( 323933 ) 2025/09/13 04:08:57 0 00 兵庫県の斎藤元彦知事
静岡県伊東市の田久保眞紀市長は9月10日、中島弘道議長に市議会の解散を通知した。田久保市長は東洋大学を除籍されたにもかかわらず、市の広報誌が法学部卒と記載。これを百条委員会が“学歴詐称”と結論を下し、市議会は9月1日に地方自治法違反容疑で刑事告発すると共に不信任案を可決していた。
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ところが不信任が議決されても田久保市長は失職を選ばず、議会の解散を決めた。このため伊東市では40日以内に市議選が行われる。選挙後の市議会で再び不信任案が可決されると田久保市長は失職し、次は出直し市長選が行われる。
そして昨今、田久保市長のように「問題を引き起こしたり、疑惑が取り沙汰されたりしても辞めないトップが増えている」との声がネット上などで目立つ。担当記者が言う。
「例えば兵庫県の斎藤元彦知事です。県の第三者委員会はパワハラや公益通報者に対する違法な取り扱いを行ったと認定しました。これは重大な不祥事であることは言うまでもありません。『即刻の辞任に値する』との見解を述べた識者もいたほどです。ところが斎藤知事はパワハラについては謝罪しましたが、公益通報に関しては『当時の判断としてはやむをえない適切な対応だった』と反論。現在も知事として職務を遂行しています」
サントリーホールディングス(HD)の会長は辞任するが、経済同友会の代表幹事としての活動は当分、自粛する──責任を取って身を引くのか引かないのか、微妙な姿勢を見せたのは“日本を代表するプロ経営者”として知られる新浪剛史氏だ。
「大麻由来の向精神薬が違法な割合で含まれているサプリを送られたとして、福岡県警は8月22日に麻薬取締法違反容疑で新浪氏の自宅を家宅捜索しました。尿検査の結果は陰性で、違法薬物も発見されなかったものの、サントリーHDは『一身上の理由により辞任したいと申し出があった』と新浪氏が9月1日付で退任すると発表したのです。ところが新浪氏は3日、経済同友会の代表幹事として記者会見に出席すると『警察から捜査を受けた会長・社長は絶対に辞めないといけないのか。私はそういう前例を絶対つくってはいけないと思った』と反論。代表幹事としての進退は同友会に委ねることを明らかにしました」(同・記者)
最終的には辞任を表明したが、そこに到るまでの紆余曲折が国民の毀誉褒貶を巻き起こしたのは石破茂首相だ。
「参院選は7月20日に投開票が行われ、自民党は大敗しました。これで石破首相が就任してから衆院選、都議選、そして参院選で3連敗となりました。党内からは責任を問う声が相次ぎ、いわゆる“石破おろし”が吹き荒れます。ところが石破首相は粘りに粘ります。世論も『辞めるべき』という意見と『辞める必要はない』という意見が拮抗し、一時期は衆院解散まで取り沙汰されました。しかし石破首相は最終的には説得を受け入れ、9月7日に辞任を表明したのです」(同・記者)
もちろん、ここで挙げた4人の置かれている状況はそれぞれ異なり、彼らが抱える問題にはまだ白黒ついていないものもある。
しかしXなどのSNSを見ると、こうしたリーダーたちに対して「往生際が悪い」と批判する投稿が少なくない。
その一方で、一度は知事を失職した斎藤氏がSNSでの盛り上がりを原動力に再選を果たしたり、「石破辞めるな」デモが広がりを見せたりと、「辞めないリーダー」を支持する声が目立つようになっているのも事実だろう。こうした現象の背景について、社会心理学者の碓井真史・新潟青陵大学大学院教授に話を聞いた。
「日本人の出処進退に関する“美学”を考える際、武士の切腹が私たちに与えた影響は極めて大きいと思います。切腹とは伝統的な作法に従い、自ら命を絶つことで責任を取るというものです。ここで注目すべきなのは切腹が刑罰ではなく、むしろ名誉だと考えられてきたことです。切腹を申しつけられ、それを粛々と受け入れる武士の姿を、日本人は『非常に潔くて素晴らしい』、『まるで桜の花のように散り際が美しい』と積極的に評価してきました」
切腹を賞賛する文化は武士階級だけに留まらなかった。例えば赤穂事件を描いた「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃で初演されたのは江戸時代の1748年であり、庶民はこれを熱狂的に支持した。
以来、忠臣蔵は舞台、映画、テレビドラマと何度も取り上げられ、浅野内匠頭や四十七士が切腹する場面は常に観客の涙を誘った。「花は桜木、人は武士」という有名なことわざも、初出は「仮名手本忠臣蔵」だとされている。
「潔く辞めることが求められたのはトップだけではありません。大企業の部長や課長といった管理職や、政治家の秘書が組織を守るために辞職したり、場合によっては自死したりすると、少なくとも昭和の時代までは評価する声が多かったものです。ただし以前に比べると、こうした“常識”が崩れてきているのも事実でしょう。例えば私の父は昭和一桁世代で、汚職事件などのニュースで関係者の自死が報じられると『気持ちは分かる』と同情的でした。しかし昭和34(1959)年生まれの私は『組織のために死ぬ必要はないのでは?』と疑問を抱いたものです。当時から“ジェネレーション・ギャップ”が存在したわけですが、まして現在の若者は組織を守るために自死を選ぶことなど信じられないでしょう」(同・碓井教授)
一切弁解せず、反論せず、黙って辞任する──これを潔いとする“常識”は今でも強固だと言える。石破首相は9月2日の自民党両院議員総会で「地位に恋々とするものでは全くございません。しがみつくつもりも全くございません」と発言した。皮肉なことに「首相を辞めない」と批判された政治家にも、こうした“常識”が透けて見えるのだ。
その一方で、「出処進退を巡る私たちの“常識”が、どんどん変化しているのも事実です」と碓井教授は指摘する。
「社員が不祥事を起こしたため、社長が記者会見で頭を下げ、辞任を発表するのを見ると、私たちは従来の“常識”に照らし合わせて納得します。しかし、心のどこかで『社長本人が何かしたわけじゃないんだよな』と“常識”に異議を唱えたくもなります。欧米では日本型の引責辞任は理解されないという指摘もあります。また以前は原節子さんや山口百恵さんのように潔く芸能界を引退するスターが賞賛されていましたが、今は吉永小百合さんのような“永遠の現役”に憧れの視線が注がれます。人間の常識や価値観の変化は常に揺り戻しが起きますからら将来を予測するのは難しいとはいえ、問題を指摘されても堂々と反論し、絶対に辞めないというトップに違和感を覚えない時代が来るかもしれません」(同・碓井教授)
デイリー新潮編集部
新潮社
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