( 136745 ) 2024/02/07 12:55:36 2 00 改変しても脚本家が批判されないハリウッド事情 事前にどんな形で映像化されるか確認するのは困難東洋経済オンライン 2/7(水) 10:21 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/0d52b680ad6eb40db94990cc46233ddb04f6f065 |
( 136746 ) 2024/02/07 12:55:36 1 00 映像化される際の原作と脚色について注目が集まっています。 | ( 136748 ) 2024/02/07 12:55:36 0 00 (写真:USSIE/PIXTA)
「セクシー田中さん」の件をきっかけに、映像化における原作の脚色に注目が集まっている。そんな中、劇作家で演出家の鴻上尚史氏が、「原作者と脚本家の問題にしてはいけない」と発信した。
【写真を見る】原作から大幅改変された注目作品『関心領域』の一場面
鴻上氏は、X(旧ツイッター)を通じ、「映像化において作品を改変しないで欲しいと要望する人と、製作側に一任する人に分かれるが、それは原作者個人の判断であり、問題は『変えないで欲しい』という原作者の意向を出版社がちゃんと伝えたのか、そしてそれをテレビ局がちゃんと受け入れたのか」であるとも主張。
もしそれが違っていた時に対応するのも、「原作者ではなく、原作者側に立つ出版社。それに対応するのも、脚本家の前にテレビ局、つまりプロデューサーだ」とも書く。
筆者はその意見にまったく同感だ。脚本家はプロデューサー、この場合はテレビ局に雇われているのであり、彼らの意向に従って仕事をするに過ぎない。原作に忠実にするのか、改変するのかについて、脚本家も意見はあるかもしれないが、大きな決定権は上層部にある。それを無視して上層部が気に入らないものを頑固に書き続けたなら、切られて別の脚本家に仕事を奪われるだけだ。
■ハリウッドで映像化された場合
事情はハリウッドでも同じだ。だから、ハリウッドでも映像化された際に原作者やファンから文句が出ることは多々あっても、脚本家がターゲットにされることはない。批判の対象となるのは、作品のリーダーである監督と、その監督を選んで任せたプロデューサーとスタジオだ。
小説なり、グラフィックノベルなりの映像化権を売る時に、それがどんな形で映画あるいはテレビドラマになるのかをしっかり確認することは、ハリウッドでもそう容易ではない。
そもそも、映像化権が売れたら必ず映画かテレビになるわけではなく、ベストセラーになったり、賞をもらったりした出版物であっても、何年も形にならずにそのままになるケースはたくさんある。その間、プロデューサーや監督がやって来ては降板し、その都度方向性が変わり続けるということもしょっちゅうだ。脚本家が脚色しても、新たな監督が来てボツにされたり、別の脚本家も呼び込んで大幅な書き直しがあったりする。
たとえば、M・ナイト・シャマラン監督の『ノック 終末の訪問者』(2023)の原作小説を書いたポール・トレンブレイ。プレミアで完成作を見た時には、「自分が思い描いた通りで涙が出た」こともあった一方、見ていられなくて「劇場を飛び出したくなったこともあった」と、彼は「Los Angeles Times」に語っている。
映画版『ノック 終末の訪問者』は、結末が原作とまったく違う。ただし、その点は原作者は最初から承知していた。映画の資金を集める段階で、「子供が死ぬという結末はそのままにできない」と言われていたのである。
それほど知名度のない彼がよく考えもせずに映画化権を売ったのは、本が出版される半年前。契約上、彼に意見を言う権利はなかったものの、プロダクション会社のエグゼクティブは脚本を見せてくれ、意見も聞いてくれた。脚本はシャマランが監督に決まる前の段階に書かれていたものからすでに原作と相当に違っていたが、トレンブレイは脚本家をまったく責めない。
シャマランがやってきてさらに変更された完成版について、彼は「ナイトは、『選択』というテーマを重視したようだ。彼はこの映画版で、僕とは違う文化、宗教経験からそこに迫っている。それは理解できても、僕はまだ葛藤を覚える」と、複雑な心境を語っている。
■改変されて原作者が大満足のケースも
しかし、原作に忠実かどうかだけが原作者の満足につながるというわけでもない。『ブレードランナー』(1982)は原作とかなり違うにもかかわらず、フィリップ・K・ディックは映画を大絶賛している。『クレイジー・リッチ!』(2018)の原作『クレイジー・リッチ・アジアンズ』の作者であるケヴィン・クワンも、結末をはじめいくつか改変がなされているが、映画化版を気に入ったようだ。
イギリスとアメリカで大ベストセラーとなり、続編も多数出版された『お買いもの中毒な私!』(2009)も、舞台をイギリスからアメリカに変えるなどいくつも変更があったが、筆者がインタビューした時、原作者ソフィー・キンセラは、「映画化される時には改変もあるものだから」と理解を示していた。
映画化したのはディズニーとプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーで、興行成績、批評ともにふるわず、原作ファンから批判されたのも彼らだった。
スティーブン・キングが映画史上において傑作とされるスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』を嫌っていることは有名な話だ。その理由は原作と違うということだけではない。それについてはキューブリックが十分語っている。
事実、スティーブン・キングは昨年の『ブギーマン』をはじめ、原作と変えられた自作の映画化版を褒めることもある。変更があったかどうかが彼にとって好きか嫌いかの基準になっていないのは明らかだ。
■今年5月、日本公開の注目作品『関心領域』では?
また、今年のアカデミー賞に複数部門で候補入りしているホロコーストをテーマにした映画『関心領域』(原題:The Zone of Interest)は、驚くほど原作と違う。原作小説が出版される前に抜粋を読んだジョナサン・グレイザー監督は、その後たっぷりリサーチを重ね、実在したナチ将校を主人公に置き換え、ストーリーも大幅に変えて映画にしたのだ。
しかし、何年にも及ぶ製作過程で、グレイザーは「原作を何度となく読み直した」とも、筆者との取材で語っている。グレイザーにとって、この本は断然「原作」に基づくものなのである。
原作者のマーティン・エイミスはカンヌ国際映画祭で映画がプレミアされたのと同じタイミングの昨年5月に亡くなっており、彼が完成作をどう思ったのかはわからない。映画化権を取得してから、プロデューサーのジェームズ・ウィルソンとグレイザーがエイミスとどんなやりとりをしたのか、映画化権取得においてどんな契約が交わされていたのかも不明だ。
しかし、映画は大傑作で、多くのことを観客に伝える。ここまで観客にインパクトを与える映画になったのだから、エイミスもきっと評価するのではないか。もちろん、それはこちらの勝手な想像だ。もしかしたらエイミスは気に入らなかったかもしれない。そうだったとしても、責める相手はプロデューサーのウィルソンと監督としてのグレイザーで、脚本家としてのグレイザーではないはずだ。
理想は、観客、フィルムメーカー、ファン、原作者、みんなが満足する形で映像化されること。どの作品においても、それはみんなが願っていることに違いない。実際には難しいのだが、できるだけの努力は必要。実現できるために、かかわる人たちが良心をもちつつコミュニケーションを取ってくれるよう、願うばかりである。
猿渡 由紀 :L.A.在住映画ジャーナリスト
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( 136749 ) 2024/02/07 12:55:36 0 00 ・ハリウッドの事情をネットで調べるのもいいのですが、今回の事件の関係者に取材する勇気のあるマスコミは、いないのでしょうか?
