( 320174 ) 2025/08/30 04:02:01 0 00 =+=+=+=+=
物事に対して様々な批判や意見があるのは重々承知だが、何かを廃止したり禁止するにあたってどの程度客観性が担保できているのか、どういった主張がどの程度あるのか、どういった団体が精力的に動いたのかを明らかにしてほしい。 私個人として裸婦像が無くても別に困らないが、逆にあったからといって猥褻な物という認識も無い。何をもって「ふさわしくない」のか説明できる人が居るなら出てきてその判断の正当性を堂々と主張して欲しい
▲1111 ▼163
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欧米では意外と裸婦像を屋外で見かけることが少ない。その国の宗教と関係していそうだ。 暗黒の中世ヨーロッパ時代は偏狭な教義に支配され暗く重苦しい閉塞的な社会が長らく続いたが、やがてルネッサンスの時代を迎えきらびやかな文化の花が咲き誇り、ミケランジェロやレオナルド ダ・ヴィンチといった天才芸術家を産み出した。 絵画や彫像のモチーフに裸婦は多用されている。 だが、屋外では殆んど目にしない。現代においても宗教の呪縛は色濃く残っているのだろう。 我が国には欧米の様な宗教的な呪縛は無いと言って良いだろう。 では、何故40年前には芸術として迎え入れた少女像が今問題視されるのだろうか。 公園や公共施設のモニュメントとしての裸婦像に性的な問題提起を投げ掛けられるのは何故だろう。 もしかしたら日本人の芸術への見方が偏狭になってはしないか? 日本は正に逆ルネッサンス時代を迎えようとしているのか?
▲57 ▼57
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この彫像が創られた時代の美意識や社会的価値観と現在生じている様々な性犯罪に対する恐怖感を考えると、残念ですが”少女の裸像”というだけで、現代社会に潜む歪な性を煽るまたは刺激する気が致します。 このような「裸婦像は時代に合わない」という価値観が出てきたのは異様な性犯罪の増加にあるように思えます。この作品をずっと眺めているだけで周囲の目が気になるのはやはり時代と共に変わった社会通念なのでしょう。
▲119 ▼233
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美術の世界では人体は基本的なモチーフとして扱われてきた。 特に裸体は時代性や流行に左右されない普遍性の意味もあったのだろう。 男性より女性が多いのは(男性像がないわけではないし自分もちゃんと数えたわけではないが)、単に曲線的な美意識や平和的表現との相性が良かったのではないか。
人体クロッキーの話になるが、一例を挙げると、胸郭の立体はやや後方に倒れ、骨盤の立体は前方に倒れている。この角度が女性のほうが広いので表現はしやすい。 湾曲が大きかったりコントラストが強かったりするほうが表現の幅が大きく劇的になる。
理由をつければ公的な空間から排除できるのであれば、美術館に移したところで同じことではないのか。 次は美術館が標的になり、裸体でないものも別の理由で標的になる、という流れには警戒感を覚える。
▲382 ▼117
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芸術センス無いから正直裸婦像の良さは分からない。でもそれを猥褻と思ったこともない。今はだいぶ見かけないけどコンビニや本屋に行けばもっと露骨に猥褻なエロ本が子供の時はゴロゴロしてたしネットが普及してからは誰でもエロに簡単にアクセスできるようになった。本当に撤去でもなんでも良いけど裸婦像取り締まる前にもっと取り締まった方がいいコンテンツで世の中は溢れてる気もする。
▲306 ▼31
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『未成熟な少女像は同世代の子どもたちに“自分がさらけ出されているかのような感覚を呼び起こし、それが抵抗感につながっているのかもしれない』
見ていて恥ずかしくなるような感性や子どもに作品の意味や歴史的背景を全く説明できない大人の無教養を恥じるべきですね。「感情の安全」を神経質なまでに保護するのは私的領域だけにすべきです。公的空間は物理的安全性は担保される空間ではありますが「いかなる不快な感情も惹起されないセーフスペース」ではありません。
『裸婦像をめぐる議論は、公共空間における表現のあり方と社会の価値観を考えるきっかけとなりそうだ』
裸婦像がダメなら、ミニスカで胸の大きさを強調した若い女性二次元画像広告や、上半身はほぼ裸に近いトレーニング系広告なんかも当然アウトになるでしょう。夏場の露出の高いファッションも、度が過ぎると美術館でもゾーンニングが必要になるでしょう。
▲21 ▼34
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銅像が色々なところに設置されていますが、服を着ているのと、裸なのってどっちが多いんですか??
