( 137801 ) 2024/02/10 14:18:43 1 00 今年の大河ドラマ『光る君へ』は、主人公が紫式部で吉高由里子さんが演じている。 |
( 137803 ) 2024/02/10 14:18:43 0 00 清少納言。大河ではファーストサマーウイカさんが演じる(写真:NHK公式サイトより引用)
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部が、清少納言など、同時代に生きた女性歌人たちに対して抱いていた想いを紹介します。 著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 『紫式部日記』には、紫式部の名もなき同僚(一条天皇の中宮・彰子に仕える女房たち)に対する想いが記されているだけではなく、和泉式部や赤染衛門、清少納言など、現代のわれわれも「知っている」著名人についての評価も書かれています。紫式部は彼女たちに、どんな想いを抱いていたのでしょうか。
【写真】紫式部が歌の才能を認めた、赤染衛門。大河ドラマでは凰稀かなめさんが演じる。
■和泉式部はどんな人だったのか
まず『紫式部日記』で登場するのが、和泉式部です。和泉式部は、彰子の女房でした。紫式部と仕えていた人は同じだったようです。
辞典類には生没年不詳と書かれることがありますが、978年頃に生まれたのではないかとの説もあります。そして、1027年までは生存していたと推測されているので、やはり紫式部と同時代に生きていたことが推察されます。
和泉式部の父は大江雅致、母は平保衡の娘。和泉式部の母は、朱雀天皇の皇女・昌子内親王に仕える女房でした。
和泉式部は、橘道貞と結婚します。夫が和泉守に就任したことから「和泉式部」と彼女は呼ばれました。
和泉式部と夫との間には、女児(小式部内侍)が誕生しました。しかし、和泉式部と夫・道貞は不和となり別居します。
その後、和泉式部は「奔放」な恋の道に走ります。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王の寵愛を受け、身分違いの恋として、親からは勘当されてしまいます。為尊親王と死別すると、今度は、為尊親王の弟・敦道親王と恋愛関係になります。
敦道親王がまだ独身ならばよかったのかもしれませんが、本妻がいました。親王と本妻との関係は、和泉式部が原因で破綻。敦道親王も早世します。
その後、和泉式部は、一条天皇の中宮・彰子に仕えることになります。そして、藤原保昌と再婚することにもなるのです。
しかし、和泉式部には悲劇も襲いました。1025年には、娘の小式部内侍が亡くなってしまいます。
晩年の和泉式部についての詳細はわかりませんが、彼女もまた女流歌人として多くの歌を残し、『和泉式部日記』も残しています。
紫式部と和泉式部は、性格の違いはありますが、歌や日記を残している2人の生涯は重なる部分もあります。
■紫式部が歌の才能を認めた赤染衞門
では、この恋多き女性・和泉式部を紫式部はどう評しているのでしょう。紫式部は、「ちょっと感心できない点もある」と記しています。これはおそらく前述の親王たちとの熱愛を指すのでしょう。
一方で、和泉式部が素敵な手紙を書いたとして、評価もしています。紫式部は、和泉式部が書いた手紙を「何気ない言葉も、香気を放つ」と絶賛するのです。和歌の才も「お見事」としています。
とは言え「頭の下がる歌人だとまでは思わない」と書いているので、手紙と比べたら、歌の評価は低かったようです。
それと比べて、紫式部が歌の才を誉めているのが、赤染衛門です。赤染衛門もまた紫式部と同じ時代の女性。赤染衛門は、赤染時用の娘でした。
赤染衛門は、大江匡衡と結婚。江侍従ら子供をもうけます。赤染衛門もまた中宮彰子に仕え『赤染衛門集』と呼ばれる歌集を残しています。
赤染衛門は、夫の尾張国赴任にも同行しています。夫や子供への気遣いある女性だったようです。この赤染衛門を紫式部は歌の「権威とはされていませんが」、ふだん、何気ない機会に詠んだ歌など「頭の下がる詠みぶり」としています。
そして、ついに、紫式部のライバルとしてよく名前が上がる「あの人」の評価が書き連ねられます。
そう、清少納言です。清少納言は966年頃の生まれだと言われており、紫式部と同じ時代を生きた女性でした。
父は清原元輔。清少納言は、橘則光と結ばれ、子の則長をもうけますが、夫とはその後、離別。清少納言は、一条天皇の中宮・定子(内大臣・藤原道隆の娘。道隆の弟が道長)に仕えることになります。
清少納言と言えば随筆『枕草子』を書いたことで有名ですが、ではそんな清少納言を紫式部はどう評価しているのか。
■清少納言の作品を「中身がない」と酷評
実は「清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようですね」と酷評しているのです。
「利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、その学識の程度もまだまだ足りないことだらけ」とも書いています。
さらには「彼女のように、好んで人と違っていたいと思っている人は、最初は新鮮味があっても、その後はだんだんと見劣りし、異様になっていくものです。風流を気取った人は、寒々として風流に程遠い折にでも、感動してしまうものですから、的外れで中身のないものになってしまうのです。中身がなくなってしまった人の成れの果ては、どうしてよいものでしょうか」とまで書いているのです。
紫式部は清少納言の作品のことを、奇をてらうばかりで、中身がないと感じていたようですね。
紫式部は幼少の頃より、漢籍に親しみ、漢文を読みこなしてきたと言われていたため、それなりの自負心もあったでしょう。その自負心が、清少納言批判に転化したのではないかとも思われます(一方で、清少納言への嫉妬もあったとも言われています)。
紫式部と清少納言は、年齢や宮仕えの時期も10年近く違うため、面識はなかったとされます。
それにしても、紫式部の清少納言への口撃は、清少納言の『枕草子』を全否定したいかのようです。
清少納言の『枕草子』は、一条天皇の中宮だった亡き定子を追懐するものでした。紫式部が仕える彰子(同じく一条天皇の中宮)としては、それが我慢できないものだったのかもしれません。それが、清少納言批判につながった可能性もあります。
紫式部は、あれやこれやの人物批評の後に書きます。
「何一つ思い当たる取り柄もなく、生きてきた人間で、そのうえ、特に将来の希望もない私は、慰めにするものもありません」と。
■漢籍や古い歌が積み上がる紫式部の部屋
紫式部の部屋には、漢籍や物語、古い歌などが積み上がっていたようで、それを見た家の女房たちは「奥様はそんなだから、ご運が拙いのよ。どうして女性が漢文の本など読むの。昔は漢字で書いたものは、お経でさえ、読むのを、人がやめたものなのに」と陰口をたたいていたようです。
式部はそれを聞いて「運の拙さは、女房たちの言う通り」と自嘲気味に書いています。
(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973) ・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985) ・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010) ・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
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