( 328563 ) 2025/10/01 06:29:00 0 00 現在は全国に8店舗の「元気寿司」。写真は茨城県の青柳店(写真:筆者撮影)
回転ずしチェーンの『元気寿司』が、およそ15年ぶりに新店舗を出すーー。 そんな噂を聞きつけたものの、初めは食指が動かなかったのは、そもそも元気寿司に馴染みがなかったからだ。それもそのはず、元気寿司は関東近県に8店舗(栃木・茨城・福島の3県、2025年9月末時点)しか存在しない。近くに住んでいない限り、なかなか来店する機会はなさそうだ。 しかし30年前の1990年代は、元気寿司は回転ずしチェーン業界で大きな存在感を放っていた。スシローやくら寿司より早い1968年に創業し、業界を牽引する存在として成長。1990年代後半には120〜130店舗を展開していた。
その全盛期からはや四半世紀、9割以上の店舗を畳んだ憂き目に遭いながらも、いま改めて新店舗開業に踏み切るという。 栄枯盛衰が常の飲食業界。元気寿司の興亡には、どのような背景があったのかーー。店舗の現地レポートと幹部取材から探った。
■寿司8皿とサイドメニュー1皿で「会計は1410円」
都内から電車とバスを乗り継いで約2時間、片道1500円近くをかけて辿り着いたのは『元気寿司 青柳店』だ。最寄の取手駅から約2km離れた、県道沿いに位置する店舗は、ざっと40坪とコンパクトに映る。
入店すると、席数も50に満たないほどとこぢんまりした造りだ。店舗の中央に板前が構え、その周りを取り囲うように回転レーンが敷かれている、いわゆる「島式」のレイアウトもどこか懐かしさを覚える。
とはいえ回転レーンは稼働しておらず、注文はタッチパネルで行うようだ。人気どころに照準を合わせつつ、『えびマヨ(税込130円、以下同)』『大切りまぐろ(130円)』『サーモンペッパーマヨ炙り(130円)』などを頼む。
注文ボタンを押すと、「ピロリロリン」という電子音が鳴り、板前が律儀に「ありがとうございます」と反応して寿司を握る。機械から出てきたシャリに、冷蔵庫からネタを取り出して、手際良く数十秒で完成品を直接渡してくれる。大手チェーン店に常設された、完成品を客席まで届ける高速レーンもなく、アナログな側面が垣間見える。
来店時はアイドルタイムの16時ごろで、先客は3組ほど。これなら直接注文するのと変わらないのでは……と思いつつも、揚げ物やサイドメニューは店内奥の厨房で調理しており、タッチパネルもそれなりに貢献しているようだ。
こぢんまりとした店内とは裏腹に、届いた寿司ネタはどれも大ぶりだ。
『大切りまぐろ』はシャリからはみ出る大きさで、『とろさばの押し寿司(150円)』は身が2〜3cmほどと分厚い、お子様メニューの定番『ハンバーグ(130円)』は直径ゴルフボールほどだ。クオリティもそれ相応の水準で、創作メニューの『げそ明太マヨ炙り(140円)』は、素材が喧嘩せずに溶け合い、思わずおかわりした。
そして、お分かりのように、全体的に価格がお手頃だ。いまや大手チェーンでは1皿200円超のメニューも常設されるなか、『元気寿司 青柳店』ではフェア商品とデザートを含むサイドメニューを除き、すべてが1皿200円以内に収まる。
結局、にぎりと軍艦合わせ8皿に、『明太マヨポテト(300円)』を注文し、会計は1410円。2025年3月にマルハニチロが公表した「回転寿司に関する消費者実態調査」によれば、1人あたりが支払う平均額は「男性2214円/女性1667円」とある。郊外という立地を加味しても、コスパに長けて満足度が高い。
では、なぜ元気寿司は、最盛期の100店舗以上から、8店舗まで縮小を迫られたのかーー。
■衰退の理由は「コの字型のカウンター」
その主な要因に、前述した「店舗の小ささ」が関係している。衰退の過程を明らかにするため、まずは元気寿司の沿革を振り返りたい。
元気寿司は1968年、『元禄寿司』のフランチャイズ店として、栃木県宇都宮市に1号店を開業した。今では当たり前となった寿司のチェーン展開化と大衆化を、先駆けて進めたのが元気寿司とされている。
回転ずしチェーンの黎明期を牽引した元気寿司は、東日本や北海道を中心に店舗展開を進める。1970〜80年代はコールドチェーンが確立され始めた時期で、水産地周辺に限らず、出店網を拡げられた時代背景も後押しとなった。
その後1990年に、元禄寿司の傘下から独立して以降は、さらなる出店攻勢をかける。年間で15店前後を純増させ、1995年には大台の100店舗を突破。最盛期の1990年代後半は、120〜130店舗にまで規模を拡大し、リーディングカンパニーとなった。
しかし1990年代末にかけ、業界の勢力図を大きく塗り替える動きが生まれる。それが新興ブランドによる「100円均一による大型店の誕生」だった。
