( 136015 ) 2024/02/05 12:38:00 1 00 2023年7月に出版された『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、30年以上にわたり500名以上の戦争体験者や遺族へのインタビューをもとに作られた本である。
門司親徳氏は昭和19年にトラック島での米軍機の大規模な空襲を経験し、その後特攻の一部始終を目撃した元海軍主計少佐である。
本書では、門司氏を含む戦争体験者や遺族の声を通じて、当時の戦争体験やその後の歴史的な出来事について詳細に描かれている。 |
( 136017 ) 2024/02/05 12:38:00 0 00 写真提供: 現代ビジネス
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回は、SNS上で物議を醸した櫻井よしこ氏の「あなたは祖国のために戦えますか」とのX(旧Twitter)のポストをふまえつつ、そのなかの一章をリライトした。
【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
門司親徳(1917-2008)。左は昭和19年、フィリピンにて。右は平成14年、大磯の私邸にて(右写真撮影/神立尚紀)
1月19日20時15分、保守論壇の評論家でジャーナリストの櫻井よしこ氏がX(旧Twitter)に投稿した、
〈「あなたは祖国のために戦えますか」。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました。〉
というポストが物議をかもし、「炎上」状態になったのは記憶に新しい。
「祖国のために戦えるか」という問いは「祖国のために死ねるか」とほぼ同義だと解釈できる。だとすれば、いきなり「死ねるか」と問われてNOと答えるのは若者ならずとも当然であろう。
もっとも、これは昭和49(1974)年公開の東映映画『あゝ決戦航空隊』のキャッチフレーズに「若者に問う! 君は国のために死ねるか!?」(現在のDVD版パッケージでは「若者に問う! 君のこころに祖国はあるか!?」と改変されている)とあったように、何10年も前から使い古されたフレーズではある。
桜井氏のポストを見て、私は、かつてインタビューした旧軍人、遺族のなかで、特に印象に残っている故門司親徳・元海軍主計少佐(1917-2008)の言葉を思い出した。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」
というものである。
門司の言葉には、壮絶な実体験が色濃く反映している。
昭和19年2月17日、トラック島で米軍機の空襲を受ける日本軍艦船
80年前の昭和19(1944)年2月17日から18日にかけて、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島(現・チューク諸島。環礁と248もの島々からなるが、当時はこれらを合わせてトラック島と呼んでいた)が、米海軍の機動部隊艦上機の大規模な空襲を受け、基地機能を喪失するほどの損害を被った。
艦上攻撃機「天山」を主力とする第五五一海軍航空隊(五五一空)主計長としてトラック空襲に直面し、のちにフィリピンで「特攻の生みの親」とも称される大西瀧治郎中将の副官として特攻の一部始終を見届けた門司は、
「『特攻』を語るならば、必ず、トラック大空襲から語り起こさないといけない」
と、しばしば口にしていた。門司は、東京帝国大学から「短期現役主計科士官」として海軍に入り、空母「瑞鶴」乗組で真珠湾作戦に参加したのを皮切りに、呉鎮守府第五特別陸戦隊でニューギニア・ラビの敵前上陸に参加、敵軍との交戦で壊滅状態になった部隊をまとめてラバウルに後退するなど各地を転戦。トラック島空襲当時は主計大尉だった。東京帝大-海軍の同期には鳩山威一郎氏(元外務大臣)、中曽根康弘氏(元総理大臣)らがいる。戦後は日本興業銀行勤務を経て丸三証券社長をつとめた。
「太平洋戦争は、真珠湾、マレー半島への日本軍の奇襲攻撃、それに続く快進撃に始まり、ミッドウェー海戦の敗戦でその勢いが止まり、ガダルカナル島失陥からは完全に守勢に転じた。それでもなんとか必死の防戦で重要拠点は守り通してきたのが、トラック空襲を境に、敵を迎え撃つことすらままならなくなった。あとは、坂道を転がり落ちるだけです。神風特別攻撃隊の出撃まで8ヵ月。この間の戦争の推移が、そのまま特攻隊に自然につながってゆくように、私には思えてならないんです」
昭和19年2月15日、トラック島の第四艦隊司令部が敵機動部隊の無線を傍受し、索敵機2機も未帰還になったことで、トラック全島に緊張が走った。近海に敵機動部隊がいると判断した司令部は、2月16日午前3時30分、トラック方面の各部隊に、戦闘配備にあたる「第一警戒配備」を下令した。隊員たちはそれぞれ戦闘配置につき、飛行機は燃料、機銃弾、あるいは爆弾、魚雷を積載し、敵艦隊発見の報告があればただちに出撃できる状態で待機する。
「ところが、この警戒配備が、なぜか解除されたんです。敵機動部隊が近くにいるのはわかっているのに、変だな、とは思いましたが」
飛行場に待機した零戦の機銃弾は、上空哨戒につく数機を残しておろされ、攻撃機の爆弾や魚雷もはずされた。非番の者には外出も許された。
そして2月17日――。
