( 318641 )  2025/08/24 04:46:59  
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埼玉県の外国人労働者とその法的地位の問題を取り上げた記事では、日本の入管制度や労働環境が不法就労に対して厳しくなっている背景や、外国人労働者が日本経済において果たしている役割について説明されています。

最近、外国人を雇用した企業の代表が不法就労助長の疑いで逮捕された事例が示され、入管当局は不法滞在者の撲滅を目指しています。

しかし、外国人労働者は日本の人手不足を支えてきた存在であり、彼らの労働は産業の現実に不可欠です。

過去には多くの外国人が劣悪な環境下で働かされ、入管当局もその状況を認識していたと指摘されています。

また、政府と警察の取り締まりの強化が進む中、外国人の法的地位を規定するマクリーン判決が重要な役割を果たしており、その見直しが求められています。

現在、入管法の適用が厳格になり、非正規滞在者に対する支援が減少し、長期収容が問題視されています。

最終的に、入管制度の改革が必要とされているという考えが示されています。

(要約)

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全国の町工場にも多数の外国人労働者が就労しているが… 

 

8月12日、在留期間が過ぎても残留していた外国人を自身の会社で雇用して就労させていたとして、埼玉県警浦和署は県内の会社代表の男性を入管難民法違反(不法就労助長)の疑いで逮捕した。 

 

5月23日には出入国管理庁が「ルールを守らない外国人により国民の安全・安心が脅かされている社会情勢に鑑み、不法滞在者ゼロを目指し、外国人と安心して暮らせる共生社会を実現する」と発表。 

 

一方、9月に『パレスチナ占領』(ちくま新書)の出版も予定されているジャーナリスト・記者の平野雄吾氏の著書『ルポ 入管――絶望の外国人収容施設』(2020年、ちくま新書)では、人手不足の時代に日本の経済・社会を支えてきたのは非正規滞在の外国人労働者であることが指摘されている。 

 

本記事では、同書から、当初は不法就労を「見て見ぬふり」してきた入管や警察が1990年代から取り締まりを厳しくした経緯や、1970年代の「マクリーン判決」が現在の外国人の法的地位に与えている影響について書かれた内容を、抜粋して紹介する。 

 

「木材運んで」「君はそれ壊して」。2019年冬、東京都渋谷区の住宅街の一角で男たちが声を張り上げた。頭にはヘルメット、手にはハンマーやロープ。4人の男が約100平方メートルの木造家屋を手作業で解体していた。周囲には新しい住宅もあるが、中には築数十年と推定される明らかに空き家のような家屋も存在する。変化の激しい都会で、解体作業が街の新陳代謝に拍車を掛ける。 

 

男たちはみなトルコ出身のクルド人だ。母国での迫害を恐れ、日本政府に保護を求めるが、誰ひとり難民認定されていない。それどころか強制退去を命じられ、仮放免の立場に追いやられている。就労は禁止され、入管当局や警察は彼らの労働を「不法就労」と糾弾、取り締まりの対象としている。 

 

「今、仕事しているからね、入管からすれば罪になるよ。入管は仕事することと殺人を同じように考えているんだよ」。一人がそう語ると、もう一人が言った。 

 

「日本人は誰も解体なんてやらないでしょう。だいたい毎日朝6時から夜9時まで働いている。壊しているのは日本人が住んでいた家なんだよ」 

 

路地が入り組んだ住宅街では重機を持ち込めずハンマーやロープでたたき壊す。手や腕は擦り傷だらけで、掌(てのひら)には皮のむけた跡が無数にある。 

 

「けがするけれど、医者には行かないよ。仮放免だと保険に入れないから」。そう語る男もいた。 

 

解体、建設の現場に加え、農業や工場、飲食業……。人手不足が続く産業で、非正規滞在者が働き、日本経済の一翼を担う現実は間違いなく存在する。 

 

「法律上の最低賃金しか支払えませんが、難民申請者をはじめ非正規滞在者のおかげで仕事が回ります。日本人を雇ったときもありますが、一日で辞める人もいて、あてにできません」 

 

関東地方で1990年代から非正規滞在者を雇う男性農家はこう指摘する。技能実習生など農業に従事できる外国人の在留資格は存在するが、「監理団体などの中間組織にピンハネされます。そんな余裕はありません」と話す。 

