( 137895 ) 2024/02/10 22:21:03 2 00 文末の「。」は怖い?俵万智さんの“マルハラ”に一石投じる一首に反響「もう何でもハラスメントになる難しい時代」という意見もハフポスト日本版 2/10(土) 13:14 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/caba734740bf9c7291ada3c24c057e6efbab2a96 |
( 137898 ) 2024/02/10 22:21:03 0 00 俵万智さん
歌人の俵万智さんが2月8日、自身のXを更新し投稿した一首に反響が寄せられている。SNSには「さすがです」「優しさが滲み出ている」などとコメントが多数集まっている。
【画像】お見事すぎる...俵万智さんの“マルハラ”に一石投じた一首がこれだ
俵さんはXで「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…この一首をそっと置いておきますね~」と前置きした上で、「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」とよんだ。
俵さんの一首は唐突によまれたわけではなく、注目の話題と関連していた。
俵さんの一首は、若者のLINEなどでの句読点の使い方や「マルハラ(マルハラスメント)」を暗に意味し、それに触れたものだったと受け取られている。
「マルハラ」とは、例えば「承知しました。」など文章の最後に「。」がつくことに対して、若者が恐怖心を抱いているという事象のこと。
文末にある「。」を威圧的に感じ、「(相手が)怒っているかもしれない」と受け取ってしまうと一部のメディアなどで報じられ、大きな注目を集めていた。23歳女性の声として「読みやすくするための句点でルールだと理解しているが、区切られてシャットアウトされている印象がある。会話が続けにくい」という意見も紹介された。俵さんの一首は、この部分にも着目していたとみられる。
「怖い印象がある」という声もある一方で、「別に思わない。正しい使い方。過剰なように思うし、何でもハラスメントになる難しい時代」という意見もあり、個人や世代間でも意見が分かれるようだ。
時代によって変わるものもある、言葉の使い方や用法。「マルハラ」皆さんはどう思いますか?
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( 137899 ) 2024/02/10 22:21:03 0 00 ・句読点だけで、勝手に思いを巡らせてしまう人達、もう一回小学校からやり直してください。義務教育で習った文章の書き方を、勝手に変えてはいけません。国語の基本は国民にとっての拠り所であり、基準です。これは意訳する物でなく、ルールです。俵さんも、若者の気持ちに同調しないで、ビシッと、正しい国語です、と伝えてください。
・若い世代はスマホやパソコン、ゲームでのチャットが多く感じます。手書きの文章で相手に思いを伝える事もなくなり、凹凸のないスマホのキーボードで送信したら完了的な事を小さい頃から慣れているせいで、そこに相手との意志疎通が完全にできているという思い込みと、思考を生み出しているのだと感じます。文字だけで相手の感情やニュアンスを読み取ることができないということを学ぶほうがいいと思う。そしてマルハラとか、既読スルーという言葉を作り出してメディアで広めてしまうとその言葉が当たり前のような世界になってしまう。まず対話して喧嘩して。感情を育てることですね
・確かに「。」は多少冷たい印象になることもありますが、「。」がなくて文字で終わるのもドライな感じがしてあまり変わらない気がします。 なんの攻撃でもないので、ハラスメントにはなりえないかと思いますね。 受け手がハラスメントと感じたらすべてハラスメント、ということになると、ほとんど他人とコミュニケーションをとることが困難になりますし、「言ったもん勝ち」になるのはいけないと思います。 なにより、まともに国語教育を受けていれば、文末には「。」をつけるということは習うと思います。
日本なのに日本語教育より英語教育に時間を割いているからダメなんだと思います。 英語を習得するにしても、母国語の土台なしでは学習効果が少なくなると思うのですが…
・若者から見て違和感を感じるのは構わないし、世代が違うんだから自然な事だと思う。 自分だって若い頃は中高年の方に対して、なんで?って思うことは多々あった。 だからといって、それを○○ハラにすぐに持っていくのはほんとに問題。 結局自分の不快なことはすべて○○ハラになるわけですよね? 世の中、ほんとに解決しなければいけないパワハラやセクハラや諸々の○○ハラがあるのは理解してる。 最近相手が不快に思えばもうそれはすべて、ハラスメントだみたいな事を言うし、もちろんそういう場合も多々あるけど、それを100%にしちゃうと言ったもん勝ちになってしまう。 逆に言えば、悪気はこれっぽっちも無いのに勝手に悪い方に理解されてそれをSNSでに投稿されて不快なんだから、そういうことを言ってる若者からのハラスメントですよね。