脚本家の相沢友子氏にはインスタ投稿の意図について取材してもらいたいし、チーフ・プロデューサーの三上絵里子氏には相沢氏と芦原氏の直接のやり取りを禁止した意図や、芦原氏との契約について相沢氏にどう伝えていたのかを取材してもらいたい。
日テレには、これまでも著作権者と多くの問題を起こしている三上氏と原作クラッシャーとまで言われている相沢氏を『セクシー田中さん』にあてた理由について取材してもらいたい。
ここまで関係者たちが口をかたく閉ざすのは、三上氏が日本映画テレビプロデューサー協会の理事を務めていることが、なにか関係があるのでしょうか?
・まず最初に契約があると思う。契約文化は日本のそれとは違って厳密と聞く。映画化の満足・不満足はあっても、日本の様な原作者とのトラブルが無いのは契約によって曖昧さを無くしているからと推測。
ほぼフリー改変が可能となっても制作側の原作者をリスペクトする姿勢が垣間見える話だが、これらは監督などの制作サイドによる仕事に対する矜持・理念(職人気質?)などが反映されている結果なのかもしれない。
飛躍した解釈だが、日本とハリウッドの大きな違いはショービジネスとしての業界完成度にあると想像。原作者リスペクトがヒットを生み出す重要要素との認識に到達していない。タレントのキャリアアップを第一の目的とした事務所意向(一種の踏み台)や各種スポンサー意向など、駄作を生み出す現実を「業界全体の長期的な不利益」と認識出来ない遅れた村社会何だと感じている。
・「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」 「最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1〜8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。 ひとりひとりにお返事できず恐縮ですが、今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。 どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」 これ書かれたら原作者が脚本家を軽視してるわけではない説明せざるを得ないよね。 日テレは「日本テレビの責任において制作および放送を行ったもの」って言ってるので、記者達は追究すればいいんだよ。
・ハリウッドの場合は脚本の権利を手に入れて、あとは好き勝手に改変してるイメージ。製作難航した作品ではリライトの脚本家だけでも何人もいたりするし。俳優は労組の組織力で徹底抗戦するし、漫画家も会社組織の人間だから著作権持ってなかったりだし、とにかく日本とはだいぶん違うんじゃないかと。
・手塚治のジャングル大帝というアニメがあった。良く出来た話で子供たちは夢中になって見ていた。 ライオンキングというタイトルでミュージカルになった時は驚いた。あの頃は日本のアニメがアメリカのミュージカルになったと、どちらかと言うと誇らし気に言う空気があったように思う。 自分としてはなんだかなぁと言う思いだった。ミュージカルも見に行った。その思いは益々強まった事を覚えている。
・鴻上さんのおっしゃると通りだと思います。私も「セクシー田中さん」ではプロデューサーと小学館の担当者には大きな道義的責任があると思います。
さて、このドラマのチーフプロデューサーは「一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会」の理事を務めている方でもあります。同協会の設立目的の一つに「日本の映画テレビ番組の制作に関する調査と研究」があります。理事を務めている人間がプロデュースした番組において関係者に死者まで出ているのですから、同協会は今回の悲劇について「調査」を行ってほしいです。
また、(チーフではない)プロデューサーはインタビューで「原作にとても魅力を感じ、そのよさを壊すことなくドラマにすれば心打つ作品になると考えた」と答えています。
いったいどうなっているんでしょうか。日本テレビや小学館も今回の経緯についてしっかりとした社内調査を行ってほしいですね。
・原作を基に、映画化とかアニメ化とかする場合、結局は、いかに原作者に納得の行く作品に仕上げられるか。にかかってくると思います。 原作通りに作ったら、面白くないと言う場合もあるし、ある程度、修正(改変?)したほうが、ストーリー的にも映像的には良くなる場合だってあります。 このバランスをとる作業が、出版社とテレビ局の仕事だと思います。 今回、上手く橋渡しが出来ていなかった事が、原作者の発信によって明らかとなりました。 なので、出版社とテレビ局には、原因究明と何らかの責任を取るべきではと思いました。 やっぱり、原作者は「神」ですからね。 神をないがしろにする事はあってはならないと。
・日本でも、宮崎駿という超大物が、原作をまったく違う作品にしながら、世界的に大絶賛されています。 古くはルパン3世をコミカルに改変し、未来少年コナンも別物に。 最近では君たちはどう生きるかも、やはり原型をとどめていませんでした。 でも、どれも歴史に残る名作となっている。
改変が悪い事だとは思いません。 天才の手が加わると凄い変化を起こしますから。 もちろん、そうなると原作の影は薄れます。 最近、話題が出た海猿なんかもそうですね。
結局、原作者がそこをどう考えるかです。 まずはしっかりと話し合うのが重要であり、納得出来ないなら映像化を拒否するしかない。
・アメリカの事例について具体的に紹介しているのは好感がもてる。日本との違いは映像化権について原作者と映像制作者が直接に交渉して契約することだろう。もちろん実際には弁護士やエージェントが入ったりするのだろうが、日本のように出版社などが間に入ることはない。その意味で原作者に納得感はあるだろう。 キングがシャイニングを嫌っているのは有名だが、映像化をキューブリックに認めた以上、キングも映像の放映などを禁止することはできない。原作者が満足することと権利上の関係は別物とされている。 「田中さん」のケースは、原作者が映像化の条件として出した内容が実行されていないと原作者が感じ、結果として原作者が脚本を書くという異例な状況になってしまったこと。原作者の権利と思いとが一緒になってしまっている。日本の曖昧なビジネス慣行が原作者を苦しめる結果になったのではないか。
・変えたか変えないか、という結果ではなく、 変える、変えないも含めて原作者との合意ができているか、ですね。 原作者にもいろいろな人がいるでしょう。 結果だけ見れば、 一字一句たりとも変えることを許さないという人もいるでしょうし、 無茶苦茶にしてもらっても構わないという人もいる。 一字一句変えないという原作者の主張は尊重されるべきで、 その結果、原作は面白いが実写がつまらない作品、となれば、それは原作者の責任。それを興行に乗せるかどうかは興行主の責任。 原作者の意思に反して改変して、興行に乗せる、というのは許されない。 興行側は、原作付き実写を外れリスクの小さいという面しか見ていないかもしれないが、原作者リスクも大きいということを意識するべき。そこを軽視して意思決定しているから、ひずみが原作者の意思軽視という形になる。