 

「不法就労」との事実を把握した上で、「入管は仮放免者は働いてはいけないと言うが、それ自体が問題でしょう。カネが底をついたらどうするか。答えられる入管職員なんていません」と強調した。「生活に必要な労働をして収入を得るのは当たり前です」 

 

日本に外国人労働者が出稼ぎとして大量に来始めたのは1980年代後半だった。バブルの好景気に沸き、人手不足が顕著になった日本の労働市場は経済が低迷するアジア諸国の労働者を引きつけた。当時、日本には単純労働で働く在留資格はなく──表向きは現在もそうだが──多くは不法残留など非正規滞在のまま、日本人が働きたがらない職場で劣悪な環境下、汗を流した。 

 

当時、韓国やフィリピン出身の労働者が多かった横浜・寿町で医療、労働支援に奔走した韓国系日本人、平間正子(81)は「賃金はもらえない。けがしても労災は下りない。そんな状況で働く外国人がたくさんいました」と話す。 

 

「朝5時に仕事場に出かけ、現場で食べるお昼の弁当が唯一の食事。夜8時や9時に帰ってきてコインシャワーで体を洗い、一杯の酒を引っかけて眠る。病気になるのは当たり前ですが、当時の外国人労働者の多くはそういう生活でした」。入管当局も在留資格のない外国人労働者の状況を把握していたとみられている。 

 

1980年代後半、非正規滞在のまま働いていたフィリピン人レイ・ベントゥーラは1993年に刊行した著書の中で、自らが入管当局に出頭した際、取調官が寿町を熟知しており、自分の住むビルの名前まで知っていたと記している。 

 

「ぼくはショックだった。(略)自分たちがかくれていると思っているときに、実際はまるでそうではなかったなどとは、まったく気づいていなかった。見えない存在として生きていこうとするぼくたちの努力はすべて、ただのお遊びでしかなく、労働者と斡旋(あっせん)業者、ミグミグ(入管当局)と警察は、みんなそれぞれの役割を演じているにすぎなかったのだ。 

 

ぼくたちはかくれて暮らしている。彼らは見て見ぬふりをする。そして世論が要求したときにだけ、名ばかりの手入れをおこなう。それ以外のあいだ、ぼくたちは必要悪なのだ」(『ぼくはいつも隠れていた-フィリピン人学生不法就労記』より) 

 

 

実際、空港の入国審査の現場でも、現在では想像できないぐらい審査は甘く、「飛行機の乗客は9割以上、20~30代の単身の男たちだったが、ほとんどが観光目的と言って短期滞在の資格で入国審査を通り抜けていた」と話すパキスタン人もいる。 

 

入管当局でさえ、不法就労を犯罪とは考えていなかった様子もある。元東京入国管理局長、坂中英徳は1993年の雑誌記事で「これ(不法就労)が、労働そのものが不法であるかのように受け取られたり、不法就労外国人を刑事犯のようなイメージでとらえる向きもあるのは問題である」と指摘、「不法就労という場合の『不法』とは、単に入管法に違反しているとの意味である」と強調した(「出入国管理行政から見た外国人労働者問題」国際人権第四号)。 

 

人手不足の時代に日本経済を支えたのは在留資格のない非正規滞在者であり、現在は厳しく罰せられる「不法就労」だった。 

 

だが、日系人らの就労に広く門戸を開いた改正入管難民法施行(1990年)、技能実習制度の創設(1993年)を機に、政府は非正規滞在者の排除に舵を切る。外国人の単純労働は認めないとの建前を堅持しながら、外国人労働力を確保できる算段がついたためである。 

 

結果、「必要悪」として黙認されてきた非正規滞在者は救済されることなく、追放される。そして非正規滞在者排除の流れを作り、「不法滞在」という概念を人口に膾炙(かいしゃ)させたのが警察だった。 

 

移民政策が専門の大阪大学准教授(2020年当時。現・東京大学准教授)、髙谷幸は「当時、入管当局は在留資格がないこと自体を『不法』とは考えていませんでした。1990年代前半に警察が『不法滞在』という枠組みを作り出して、治安対策として問題提起していきます」と指摘する。 

 