■回転ずしのファミレス化に対応できず
現在の回転ずしチェーンの店舗レイアウトを思い浮かべて欲しい。4人がけのテーブル席50〜60卓ほどに、おひとりさま用のカウンター席が加わり、200人程度を収容できる箱が主流だろう。もちろん店舗ごとで坪数や席数に幅はあるものの、4人がけのテーブル席を潤沢に設けた大箱は、2000年前後にでき始めたとされている。
逆にそれ以前は、前出の『元気寿司 青柳店』のように、中央の調理場をコの字型のカウンターが囲うような設計が一般的だった。板前が四方の客を俯瞰して注文を捌く当時のシステムは、人時生産性が高く効率的だった一方、どうしても客層が限定されがちだった。
何人かで来店しても横一列で座る必要があり、目が届きづらいという理由から小さい子連れのファミリー層にも敬遠された。
こうした従来型による客層の幅の狭さを、一気に解消したのが大型店というわけだ。
特に2000年以降は、ラーメンやスイーツなどのサイドメニューも拡充し、いわゆる回転ずしの「ファミレス化」が進む。いまや昼下がりに、放課後の学生やママ友同士が、すしを注文せずに談笑する光景も珍しくなくなった。
こうした長居に優しい造りの大箱は、来店客としては使い勝手が良く、運営元からすればトップラインを伸ばすのに、またアイドルタイムの収益を確保するのに最適だった。
スシローやかっぱ寿司などの後発チェーンが台頭することで、元気寿司は影を潜めていく。
株式会社Genki Global Dining Conceptsコーポレート本部の大塚蒼氏は「1990年代後半まで回転ずしチェーンは、今ほど日常食ではなかった。それがロードサイド沿いに大型店が並び始めると、こぞってメディアが取り上げるようになり、ファミリーやカップル層に人気が出始め、相対的に元気寿司は存在感を失いつつあった」と振り返る。
■デフレの波も直撃
加えて、価格競争で後れを取ったことも打撃となった。
デフレが顕在化した2000年代は、前出した大手各社が税抜90〜100円の均一価格を敷き、ハレの日のご馳走だったすしを、グッと日常食に近づけた時期だった。元気寿司でも100円のメニューを多数揃えていたものの、150〜200円近い皿も用意していたと考えれば、他社に比べて割高に映った側面も否めない。
後発チェーンの台頭、店舗設計による客層の取り逃がし、価格競争の激化ーー。複合的な要因から、元気寿司は徐々に陰りが濃くなる。直営の不採算店舗を畳み、フランチャイジーも契約更新時に離れていく流れが加速。2008年のリーマンショック時は、年間10店舗以上が看板を下ろし、その頃には約60店舗まで減少する。
運営元としても、大手の潮流に追随すべく、大型店かつ100円均一の新業態を立ち上げていく。元気寿司の衰退と入れ替わるように、1999年には100円均一の『すしおんど』を、2009年からは現在のメインブランドに成長する『魚べい』を立ち上げる。
「元気寿司は創業当初から、郊外のロードサイドというより、駅前などの立地重視で小型店としての展開を続けていた。小型店であれば当然、大型店への業態転換も難しく、2000年代以降は不採算店舗を閉める流れが続いた」と大塚氏。
新店舗を出す際も、業績が好調だった魚べいの屋号を採用する経営方針のもと、元気寿司は減少の一途を辿る。魚べいを展開し始めた2010年頃を境に、元気寿司は新規出店が途絶え、現在の8店舗へと至る。
■上野の一等地に、約20年ぶりの新店舗
元気寿司が大量閉店の憂き目に遭った背景は、店舗レイアウトや出店エリアといった副次的な要因が大きい。一丁目一番地であるすしのクオリティーを担保しても、導線や使い勝手を確保しなければ、客足が他社に流れてしまう証左とも言える。
一通り注文を平らげ、空皿をバッシングしにきた店員に話しかけると、現在はメニューや注文方式など運営方針を魚べいブランドに揃えていると話す。言い換えれば、タッチパネルの操作音が響くこぢんまりとした店舗規模や、稼働していないまま残置された回転レーンが、いまや元気寿司の希少なレガシーとなっている。
最盛期から30年弱、元気寿司はすっかり時代から取り残された……。そう思いきや、冒頭の通り、元気寿司は2025年10月10日に、上野の一等地に新店舗を構える(正確には魚べいブランドとの融合店)。
後編『店舗激減の「元気寿司」静かに大復活の意外な理由』では、新規出店が途絶えた空白期間に焦点を当てつつ、久々に新店を構える経緯や勝算を詳報する。
佐藤 隼秀 :ライター
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