・ハリウッド映画と日本のTVドラマでは規模も制作環境も違い過ぎるし単純比較はできないが。 文字や描画の紙面媒体の原作の映像化は、原作の情報量と映像作品の宿命の時間枠の戦い、原作の膨大な情報の整理、取捨選択、付け加え等の脚色や調整は必須。丁寧にすれば当然時間がかかる。 「田中さん」で問題なのは、ドラマ制作関係者(特に各社責任者)が、原作使用上の原作者に帰属すべき権利をどこまで護る意識が、護る義務を理解できていたのか?に尽きるのではないか。 ドラマの企画制作スケジュールがタイトなのは制作側の一方的な都合で局や版元からの強権的な押付けがあったのではないか?それが引き金となりあのような結末を迎えた、としか見えないし、原作の権利に加え原作者への深刻な人権侵害が起きていたと感じてるのは自分だけじゃないだろう。
・ハリウッドの事情と短期間・超低予算で毎週60分を制作するテレビドラマの事情を比較するのは全く意味がないと思う。 正直、制作が始まったら時間的な問題で現場と原作者との細かいやり取りは不可能に近い。制作に入る前にあらゆる可能性を検討して十分なコンセンサスを共有するか、もしくは「スラムダンク」のように原作者自らが監督・脚本するしかない。
・原作者が改変を事前に了承しているかの問題なのに、アメリカでは原作者を無視して改変することが許されているような見出しの記事。一連の事件を正当化しようとしている印象さえ受ける。見出しだけ見る人が大半の中、釣りやミスリードを超えており、誰かを傷つけかねない。削除の上で、厳重に注意すべきだと思う。
・近年アメコミ映画って結構作られてるけど、『原作に忠実』って話はほとんどなかったりする。 一応ベースになる話はあり、色んなエピソードから部分的に持ってきたりはしてるけど、大筋の話はそれぞれの媒体の作り手のオリジナルである。 というかそもそも大元のコミックからして、エピソード毎に脚本家やアーティストが違ったりしており、『忠実性』みたいな概念は曖昧な所がある。 対して日本の漫画は(実際には編集の介入やスタッフの協力があるにも関わらず)『漫画家一人で描くもの』とされており、作家が描くものが『絶対的なもの』として扱われる。
そのどっちが良いのか一旦置くとして、いわゆるメディアミックス展開になった場合どうしても避けられない『当然他の作家の手は入る』という事実にあまり向き合って来なかったツケが今起きてるの根底にあるんじゃないかな…と。
・これまでもだめな改変作品は監督や制作会社が批判されてきた。ただ、今回の事件のきっかけは脚本家のSNSでありそこに同意したお仲間であること、事件後に脚本家達が公開した動画が火に油を注いだ事。そこを無視して一般化してしまう記事には脚本家擁護の意図を感じてしまう。
・ハリウッドでは権利譲渡に際し、事細かな内容を記した契約書を作成し、制作サイド、原作サイド共にサインする。原作者が完成した映画の内容に批判的でも制作サイドに対し訴訟を起こすなんて事は滅多にないのは、この契約書の存在。日本のように言った言わなかったなような前近代的な口約束での商取引は行わない。
・そもそも、日本でも普段は脚本家が名指しでボロクソに批判されるのほぼないよ。大半が駄作だの批判されて終わり。今回は脚本家が原作に口撃仕掛け、便乗する脚本家が出たから脚本家が批判されてるだけで。
また、ハリウッドだろうがいきすぎれば脚本家が名指しで批判されるから、ドラゴンボールエボリューションは脚本家が謝罪するって異例の事態になった。
そして、日本でもハリウッドでも原作改変で絶賛されるケースはあるが、いずれもキチンと原作愛があって原作を語る上で譲れない芯を尊重している。
・今回の件は、そもそもが脚本家が原作と原作者の方を軽視していたことが明らかに分かるようなSNSを上げたのが発端であることを大前提に話を進めてほしい。原作者の方が自ら経緯説明をしないといけないような状況に追いこまれたその発端は脚本家のその取組姿勢であったわけで、日テレやプロデューサーはもちろん脚本家に批判が集中したのは当然だと思います。
・この記事はとてもいい記事だと思う。 この問題については、過程の随所に、日本人の悪い点が出ていると思う。 まず、物事を進める際、細かい点を明確にせず、空気を読んで、曖昧なまま進めることだ。だから、後で食い違いが出た時に、きちんとした解決ができない。また、責任の所在も明確にしない。こういった揉め事で、責任を取り、解決を図るのは、然るべき権限をもった責任者であるべきだ。良くも悪くも、原作者なり脚本家なりが表に出てくるべきではない。 そしてもう一つ、これは我が国に限ったことではないが、然るべき権限を持たない者が、安易にSNSなどで情報を発信することだ。これは、法的、論理的に、混乱なく物事を解決しようという取り組みを打ち壊し、物事を安易にポピュリズムに落とし込む。 当事者は、色々と主張したいことがあるのだろうが、SNSという便利なツールができたからこそ、人々は、その扱いに慎重になるべきだと思う。
・「批判の対象となるのは、作品のリーダーである監督と、その監督を選んで任せたプロデューサーとスタジオだ」
日本も、これは通常は変わらないのではないでしょうか…
ただ、今回は事の発端となる書き込みが脚本家個人のSNSから、 それに対しての書き込みが、原作者の方の個人のブログとSNSから という事で通常から外れているのだと思います。
個人的には、小学館が原作者から事の推移の確認を受けた段階、 問題が発生している事を確認できた段階で自社内で調査し、 「SNS上の件について」と発表も小学館が行うべきだったと考えています。
・ワンピースの担当編集さんが、実写ワンピースのとき、ハリウッドは映像化するときの契約書で必ず「どんな変更があっても受け入れる」という一文が入ってるから、それを外させないと、始まらない。という話をインタビューでしてましたね。 尾田先生も制作にガッツリ関わるくらい力入れてたし。それがなかったらどうなったか。
集英社はドラゴンボールの失敗をものすごく教訓にしてると思う。 ネトフリもカウボーイビバップの失敗があるので、ポリコレ推しでも迂闊に日本の原作をアレンジする危険性に気づいてくれたのも良かったのかな。
原作に忠実というとハリーポッターもあるけど、やはり原作者が精力的に関わったことが成功に繋がってるし(ワーナーは現在恩を仇で返しまくってるが)忠実に映像化させる意思と覚悟が原作者側にあるかどうかは重要なのかと。一歩でも譲ったら負ける世界。
・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の映画化については、原作者のヘミングウェイが映画を完全に観るまで5回映画館に通ったと言う。 原作と違う作品を目にして原作者が激怒してしまい帰ってしまったからだ。 この他にも『ネバーエンディングストーリー』や『トップガンマーヴェリック』、『ロード・オブ・ザ・リング』と原作者と映画製作者間が訴訟沙汰になっているケースは数知れない。 今回の田中さんの件は脚本家の脚本が問題であの凄惨な結末になったと言う話ではなく、学校のいじめ問題の大人版がSNSで繰り広げられたことで原作者が命を絶ってしまったことが着目すべき点だ。 学校のいじめと同じで教育委員会や学校関係者が口を閉ざしてしまい、校内にいじめはなく生徒が勝手に自殺して終わりましたでやり過ごしたいって構図に酷似している。 問題はそんな壮大なものではなく、もっと単純で子供じみた話でしかない。
・結局日テレプロデューサーも脚本家も、小学館の社員で日テレといろいろ交渉した人も、「セクシー田中さん」という作品のこと、別に好きでもなんでもなかったんでしょね。視聴率とかコミックスの発行部数増とか、そういうのばかり気にしていたんでしょう?