警察大学校が編集する雑誌『警察学論集』は1993年7月号で、「来日外国人と治安」を特集した。その中で、当時警察庁警備局外事第一課課長補佐だった松本光弘(2020年1月に警察庁長官となった後、2021年9月退官)は「凶悪犯罪と薬物犯罪について特別に調査した結果」だとして、「不法滞在者のほうが合法滞在者よりも、凶悪犯罪を犯す割合が3.1倍、薬物犯罪でも1.4倍高い」と強調した。 

 

さらに、1:まともな外国人は合法的に滞在しようとする、2:不法滞在者の日本社会への適応は合法滞在者に比べて劣る、3:規範意識も不法滞在者のほうが低い―と「推測」し、不法滞在者のコミュニティができると犯罪グループを呼び込む温床になると指摘、不法滞在者の取り締まり強化を訴えた(「来日外国人に係る犯罪」)。 

 

だが、この論文では「特別な調査」がどのように実施されたのかは明らかにされず、本当に「不法滞在者」がまともではなく、適応能力や規範意識が低いのかを考察した跡は見られない。 

 

ただ、警察はこの方針を強調し始め「不法滞在者」を治安上の問題として位置づける。警察白書が「不法滞在者」との分類を取り上げ始めたのも1993年である。以後、犯罪者としての「不法滞在者」が行政用語として用いられる(髙谷幸「『外国人労働者』から『不法滞在者』へ」社会学評論第68巻第4号)。 

 

警察や入管当局による取り締まり、1990年の改正入管難民法で新設された不法就労助長罪の効果もあり、非正規滞在者の大部分を占める不法残留者は1993年に約29万8000人でピークを迎えた後に減少、2004年には21万9000人となった。 

 

日本人の非正規滞在者や不法就労を巡る意識も変化する。国士舘大学教授、鈴木江理子によれば、内閣府の実施する外国人労働者に関する世論調査で「不法就労はよくないがやむを得ない」と回答する割合は1990年の55%から2004年には24.5%に減少。 

 

一方で、「よくないことだ」との回答は同期間に32.1%から70.7%にまで増加している(『日本で働く非正規滞在者―彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』)。 

 

「不法残留はよいことではありませんが、日本企業が私たちの労働力を必要としていたというのも事実ではないでしょうか。救済措置もなく追い返すのは酷すぎませんか」。1992年に来日、30年近く仮放免で暮らすイラン人が恨み節を語る。 

 

「私たちも人間です。日本で働く間に家族ができ、子どもを養わなければならなくなりました。帰れ帰れと言われても、今さら帰れません」 

 

 

在留特別許可件数の推移 

 

1993年に約30万人に達した不法残留者がその後、警察による取り締まりの強化により徐々に減少する中で、警察にとって追い風となったのは国際社会で高まるテロや国際組織犯罪への対策を求める声だった。 

 

警察は外国人犯罪対策を打ち出し、入管当局も犯罪者としての「不法滞在者」という分類を共有する。警察と入管当局による合同摘発も増えていった。警察は当初、世論から「外国人狩り」と批判されるのを恐れていたが、「治安悪化」神話が広まる中、犯罪対策と銘打つことで批判をかわす。 

 

2001年7月には内閣府に「国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部」を設置、今後の取り組みとして「多くの不法滞在者が存在し、国際組織犯罪の温床になっている」と喧伝、非正規滞在者の取り締まり強化を訴えた。直後の9月11日に米中枢同時テロが発生、こうした諸情勢も警察の政策に正当性を与えることになる。 

 

1999年に都知事に就任した石原慎太郎が外国人犯罪対策を訴え、警視庁や法務省も呼応する。法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の4者は2003年10月、「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」を発表、「わが国の治安対策上、不法滞在者問題の解決が喫緊の課題となっている」とし、摘発強化と効率的な強制退去を実施する方針を打ち出した。 

 

政府レベルでも犯罪対策閣僚会議が発足、同年12月には行動計画を発表し、改めて「不法滞在者の摘発強化」をうたう。この行動計画を基に2004〜08年に実施されたのが「不法滞在者5年半減計画」である。 

 

入管庁のサイトに「不法滞在者5年半減計画の実施結果について」と題された2009年2月17日付のページがある。「不法滞在者を日本に『来させない』『入らせない』『居させない』を3本柱に総合的な施策を実施した」と強調、「5年間で50.1%の不法残留者を削減し、国民が安心して暮らせる社会の実現に貢献した」と誇る。 