とりあえず、公共の場所で裸体を人前で晒してはいけない。 という公序良俗があり、成人向け雑誌も封をが施されている。
でも、銅像なら、堂々と裸である。
銅像なら、裸体でいい。というルールを教えてほしい。
▲5 ▼5
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公共の場にある裸婦像の「はじまり」については、記事で簡単に説明されているけれど、専門家の論考では戦後まもなくに「平和の象徴」として、ローマの三美神をモチーフにしたものとのこと。裸であることは包み隠すことのない真実をあらわすということ。 けれどもその後、全国各地に増えた裸婦像(女児を含む)は、「なぜ裸なのか?」という部分に説明が希薄だと指摘されてます。その論考では、彫刻の教育において裸体を表現することが重視されてきたことも指摘されています。 単に平和の象徴というなら「着衣」でもいいわけで、作品のコンセプトとして「裸婦像」である必然性を作者が理論的に説明できないのでは(つまり深く考えずに裸としたのであれば)、作者の言い分に賛成できないかなぁ
▲170 ▼53
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芸術史では、裸と日常生活はしばしば規制された題材。 自由に創作が出来るようになると、自由の象徴として裸や日常生活が描かれるようになる。 或いは自由を求めて、抵抗運動として裸や日常生活を描いて捕まった芸術家たちもいた。 日常生活を題材とした作品は芸術運動として評価されるが商業的には注目されない。 一方、裸は商業的に消費されていく中で「自由」という重要な目標と分離され性的な意味合いを持たされ、再び禁止される。 世界中で何度も繰り返されてきた歴史。
▲10 ▼11
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自分はアラフィフ男性ですが、若い頃はやはり性的な目で見てしまったり、気恥ずかしかったりした。 不思議な事にこの歳になると、女性の裸体は曲線が綺麗に感じたり全体のバランスでシルエットが美しかったりと芸術目線で見られる。 男性の裸体は筋肉の付き方や骨格で逞しく見えたりとこちらも芸術目線で見る。 スマホを見れば過激な画像なんていくらでも見られるのだけど、公共の場の裸婦像はたしかに賛否両論になると思う。 これも時代の流れなんだろうなと感じてしまう。 ただ、裸婦画や裸婦像は芸術という目線で見る事もできるのは事実なので後世に遺していってほしいとは思う。
▲202 ▼77
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ヌード像の撤去は、公共空間をより多くの人々にとって快適で包括的な場所にするための重要な一歩です。性的な対象として見られがちな表現をなくすことで、特に女性や子どもたちが不快な思いをすることなく、安心して過ごせる環境が整います。芸術の自由と公共の福祉を両立させるためには、時代に合わせた表現の見直しが不可欠であり、ヌード像の撤去はその流れを汲んだ、現代社会に即した適切な判断だと言えると思いますよ。
▲31 ▼63
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置く場所と少女裸像が問題です。遊びに行った公園に少女のリアルな裸像が唐突に置かれて、同じ年頃の女の子が心の準備なく見てしまい恥ずかしいと思うのは当たり前です。思春期前の多感な年頃に差し掛かる時に嫌悪感を抱くと思う。特に昨今は教師から児童に対する盗撮の事件も見聞きしていて過敏になるのも仕方がないと思う。最近は性教育の一環で水着で隠す部分は見せたり触らせたりしない、と教えられており違和感を抱く。 決して裸を卑しいものと見ているのでは無く、 美術館で鑑賞するならまだ芸術と理解もできそうですが。 芸術だから公共の場所に置くのはどうしても抵抗感があります。
▲118 ▼14
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佐賀県にバルーンフェスタを見に行ったとき、県立美術館にも立ち寄った。美術館の周りは公園になっていて、遊歩道には地元出身の彫刻家の裸像がたくさん立っていました。公園の雰囲気にもとても合っていたのですが、佐賀県でも同じような意見が出るのでしょうか。私は素敵な公園だと思いました。
▲219 ▼71
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欧州など海外から来られた方は、日本は公共の場に裸婦像があることに驚くそうです。そういった芸術作品は本来美術館にあるものだからだそうです。 個人的には、芸術と称して少女の裸婦像を作成することに気持ち悪さを感じますね。少女にどんなイメージを押し付けているのか…。 どのみち国際基準に準じた判断ができる自治体になっていけたらと思います。
▲88 ▼57
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昔からの文化的な物を維持するのも、時代の変化に臨機応変に対応するのも、両方とも大事で正解の無い問題。
ただ、裸婦像が性的な刺激になってしまい事件に発展する様なら別。 美しいと認識する感性、芸術と性はどうしても二面性がある。
全国の撤去した裸婦像をまとめて、後世にも伝えられる美術館などが作れれば理想的かと。 もしかしたら裸婦像にも地域性や時代の流れなどがあったりと、新たな発見に繋がるかも知れない。
▲2 ▼0
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瀬戸内国際芸術祭の会期中に芸術作品を撤去とは寂しい話ですね。
「批判する意見が多く寄せられた」とのことですが、そもそも気にしない人、性的ではなく芸術的目線で見る人は批判などしません。 批判した人が市民の内のどれだけの割合かもわからないのに、一方の声高な意見だけを聞いて撤去するというのも如何なものかと感じます。
恐らく多くの市民は寝耳に水、もっと広く市民の意見を聞いてから決定すべきだったのではないでしょうか?
▲362 ▼107
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悲惨な戦争を経験し、平和の象徴として置かれた像も、日本が本当に平和になり次第にその意味も風化し、 そういう像が普通に公共の場に建てられているという事自体が、日本が戦火や独裁政権の国ではない有難い社会だという事も忘れ去られ、 只々、性的だからと撤去される。
もしかしたら、女性からすると当時から勝手に平和の象徴とされ、違和感を言う事すら出来なかったという捉え方もあるかもしれない。 そうであれば実は、平和の像が目指した誰でも声を上げられる、「真」に平和な時代になったという事かもしれない。
ただ、これを子供たちに語り継ぐ大人たちは、撤去の理由だけでなく、なぜ設置されたのかも忘れ去らずに伝えてあげてほしい。
また、ひとつの時代の遺産として大切に保管していただきたいです。 そしてやはり、 替わりに平和の象徴とまではいかなくても、街行く人々を平穏に見守るような、素敵なアートを置いて下さい。
▲0 ▼0