今後漫画をアニメ化や実写化するなら、制作関係者や出演者、主題歌などを歌うアーチスト全て、原作者と作品をリスペクト出来る人のみが関わって欲しい。
・・原作通りにするとの約束で映像化を許諾した。改変するなら映像化しないといった。 ・そのうえで改変した。
ハリウッドで改変が当たり前なら、ハリウッドではセクシー田中さんは映像化されなかっただけ
シナリオ作家協会のかたも是非ハリウッドで思いっきり活躍してください。
・アメリカと比較するならば、改変が批判されないとか原作者を尊重するとかといった話ではなく契約の仕方を記事にして欲しい。 アメリカは日本のような『なあなあ』ではなく契約社会のはず。何を変えて良いか変えてはいけないか、原作者の要望を契約書に記載しているはず。
日本も要望を口頭で伝えるのではなく契約書に記載し、サインする社会になるべきでしょうね。
・昔から原作ものに関しては付き物の問題ではあるが、今問題になっているのは日本において原作者を守るシステムや扱い方、そして報酬。それらが問題であって、改変がどうこうという話題ではない。 あくまでも原作料としてそれなりの対価を支払うのがハリウッドはじめ海外のエンターテイメントであるが、日本は単なる道具の一つとして捉えている節がある。これはジャニー喜多川問題や様々な他のエンターテイメントにおいて抱える日本の病巣だと思っている。
・テレビ局側からの圧力で脚本家も自由が利かず不本意だったかもしれませんが……原作者の芦原先生も条件を反故にされ大事な作品を守るためご自身で脚本を書かざるを得なくなってしまった⇒脚本家は原作者に対する嫌味たっぷりな投稿をして炎上の引き金となり、結果芦原先生が亡くなったのでは?
脚本家も原作者も自由がなく我慢を強いられる構造は考え直されるべきですが、芦原先生が亡くなるに至った過程をうやむやにするのは、脚本家だけを擁護しているように思えてならないです。
・ハリウッドは著者から権利を買うって契約なので当然です。 これは映像化されない作品も含めて権利を買い取るからです。 一時期ハリウッドでマイナー作品の映画化か?っニュースが流行りましたよね。 これは内容が被る部分も含めて訴えられないように対策するためです。 あとは、著者や仲介者が作品をアピールしてハリウッドに対して売ります。 日本のテレビ局みたいに企画を持ち込んで著者にお願いするのとは根本的に違います。 ハリウッドは買い取って自社で改編する権利を持っているからです。 日本のテレビ局も作品を映像化するための権利を買う方向にすれば解決しますが資金的に無理ですね。 役者も含めて映像化する権利を買い取れば役者が不祥事を起こしても放映権には影響しなくなりますね。 まぁ今回の問題の責任の所在を追及しない時点で彼からに自浄するための能力が無いことが露呈しましたからね。
・脚本家が批判される流れになったのは、脚本家がインスタで原作者叩きと取れる投稿をしたり、脚本家集団であるシナリオ協会が原作者へのリスペクトを感じない対談動画を公開したりしたのが原因ですよね。大衆の無知蒙昧で脚本家が悪者にされていると言わんばかりですが、自業自得の部分が大きいかと
・この期に及んで、「原作は変えないでほしい」「変更点があった場合は原作者が自ら修正する」という約束がかわされたという話が、原作者自身による(すでに消された)ツイートでしか言及されておらず、本当にそういう約束や契約があったのかなかったのかってことが明らかにされていないのは気持ち悪いね
そういう約束や契約があったのなら、それを脚本家に伝えず改変を許していたプロデューサーはちゃんと仕事してなかったことになるわけで、責任をとるべきはプロデューサーってことになる
約束をしていたと認識していたのが原作者だけで実はそんな契約はされていなかったのだとしたら、そういう誤解を原作者にさせてしまった上で「原作者が代わりに脚本を書く」なんてことまで許したプロデューサーってなんなんって話になる
脚本家が「前代未聞な話で、繰り返されてはならない」とまで書いてるんだから後者が真実じゃないかって気がする
・アメリカではかならず事前に弁護士を介して細かい契約を締結するが、それでも後から様々な見解の違いに基づくトラブルが発生する。まして日本では契約もない口約束だけで制作が進む慣習があるので、実際にはもっと多くのトラブルが潜在的に起こり得る。
・ハリウッドは契約の際に電話帳みたいな契約書作るんで、原作通りを主張しまくるなら買わないし、後自分で資金集めてしたらどうですか?ぐらいになるよね。まぁ大半はビジネスライクに相応な金額を貰えば原作の宣伝、著者の知名度で許可するぐらい。中身に不満があると公開後に言うのも多いが愚痴なのか、原作は違うので買ってねというプロモーションか。どのみち金で割り切ってる。
・なんとか問題を一般化しようと思っているのかもしれないが、世間の怒りは原作者への敬意を欠いた脚本家のインスタグラムの投稿(仲間のコメント含む)と、Youtubeに公開されたシナリオ作家協会の、あまりに原作者をないがしろにした動画だということを忘れてはいけない。 そして事件の最大の責任者である日本テレビと小学館はいまだにこの件については沈黙を貫いており、事件の風化を待っている気配がする。 このような状況での一般論は全く説得力がない。
・見出しと記事の内容がまったく違う。 一般論としての原作に忠実かどうかが問題になっているわけじゃないと思うが、今起きている批判について本質を見誤っているのでは?
