( 320523 )  2025/08/31 05:44:15  
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最盛期からどん底を経て復活を遂げていた養老乃瀧グループ 

 

2025年2月時点で、国内の居酒屋チェーンで最も店舗数が多いのは、「鳥貴族」で657店舗とされている(日本ソフト販売が発表)。 

では、約30年前だったらどうだろうかーー。 

答えは「養老乃瀧」で、最盛期は1800店舗近くを展開していたと言われる。1956年に1号店を開業後、高度経済成長期の追い風もあり、爆発的に店舗数を拡大する。居酒屋業態の単一ブランドとしては、最も規模が大きいチェーン店に成長した。 

時代の寵児となった養老乃瀧だが、栄枯盛衰が飲食業界の常。2025年8月現在は、約180店舗、最盛期の1割近くまで縮小している。 

 

最盛期の数もさることながら、浮き沈みの激しさも印象的だ。なぜ養老乃瀧は絶頂期から衰退の一途をたどったのか。そして現在の姿とはーー。副社長への取材と現地レポから迫った。 

 

■国内の居酒屋業態で初めてFCを導入 

 

 本部が経営ノウハウやブランドの屋号を提供し、加盟店は対価としてロイヤリティーを支払うーー。 

 

 現在では、当然のように浸透しているフランチャイズ方式が、国内で初めて導入されたのは1963年、不二家とダスキンだったと言われている(日本フランチャイズ研究機構による調査)。 

 

 それから3年後の1966年、居酒屋業態として最も早く、フランチャイズ方式を導入したのが養老乃瀧だ。 

 

 当時、外食産業において、店舗展開の定石は「のれん分け」とされていた。いわゆる社員が一定期間、親店で経営のノウハウを積み、同じ屋号で独立を果たす、丁稚奉公に近い制度だ。 

 

 フランチャイズ方式を導入する以前、養老乃瀧も直営だけで100以上に店舗数を伸ばしていた。高度経済成長期の最中で、競合も少なかった時代、リーズナブルに煮込みや焼鳥、刺身を満喫できる大衆酒場は、市井の人々に愛され日夜活況が続いた。 

 

 一方、盛況が続くことで、現場スタッフの負担も大きく、新店開業のための人材育成に投資を回せない悲鳴も上がっていた。つまり、店舗展開は頭打ちの状況だった。100店舗の大台を達成したものの、社内からは「これ以上社員に負荷はかけられない」と風当たりも強くなった。 

 

 そこで、創業者の木下藤吉郎は、かつてアメリカを視察した記憶を思い起こす。すでに現地では、数百店舗を展開するチェーン店が先行していた。現地の光景を目の当たりにした木下は、国内でも均一化されたオペレーションや研修制度を社外の人間にも提供すれば、「1000店舗まで拡大が可能だ」と風呂敷を広げる。 

 

 

 そして1966年、板橋にFCの第1号店が開業。「ファミリーチェーン」と称して、現在のフランチャイズ方式と同様のスキームで、一般応募で開業を募った。以降、多くて年間100店舗以上の驚異的なペースで出店を果たし、1970年代半ばには1000店舗を達成した。 

 

■創業当時のロイヤリティーは月3000円 

 

 ここまで規模が広がったのは、好景気で競合が少なかったことが大きい。 

 

 ただ、養老乃瀧取締役副社長の谷酒匡俊氏の話を聞くと、時代的な背景とは異なる角度から、出店ラッシュの背景が浮かんできた。 

 

 それが“ロイヤリティーの破格さ”だ。FCビジネスを始めた1966年当初、養老乃瀧が加盟店に課したロイヤリティーは月3000円だったという。現在の居酒屋チェーンのロイヤリティーの相場を見ると、売り上げ歩合型で約5%、固定型で月10万円程度に落ち着く。いかに当時の養老乃瀧が型破りだったかがうかがえる(ちなみに現在のロイヤリティーは上限月5万円)。 

 

 谷酒氏は「当時は業績も絶好調で、本部の経営資金も潤沢だったうえ、まだロイヤリティーをいくら徴収すべきかの基準も定まっていなかった。加盟店の負担をかけて本部が潤うよりも、ロイヤリティーを廉価にして出店網を広げ、収益を上げていきたいと考えていたのでしょう」と振り返る。 

 

 加えて、出店エリアを駅前だけでなく、郊外や地方に拡大したことが大きかった。車社会が根付く郊外では、「20台前後を収容できる駐車場付」という出店の方程式もあった。 

 

 2002年の道路交通法改正以前は、飲酒運転の基準値や罰則も緩く、呼気中のアルコール濃度が0.25mg/L(成人男性が缶ビール350mlを飲んだ直後とされる)以下であれば処分が軽度だった。特に、車文化が根付く田舎では、手頃に飲食を満喫できる居酒屋は、ファミリーレストランの代わりとしても重宝された。運転代行やハンドルキーパーの取組を推し進めながら、全国各地で出店ペースが加速した。 