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像といえば昔から気になっている事がある
土偶は豊満な女性像は度々見かけるが、男性像は希少だ。 逆に埴輪は男性像は多々あるが、女性像は半身像と全身を表す立像があるが、女性らしい全身を表す立像は希少であり、また身体的に女性を示す胸の突起が土偶に比べ乏しい
土偶は、豊穣や子孫繁栄を願う事から作られており、男性像を制作する意義は今も定説が無い 埴輪は主に古墳(権力者を埋葬した場所)に祭事的な意図や埋葬者の生前の権力の強さ等を示す目的があり、そこには女性という存在は求められてはいない
この問題で識者が度々回答する「戦前は軍人等を讃える等の意図で像が作られていたが、戦後は平和の象徴として裸婦像が作られる様になっていた」という話は、戦前は弥生時代の権力と結び付ける埴輪的発想で、戦後は縄文時代の土偶的発想で像が作られたのだろうか
今の時代は、土偶的な「何かを願う」為の像は求められていないと考える
▲37 ▼63
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「児童ポルノ」を禁止する法律が出来る前は少女の裸は「猥褻」にはならないとされていたので少女の裸の写真や映像などが巷にあふれていた。法律で禁止されてからは写真や映像は人目につかないようになったが銅像や石像など大きく重い物は残っていた。ああいうのは「芸術作品」「美術品」と言われて残されていたが、あれも児童ポルノに含まれると言う解釈が一般的になったようだ。
▲57 ▼18
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裸婦像を作成される人に芸術的感性としての作成意欲はあると思うが卑猥な感性で裸婦像を作成する作者はいないと思います
撤去されたとしても困る物ではないが芸術作品に裸だからといって難癖つけたがる方々もどうかと思うし1部の人に少々クレームを受けたからと言ってすぐに撤去に繋がるのもどうかと思う
芸術としての説明文を着け、決して卑猥な目的で作られた作品ではないという理解を求める事も大切なように思う
▲22 ▼37
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古代より人(特に女性)の一糸纏わぬ姿は芸術的であるとされてきたが、性被害防止の観点から、近年は「必要なとき以外裸を他人に見せない」という教育が行われるようになった。この教育を受けた世代は別に裸を蔑視しているとか、汚らしいものと認識しているというわけではないのですが「裸は見せるべきではないもの」という価値観が浸透しています。したがってこのような流れは必然といえるものであります。 人間社会において芸術と性被害防止のどちらを優先するべきかは明白であり、これは避けられない流れで止むを得ないものだと考えます。
▲43 ▼8
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撤去が一種のブームのように広がっている気がします。私は芸術に詳しくはありませんが、裸婦像について調べてみると、その芸術性の奥行きに感心させられました。学びのきっかけになる一方で、学びを前提にしないと公共の場に置くことが難しいと見なされるのも理解はできます。ただ、それを理由に一律に撤去が進むのはどうなのかな、と感じます。
▲40 ▼42
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裸体像がその地域が成長することに引っ掛けている、という作者さんの思いを、その像を見てどれだけの人が理解できるものなのだろう。 多くの人は、何でこんな所に裸体像、としか思わないから問題になってしまう。 作者さんには気の毒だけど、思いが伝わらないのなら仕方ない。 芸術品として美術館に展示したほうがいいと思う。
▲305 ▼111
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裸婦像は昔から色んな場所に置いてあってその場所の象徴のようになっています。子供の頃から見てるモノもあるのでその場所に馴染んでいてイヤらしいとか性的なモノとか一度も思った事がありません。 美術館にも小さい頃から何度も行ってますが裸の絵が飾ってあったりもしますが性的な目で見る事もありませんでした。それは芸術性があるモノだからです。恥ずかしいと言ってる子供は芸術作品を見る機会が少ないまま育ったからだと思います。芸術家が作った作品をそんな理由で撤去してしまうのは侮辱してるのと変わらないと思います。身近に芸術を見れる機会を失くさないで欲しいです。
▲95 ▼68
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ファッションには流行がありますから、例えば裸婦像に服を着せた造形にするにしてもそれが普遍性を持った表現となるのか疑問です。人間の身体ってそんなに汚い(穢い)ですか?
今回撤去されることが決まった少女像の実物を私は見ていないので、あくまで一般論としてです。また撤去を決めた当該自治体の市民の決定は尊重されるべきだと思います。 溶かされてただの銅に戻るのではなく、見る人を選ぶとしてもどこか適切な場へ移設がなされればいいですね。
▲3 ▼1
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これも時代の変化だと思います。別に裸を軽蔑したりするつもりもないし、作品としても問題があるとは思いませんが、やはり屋外というのが今の時代は厳しいのだと思います。一緒にすると、この作品の作者や作家から一緒にするなと言われそうですが、映画なんかでも、暴力や露骨な性描写が描かれてる作品はR指定になります。要はそれと同じだと個人的には思います。
▲21 ▼4
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個人的には気になりませんが、本来男性は本能的に視覚情報に反応するものですし、西洋でも100%受け入れられている訳ではありません。 老朽化も進んでいますし、一過性のブームのように建てられたような経緯もあります。 結局、ミロのヴィーナスやダビデ像のような、普遍的な価値の段階まで到達出来なかったのですから、時代とともに入れ替わっていくのも仕方がないように思います。
▲26 ▼3
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公園や駅前にある裸婦像、昔は「平和の象徴」や「文化的」として自然に受け入れられてたけど、今は「性的に見える」と撤去の動きが出てきているのは時代の流れ、変化を象徴してると思う。 高松の少女像のケースも、作者の思いは「成長や地域の発展」なのに、子どもたちや市民の一部は「恥ずかしい」「刺激的」と感じてしまう。 芸術と性的表現の境界は見る側の価値観に左右されるから難しい問題だと思う。 裸=恥ずかしいという価値観が広がれば、公共の芸術はどんどん縮小してしまう危うさもある。とはいえ公共空間は誰もが利用する場だから、違和感や不快を持つ声が増えれば維持しにくいのも現実。 結局は移設や展示方法の工夫で折り合いをつけるしかないのかもしれない。