契約がどうなっていたのか。条件は守られていたのか。守られていなかったのならば、それはどこに問題の原因があるのか。脚本家が先に不満をインスタに投稿したことをどう考えるのか。
・今問題になってるのは改変したから問題になっているのではなく、改変にあたって原作者とのコミュニケーションを疎かにし原作者の気持ちと権利を傷つけたから問題になっているんだろう。 こうやってすぐ問題の本質を見失う。
・そもそも、映像化する時点で「そのまま」なんて不可能。キャスティングからカメラの角度、衣装、セリフ、間などなど、漫画とは全くの別物。それぞれ何十年も学んだ専門のプロがいる。それをすべて原作者が理解して、指示などできるわけがない。確認などできるはずがない。むしろそれは、全てのプロに対して失礼な話。 つまり、「そのまま」と原作者に言われた時点で、その作品を映像化する事など不可能だという事。にもかかわらず、映像化すれば、トラブルになるに決まっている。
・鴻池さんの言っていることはあくまでも自分の立場からの事。そしてこの記事は出版社からの意見が強い。今回アメリカの話は関係なくアメリカの話を出されてもだからなに?って感じかな。実際日本では過去に原作者が脚本にNGを出して制作側に訴えられた事があったが原作者の完全勝訴で終わっている。今回の件に限らずだと思うけど本来大事なのは出版社の役割だと思うけどね。殆どの場合出版社は制作側の味方をするんじゃない?担当者レベルでは原作者の味方かもしれないが会社レベルでは制作側。 芸術家肌の脚本家なんて原作者からしてみれば人の作品を勝手に書き換える迷惑な人でしか無いでしょう。どちらもビジネスと割り切っているなら仕事も早いんだろうけど。
・システムが違うのに、そこに目線を合わせずに書かれても。
ハリウッド映画はプロデューサーが金を集めてくる。 監督はパーツだがクリエイションの責任を負う。原作の脚本化は脚本家ではなく脚色家の仕事で、作家ではなく照明や記録や衣装と並列の立場で、契約で一般的に著作権は発生せず収益配分もない。
要するにその作品を何で売るかだ。 ○○監督最新作で売るなら監督の自由度が高い契約になる。 原作の契約内容は様々だが売れた新人の作品を使うことが多く、原作側に力のない契約になりがちだ。 アメリカは力関係と契約でトラブル排除をする。
日本のTVドラマは違う。 ○○演出の最新作で売るものなどない。 役者と原作(またはオリジナル脚本)で売るのがほとんどだ。 だからそこに力が与えられるはずなのに「脚本家」が著作権を持ち、原作と脚本家のW著作権で対立してトラブルを起こす。 このナアナアシステムが問題の種。
・この記事でのハリウッドの例は、映画化権を売るということはその後のすべてを委任する前提に見えます。 「売る」というからには原作者の手から離れるということと思われ原作者が要望を言う余地なし、今回の騒動とスタート地点が違うのでは。
そもそも本件は、脚本家のSNS発言が端を発しています。 不満はプロデューサーにぶつけるべき、我慢できなくてSNS発信するなら客観的事実のみ(9·10話は自分の脚本ではない)に留めておくべきでした。
脚本家が雇われと理解はしていますが、議論すべきはそこではないと思います。
どうして脚本家があのような発信をしたのか、原作者はどう受け止めてしまったのか、テレビ局と出版社はどう対応すべきだったのか、また今後すべきなのか、このような痛ましい事態が二度と起こらぬよう、検証のうえ態勢を構築してほしいです。
・日本では漫画のキャラクターなどの版権は原作者に帰属するが、アメリカは出版元に版権が帰属するなど、漫画の版権の管理も違うし、日本とは全然違うわけで。 いわゆるアメコミってキャラクターがどう描かれるかが主体なので、ストーリー構成や作画はあくまでスタッフ扱いだし。
・論点が違うのでは 今回は前提条件があってその条件のもと了承して制作されてたはずなのに反故にされたということが問題なのですけど、 ハリウッドの話は原作者が前提条件つけたかどうか記載がないのでわからないですが、 仮に前提条件ありでも反故にして改変しても問題ないという話ならわかります。
・「原作者と脚本家の問題にしてはいけない」と言っても脚本家からSNSや動画で「原作者脚本を書きたい」とか「原作が必要で原作者には用がない」「原作通りでなきゃいけませんか?」とか発進してしまうと原作者と脚本家の問題になってしまうように思います。
・時事系のYouTuberあたりが煽って脚本家叩きに精を出してるようだ。 おそらくそのほうが受けがいいのだろう。
記事に書かれているように、脚本家は雇われで意思決定をしているわけではない。確かに発端は脚本家のSNS投稿にあり、制作者間で解決すべきことを外部に漏らしたのは間違いだったと思うが、脚本家の意思決定が通ったわけではないことも読み取れる。
そもそも原作者自殺の原因は制作との対立そのものではなく、攻撃したいわけではなかったとの意思表示からは、SNS上での脚本家への執拗な攻撃が心労に繋がった可能性がある。 炎上を煽りたかったわけじゃないのに、自分の支持を装って個人攻撃をしている人たちがいる、自分の作品を理解してくれていると思っていた人たちはこんな人たちだったのかと絶望したのかも知れない。
脚本家叩きをしている人たちは、上の2つの意味で問題を見誤っていると思う。
・ハリウッドの映画監督やプロデューサー、脚本家の人々は、SNSや内輪で原作者からの脚本への意見や約束不履行指摘に対して、陰湿なパワハラ行為をしてる、していた過去があったのですか?あったとして、謝罪会見すらしないのですか?
問題逸らしは褒められたものではありませんよ?
そして契約社会のアメリカを例に挙げるのであれば、「原作に忠実に作成する」という「契約が取り交わされている」状況で映像制作会社の都合で勝手に「原作を改変した」のならば、何百億円という訴訟問題になりますよ?
