示することの異常性に慣れてしまっている事も理解できる 思っていたことを声に出せる時代になった事もあり、話題に上がるのもわかる 美術としての価値を認め、美術館管轄内にあるのが1番の落とし所なんじゃないのかな
▲124 ▼12
=+=+=+=+=
歳をとった今となっては裸婦像をみて気恥ずかしくなるなどという事も、性的な目で見るなどということももちろんないですが、 子どもの時分には裸の像などはまじまじと見るのははばかられたり、他の子からはやし立てられたりするかもしれません。 いかに芸術性が高い作品であれ、根源的にはそういうものなのでしょう。 それが、見たいと欲しない人にも強制的に目に付くような公共の場にある必要性はなく、芸術に触れる機会を増やすにあたり裸婦像である必要性は感じません。
▲23 ▼4
=+=+=+=+=
芸術と卑猥性の間の境界は常に曖昧で、裁判でも、「社会通念に照らして」みたいな言葉で線引きは回避されてきました。 また、陳列を避けることと、芸術としての価値を認めないこととは、必ずしも一致しない。たとえば、クールベ「世界の起源」を公衆が集まる場所に置くのはさすがに憚られるだろうけれど、この作品の芸術的評価を否定する人ばかりではないと思います。 だから裸婦像も、芸術的な意味を認めつつ、公園に置くことは回避するということはありえます。 ただ、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はどうなの?、という話とか、古代ギリシアやローマの男性裸体像なんて割とリアルに陰部まで再現されているけれど、教科書に載っているけれど?、という話も出てくる。 個人的には、公園の裸婦像は、着色もされていないし陰部も強調されていないし、性的なリアリティは薄く、このくらいは陳列されていてもいいかなと思っていますが、どうでしょう。
▲8 ▼12
=+=+=+=+=
何かと海外では・・というのは好きでないけど、海外では男の裸像は良くある気がする。博物館かも知れないがギリシャ彫刻なんか。男の子から見たらすこし恥ずかしいと思う。彫刻じゃないけど、外国女性って薄着で闊歩して、平気で足組んで大胆だなと思うことがある。国それぞれ、人それぞれでいいんじゃないかな。
▲11 ▼3
=+=+=+=+=
これに限ったことではないが、最近は、不快に感じる人が一人でもいればやめる、やめさせる、みたいな風潮が強くなっているように思う。良く言えば配慮なのだろうが、結局はすべての人を満足させるやり方などないのだし、あらゆることをやめる方向に進むしかなくなる。
まあ昔から鶴の一声とかはあったのだろうが、今は誰もが大声を上げられる時代になった。それ自体は悪いことではなく、寧ろ歓迎すべきことだと思うが、だかれこそ、声の大きい少数の意見に耳を貸しすぎると大局を見失いかねないと思う。こういう記事も、その流れを助長させるものと言える。小さな声を大きく流布するという意味で、報道とは本質的に偏っているものなのだと感じる。
芸術とか文化って、機能的には必要ないし、表立って求められるものばかりではないが、だからこそ情緒や多様性を育むものだと思う。是非とも安易には手放さないでほしい。
▲81 ▼22
=+=+=+=+=
黒田清輝の時代から、国内のヌードにおける扱いは、揺れ動きますね。
人によっては、芸術作品のヌードはエロではない! 芸術であるから、卑猥な目で見るのは、その人が異常だって意見もあって、たぶんほとんどの人がそれで納得していたんじゃないかな。
ヌードは肉体の純粋な美しさを表してると思う。 男性は筋肉、女性はふくよかさから慈愛とか。
でも卑猥な見方をされていたのも確か。 両方の側面を持っていると思う。
で、人はその二つの価値観の間で芸術ができて以来、ずっと揺れ動いていると思う。
こういう抗争はずっと続くと思う。
▲10 ▼2
=+=+=+=+=
裸婦像そのものは、芸術的な価値がありミケランジェロのダビデ像など男性の性器が彫刻されている。今回の撤去の動きは小学生にとって教育上良くないという判断かと思う。小学生はたしかに芸術的な価値云々より違った目線で見てしまうだろう。子供中心の考えに立てば美術館への展示が必要かもしれない。しかし、子供にもこの芸術的な価値を体感してほしいという教育的な考えも一方ではあると思う。いずれにしろ、難しい問題である。しかし、裸婦像よりネットで簡単に小学生でも卑猥な画像や動画が見ることの環境の方がもっと問題のような気がする。そこのところもマスメディアは取り上げて、しっかり議論し大人の倫理観を正した方がいいような気がする。小中学生が自分のスマホやタブレットでこそこそと卑猥な動画、画像を検索できてしまう時代なので裸婦像くらい見ても何とも思わない小中学生はこれから増えるのではないだろうかとも考えてしまう。