▲31 ▼21
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「裸婦像がその場に相応しくない」と言う声があるのが事実として、それは市民の総意なんだろうか、思う。「設置されるべき」まで強硬な人がどれほどいるかと考えるとそれは少数派ではないかと言う気がするが、あることを認める人の方が多いと言うのは十分考えられる。
今回の報道を受けて、撤去を撤回するべきと言う声が(実際には今から動いても手遅れなのだろうが)撤去を求める声以上に集まったら、いったいどう対応するんだろう。
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裸婦像ね。 見かけるものでは割と突っ立ってる だけというポーズのものが多い気が する。戦後の平和になったことを 示す意味は今の若い人に裸婦像から 読み取れというのはもう無理だし、 立ってるだけの構図から生命力云々を 感じられるかというとそれもなかなか 伝わらんという事では。
いっそ構図が極端であれば裸である よりそちらに目を奪われるからまだ 目立ちにくいのかもしれんね。 池袋駅東口の大地の像とか、友人は かつて「のけぞり」と呼んでいた。 あれも良く考えれば男女裸なんだが 確かにあれはのけぞりという印象が 上回ってる。
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公共におけるパブリックアートはその時代時代で審査基準は変わります。芸術的であるかどうかより、パブリックスペースでのあり方が重要です。受け取り手が不快に感じるのであれば、公共の場には置かないのは当たり前で、それも含めて芸術なので撤去し美術館に飾ればよいと思います。
▲76 ▼32
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このニュースを見ていました。この彫刻家の主張がこの記事ではまるまる抜けているので伝えたいことが伝わらない気がします。なぜ少女をモチーフにしているかというと、戦前は軍人など男性の像がたくさんあったが、戦後になり自由になったのと、少女は成長していくので戦後の社会の発展を成長に重ね合わせており、また女性は子供を産める性であり、新しい人間を産むことができる生命体としての尊さ、生命力の象徴として表現しているとのことでした。だから女性の像でなくてはならないそうで、これを聞くとなるほどと思いました。
▲14 ▼51
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結局何かをやれば、どこかしらクレームは付くものです。軍人の銅像を立てれば戦争を美化して再び戦争が起こると言い始める人もいるだろう。個人的には市町村のゆるキャラを建ててくれたら嬉しい。東京稲城市ではガンダムをはじめとしたロボットデザイナーがデザインしたハロみたいな像が駅前に立っている。ガンダム好きな人は1度は見ておくと良いです。そうなるとアニメマニアが集まって気味悪いとかクレームが出るのでしょうね。
▲7 ▼5
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小学生が恥ずかしいと思ったと言う事だが、だから撤去と直結するのでは無く、新しい教育の機会と捉えることはできないのか? 実際の感情として恥ずかしい気持ちになったのは、紛れも無い事実でしょう。 では、なぜ恥ずかしい気持ちになったのか、裸婦像やヌード写真や絵画は何故芸術作品と言われるのか、裸婦像やヌードの歴史はどんなのか等々、そう言う事を改めて考えてみるチャンスとして、子供達の探究心を芽生えさせる機会にして行くことが大人の役目じゃ無いのだろうか。
▲30 ▼47
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自分の家や美術館に飾るなら好きにすれば良いがだが、公の場所に置いたら、どう受け取るかは見た人に委ねられる。 仮に卑しい目で作ってなくても第三者には分からないし、抗議するならチャイルドポルノとどう違うか説明してもらいたい。 趣旨は違うとは思うが、客観的に判断できるかどうかが問題。
▲96 ▼31
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美術館によく行くけど、芸術における女性の裸の表現って、本当に男性の欲望は1ミリも入っていない純粋な芸術なの?と疑わしく思うことがある。なんで服着てたらいけないの?それとも欲望込みで芸術なのかな。 まあルノワールやピカソだって裸婦像描いてるけど。
男性の欲望が入ってる像を見せられるのは嫌だけど、だからといって規制という方向に動くと、自由が制限されて窮屈な社会になるしね。難しい。
▲55 ▼14
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子供の頃から何で外なのに裸なのか意味が解らなかったし、今でも裸婦像が芸術と言われる意味が解らない。別に卑猥とも感じないのだが、何故裸である必要があるのか全く理解できないだけなのです。ブロンズ像にしても粘土細工の延長みたいで表面の仕上げも雑なものが多く、奈良の大仏の方がよっぽど素晴らしいと感じてしまう。
▲31 ▼2
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なんでもかんでもダメな世の中になりましたね。今までが自由すぎたのでしょうか。そんなこともないと思いますが。殊更にマスコミが取り上げるのもそういう風潮になった一つの要因だとも思いました。 そういう目で銅像を見たことないですけどね。確かに色々な考えがありますよね。なぜ女性、女子の裸像が多いのかとか、でも美大とかでもヌードデッサンは女性のイメージですが。美大のことは詳しくないので違ったら申し訳ないですが。 綺麗とか美しいとかそう言う意味合いもあったのかな芸術として。児童ポルノ法に抵触するわけでもないし、そう言う声があるからすぐ撤去ってやってたら言ったもん勝ちじゃないですか。モンペと同じ。 撤去じゃなくて、もっと作った人の思い、作られた背景などを理解してもらうように説明していったらどうでしょうか。 どうも腑におちません。
▲1 ▼5
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この彫刻は写実的な表現なだけに、見る人によってはまるでヌード写真を見せられた時のような羞恥心や不快感を覚えるだろう。 公園のような公共の場所では「芸術であること」は免罪符にはならない。 小学校の教室に女性のヌード写真を貼ることが不適切なのと同じではないだろうか。
▲50 ▼5
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芸術と捉えるか性的なものと捉えるかは、その人次第でしょうね。 まぁ、その周囲で自慰行為するわけではないんだから、良いのではないか?
ただ、場所にもよるよね。 ただの公園や観光地に置いた理由は???
地元の芸術家の作品を採用するなどの規定はあるだろうが、なぜそこに裸婦像なのかという理由を答えられるのは、多分芸術家だけなんじゃないかな?