・昔からLINEでもメールでも句読点をつけてた。 ゲームがきっかけでネット友達と喧嘩になったときにLINEでやりとりしてて、いつもの感じで文末に「。」をつけていたら 「こんの喧嘩のときぐらい句読点つけるのやめて。文末の「。」に恐怖を感じる。威圧感がすごいから嫌!」 と言われました。これが最後で返事が返ってきませんでしたが…当時なぜそんなことで怒られないといけなくて縁を切られないといけないのか不思議で仕方なかったが、同じように思う人がいるのかとこれを見て思いました。
・自分は高校生ですけど、こんな句読点が見た時に恐怖なんて感じたことがないし、そもそも日本語の基本中の基本であると思う。 同級生にも文の最後に「。」がついてると威圧感を感じるって人がいたけど、普通に文として必要な句読点すらもこうしてハラスメントにするのは日本語への侮辱に相当すると思う。普通に学校でも句読点は習っているというのに、こうして若い世代が句読点を無視して、それが次世代にまで続いてしまい、いつの日か「ら抜き言葉」のように本来あるべき言葉の姿を見失うことがないのか心配です
・なんでもハラスメントになりますね。 これで言い訳がないと思わないと生きづらくどんどんしてるのに今さえ良ければいいようになんとかハラスメントを乱立しているけどそれ、数年後には自分に返ってくるようなものばかり。今パワハラ、セクハラと言って新入社員やっている方も数年後には中間管理職です。 さてその時に生きづらくなります。 その未来変えたいと思わないのかと思う。
・丸ハラなんて、言った者勝ちと思う。知るかよ、です。まあ、たった一つの丸から色々展開を考える事はできているのだから、もう少し精度を揚げたらいいのに。何でもハラスメントにされるのが怖い、ハラスメント・ハラスメントでも提唱しようかな。セクハラは相手がセクハラと感じたらセクハラですけど、あらゆるハラスメントが言った者勝ちとは限りません。パワーハラスメントは、限度はあるけど強い言葉も理由を合理的に説明できれば、パワーハラスメントには必ずしも該当しない。上司も部下ももっと勉強しないと。
・LINEなどのリアルタイムのやり取りでは、読点や句読点を打っていたらコスパが悪いとして省くようになったのが主流になり、逆に読点をつけてたら意味を含ませていると感じるようになったんでしょうか。
自分の手間をかけてでも相手の読みやすさを重視するという思いやりの気持ちが含まれているものだという認識だったので、文字で伝えるための手間を惜しみ、ハラスメント扱いするのは思いやりにかけるなという印象です。
友達同士で通じる文化であってビジネスの場でそんな主張をしている人がいれば、丁寧な仕事はやりたがらなそうとかトラブルが起きても一切非を認めないんじゃないかと警戒されたりとか、本人にとっても損していくんじゃないかと思います。
何でも省略し、ハイコンテクストな「空気」に任せたコミュニケーションばかりしててもこの島国のさらに同世代という小さな箱の中でしか価値観を共有できなくなると思います。
・ハラスメントという程でもないと思いますが、うちの子供のLINEなんかでも、確かに「。」は出てこないですね。
きっと今の若者は、いわゆる”間合い”でコミュニケーションしているのであって、中高年とZ世代では”通信プロトコルが違う”というだけだと思います。
日本語には、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、絵文字、そして空気という6種類を操る言語といわれている超難解言語です。
よく空気を読むと言われますが、文脈のニュアンスやレスのスピードやタイミングといった”流れる空気の間合い”を読みながら、彼らはコミュニケーションを取っているものと思われます。
だから、フォーマルな「。」が出てくると、Z世代は身構えるというか、怒ってるのかな?と勘ぐってしまうんでしょうね。
ただ、日本語の文法的には間違ってないわけですから、いちいち若者の顔色を伺いながら、猫じゃらし的に迎合対応するのもおかしな話です。
・自分が若い時にも年上の言動や行動に対して違和感を感じる事はあったが、それをハラスメントや不快と思う事はなかったな。 勿論、今の若い世代の全てが自分の価値観と異なる事に対してハラスメントと感じているとは思わないですが。。。 世代間のギャップなんてあって当たり前。年上が下に合わせる、年下が上に合わせる。のではなく、互いが歩み寄ってこそコミュニケーションが円滑に進んでいくのだと思う