・だんだんと報道の論点がずれていくのだが、 改変していいとか、改変したら良くなったという話ではない。 今回のセクシー田中さんの件は、 原作者さんが、未完の作品なので原作に沿った内容にしてほしいと要望して、それを日テレが了承したから映像化OKを出した。それなのに日テレがその要望を反故にした。それだけのことである。 改変してもいいと言う作家さんなら問題ないが、今回は制作側が原作者の要望を無視したと言うだけ。 誹謗中傷ではないです。 誰が悪くて、誰が謝らなきゃいけないか。 謝る必要のある人が謝っていないから、問題が大きくなっているだけです。
・>『ブレードランナー』(1982)は原作とかなり違うにもかかわらず、フィリップ・K・ディックは映画を大絶賛している。
この部分は厳密に言うと間違っている。 ディックは映画が完成する前に亡くなっている。しかし、ダグラス・トランブルらが撮影した視覚効果シーンのラッシュフィルムを観て大満足で、映画の完成を楽しみにしていたらしい。 監督のリドリー・スコットはディックと何度も映画のテーマや内容について議論を重ねているので、改変についてはディックは充分納得済みだったのだろう。
・正直日本の場合はストーリー原作ありきの作品作りじゃ無くて、タレントありきの作品作りな気がするんだよな、そのキャラクターに合ってるとかじゃ無くて知名度や事務所との関係とかそっちのタレントを主に置くから改変される事が多いんじゃないのだろうか、新人の誰々をもっと目立たせたいとか、タレントを大事にし過ぎて作品に影響するってパターンが高い気がする、金儲け一辺倒や裏で事務所を贔屓とかしてるから改変が多いんじゃ無いのだろうか、作品を作るでは無く商品を売るになってるんじゃ無いのだろうか
・今回の件で脚本家が批判のターゲットになってるのは、 脚本家が原作者をターゲットにしたのが発端だから。 脚本家が、自分に書かせない判断をしたプロデューサーをすっとばして 原作者に不満の矛先を向けた投稿をしたから批判されてるんじゃないかな。 原作の改変とか原作者軽視の問題とはまた別な気がする。
そして当該脚本家以外の脚本家までもが批判されているのは、 改変したからというより、心映えの悪さを自らさらけ出したから。
・この記事にあるように「改変」が問題になるのではなく出版社とTV局の問題にするべき。 改変を責める間違った正義は芸術そのものを迫害してることに気づいてほしい。 相沢友子氏の改変が好き嫌いなのはそれぞれの意見があるから自由に言えばいいとおもうけど、「改変」を悪にしないでほしい。
・あんなことをSNSに流さず、対談で話しをしなければ、批判はされないだろう。問題は渦中の脚本家側に原作者への敬意がなく、それを当たり前の様にSNSで出すから批判されたのだ。原作者に会いたくないなど、公言する脚本家に原作者がいい思いをするはずがない。 批判されて当然だろう。
・アメリカは日本と違ってそもそも漫画をキャラクタービジネスとして展開してるから何人もの作家が同じキャラクターで異なった物語の漫画を書くのは当たり前だとか。だから映画で改変されようとそもそも問題ないんだよね。 日本はビジネスで有る前に作者の思いのこもった作品として漫画があるからアメリカのようにはいかないよね。
・日本の原作作品映像化って、権利持ってるのは多分出版社なんだよね? この記事読むと、ハリウッドへ映画化権を売っているのは原作者のように読めるんだけどあってるのかな?もしそうだとすると、そこが行き違いの起こりやすいポイントかなと思った。 あとこの記事の場合だと、映像制作側が改変するにしても、原作へのリスペクトだったり、自身の哲学だったりがあるように思う。 もちろんハリウッドでも違う場合もあるんだと思うけど、少なくとも日本で話題になってる原作改悪は、リスペクトも哲学もなく、上手い具合に商業作品にしてやるぜっていう小賢しい事情で原作者が黙らされてる事例ではないかなと感じた。 日本で原作レ〇プって言葉が大きくなりだしてから映像化した時に、役者さんは原作のファンです感をみんな発言しだしたけど、特に脚本家さんとかからポーズでもそういうリスペクトってあまり聞かない気がするなぁ。
・今回の場合は脚本家のSNSの投稿があったからだと思います。それが無ければ、この記事の様に普通にプロデューサー等が批判されていたはずです。ハリウッドでも脚本家がSNSで投稿したら同様に批判の対象になり得るのは変わりません。むしろ日本より酷い有様になるでしょう。
・日本だって今までは実写化、アニメ化された作品の失敗については製作者や監督に批判がされており脚本家は裏方扱いなので矛先が向けられることはほとんど無かった。 ただ、セクシー田中さんの件で今までと大きく違うのは脚本家自身が芦原先生を邪魔だと馬鹿にするようなことをSNSで発言したり、亡くなった直後に原作者をなんとも思っていないような会談の動画をアップしたりなど脚本家自身が表に出てきていること。行き過ぎた批判や脅迫はダメだけど、ある意味自業自得な部分もある。
・改変批判の流れになって、 脚色賞とか作れば?なんて話のすり替えみたいな話題もでてきているけど、 改変に厳しいのはあくまで原作厨で、 この話題の問題は原作者の意思を尊重しているかという話なんだけど。
まあでも、ハリウッドの原作使用料が日本みたいに100〜200万なわけないでしょう? 正直莫大な報酬をもらえる前提と一緒にはできないよ。
・ハリウッドは二次創作だと明言したのち分厚い契約書を交わす訳で 原作者との約束を破ったりしない あと、ブレードランナーとかシャイニングとか凄いのばかり例に挙げられると何も言えない
私は今までは映像化する人たちが原作とどう向き合ってるかの判断は演じる役者さんと監督、キャスティングしたのが誰かしか見ていなかった そこを反省したい
日本も今後は二次創作ですと言って欲しい コミケに対抗できる作品が作りたかったら同人作家をスカウトすればいい どれだけ話をねじってもキャラだけは死守する人たちだから
・論点が完全にずれています。 今回は改変の良し悪しの問題ではありません。 原作者との『漫画に忠実に』という条件で提供された原作を、原作者の意向を無視するかのように改変したことです。 普通に契約不履行とか信義則の問題です。 この条件が難しいなら、別の条件を提示するか、若しくは企画自体を断念するべきでした。 更に言うと、脚本家が制作に関しての不満を、それこそ自分に都合良く脚色してSNSでぶち撒けたプロ意識の欠落や稚拙さが反感を招いているのです。 この記事からは、今回の問題における脚本家の責任を軽んじ、原作者が頑迷だったとミスリードさせるような意図を感じます。