平和や融和、共生をイメージして像を作ったとしても、それを見て全員が全員平和をイメージするとは限らないわけだからね。
▲6 ▼5
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美術館と公園とかは違うでしょ?正直芸術性が高いと思いません。嫌でも目に入る場所に置くのはどうかと思いますよ。なぜ裸である必要があるのかなと思います。私は不快に感じます。裸を蔑視なんかしません。誰もしないでしょう。公共の場に必要かどうかはよく考えて欲しい。
▲22 ▼2
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美術をやっていた人ならわかるが、裸婦デッサンをしてもそこにエロスという気持ちは湧かない。ただ女性や人体の美しさ、神秘のようなものを感じる。作者がそういった人体の美や裸婦を通じて他の表現したくても、女体=エロスと感じることしかできない人々のせいで肩身が狭くなるのは嘆かわしいことだ。これをエロスとしか判断できない人は美術館に行ったことがないのかな?女性キャラクターのポーズに文句を言ったり、最近はちょっと表現に過剰な反応をする人が多すぎる。
▲2 ▼11
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ルーブル美術館でもありましたね。ここの作品の作者は男性が多い。裸体像は女性が多いと。そういうことなのよ。
この作品も技術的なことから言えばまさに傑作だけど、裸を芸術だと無理に納得しなくてよくなったのは嬉しい。何も外で大っぴらに晒す必要もないでしょう。
▲1 ▼1
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一連の事案を見ていて、いつからこの国は明治の時代に逆戻りしたのかと驚きました。 ロダンの彫刻を見て、ギリシャの歴史的塑像を見て、ルノワールの描く裸婦を見て恥ずかしいですか。それを恥ずかしいと考えるその発想は何処から出て来るのでしょう。 猥褻に思えるのですか?だとしたらそう思った人自身の心が猥褻であるが故にと考えられませんか。 自分の裸がそこに晒されているように思えるのですか?だとしたらそう思った人の只の自意識過剰と思えませんか。 憶測ですが、これも一部の人の意見を拾い上げ、クレームになると面倒だからという現代日本の事なかれ主義的思考プロセスの為せるワザではないかと思っています。 こんな事が世間を騒がし記事になる事の方が余程恥ずかしいと思っています。
▲90 ▼42
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私の場合、その像のモデルまでを想像してしまうから、作品によってはとても気恥ずかしい思いをすることになる。 美術館の周辺ならまだしも、子供が遊ぶ公園にはやはり相応しいとは思えない。 朝倉文夫やロダンの裸婦像など、ため息が出るほど美しい作品は多々あるが、公園などにあるそんな作品をじっくり眺めていたら、単にスケベオヤジだと奇異な目で見られるしな・・・
▲1 ▼0
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報道の姿勢からして不自然でおかしい。裸婦像議論に関する他のメディアの記事でも同様な手法があったが、恥ずかしさを感じるという意見を子供の口から言わせている点。恐らくこれは実際に記者が子供に尋ねて得た感想ではなく、「子供が恥ずかしいと言っている」という意見をそのまま取り上げているのだろう。 また同様に、ニュースの視点が「なぜ裸婦像が街中に沢山建てられるようになったのか」となっており、過去に当然のように行われた行為がいかに間違っていたか、といったスタンスになっている。ニュースを扱うなら、なぜ近年裸婦像の撤去を求める動きが出てきているのかについて掘り下げるべきだ。 これらからうかがえることは、裸婦像を撤去せよという意見が高まり子供に「恥ずかしい」と言わせるまでなっているということであり、この勢力は名古屋城木造復元にエレベーターをつけろといった特定少数ではなく、より厄介な不特定複数によるものだ。
▲5 ▼17
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デッサンの場合体の骨格を理解する為に裸を描くのは分かる。でも作品のタイトルやテーマによっては別に服着てても良くない?って思う事は多々ある。
昔の裸婦を描いたルネサンスの宗教画や彫刻も禁欲的な規則をすり抜けるためのエロ側面があったとも言われてるし、公共の場には服着てる作品飾ったらいいんじゃないかな。服着てたら芸術じゃないってのもおかしな話だし。
▲34 ▼2
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古来からある宗教画のヌードとか、芸術の名の下にタブーを掻い潜らせていた側面もあるし、裸体像をエロと見るなというのは、本来難しいことなのかもしれない。
>未成熟な少女像は同世代の子どもたちに“自分がさらけ出されている”かのような感覚を呼び起こし、それが抵抗感につながっているのかもしれない。
それでもこの仮定は少々考え過ぎに思うが。
▲5 ▼4
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人間が裸で外歩いてたらアウトですし、裸の写真やイラストを公共の場の看板にするのもNG。じゃあ銅像は?となるのも時代の流れとして普通かなと思います。 昔の作品や海外の事まで言い出すとじゃああの芸術作品は?とかなるけど、少なくとも今の日本では、公共の場で特に未成年モチーフの銅像が裸である必要はないと思う。 これは芸術だという作家さんは個展や美術館でやればいいと思います。
▲100 ▼34
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1意見としてだめでしょ。 作成者の意見が絶対なら、かつてあふれた少女写真集はほぼすべて芸術をうたっていたので、同じ扱いとなるはず。 そして、像の作成当時は「芸術」のもとにモデルを了承した方々も、現在能勢論の意見を受けては後悔しているかもしれませんよね。 その場合晒されるので、本人が存在する被害者になりませんか? こんな議論は終わり(原則裸婦像は禁止)にすべき。 除外事項が議論される場合は公開討議実施。
▲11 ▼5
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パートナーに聞いたら昔から裸婦像や裸の少女像、ブルマ姿は普通に恥ずかしかったそうだ。でも男の考え主体の社会の在り方で、声をあげる機会もなかったから我慢は当たり前だったと。
今はこうしてSNSなどで嫌だと意思表示出来る。女の考えは男の考えるこれ位は普通とは解離している事を理解してくれる人がいるから良かったと話していた。
▲105 ▼22
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パッと見どういう意図で作られたのか分からない芸術で、性的な物を想起させるものを公共の場からひっこめるのは分からなくもない。 ただ、おかしな政治主張とかじゃなく、平和への象徴とか普遍的な理想を表すものであれば、簡素でいいから説明するプレートを代わりに置くとか何かしらのフォローが欲しいかな。 戦争を想起させる武器を持った男性像の対極として、丸腰の女性像を平和の象徴というのは理解できますし。