▲8 ▼16
=+=+=+=+=
自分も子供の頃はそうだった。でも今は美しいと思える。服を着せたら、時代性やファッション性など余計なノイズが入る。 例えば80年前の像なら着物を着てただろう。 30年前ならガーリーなワンピースかもしれない。 それは作品の普遍性を損なう。
公共の場に何十年もあり続けるなら、いつの時代でも関係なくメッセージ性を感じさせてくれるものの方がいい。
子供や一部の大人が恥ずかしがったら、すぐ撤去ではなく、ちゃんとした大人が説明しないといけない。
▲8 ▼9
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野外の裸婦像を見ても性的とは思いませんが、そう思う方が相当数いるのであれば、美術館なり芸術作品を見たい方が集う場所に移設するのは妥当だと思います。
一方で、街中には小便像や男性の裸像も結構ありますが、そちらには触れないというのは性別バイアスを感じます。今時は日常生活で男性の上半身裸すら見る機会は無いと思いますし(プールでも大多数の男性はラッシュガードを着ている時代です)、もし上半身裸だったら逮捕こそされないにしろ、間違いなく職務質問されて注意はされるでしょう。 裸婦像を撤去してほしいなら、そちらについても同様に要望すべきだと思いますが、撤去要望を出されている方々は如何お考えなんですかね。
▲73 ▼31
=+=+=+=+=
写真やヌード雑誌がない時代、裸婦像や絵画はそれの代替だという意見もある。聖職者には児童性虐待がいつの時代にも一定数あったし、天使の絵の幼児の生殖器を描いている絵画も芸術というよりはそのような嗜好の人たちの要望を満たしているとの意見もある。芸術か猥褻かを議論するような裸体像をわざわざ公共の公園などに置く必要は今の時代ないと思います。見たい人は美術館に行って観ればいいだけですから。
▲80 ▼13
=+=+=+=+=
裸婦像は西洋美術の伝統において「美しい女性の裸体」を鑑賞するために描かれてきましたが、その多くは女性の主体性や視点を欠き、鑑賞する男性のための対象として造形されました。 女性は社会的主体ではなく「受動的に美を体現する存在」とされ、形態的な美や官能性が強調されてきたのです。つまり裸婦像は、作者が意識的か否かにかかわらず男尊女卑的な価値観を内包しているといえます。 ただし同時に、その時代のジェンダー観を映す歴史資料としての意味や、芸術的価値を一概に否定することもできません。 とはいえ、公共空間に恒常的に設置することは誰もが目にするがゆえに問題をはらむため、美術館での展示がより適切ではないでしょうか。
▲84 ▼8
=+=+=+=+=
個人的にはただの裸の芸術表現は扇情的には感じない。人間の肉体の美しさを感じるだけ。彫刻が好きな子どもだったので、美術館に行かなくとも街中で芸術鑑賞できるのは有難いと思っていた。 なので肉体表現に美を感じず真っ先に「性的だ!」と反応する感覚の方が不思議。そういう目でしか物事を捉えられず、感性が育ってないというか表面的な判断しかできず、機械的で危険な気も…。
これがまあ中途半端に着衣で胸が不自然にチラリと見えていたりしたら、そこがクローズアップされるので逆に狙ってるなと思うけど。それに隠してても恥じらってるポーズとかの方が、よっぽどリビドーを刺激する。 開脚とかあからさまなのはさすがに公共の場ではいかんと思うが、ベルギーには小○少女なんてのもあるしな…。
▲16 ▼16
=+=+=+=+=
日本の価値観では歴史的に裸体に非常に寛容でまた欧米と違い女性の純潔さもさほど求められない社会でしたので、キリスト教の欧米を基準にしたら撤去する動きになるのは当然のことかと思います。
明治時代に来たお雇い外国人が若い女性が庭先で平然と裸になって身体を洗っていて、通行人がそれをマナーとしてあえて見ずにごく自然の一部として存在していることに対して驚いている記述がありますが、そんな感じで日本固有の文化として銅像もごく自然の一部になるように感じられればとも思います。
どんなものも反対意見は必ず出るので結局は割合だと思います。反対する人が多ければ撤去すれば良いかと思います。
▲40 ▼24
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撤去を判断するのは所有や管轄している方々ですが 撤去したものを安易に処分するのはやめて 例えば箱根にある「彫刻の森美術館」のような形で 見たい人が見られる場所に集約して きちんと保管、鑑賞できるような仕組みにしてもらいたい。
