( 135743 ) 2024/02/04 13:33:45 0 00 AdobeStock
混迷極めるお笑いコンビダウンタウン・松本人志氏を巡る週刊誌報道問題。松本氏側は週刊誌に対して訴訟を起こした。今後一体どういう結末を迎えるのだろうか。元経済誌プレジデントの編集長で作家の小倉健一氏が問題の難しさを語るーー。
お笑い芸人の松本人志氏を巡って事態はややこしい方向に向かっている。誰もが善悪で問題を語りたいせいなのか、全員がまともなことを言いあっているのに、それぞれの立ち位置が違うせいで何も片付いていない。
#metoo運動 の流れの人、弱いと思しき人の側にとりあえず付きたい人。松本人志が好きな人、応援したい人、松本人志が嫌いな人、公的な立場から話をする人、そして週刊文春が好きな人と、週刊文春が嫌いな人。さまざまだ。
吉本興業の近代化の歴史から考えると、この松本人志氏を巡る問題は、必然とも思えるような出来事に感じる。それがどういうことなのかを今回述べたい。
まず、女性の側に立っている人の言い分を紹介してみよう。タレントのアンミカ氏だ。2月1日放送の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」において「一般論として最近よく思うのは『今さら何年もたって、なぜ(告発)?』という声を良く聞くんですよ。私は同じ女性として今回のことは置いておいて、魂の殺人と言われる性加害に対して、もし、身近にそういう人だったら、数年たって声を出した人に、そういうことが言えるか? その時、NOと言えなかったとか、勇気を出すまでに時間がかかった自分を責めるってこともあったりすると思うし、やっと声が出せるってこともあると思う。今回のこともそうですけど、何年たっていようが(今さらと責めるのは)セカンドレイプになるのでやめていただきたいと思う」と発言している。
全くもってその通りとしかいいようがない正論である。しかし、この正論の反対側にも正論があることにお気づきだろうか。
世の中には「時効」というものがある。犯人にとって逃げ得ともいえる時効が存在しているのは、一般に、時の経過により刑罰による応報・威嚇(いかく)・改善の必要が弱まること、証拠が散逸し、事実の発見が困難になることなどが挙げられる。つまり、松本人志氏にとって身の潔白を証明しようにも、時間が経ちすぎていて大変な困難があるということだ。
かつてハリウッドスターだったケビン・スペイシーは、キャリアの絶頂だった2017年に、3人の男性から、スペイシーが自分たちの股間を積極的につかんだと告発された。彼らはスペイシーを “下劣 “で “ヌルヌルした蛇のような “捕食者と非難した。さらに俳優志望という4人目の告発者は、スペイシーのロンドンのアパートで眠ったり気を失ったりした後、彼にオーラルセックスをされて目が覚めたと語った。
スペイシーは、複数の性的暴行罪と、同意なしに人に挿入的性行為をさせた罪1つを含む9つの罪に問われていたが、2023年に「無罪」の評決が出た。無罪判決を聞いたスペイシーは涙を流して喜んだが、この判決が出るまでの6年間、彼はハリウッドからすべての仕事をキャンセルされ、「無職」であった。
アンミカ氏が、被害があったと告発する女性を救いたいという気持ちは、ポジショントークのように解釈することもできるが、おそらく本気で思っているのだろう。しかし、被害があったと告発する女性の反対側には、加害者と糾弾される男性の存在がある。レイプを魂の殺人と呼ぶなら、お笑い芸人をスポットライトから放逐している可能性にも思いを寄せなくてはいけない。
次に、週刊文春だ。彼らの松本人志氏についての報道を金儲けでやっていると言う人がいると思うが、私もその通りだと思う。文春は金儲けでやっている。そして、この記事を書く私も、この文章を書いてお金をもらって生きている。金儲けと言われればその通りだと思う。強いて言うなら、そこに志はあるかということだ。
文春報道が大きな反響を得たことから、過去に松本人志氏にひどいことをされたと感じた人たちが、我先にと文春へ情報提供をしているのだろう。松本人志氏の報道をやりすぎだと感じる人もいるだろうが、ここで知り得た情報を報道しないほうが無責任だ。私たちの社会は、報道の自由、表現の自由で成立しているのである。文春は手加減なくやりきるしかないし、それを私たちがどう受け止めるかは、私たちが考えればいいことである。知っていて報道しなかったジャニーズ喜多川のおぞましい性加害の過ちを繰り返すほうが社会にとってマイナスなのは明らかだ。
今回、一つ言えることは、「男性が女性とホテルで二人きりになって、女性があとで性加害にあったと訴えでた」というケースが、もし、芸能界でなく、上場企業で起きたとしたら、男性は完全にアウトということだ。左遷で済めばいいぐらいの状況である。そういうルールが現状だ。
そんな状況で、松本人志氏の番組に、一般企業がスポンサーとしてお金を出すことなどできるはずがない。もし、松本人志氏が落語家や歌舞伎役者、舞台芸人だったら、また違った展開になっていたかもしれない。スポンサーにあまり頼ることなく、お客の支払う入場料だけで芸能生活が成立しているのなら、お客が許せばそれでいいのである。しかし、テレビ業界はスポンサーで成立していて、そのスポンサーは社会通念に縛られながらビジネスをしているのである。お笑い芸人だけが許されるということはない。
無論、松本人志氏の存在が否定されてはいないことにも留意しなくてはいけない。松本人志氏は無罪かもしれないし、今回訴え出ている被害者全員が松本人志氏と和解をすれば、松本人志氏がカムバックできる条件は整うのである。
その意味で、吉本興業の近代化の歴史に、また1ページ、新しい教訓が加わったということだ。振り返れば、吉本興業は、島田紳助氏の引退の引き金を引いた山口組最高幹部との交際、宮迫博之氏が吉本興業から縁が切れることになったカネ(闇営業)の問題と、人間社会の業ともいうべきトラブルに常に見舞われながら、歩んできたといえる。
吉本興業の名誉のためにいっておけば、吉本興業はトラブルばかり起こしてきた組織では決してない。むしろ、古い芸能界に先駆けて、徒弟制度に代替する学校制度(NSC)をつくり、上場を廃止することで総会屋との決別を図ってきた。全国中に、劇場をつくり、若手のお笑い芸人たちを守り、育ててきた功績は指摘しておかねばならない。
ヤクザ、カネ(闇営業)と決別し、最後に残っていた「オンナ」を、松本人志氏の問題を通してきれいになるということなのだろうか。
ここで原稿を終わりにしてもいいのだが、どうしても最後に、一つだけいいたい。今後も性加害を訴えるケースは、日本にあふれることだろう。それは良いことなのだが、告発を受けた側は加害者でないかもしれないという可能性も同時にでてくるのである。その際に、判決までに何年もかかってしまっては、その人が無実だった場合に、その人のキャリアが理不尽に終わってしまうことになる。そうならないためにも、労働審判のように、暫定的な判決がすぐにでる仕組みを民事にもつくったほうが良い。
小倉健一
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