 

確かに表面的な数字を見ると、2004年1月の21万9418人から2009年1月には11万3072人になっており、不法残留者はほぼ半減した。 

 

しかし、その内実を詳しく検討すると、別の様相が浮かんでくる。非正規滞在者の数を削減しようとする場合、2つの方法がある。一つは強制送還であり、もう一つは滞在そのものの正規化だ。 

 

イラン人ファルハッド・ガセミの例(関連記事:「国に帰れ」日本に生まれ育っても、幼少時に来日しても…“在留資格”を得られない外国人青年たちの苦悩)で見たように、滞在の正規化は日本では、在留特別許可(在特)制度と呼ばれ、日本人との結婚をはじめ日本社会に定着した外国人の在留を特別に許可する仕組みである。 

 

入管難民法に規定された法的措置であり、入管当局は「法相(2001年の入管難民法改正で地方入管局長に権限移譲、以下同)による恩恵的措置」と強調するが、帰るに帰れない事情を抱えた非正規滞在者の法的地位を安定させるために導入されている。 

 

実は、入管当局が半減計画の実施期間で取った対策はこの在特制度の弾力的運用だった。2004年から2008年の間に在特を取得した人数は4万9343人に上る。半減した不法残留者10万6346人のうち約半分は非正規滞在者の正規化で対応したのである。 

 

昨日までの法違反者が今日は普通の人となるこの制度で、半減計画は達成された。2004年には、速やかな出国を条件に通常5年間の上陸拒否期間を1年間に短縮するなど恩恵を与え、不法残留者に出頭を促す出国命令制度も導入、不法残留者を減少させるためにいかに入管当局が必死だったかが浮かぶ。 

 

警察や入管当局は非正規滞在者を「犯罪の温床」だと非難の的にするが、5万人の法違反者を正規化し、日本社会での暮らしを認めたところで、治安が悪化したという話は聞かない。 

 

入管当局が強調する「国民が安心して暮らせる社会の実現に貢献した」との真相は強制送還による「犯罪者」の追放ではなく、日本社会に普通に暮らす非正規滞在者への在留資格の付与だった。半減計画実施中に在留特別許可の業務に携わった元入管職員、木下洋一は「不法残留者をとにかく半減するのが至上命題で、多くの在特を出しました」と振り返る。 

 

「この間、摘発を強化していたのは事実です。ただ、入管の職場はそれ以上に、とにかく在特を出そうという雰囲気に包まれていました。『在特祭りだ』と言って非正規滞在者を正規化していったんです」 

 

当局の摘発や自らの出頭で在留資格のない外国人の入管難民法違反(不法残留、不法入国など)が発覚した場合、強制退去に向けた手続きが始まる。入国警備官による違反調査の後、入国審査官による違反審査、特別審理官(職種は入国審査官)による口頭審理、法相よる裁決という3段階の調べを経て、法相が「特別な事情がある」と判断すれば、在特が出る仕組みだ。半減計画の実施期間中、入管当局は在特を出す基準を緩め対応した。 

 

「子どもがいたり、日本人と結婚していたり、そういう一定の条件がある場合、すぐに在特を出していました。『スーパー在特』と内部で呼ばれているようなものもあって、一日で許可を出したこともあります」と木下は言う。 

 

「違反審査を割愛し、口頭審理でも『結婚しているんだよね』などと簡単な確認で終わりです。半減計画が達成しなかったら、幹部の首が飛ぶみたいなうわさも流れて、ある程度の条件があれば一律に許可を出していました。ある意味で公正な行政でした」 

 

入管当局は2009年以降、在特許可の厳格化に方針転換する。2004年には1万3239人だった在特の許可人数は2017年には1255人にまで減少、2018年は1371人で同水準が続いている。入管庁は「在特の許否に当たっては、希望する理由や家族の状況、人道配慮の必要性などを総合的に判断しており、(運用に)特段大きな変更はなく従来どおりだ」と強調する。 

 

しかし、退去強制手続きで、口頭審理後に法相の裁決で在特が認められる外国人の割合(在特許可率)は2004年に93%だったのに対し、2017年には50%、2018年には64%となっている。 