▲8 ▼10
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多くの日本人が知らないと思いますが。 日本が開国した明治時代の頃までは、そこら中で、男女関係なく、日本人は上半身が裸で公衆の面前に出ていました。 今なら、ヌーディストの集まりか?と言うくらい、日本人の多くが全裸に近い生活をしていたそうです。 西洋の近代化を目撃して来た時の政権のトップたちは、その時になって、初めて西洋と日本の違いを見せ付けられて衝撃を受けたそうです。 早速、日本人も、服を着ましょう。と全国に号令を出し、服を着ない人は、「恥ずかしい行為」と言う事をアピールしたために、段々と、人前で裸になることは「恥ずかしい」と思うようになったらしい。 人前で裸でいても、誰も、恥ずかしいとか思っていなかったのが、本来の、日本人の姿だった。 なので、裸婦像がその辺に飾ってあっても、日本人には、受け入れやすかったのでは、とも、言えます。 人前で、化粧していいる姿の方が、恥ずかしいけどね。
▲2 ▼8
=+=+=+=+=
裸像は古代ローマでもルネサンスでも“欲望の正当化”の歴史がありました。 一方、戦後日本の子供の裸像は「無垢、未来の象徴」として置かれました。
でも今は性犯罪が増える中で、公園に子どもの裸を無防備に置くのは不安を招く。この女の子像は細部まで造形されている部分もあり世界的にも美術史的にも異例です。
設置されて36年で作者の思いとは逆行して公共物の裸体への許容範囲が狭くなった。設置した1980年代は女性の嫌という声は役所も聞き入れなかっただろうし、言えるだけマシにはなったのでしょうが。
公園は今は知らない人に声をかけられたら無視しなさいという感じでゆったりアートだと親子で観て語らえない場所なんでしょう。
作り手の願いだけでなく受け取る側が安心して観れる場所に動かす事も大事だと思う。
▲13 ▼0
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今時の女性は裸イコールいやらしいと感じるのでしょう。芸術への偏見の方が強いのかな? 隠すことがかえって変質者を増やす事に繋がらないか怖さを感じます。 あるがままが自然ではないでしょうか。 偏見、クレームが時代の中心になりましたね、昔は良かったと思います。
▲1 ▼3
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置いてよいものとは何か。 だれが良し悪しを決めるのか? 誰も気にしないもの?スルーしてよいものかな? もしそうなら、新たに設置する場合、依頼される芸術家は苦しみそうだね。 裸婦象は少なくとも人々に何かを感じさせる存在として長年そこにあったわけで、それが恥ずかしいなら、ご苦労様と言って服でも着せてやるのが先じゃないかな。
▲0 ▼0
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裸は芸術性があって美しいものなんだという芸術家の意見も理解できますが、素人の凡人の私には心から理解することはできない。
私が小学生の頃も駅前に裸婦像があって、なんでこんなん作るんだろう〜なんでこんな堂々と裸を駅前に置いてるんだろ〜と思ってた。
今はさらに子の親となった身なので特に子供の裸の銅像はちょっと見てられないと思ってしまう気持ちはある。
だって、想像で作成したならまだ良いけど、モデルがいたのかも…と思うとそれって虐待にしか思えないしそんな作品を見て芸術って素晴らしいなんて感じない。
そして見たくないものを公共の場で芸術といって見せられるのは辛い。 芸術性もそもそも理解できる感性の持ち主じゃないから、夜道の変態と私にとっては何ら変わらない。
が、芸術家や芸術に対して理解のある人たちはきっとそうでないんだろうな。
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裸婦像や裸婦画に対して、何の違和感もなかったので議論の機会としてはいいとおもいます
刺激的すぎる、性的すぎると仰る人は、 建造された時から、またはジワジワなのか、 どのタイミングで違和感を感じたのでしょうか?
いい大人が裸婦像を見て性的と考える方が恐ろしいのですが…
後、そういった声が多くよせられた、とありますが 実際どの程度なんでしょうね。
裸婦像、画を見ないままミロのヴィーナスなんか鑑賞すればぶっ倒れるので、美術館はR指定にしなきゃですね笑
▲0 ▼1
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一方で男性も女性もない、性差をなくしてジェンダーフリーでいきましょうなどと言っていながら、女性の裸は公共の場にそぐわないなどと排除しようとする。だいたいこんなことを一生懸命に言っている人というのは同じ人達なのではないだろうか。子供達のことを考えてなどというけれど、子供が子供である時期なんてほんのちょっとでしかなくて、あっという間に大人になるのだから、子供のことなんて気にせず大人の感覚で勝手にやっていたら良いと思う。大体にして裸婦像を卑猥な目で見るという感覚の方がおかしいという気がする。
▲272 ▼146
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子供へのアンケートで恥ずかしい、気まずいという意見が多かったからそれは公共の場に相応しくないというのが規制理由として挙がっていました。 ならば同じように保険の授業やドラマのキスシーンやちょっとエッチな夜の女性なんかが出てくるシーンについて同じアンケートしてみて欲しいものです。 同じ結果が出ますよ。ではそれらは公共の授業でするのが、公共の電波で流すのが相応しくないのか聞いてみたいですものです。私はどれも規制不要だと思いますが。
▲4 ▼9
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子供の感性は大人の影響を受けることもある。周りの大人が性的興奮を覚えて見れば子供もそう思って嫌悪する。大人が精神性の高い芸術と見れば子供もそういう見方をする。子供は大人の鏡。個人的には撤去は残念におもう。
▲0 ▼3
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なるほど子供が成長していく姿を街の発展と重ねた作品だったのか。 その意味を理解できず性的にしかとらえられない、さもしい考えの人たちに撤去されてしまうのは残念ですね。既存の物まで規制にするのではなくこれからのものは考えて作るとかしないと工夫をすればよいと思います。
▲33 ▼76
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多くの人の心に響くものが、パブリックスペースに置かれるべき芸術だと思います。
作家の思いはあるかもしれませんが、個人的にはなぜ裸でなければならないのか、理解に苦しみます。 どうして服を着てはいけないのですか? 安易に裸を選んでいるのと違いますか?