「早朝、まだ仮設ベッドに寝ていたわれわれは、突然の『空襲警報! 』という声に飛び起きた。空はもう明るくて、よく晴れていました。その空を見上げて飛行隊長・肥田真幸大尉が、『グラマンだ! 』と叫んだ。指さす方向を見ると、敵の艦上機はすでにトラック上空に飛来している。完全に奇襲を食った形になりました」
警戒配備が解かれていたので、トラック島の零戦隊の大部分は機銃弾も積んでいなかった。やがて燃料、機銃弾の準備のできた零戦から順に離陸し、敵機を迎え撃ったが、離陸直後の不利な態勢を襲われ、被弾して火を吹き墜ちるものも多かった。
空襲は翌2月18日も続いた。撃沈された日本側艦船は、艦艇10隻、船舶33隻にのぼり、そのほか12隻の艦船が損傷した。まさに真珠湾攻撃のお返しをされたかのような大損害で、失われた飛行機は、南方の戦線へ補充するため基地に保管されていた機体もふくめ、約300機にのぼる。
こうして、トラックは、海軍の拠点としての機能を事実上失った。壊滅したトラックに戦力を補充するために、最前線ラバウルに展開していた航空部隊はすべてトラックに引き揚げさせることになり、2年間にわたり南太平洋の最前線基地として、ソロモン諸島やニューギニアからの米軍の侵攻を食い止めてきたラバウルも、ついにその戦力を失った。これは、海軍が、南太平洋での戦いを事実上放棄したということでもあった。
台湾沖航空戦で大敗を喫した第二航空艦隊司令長官・福留繁中将(左)と、「ダバオ事件」「セブ事件」で第一航空艦隊司令長官を更迭された寺岡謹平中将(右)
門司の瞼には、トラックの環礁内で、敵機の爆撃を受けて火焔を上げる油槽船や、みるみるうちに沈んでゆく貨物船の姿が焼きついた。晴れた空と青い海がひどく澄んでいて、そこで繰り広げられる一方的な殺戮が、ことさら凄惨な光景として胸にこたえた。
夜になって、緊張と不安のなか、空襲を敵上陸の前触れと早合点した司令・菅原英雄少佐が玉砕(全滅)命令をくだした。
「我が隊は最後の一兵までこの島を死守し、玉砕する」
というのである。門司が司令に、
「玉砕は戦った結果だから、ここは、あくまで戦えと言うべきですよ」
と食ってかかる。司令もふと我に返って、もっともだと思ったらしく、
「この期に及んでも帝大出は理屈を言う。こんどからはそうしよう」
と言い、一瞬、その場の緊張がほぐれたと、飛行隊長だった肥田真幸・元大尉は回想するが、敵が上陸してくれば、いずれ全滅するのは間違いない。隊員たちは「えい、クソ!」と、簡単に玉砕の覚悟を決めた。
ところが、米軍はトラックには上陸してこなかった。もはや戦力を失ったトラックは捨ておいて、次なる目標に向かおうとしていたのだ。
このとき、敵機動部隊が近くにいるのがわかっていながら警戒配備を解いた理由について、公刊戦史の『戦史叢書』に書かれていない、しかし門司をはじめ現場にいた将兵のあいだで広く知られていた「公然の秘密」がある。それは16日晩、痔疾のため内地に送還される第四艦隊司令長官(トラック島最高指揮官)小林仁中将の歓送会があり、主要指揮官がそこに出席、17日未明に奇襲を受けたときにはそれぞれが芸者と寝ていて、自分の島に帰れなかったというものである。しかも、せっかく出された警戒配備を解除したのは、この宴会のためだったという。この日の空襲で、芸者6人も爆死した。警戒配備が敷かれ、防空壕に入っていたら助かった命だった。
日本国内で、軍令部を中心に「人間を乗せた体当り兵器」(特攻兵器)の開発がスタートしたのは、トラック空襲の直後のことである。
門司はその後、昭和19年7月に前線の基地航空部隊の主力である第一航空艦隊(一航艦)副官となり、フィリピン・ダバオに司令部を置く一航艦に着任した。
すでに6月15日には米軍がサイパン島に上陸している。サイパン、テニアンを敵に奪われたら、東京をふくむ日本本土が、米軍が新たに開発している大型爆撃機・ボーイングB-29の攻撃圏内に入る。いわば、将棋でいえば詰んだも同然になる。ところが、6月19日から20日にかけて、日米の機動艦隊が激突した「マリアナ沖海戦」と呼ばれる戦いで、日本側は見るべき戦果を挙げられないまま、空母3隻と搭載機のほとんどを失い、大敗を喫していた。
門司がいたダバオも、昭和19年9月9日から10日にかけ、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。
10日朝、見張所からの「敵水陸両用戦車二百隻陸岸に向かう」との報告に、浮き足立った根拠地隊司令部は、「ダバオに敵上陸」を報じ、一航艦司令部もそれにつられる形で混乱を起こした。折あしく一航艦では、敵機の夜間空襲による損害を防ぐため飛行機をフィリピン各地に分散していて、ダバオにはこの日、飛べる飛行機は一機もなく、敵情については見張員の目視に頼るしかなかった。
司令部は玉砕戦を覚悟し、敵上陸に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却するが、10日の夕方になって、第一五三海軍航空隊飛行隊長・美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、海面の白波を水陸両用戦車が来たと見間違えたのだった。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報で、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集中配備された第二〇一海軍航空隊零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。「水鳥事件」で司令部が通信設備を破却してしまっていたので、その後の分散指示が出せなかったのだ。フィリピン決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして戦わずして戦力を失った。「セブ事件」と呼ばれる。