 

非正規滞在者の支援にも携わる弁護士の指宿(いぶすき)昭一は「現場の実感として、以前は日本人と結婚し子どもが生まれた外国人にはすぐに在特が出ていましたが、最近は子どもが生まれたとしても2歳ぐらいになるまで認められないケースが多いです」と指摘する。 

 

在特が厳格化される中で、増えていったのが入管施設の収容者の増加である。帰るに帰れない事情を抱える非正規滞在者の救済の道を狭めた当然の帰結とも言える。 

 

国士舘大学教授、鈴木江理子は「医療費も食費も含めて収容には予算がかかるし、強制的に送還しようとすれば、国費を使わざるを得ません。非正規滞在者を追い詰めるのはかえってマイナスです」と訴える。 

 

「長期収容で非正規滞在者の身体、精神を破壊するよりも、長期の在留で身につけた日本語力をはじめとする能力を生かしてもらったほうがいい。労働力不足というのなら、在特で滞在を正規化すれば、非正規滞在者本人だけでなく、日本社会にとってプラスになります」(鈴木) 

 

半減計画期間中にはどんどん許可し、終わった後は蛇口の栓を閉めたかのように認めなくなる。行政の平等原則という観点から見ても疑問が湧くが、それが可能になる根拠が入管当局に与えられている「裁量」だ。そんな裁量行政を下支えしているのが40年以上前の判例である。 

 

 

外国人の入国や在留といった日本の出入国管理行政を考えるとき、避けては通れない一つの判例がある。 

 

「外国人の受け入れは国家が自由に決められる」「法相の裁量は広範である」「外国人の基本的人権は在留制度の枠内で与えられている」との点に要約される1978年10月4日の最高裁判決で、原告の氏名にちなみ通常、マクリーン判決と呼ばれている。不透明で野放図な裁量行政を容認するこの判例は、入管当局の決定を正当化する根拠となっている。 

 

入管当局やその主張に追随する傾向の強い裁判所は40年以上、この判例に固執するが、学者や弁護士からは判決自体の問題点に加え、判決後の日本を取り巻く国際環境の変化から見直しが必要だとの批判は根強い。それでも、入管当局や裁判所がこの判例に依拠し、非正規滞在者の訴えを退け続けている。 

 

米国人ロナルド・アラン・マクリーンは1969年5月、語学学校の英語教師として来日した。在留期間の更新を求めたが、入管当局は1970年5月に拒否、理由として無届けの転職や、外国人ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に所属し、米国のベトナム戦争介入に反対する政治活動を実施したことを挙げている。 

 

入管当局の決定を不服として、マクリーンは提訴する。一審判決はマクリーン側の主張を受け入れ、更新を認めない入管当局の処分を取り消したが、控訴審は一審判決を取り消し、最高裁はマクリーン側の上告を棄却した。判決要旨は以下のとおりである。 

 

・憲法は外国人の入国については何も規定していないから、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決定できる 

 

・憲法上、外国人は入国する自由を保障されているわけではなく、在留の権利や引き続き在留することを要求する権利を保障されていない 

 

・出入国管理令(当時)は法相の裁量範囲を広範なものとしている 

 

・裁判所は、法相が判断の根拠とした事実に間違いがあったり、評価が合理的でなかったりした場合に、社会通念に照らして著しく妥当性を欠くかどうかについて審理する 

 

・外国人に対する憲法の基本的人権の保障は外国人在留制度の枠内で与えられているに過ぎない 

  

外国人には、在留制度の枠内でしか基本的人権はなく、受け入れるかどうかは法相が自由に決め、裁判所もよほどのことがない限り口出ししない。言葉は悪いが、おおむねそんな内容である。 

 

入管当局の法務官僚、池上努は1965年、著書で「(外国人は)『煮て食おうと焼いて食おうと自由』なのである」(『法的地位200の質問』)と書いたが、こうした考えは著書刊行から13年後、裁判所からのお墨付きを得たとも言える。 

 

一方、入管当局の自由裁量を容認する判決には当然多数の批判が存在する。代表的な論者が元最高裁判事の泉徳治だ。 

 