▲2 ▼0
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男の裸体像や裸体画が少ないのはギリシャなど有史以来経済的にも権力的にも男性優位の社会があり、女性をモデルに使うことで女性を男が愛でる対象物、きつく言えば物として見てきたのだろう。日本では最近10年くらいで女性の権利意識が大きく変わり、決して女性解放へは向っていないけれど、観念的な部分で嫌なものは嫌。といえるようになった。この記事のように改まって言われてみると、全くその通り、子供の性意識・性差別意識をイタヅラに刺激する可能性が大であると思う。服を着せるか、服を着た女性像にすべきだ。場所はうろ覚えだが、すでに服を着せた女性像があると聞いたことがある。
▲46 ▼10
=+=+=+=+=
美術に関わるものだが、裸婦像は典型的な塑像であり、普遍的な美しさの表象でもある。以前、自治体のコンペに立ち会った際、普通のヌードデッサンすら淫らだと見做す方がギャラリー関係ですらいたことに驚いた。また、広告でも永井豪のセクシュアルなビジュアルが問題視されたことがあるが、神経質すぎるのではないか?子どもに刺激的とする意見もあるが、性交渉を描いているならまだしも、単なるヌードに性的な刺激を感じるならば、あってもなくても感じるだろう。表現のあり方を知る材料としてはあった方が良いかと思う。
▲12 ▼34
=+=+=+=+=
人の体自体に芸術的価値はあると思いますが、たとえばミケランジェロのダビデ像は優れた芸術作品ですが、あれがもし街中に展示されていたらそれは批判もおきるでしょう。
クローズドな美術館等に設置して、見たい人たちだけに見せるようにすればいいだけだと思います。
▲17 ▼2
=+=+=+=+=
私はそれらを見ても何も思わないが… 芸術や願いで建っているなら、そもそもその意味を理解せずにただ裸と認識している事にも現代の問題がある。ネットが普及し、容易にアダルトな世界を見ることが出来る子供達。故に裸=興味や卑しいとなるのだろう。しかしそれは歪んだ見方で歩いている。区別出来る精神がまだ無い子供たちは良くも悪くも様々な物が見れ意見に触れることが出来るのだから物理学な環境改善より、適応が人間として大事な感覚だと思うのだが。
▲4 ▼4
=+=+=+=+=
街中を何の気なしに歩いていると 突然裸婦像が歩道に芸術です!と言わんばかりにバーンと飾られてあって、 条件反射でぎょっとする時がある。 現代に生きているとあまり裸自体を見ることがないので 正直戸惑ってしまう。 何も後ろめたいことはないのに目をそらしてしまう。 温泉でもなるべく大浴場には人のあまりいない時間に入るようにしている私は特にその傾向があるかもしれない。 芸術的センスゼロと言われるかもしれないが 通っていた女子大にあった 服を着たベンチに座る女性像は素敵だなと思ってみていた。
▲49 ▼18
=+=+=+=+=
戦後に軍国主義の反動、反省から平和の象徴として裸婦像がさかんに設置されたらしい 確かに軍国主義真っ只中の戦時中には不可能な事だろう しかし、その後もずっとそのような社会的背景が引き継がれて裸婦像が設置されて続けたわけもなく、今では忘却の彼方だろうから、価値観の変化に合わせて撤去を含め変えてゆくのはいい事だと思う
▲1 ▼1
=+=+=+=+=
言い表すのが難しいような違和感がある話題だなー… 例えば今、藤子F不二雄が存命だったとして、エスパー魔美が発禁になる、藤子F不二雄が悲しんでるって記事だったら、ちょっと印象変わってくるのでは。 いや確かに、公共の場と漫画雑誌や単行本は違うのかもしれないけど。エスパー魔美も純粋に芸術的観点しか持ってないパパと魔美、それをよくわからずその都度困惑する高畑さんの構図までしっかり触れていて、なおかつそこもおもしろポイントだったりする。でも実際あの漫画の中の魔美の絵をみてそそられるとかいう読者も少ないんじゃないかな。それと同じように、公共の場の裸婦像でそそられる人もあんまりいないのではと思うけど… まとめると、ちょっと世の中が つまらない方向に向かってると個人的には思う。グレーな感覚を味わったり遊んだりできる部分が減ったというか。
▲2 ▼12
=+=+=+=+=
美術館や博物館では興味ある人しか行かない。 公共の場にあるからこそ万人が鑑賞出来て色々な意見や感想が産まれる。これが文化の源になるのではないでしょうか。 海外に何故少ないか?資産価値があるから盗まれる可能性があるんですよ。日本だからこそ万人に鑑賞出来るようになっているんです。誇るべきだと思っています。
▲3 ▼11