この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。
寺岡中将に代って第一航空艦隊司令長官となり、特攻隊を編成した大西瀧治郎中将
大西がフィリピンに赴任する途中の10月12日、台湾は艦上機による大規模な空襲を受け、同日、九州・台湾・沖縄を管轄する第二航空艦隊(二航艦)司令長官・福留繁中将は指揮下のT攻撃部隊に対し、敵機動部隊への総攻撃を下令した。
総攻撃は10月12日から16日にかけ、総力を挙げて行われ、空母10隻撃沈、8隻撃破などの「大戦果」が報じられたが、16日になって索敵機が、撃滅したはずの敵機動部隊が無傷で航行しているのを発見した。日本側の戦果判定の多くは、薄暮から夜間にかけての攻撃で、味方機が被弾炎上するのを敵艦の火災と誤認したものであった。「台湾沖航空戦」と呼ばれるこの戦いで、日本側が失った飛行機は約400機。沈没した米軍艦艇は1隻もなかった。
昭和10月17日、米軍攻略部隊の先陣は、レイテ湾の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始した。いよいよ、敵の本格的進攻が始まったのだ。
大西中将が、ダバオから一航艦の司令部が移転したマニラに飛んだのは、10月17日午後のことである。その晩、寺岡中将と大西中将との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の一航艦長官就任は10月20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差支えない。
18日の夕刻、連合艦隊司令部がフィリピン防衛のため、「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に下令した。作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅する。戦艦「扶桑」「山城」を主力とする別働隊と、重巡洋艦を主力とする第二遊撃部隊が、栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間、空母4隻を基幹とする機動部隊が、囮(おとり)となって敵機動部隊を北方に誘い出す。基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与える。……まさに日本海軍の残存兵力のほとんどを注ぎ込む大作戦だった。
だが、航空部隊が敵艦隊に痛撃を与えようにも、フィリピンの航空兵力は、10月18日現在の可動機数が、一航艦の35~40機、陸軍の第四航空軍約70機しかなく、台湾から二航艦の残存機230機を送りこんでも、あわせて約340機に過ぎなかった。
大西中将は、一航艦のわずか数10機の飛行機で、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援し、成功させなければならない。そこで、敵空母を撃沈できないまでも、せめて飛行甲板に損傷を与え、1週間程度使用不能にさせることを目的に採られた戦法が、250キロ爆弾を搭載した零戦もろとも体当り攻撃をかける「特攻」である。
一航艦で編成された最初の特攻隊は、関行男大尉を指揮官に、10月21日を皮切りに出撃を重ね、25日、初めて突入、敵護衛空母を撃沈するなどの戦果を挙げた。だが、特攻隊や囮部隊の犠牲を裏切るかのように、栗田艦隊はレイテ湾突入を断念、敵上陸部隊を目前にしながら反転し、作戦は失敗に終わった。だがここで、延べわずか10機の爆装零戦による体当たり攻撃が、栗田艦隊による砲撃戦を上回る戦果を挙げたこともあり、以後、特攻は恒常的な戦法として続けられるようになる。
門司は言う。
「中央で特攻が既定路線となっていたことを知ったのは戦後のことですが、いずれにしても、ずっと前線にいた目から見ると、トラック空襲で第四艦隊司令部が見せた失態が尾を引いて、その挙句に特攻に行きついた面があることは間違いない。
そしてレイテ沖で日本海軍は艦隊の大部分を失って、その後はずっと特攻こそが唯一の戦法であるというふうになってしまった。込み入った作戦を考える必要がないから、自分が出撃する立場にない軍令部作戦部の部長や参謀にとっては楽だったのではないか。ただ、そうなれば参謀など必要ありません。
新聞やラジオも特攻隊員を『軍神』と褒めそやし、しまいには『一億特攻』などというスローガンが掲げられるようになった。『一億特攻』と言いますが、仮に日本人が最後の1人まで特攻で死ねば、いったい誰が日本を守り、天皇陛下をお守りするのか。米軍の庇護のもとに存続するのか、あるいは日本という国は亡びるのか、そんな当たり前のことを考える余裕もない集団ヒステリー状態に導いてしまっていたわけです」
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