「外国人に対する憲法の基本的人権の保障は『外国人在留制度の枠内』で与えられているに過ぎないということは、外国人在留制度が憲法の上にあり、法務大臣の処分について違憲の問題は生じないということである」。泉はそう指摘し、入管難民法が憲法よりも上位に位置づけられた判決の奇怪さを非難する。 

 

「外国人在留制度も国家権力の行使として憲法の枠内で運営されるものであり、法務大臣の入管法に基づく処分についても違憲の問題が生じうる」(「統治構造において司法権が果たすべき役割―マクリーン判決の間違い箇所」『判例時報』第2434号) 

 

髙谷准教授はマクリーン判決後の国際環境の変化を指摘する。「1978年以降、日本政府は多くの国際条約を批准しています。条約を踏まえて考え方を見直すべきです」 

 

日本政府は1979年に家族への恣意(しい)的な干渉の排除や国家による家族の保護をうたう自由権規約を批准、1981年には適切な難民保護を義務付ける難民条約に参加した。さらに、子どもの権利条約も1994年に批准している。確かに国際条約の影響を受け、裁判所が変化を見せた例もある。 

 

東京地裁は1999年11月12日、日本人と結婚したバングラデシュ人に在特を与えなかった法相の裁決は自由権規約の趣旨に反するとして、入管当局による退去強制令書を取り消した。しかし、こうした事例はごくわずかで、多くの裁判官がマクリーン判決を踏襲し、非正規滞在者の切実な訴えを退けている。 

 

国際条約を軽視する姿勢には、国連機関からも批判が相次ぐ。自由権規約委員会は1998年、「裁判官、検察官、行政官に対し、規約上の人権についての教育が何ら用意されていないことに懸念を有する」と非難した。 

 

子どもの権利委員会も同年、日本政府に「子どもの権利条約が国内法に優先し国内裁判所で援用できるにもかかわらず、実際には、裁判所が判決の中で国際人権条約一般や子どもの権利条約を適用していない」と懸念を表明している。 

 

欧州諸国では、欧州人権裁判所が家族関係への考慮を理由に各国政府の強制退去処分を違法とする判断を相次いで示している。 

 

例えば、1991年2月の判決。ベルギー政府は強盗などを繰り返し22の犯罪で実刑となった20歳の男を強制退去処分としたが、男は2歳でモロッコからベルギーへ移住、家族がベルギーに暮らしていることを理由に、欧州人権裁判所は強制退去処分を違法としている。家族への干渉を禁じる自由権規約17条と同趣旨の欧州人権条約8条が根拠だった。 

 

国際条約の批准を機に、人権を巡る環境が根本的に変化したのに加え、人の国際移動の観点でも日本は現在、マクリーン判決時とは全く違う国際環境の中にある。1978年の訪日外国人数は103万8875人で、在留外国人数は76万6894人。 

 

それから40年以上が経過し、2019年の訪日外国人数は3188万2100人(政府観光局)、在留外国人数は282万9416人(入管庁、2019年6月時点)になり、いずれも過去最高を記録している。 

 

街中には、外国人観光客があふれ、都市圏ではコンビニのレジは外国人留学生のアルバイトばかりだ。40年前と同じ外国人観を抱く日本人はほとんどいない。定住する外国人の国籍も多様化する中で、様々な立場で暮らす外国人を一括して「外国人」という概念でまとめられるのかどうかも再考の余地がある。 

 

入管当局はそれでも「外国人の受け入れは国家が自由に決められる」「法相の裁量は広範である」「外国人の基本的人権は在留制度の枠内で与えられている」と繰り返す。「裁量」を武器に在特の許否を判断し、マクリーン判決を盾に正当化する。裁判所も40年以上、マクリーン判決に判断の枠組みを委ね、多くの裁判官が入管当局の姿勢を追認してきた。 

 

「欧州諸国でも、政府は日本と同様、非正規滞在者を追放しようとします。けれど、裁判所が強制退去で得られる公益と追放される非正規滞在者個人の私的な損害を天秤にかけて審理し、非正規滞在者を救っています。日本とはそこが違うんです」 

 

入管問題に詳しい弁護士の児玉晃一が指摘する。「日本の現状を変えるには、マクリーン判決を踏襲する裁判所が変わらなければなりません。マクリーン判決が諸悪の根源なんです」 

 

 

 
 

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