多くの人が疑問に思うからこそ、撤去されるのでしょう。 多くの人が良いと思わないもの、撤去すべきと思うものは、芸術とは言えないのではないでしょうか。 飾るのなら、作者の自宅の中で飾ってほしい。
▲90 ▼51
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時代の変化もあるし、 撤去は仕方ないのではないか。 システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画も裸が多いって理由で弟子が腰巻を書き足したって話もあります。 そもそも、海峡を挟んで呼び掛け合う子供を表現するのに裸の少女2人が適したモチーフだったのかが疑問です。目線も合わせず棒立ちで楽しくなさそうですよ。 少女の裸を選ぶとしても、もう少しやりようがあったんでは?とモヤモヤしました。
▲0 ▼0
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写真や絵画のすばらしさをいくら説明しても理解できない人はいくらでもいる。魚とイルカ、ハチドリと蛾、鳥とコウモリも同じように見える人もいる。そんな人も自覚もせずにSNS等で言いたいことを言える時代になった。
▲3 ▼4
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誰もが目にする場所の撤去は大いにすべきだと思います。美術館や展示館などならば良いでしょう。あまりにも「裸婦像」が多くあり、よろしくないと思います。公に認めろと言うのなら「裸男像?」も同数置くべきでしょう。置くのならドレスを着せたいものです。ヌードは芸術ですけれど、公共の場にはふさわしくないです。
▲115 ▼77
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裸体の芸術性、元々西洋文化で キリスト教圏は裸体は不謹慎だったのだが、神話の神の裸体なら許された。 ギリシアやローマの神話を題材にし、 ヌード画でもビーナスでありダナエなのだと言えば通ったのだ。 洋の東西を問わず昔から裸体画や彫刻は、 芸術という名の下の煽情的な題材だった。 興味深いのは、サンピエトロ寺院システィーナ礼拝堂の ミケランジェロ天井画。 男性裸体が多く鼠径部も明瞭だったのだが 不謹慎だという理由で、別の画家により キリストはじめ35人の男性に布が描き足された。
私が知る範囲でこれはと思ったのが、 ムートンロートシルトというボルドーの銘醸ワインのラベル。 ある年にピカソの少女の裸体画が選ばれた。 ところが少女ヌードは不謹慎と批判され、 ピカソラベルのものは撤収され別のラベルのものと差し替えられた。
裸体は芸術なら良いのか公共の場では不謹慎なのか、 時代にもよるような。
▲5 ▼0
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裸婦像に限った話ではないが公園とか駅前とか公共施設とかによくあるこうした像やらモニュメントやら、芸術とかそれはそれで構わないが何故そこにそれがあるのか、そこにある本当にあるのか、これだけあちこちにあってあちこちに新しく作られるのを見るに実は予算消化が目的なんぢゃないかとか邪推してしまうのも事実。
▲13 ▼10
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同じ芸術でも彫像は良い、絵は良い。しかし写真は良いとはならないだろう。 見ていて恥ずかしいというなら、最近の水泳競技やビーチバレー、陸上競技も表に出せなくなる。 要は誰かの決め方次第。
▲1 ▼2
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人は裸体で生まれてきます 裸体は最もシンプルに作者の精神性を表現できます。 服を着せる時点で装飾のついた表現となります。
芸術は現実世界のコピーではありません。たとえ現実世界とそっくりでも作者が創造した独自の世界です。恥ずかしいと思う人はその人が作った独自の世界の中での話です。同じ物を見ていても、人によって独自の世界は異なるので、人によって感想が異なるのです。
撤去騒動は裸体像を作った作者にとってはとばっちりです。唯識を学べば分かってきます。
▲1 ▼1
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裸婦像は芸術的に美しいものであるし、性的なものである。 多面的なものであり、完全に分離できるものではない。 であれば、見たくないと思う人も見せられる場所に設置するべきものではないと思う。 美術館等のばしょのみに設置されるべきだ、当然男の裸体像も。
▲8 ▼0
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裸の婦人はなく、裸の少女だから。 わざわざ少女を裸にする必要ある?作者のテーマを聞いても、着衣じゃダメだった理由がわからない。 で、こういうのって大抵モデルもいるだろ?その点にも嫌悪感がある。
芸術って言えば何でも許されるわけない。 今の時代こんなこと言ったらダメだろうけど、成人なら女性らしさ、男性らしさの表現として裸体もあり。けど、子どもはどう?裸じゃないとダメなの?
私は公共の場に性別関わらず裸体像があるのは嫌悪感を覚える。美術館や博物館で見たい人だけに見せるので良くないか?
▲9 ▼0
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難しい話ではあり、できるだけ誰もネガティブな感情を抱かない社会が理想とも思うが、一部のマイノリティ意見を全部反映したら、多様性ある文化が全部無くなるのではと心配になってきます。
▲1 ▼5
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「著名な芸術家」という属性が高齢の男性に著しく偏ってるという問題が裏にあるんでしょうね。あるいは公共の場にどの銅像を飾るかの決定権を持つ人間の属性もそれと同じであるということも。 ドラえもんのしずかちゃんお風呂問題も同じで、男性目線だと「女性の裸を見たがるのは自然なこと。神聖なものでもある。見られた人はもっと喜んでいい」みたいな能天気な意見になるんだろうけど、女性の、特にそういう男性目線に忖度できない少女とかは「どうして自分たち(に似た人)ばかり裸にされるんだろう」という素朴な疑問が出てもおかしくない。 これまではつくる人・決める人の意見に誰も逆らわなかったのが、そうでない人も疑問を口にするようになっただけ。 というか、環境型セクハラで職場に女性のヌードカレンダーが貼られるのを禁止したのって何年前だよ。
▲62 ▼12
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>理由は「少女の裸が刺激的では」「性的ではないか」という意見が多く寄せられたためだ。
それの何がいけないのだろうか? 全くいけない理由はないのに、脊髄反射的にいけないと思い込んでないだろうか?