・原作を変えるなと批判しているのではない。 原作者の意思に反して、変えるなと言ってるのだ。原作者を尊重しろと言ってるのだ。変えていいという契約なら問題ない。 「脚本家による原作者への中傷投稿」とその内容により脚本家が批判されているのだ。
・「原作者と脚本家の問題にしちゃいけない」っていうのは本当にそうだなと思うんだけど、日本シナリオ協会が謎の動画を出しちゃったりしたから話が余計にこじれた感じする。 最初に脚本家を叩いちゃった人達だって、後から色々わかったところで引き下がれないでしょう。 「間違ってました、ごめんなさい」をするのが日本人は本当に苦手だってどこかの文献で読んだのを思い出した(だから新聞も週刊誌も誤報を訂正しないことがすごく多い)(その割に、謝罪会見ダイスキ!他人に謝らせるの大好き!って感じだけど…)
・セクシー田中さんの件は改変の是非というより契約の反故が発端で、特に脚本家が槍玉にあげられているのは当該の脚本担当者と直後の協会の動画の内容のせい。
というか本来はプロデューサーが前面に出て詫びなきゃいけないのに、先に脚本家が燃えてくれたおかげで回避できてる状況。このまま逃げ切る気でしょうけど、もっとそっちを追及すべきだよ。
・>脚本家はプロデューサー、この場合はテレビ局に雇われているのであり、彼らの意向に従って仕事をするに過ぎない。
これは全くその通りですね。 もう一つ言えば、仕事上のトラブルをSNSに投稿した問題。 一般のそれなりの企業であれば、こうした行為は「ご法度」と執拗に教育していますが、テレビ局や出版社はそうした事がないのでしょうか? 今後は再発防止の観点からもこうしたことを契約書に盛り込む方がよろしいかと思います。
・>「セクシー田中さん」の件をきっかけに、映像化における原作の『脚色』に注目が集まっている。
この記事の著者が、今回の問題を「原作の脚色」と捉えていることを冒頭に表明しているのが、なかなか風刺が効いていいです。
アメリカでは原作からの改変は「脚色」とはっきりと認識し、その上で、良い「脚色」にはちゃんと評価し、アカデミー賞脚色賞も用意している。
この辺、日本の「脚本家」しかいない環境とは(良い悪いは別に)大きく異なることを、(大きな声では言いにくいが)言いたいのかもしれないなぁ・・・。
・原作者が死んじゃったからなんだろうが、原作者を持ち上げが過ぎる。 そもそも、「原作に忠実」よりも「作品の中身」を重視するのが消費者じゃないの? そりゃ、原作者は思い入れがあるのかもしれないが、消費者は原作ファン以外は映画やドラマの「内容」と「出演者」の方をより重視している。
多くの人は作者が誰とか脚本が誰かも関心がない。あまりそこにこだわると、マスを逃すことになる。 ただ、タレントありきの映像化はやめて欲しいとは思う。
・事前にどんな形で映像化されるか確認するのは困難
なので、どう契約するかが大切。論点がずれてはいけない。 アレンジ自由と契約したなら文句言えないし、原作に忠実と契約したなら改変してはいけない。 まして、そういう業界なら、脚本家が途中交替したことに苦言を呈してはいけない。
自分はアレンジしたい、でも自分を変えられるのは嫌だ。それは契約じゃなく我儘。
・話を広げすぎです。最近のマスコミの態度は、問題を薄めて一般人が飽きるのを待っているようにしか見えません。 ハリウッドのお話はよーく解りました。他の原作者さんのこれまでの不満も噴出しています。我々一般人の怒りも収まっていません。
で、いつになったらこの問題の発端である脚本家本人と問題の大元と考えられるプロデューサー本人に取材に行くのですか?なぜそこに踏み込まないのですか?
・いや、この件での脚本家(相沢友子)が批判されているのは、原作を改変した脚本を書いたことではなくって、それこそ原作者本人を批判するような当て擦りのコメントを、まず先に自分のSNS(インスタ)に投稿したことですよね。
・ハリウッドを持ち出さなくても、日本でも原作者絶賛のメディアミックスは多々あるんだけどね 今回の問題は「原作を改変しないこと」が実写化の条件だったのにそれがウヤムヤにされた、って話ですよね
・いやいやご自分でも取材された通りで”契約上、彼に意見を言う権利はなかった”これに尽きますよ。 口を出してほしくなければ、著作者人格権の不行使条項を入れればいいんです。 それだと映像化許諾を受けられないから原著作者の要望を採り入れるのであれば、それは契約として完遂すべきことです。
今回は、契約上原著作者が意見を言う権利を持つ契約で、その通りにしたら脚本家がSNSで不満を書いたことから始まったトラブルです。 原著作者が満足するかどうかではなく、契約通りに仕事をしたかどうかでこじれた話です。
・改変やそれにまつわる業界の慣習とかどうでもいいんですよ。 それは関係者が今後に向けて改善すればいいし改善できないとしてもそれに妥協して作品を預けるかどうかは権利者である原作者が決めること。 妥協できないのならプロジェクトが走り出す前に断ればいい。
今回の件は原作者が提示した条件を制作側は飲んだにもかかわらず実行されなかったことと、 その結果に対するいわれのない不満が原作者に向かってしまったこと。 今回の脚本家に対する批判が爆発してるのは、改変自体ではなくその改変に対して起こった出来事をSNSでぶちまける行為や、それを制作側がコントロールできてなかったこと。
改変騒動自体はきっかけではあるが事案の直接的な原因ではない。
・そうでしょうね ですが今回の脚本家批判はX上にての原作者批判発言が問題となるので個人のマナーやコンプライアンス的問題であり体制以前のお話しです ですが旧態依然とした制作体制である限り今後も同様の不幸な事例は続くのでしょう
原作者権限を引き上げるべきです
日本のメディアに於いては原作者の立ち位置があまりにも蔑ろにされていると感じます
・推測でしかないけど、ハリウッドでは相応の対価と権利が約束されているのでは。 これまで見た洋画の中にも、これ原作あったんだって経験は何度もあるし。 今回のケースは、テレビ側が都合のいいところだけ欧米のマネをしたってところもあるかもしれないね。
・ハリウッド事情なんか知ったことじゃないですね。 小学館が経緯を隠蔽する方針を社員に伝えたこと、日テレが未だに何ら調査結果も調査しているかすらも明らかにしてないことを追及すべきでは。
・マスコミ…もそうですが、芸能界関係者を含め脚本家をなぜ擁護する?ハリウッドがどーのとか、今回関係ないと思うが。元々、業界的には原作者を軽視するところが問題視されていたが、今回は脚本家が余計なコメントを発信したから最悪の事態になったんだよ。もちろん、脚本家だけの責任とは言わないが…あまりにも「ひらきなおり」してるように見える。 原作者がここは譲れないという所を事前に話をしているのに、平気で約束を放棄する。日本語が理解できていないのか?