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芸術品はあくまで芸術品なので、美術館等以外に展示する場合はもっとTPOを考えた方が良いと思う。これまでのように、これは芸術だからとばかりにどこにでも展示するのではなく、その場所に合っているかどうかをもっと真剣に考えた方が良いと思う。芸術品とは言ってもピンからキリなのであって、芸術品だからといって全ての人が素晴らしい作品だと思うとは限らないのだから・・
▲22 ▼5
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小学生から「見ていて恥ずかしくなる」という声があるようですが、それっていつの時代もあると思います。 少なくとも平成生まれの私も裸婦像見て気まずくなる時期はありました。
ただ、それが社会的に悪影響を及ぼしたわけでもないのに「子供がこう言ってる」として、「あれもやめよう」「これもやめよう」という社会の動きは異常なまでの過保護のように感じます。
芸術作品に触れて教養を深めたり、様々な作品を目にして感性を養ったりする事も自分自身を形成していく要素になるので、裸婦像を恥ずかしものとして遠ざけて、芸術作品への理解が遠ざかっては寂しいです。
▲4 ▼10
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美術作品制作の仕事をしています。 これは時代の変化というより、そもそも間違った認識からきていると思います。西洋では公共の彫刻は装飾品の要素が高く、建築の補強として機能していたり、景観の一部、聖書や神話の物語が背景にあるなどの意味があります。 作家の探究心で制作された芸術作品はギャラリーか美術館で展示されます。 日本が欧米を真似て、公共の場にアートを設置する際、国内の彫刻家に依頼したのでしょうが、作家の意向を害さず芸術を探求する作品をそのまま設置したのでしょう。 芸術家にとって裸婦像は、普遍的な女性のフォルムの美を自身でも造形したいという純粋な創作行動です。着衣ではなく裸像はその探究心からなので理解はできます。 しかしそれは作者側の満足であって、公共の場で求められる要素ではありません。 なので西洋の場合、彫刻家自身が制作するより工芸職人の手によるものが多いでしょう。
▲13 ▼0
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ヨーロッパだと、古代ギリシアからルネサンスらのように男性の裸体も多いのだが、なぜか日本では裸体は女性ばかり、男性裸体が少なすぎる。美術館なら問題ないが、街を歩く人々は裸の女性像ばかり見ることになる。この差があるから、外国人は、女性裸体ばかりの日本を不思議がり、男女を意識し出した子供らは恥ずかしくなる。この辺りが撤去につながるのは仕方ない。衣服を着た女性像もあり、これらは撤去しないくてもいい気はするが
▲76 ▼12
=+=+=+=+=
この記事で初めて阿部誠一という彫刻家を知り、少し調べてみました。たしかに少女の裸体をモチーフにした作品が多い作家ですね。その芸術的な価値はひとまず置くとして、やはり公共の場に置くには少し写実的過ぎるようにも思った。昔はもっと寛容だったのだろうが、ちょっとした下ネタを職場で言っただけでセクハラ扱いされる昨今、こうした像を公園に置いておくのは難しくなってくるのかもしれない。
▲9 ▼2
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裸は安全で健全な象徴であり、その姿になっても堂々と生きていけるという様に考えれば平和の象徴と言えるのだろうが、小学校教師がわいせつ事件を起こしている昨今、時代はそんなに甘くなく猥褻の方向で見てしまう人がいることも事実なのだろう。 像を破壊するのではなく、美術館でまた美術品として見られる時代になるまで保管するのが宜しいのではないかと思う。
▲9 ▼0
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嫌悪感だけでは、全てが撤去の対象になる。一部の少数派の嫌悪感から単純に「撤去」を主張するのは、共生を無視した排他主義とのレッテル貼りは無いのだろうか。どこかの政党を揶揄するのと似た構図を垣間見る気がする。欧米のやり方を参考にするのはあるが、芸術・表現の自由に対して「撤去」以外のあり方の提示もあってよろしいかと思うのです。その議論のきっかけなら良しとするかな。
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