いけない理由をあげてみて欲しい。 何か社会に悪影響を及ぼすだろうか。 実際に、悪影響が出た例でもあるのだろうか。
こんな像があってもなくても、世の中は何も変わらないと思う。
▲2 ▼0
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実は昭和40年代には裸のカラー写真は繁華街に氾濫していた。日活ロマン映画の大きな看板も目立つところに上がっていた。昭和60年に風営法が施行されると、それらは下火になり、モノクロの銅像ならいいだろうと後押しする雰囲気があった。
▲1 ▼0
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>「作品は海峡を挟んで呼びかけ合う子どもたちを表現した。幼い子が成長していく姿を地域の発展に重ねた」と語る。
でも、どちらも女の子なんですね。幼い子が成長する姿を裸で見せる必要がありますか? 一部の裸婦像については戦時中の武装した男性像から丸腰の女性像に変わる事で平和の象徴として対比させていたようですが子供は男女関係ないよね 裸婦像が一般化していた世間の流れの中で「作るなら裸の女性」「男性は作りたくないな」という意識はうっすらあったのではないでしょうか?
急に撤去してしまうのはそれはそれでどうかな…とは思いますが代わりに現代に則した像を新しく建てるなどにすべきだったと思います。 地元は"周辺設備の改修"に合わせて裸体の若い女性からワンピースきた少女の像に変わりました この形式なら波が立たなくていいですね。
▲10 ▼0
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中学生の頃、美術の先生(彫刻家)に教員室のようなところでニヤニヤしながら「レオタード姿になってモデルやってくれたらいいのにな」って言われました。 その先生の作品は、今でも有名な公園に設置されています。気になって作品検索したら、案の定、子供や少女ばかりでしたwww 「見ていて恥ずかしい」じゃなくてモデルになる子供の気持ち考えてあげて!
▲27 ▼2
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結局は事なかれ主義。 一部からでも不満が出れば対応するのが面倒なんでしょう。 声が大きい方を優先するというよりは対応するのが面倒だから撤去したというのが本音じゃないかな。 いつの時代の芸術も万人が受け入れるわけではないと思います。
▲7 ▼2
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なぜ裸婦なのか、子供を産むから?男性の裸の像が、極端に少ないのはどうして?子供みたいな疑問ですね。でも、なぜ裸婦像があるのか、芸術的な観点は別として、どのような目的で建てたのかは知りたいと思います。
▲7 ▼3
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こういう理由で撤去するのは安易で幼稚だと思うけど、なんか日本で屋外設置されてる裸体像って女性ばっかりだよね。それがダメなんじゃないかと。いくら高邁な思想や芸術性を熱論されても説得力に欠けるというか、それだけじゃないでしょーと邪推する余地を与えてしまっているように思える。
▲1 ▼1
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30年~40年ぐらい前に、ヌード写真が芸術か否かの論争がありました。 確か、その時は芸術だって事で落ち着いたのだったと思います。 時が経ち価値観が変わってしまうのは仕方が無い事だとは思いますが、 女性の裸体はすべからく芸術だと、私は思います。
▲74 ▼94
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撤去してほしいという意見は、誰が言ったのか?どのくらいの人が言っているのか?など精査してるのかな? SNSの意見が混じってるのなら、無視したらいい。SNSの書き込みなんていい加減なのに、それがいろんなところへ影響を与えてるのが腹立たしい。 SNSは、人間のいろんないいところを蝕み始めている。日本でも早く規制してほしい
▲129 ▼67
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芸術作品はよく見る方だけど、町中に裸の像があるの嫌だったなぁ(今はそうでもない)。性的というより嫌悪感があった。「公然わいせつ>芸術」って意識が強かったと思う。美術館にあると何とも思わないんだけどね。
▲6 ▼0
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>「戦前は日本各地に軍人や政治家の銅像が多くあった。戦後は代わりに女性像が“平和の象徴”として設置され、1970年代にはパブリックアートを置くと街が文化的になるといわれ女性裸体像が増えていった」
時代ごとに銅像の在り方や銅像に対する価値観が変化してるってことだよね?
では令和は、 「裸婦像は公共の場ではなく適切な場所に適切な方法で飾り、鑑賞したい人だけが見に行く時代」 でいいのでは? というか、70年代の流行りというだけあって「パブリックアートを置くと街が文化的になる」っていう考えが前時代的すぎるわ
▲32 ▼2
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裸にしなければ評価されると思います。 男の裸像なんてあったら余計醜いと思いますし。 逆に裸に拘る理由がわからない。 裸を芸術と思える精神は素晴らしいのかもしれませんが、そう思える人が芸術家であり、芸術家とは世の中に数人しか居ないのではとも思います。 共感は難しいです。
▲36 ▼13
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美術館にあるべきものが公共の場にある事自体が凄いことなんじゃないのか?美術的価値のあるものが誰の目にも触れる場所にある、その存在意義を考える事なく卑猥だの恥ずかしいだのとの理由で排斥しようとするのか。
それともあれか、男性像が少ないからか?女性像ばかりで差別的だとか?
▲1 ▼4
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結構、アート好きで美術館に行くと心が休まるタイプですが、 区役所とかにある裸婦像は恥ずかしくなりますもんね。 プールで水着姿の女子が歩いてても普通ですが 街中歩いてたらヤバいでしょ 例えが適当でないことは承知してますが、公共の場に突然と現れると あれ?大丈夫かなと思ってしまいます。 ドガの「14歳の小さな踊り子」みたいに チェチェを着せたりすればオシャレだとは思いますが。 センスが必要だから、無理ですね。 撤去はあり得ないと思います。
▲3 ▼1
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そーゆー目で見る人が増えてきたのだろう。 勝手に興奮して「ケシカラン」と言っている。
大昔から肉体美というか、人間そのものに芸術性を感じていたのは、古代ギリシャの彫刻を見ても明らか。
この流れだと、そのうちビーナスもモザイクがかかることだろう。
▲0 ▼4
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裸像とは比較にならないほどいやらいものが、ネットにも雑誌にも氾濫しているし、むしろ裸像が性犯罪に結びつく確率はないに等しいと思う。ただ、個人的には芸術や美術のたしなみがないからなのか、女性の裸像や絵画を含めて芸術性を感じたことが一度もありません。更に、多くの駅前にもあるオブジェも、お金がもったいないと思うだけで良くわかりません。
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