 

 

 フランチャイジーからしても、初期投資と立地条件さ押さえれば、維持費を圧縮できるビジネスモデルは魅力的だった。とりわけ賃料の低い郊外では、30〜40坪の中型店でも、月商250万円程度で、利益を生み出せる店舗も珍しくなかった。 

 

■応募が殺到して店舗数が急増 

 

 こうした参入障壁の低さゆえ、飲食未経験者からの応募が殺到したことも、爆発的な店舗増につながった。 

 

 谷酒氏によれば、当時は異業種からの“脱サラ”組が、一念発起を夢見て参入したという。たちまち経営に成功すれば、身内や知人に紹介し、加盟させるパターンが顕著だった。なかには自身で多店舗を経営しつつ、かつ紹介した親類もまた同程度展開しているケースも見られたそうだ。 

 

 「個人オーナーの前職は、銀行員から保険のセールス、タクシー運転まで多岐にわたりました。また会社の経営層が、副業の先駆けのようなサイドビジネスとして参入するパターンも。職種にかかわらず、当時珍しかったフランチャイズビジネスを学んで成功したい方が多かったのでしょう。 

 

 またバブル崩壊後は、本業に行き詰まった人の受け皿として機能したことで、不景気でも店舗拡大が続きました。その頃は、転職や副業を特集する雑誌も目立ち、世間的に副業への関心も高かったのでしょう」(谷酒氏) 

 

 うまみのある話に、人は本能的に惹きつけられるものだ。いわば先行して儲けた個人オーナーが火種となり、出店の輪がネットワーク状に一気に広がっていく。養老乃瀧は1970年代に1000店を超え、1990年代半ばの最盛期には1800店にまで拡大した。 

 

■飲酒運転の厳罰化で逆回転 

 

 時代の寵児となった養老乃瀧だが、綻びを見せた一因が、2002年の道路交通法改正だった。前述した通り、「20台前後の駐車場」を出店の勝ちパターンとして掲げていたことで、出店エリアは地方や郊外の比率が圧倒的に多かった。運転代行やハンドルキーパーの取組を強化してはいたが、法改正での締め付けが厳しくなれば、客足離れは避けられなかった。 

 

 

 また、1990年代になると、白木屋や笑笑、甘太郎、和民をはじめとした居酒屋チェーンが権勢を振るい始める。いわゆる“総合型居酒屋”の競争が熾烈になる時代に突入した。 

 

 競争が激しくなれば、当然各ブランド手を替え品を替えた展開を行い、業界のトレンドや移り変わりも加速する。 

 

 2000年代に入ると、海鮮をはじめとした専門業態の台頭、コスパ重視の価格均一、女性層を狙うカジュアルダイニング、接待に重宝される個室完備型、監獄レストラン「ザ・ロックアップ」などエンタメ性の高い業態など、コンセプトを持たせたブランドが乱立する。結果、相対的に見て、無難な業態は存在感が薄くなっていった。 

 

 同時に、個人オーナーの高齢化や、店舗の老朽化が進んだことも、店舗縮小に拍車をかけた。とりわけ1970年代に出店攻勢を強めた背景を考えれば、個人オーナーのボリューム層は団塊の世代周辺だったはずだ。2000年代になれば、還暦を迎えて体力が落ち、そのうえ改装の必要を迫られることで、リタイアがちらつく。「儲けさせてくれてありがとう」と惜別の言葉を残し、幕引きする事業者も増えていった。 

 

 それ以降は、リーマンショックによる不景気、働き方改革による宴会需要の減少、コロナの流行など逆風が重なり、看板の灯は消えていく。現在は、全盛期の約10分の1にあたる、180店舗近くにまでスケールを落とした。 

 

 第1号店の開業から約70年。かつて居酒屋チェーンとして、店舗数1位にまで繁栄し、そして大量閉店のあおりを受けた変遷は、時流を反映した興亡譚とも言える。 

 

■“新旧”養老乃瀧の驚くべき違い 

 

 ただ、気になるのは、浮き沈みを経験した現在の姿だ。そこで2025年7月末に「西荻窪店」と「新宿西口店」を訪れると、“新旧”養老乃瀧の違いが浮き彫りとなった。 

 

 まずは旧型、思い出横丁の一角に構える「新宿西口店」をのぞいた。戦後直後の焼け野原に露天商として発展してきた思い出横丁は、いまなおノスタルジックな面影を残す。そうした風情ある路地裏の街並みに溶け込むように、赤地に「養老乃瀧」と書かれた看板が目をひく。 

 

 

 
 

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