・原作者が納得している改変になんの問題があるのか? とにかく問題をすり替えて相沢友子を擁護するな。 改変だけじゃない、インスタでの嫌み投稿で人ひとり自殺に追い込んだのに謝罪もなしはあり得ない。
あと、ハリウッドだからって全部OKじゃないから。 原作者が良くてもファンがそっぽむいたのもあるから。 北斗の拳とかドラゴンボールとか聖闘士星矢とかな。
・脚本家の組合であるシナリオ作家協会がオリジナルが出せないから原作付きをやると言っていたが、原作付きをやるのはテレビ局の都合だが改変するのは脚本家の我儘と言う口ぶりだったと感じた 本当に脚本家の責任が無いならああいう言い方になるのだろうか?
・日本以外では、原作を元にして脚本を書くことを「脚色する」といい、オリジナル脚本を創作することを「脚本を書く」という。賞も分けられていて脚色賞、脚本賞がそれぞれある。日本のほとんどの脚本家は厳密には「脚色家」であって、脚本家は極めて少数。
・脚本家の方は今頃どうなさっているのでしょう。 インスタで同調したお仲間は早々にコメントしましたが。
「尊厳を傷つけられたお気持ちお察しします」と言った方は苦しい言い訳。 「悔しいです。わたしもこの事胸に刻んでおきます。」と言った方は「責任感じています」とコメント。 このような事から・・ この方々はインスタに問題があった。 事の発端がインスタだという事を自覚されていますね。 あと1人「個人的にはあり得ないです。どんな経緯があろうとも。」と言った方は、だんまりかな。 「どんな経緯があろうとも!」だそうです。 (この投稿は経緯説明に至る大きな要因かもしれませんね。) それに対し脚本家は「はい!脚本家として生きる全ての関わる事だと思います」と言いきりました。
これこそが苦言です。 原作者に対しての。
この人達の投稿で必要に迫られて経緯説明する事になってしまった。
・だから改変するのが問題なのでは無いってば。改変しないという条件で契約したのに改変したのが問題なんだって。しかも契約履行を求めた原作者に逆ギレして余計な負担をかけ最悪の結末に導いた。
・契約が原作と異なっても問題なければ何も問題ない。今回の原作者が自死した事件は原作と脚本を変えてはいけないという契約に対して非常に変えたところに根本の原因がある。
・伝えていたのか、というなら、伝えていただろう。 だから、最終2話は原作者が脚本を書くことになった。 今回の脚本家が批判される原因は、脚本家が原作者に対して辛辣なコメントをしたからで、自分から矢面に立ったからでしょう。 この件以外で脚本家の誰々が~という話は出て来てないと思うが。
・海外からは最初の契約通りにやらないなんておかしい、って最初の頃から声が上がってた気がしますが? 最初からこの問題は「改変がダメ」ではなく「原作者との契約を守れ」だったと思います。 更に言うならなぜ脚本家に批判が集まっているかというと先に脚本家がSNSで原作者の悪口を言ったからです
・そりゃあ契約段階でしっかり決めてれば問題にはならないさ。
原作として使ってやるんだから大人しくしたがえ感が透けて見えるからみんなこの問題の動向を気にしてるのでは?
契約書がちゃんとあれば既に出てきてるはずが、いっこうに、1文すら出てこないからおかしいんだよ。
・だから、まあ、原作者が「変えても良い」と言ってるなら、変えるのもアリだと思いますよ。今回のことは違いますよね。 色んな記事が出てますけど、他の事例を出されても、今回のことは関係ないんですよ。なぜなら、原作者が得心してないんだから。そして、それをツィッターで責められたわけだから。
・契約書も弁護士もついてるハリウッドと一緒にすんな。揉めているのは無名の作家の持ち込みの脚本が買い叩き受けたがヒットした場合。それでも契約書で結局負ける。 日本のドラマでそういうスキームもガイドラインもないから批判されているのに
・原作者に無断で原作改変というとネット投稿の二次小説があるが、アメリカなどの欧米諸国はどうしているのだろうか。いささか面倒だが、原作者や出版社などの著作権を持つ人達による許可制にしてはどうか・・使用料は徴収せず、作品や原作者を誹謗中傷しているとしか思えないアンチヘイトやザマァ系の作品は規制なり削除・投稿禁止にするとか。ありふれの『召喚の手違い』がいい例。
・責任を脚本家に押し付けるテレビ局と出版社の態度には、辟易しますが、このようにテレビ局と出版社への責任を文章にして抗議していくことは重要かと思います。
・もし、例の件を念頭に掲載した記事ならば、なんか根本を履き違えた内容に見える。
>原作に忠実にするのか、改変するのかについて、脚本家も意見はあるかもしれないが、大きな決定権は上層部にある。それを無視して上層部が気に入らないものを頑固に書き続けたなら、切られて別の脚本家に仕事を奪われるだけ
とあるが、昨今の脚本家はこのようなことは述べていない。 むしろ"脚本家"の力を主張し、原作を蔑ろにする発言に終始している。
そして何よりも、そもそも原作者の"原作に忠実で"を容認してことが始まった(事実上の締結)のであれば記事中のあれこれは約束を守らなかった者の言い訳に過ぎない。
・「問題は『変えないで欲しい』という原作者の意向を出版社がちゃんと伝えたのか、そしてそれをテレビ局がちゃんと受け入れたのか」であるとも主張。」
まさにこれ。だからこそ局と出版社の説明が必要なんだよ。現状やる雰囲気じゃ無さげだけど。
・原作小説などは、小説家のもの。それを元に、原作の著作隣接権を購入して、作った映像作品はテレビ局や映画会社のもの。お金をもらった以上は、原作者は口を出すべきではない。契約によるが。
・>『ブレードランナー』(1982)は原作とかなり違うにもかかわらず、フィリップ・K・ディックは映画を大絶賛している
正確にはディックは完成を待たずこの世を去っている。称賛したのは上がってきたラッシュ映像のみで映画を大絶賛はしていないはず。
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