・ものごとの順序として正しい在り方をまず身に着けて、その後で必要に応じてアレンジするなりすればいいだけの話。少なくとも、仕事でのやり取りにその時々のご時世を反映させる必要は無いでしょう。 仲良しグループの雑談じゃあるまいし温かいも冷たいもない。 ”マルハラ”などと言ってる連中はいつまで学生気分なんだ?社会に出たらその場その場に適した作法があると学ばせたほうが良い
・こう感じる。だから止めて。こんな感じで自分のことばっかりが目立つ。 何でもかんでも自分にそぐわないものは直せやらやめろやら人に改善するように言う。
学生から社会人になり、付き合う人間の年齢差が少ない世代から卒業し、様々な世代が働くステージに立ったのです。 自分がそういう世界に入ったことを自覚せず、社会の文化や価値観に慣れていく必要があるだなんて微塵も思っていない。
ゆとりだの何だのってお子様万歳で育ててきた結果、こんなんが増えた原因の一つなんだろうなぁ。
なんだ、マルハラって笑
・新聞や本など活字を読まずにSNSやネット上のテキストしか見てないからマルハラなる考えに至るのかなぁと思いました。一昔前はネットスラングとリアルは別としてハッキリした境界がある感覚でしたが、リアルにネットが浸透しすぎたために起きているのかという感覚です。
・> 「もう何でもハラスメントになる難しい時代」
「ハラスメント」とは
ある言動や行動によって、相手に不快な思いをさせたり、脅したり、人間としての尊厳を傷つけたりすることです。 広い意味で「いじめ」や「嫌がらせ」と同義の言葉ですが、「相手を傷つける意思」や「悪意」がなくても、受け取る側が不快な感情を抱けばハラスメントとして成立します。
ってことらしい。
「悪意」が無い言動によって相手が不快な感情を抱いて「ハラスメントだ」と言われて、その「ハラスメントだ」と言われたことをこちらも不快に感じれば、それも「ハラスメント」として成立するのかな。
もうわけがわからない。
・若者がそういう見方をするのは構わないがそれは同世代の間だけに通用するもの。会社の業務連絡などのラインにそれを持ち込むのは違う。 最近は若者文化が正しくてそれから外れるものはバカにしたりダサいなど叩くようだがそれぞれの世代でコミュニケーションを取ってるんだからほっといてくれ。
・50代男性の自分は職場のラインでも家族ラインでも常に句読点を打った日本語として正しい文を書いている。2人の娘が中高生時代からずっとそうしている。職場の若い女性や娘たちがその文章をどのように感じていたのか聞いたことはないが、怖いと言われた記憶はない。仮に怖いと感じていたのだとすれば、正しい文をそのように感じる方がおかしいとしか言いようがない。ちなみにスタンプだとかは一度も使ったことがない。
・漫画やSNSのコメントしか読まないと、極普通の文章ですら馴染みの薄いモノになってしまう。まともに読むのは教科書だけ、という生活ならそれも致し方ないのかも知れない。だがすべての若者が、とは思わない。紙の本で無くとも、日頃からネットニュース記事やネット小説などを読んでいれば、まだ少しはマシだろう。もっともYahooニュースの中には素人が書き殴り校正さえされていない様な稚拙な文章もかなり含まれているし、ネット小説は小説のセオリーさえ成り立っていないモノも沢山ある。こうやって文化は変換し続けるのだから、今の若い者はと目くじら立てるのも狭小な気はするが、心の何処かではもっと日本語を大切にして欲しいと思う気持ちもある。
・同じ世代でも、別にそうは思わない(冷たく感じない)って人も一定数いると思いますよ。うちの子もそうだし。親(私=おばさん)のラインに慣れてるからかな 笑 大人たちがそこまで気を遣って合わせる必要はないんじゃないでしょうか。自分は自分で。空気を読むことが必須だったり同調圧力に窮屈に耐えなきゃいけない時代で、相手の気持ちに過敏になっちゃってるのかと気の毒に思う一方で、自分が推し量ってるから、相手にも推し量ってほしいとなると話は違ってきますよね。「暗黙の了解」をはき違えてる人もたまにいますから。私はマンション住まいなんだけど、他の住人が共用廊下にいるときは顔を合わせないように自分は出ない、のが絶対の暗黙の了解とはき違えてる隣人が以前いて、こちらもある程度は気遣うけど、ある日ゴミの収集時刻が迫ってて急いで廊下に出たら被害妄想発揮されて失礼な扱いされて。こっちもそこまで暇じゃないのに自意識過剰は困る
・俵万智さんが昔テレビでおっしゃってたことを思い出しました。 メールが出現した頃、当時の若い方が 「面と向かって言った」 ではなく 「面と向かって電話した」 と話していたそうです。 直談判の最終手段が会いに行っての対話ではなく、電話であることに、時代は変わったなと当時は思ったものでした。 文中の俵さんの句、優しさにあふれていますね。 私も以前、英語圏の若者がピリオドを打たず、打つと威圧感を感じるとネットで見たことがありました。実際に、句読点に関しても指摘を受けた例もあるそうです。(こちらのコメントでも見受けられてびっくり) 時代の転換期と捉えられなくもないですが、両方使いこなすと、若い方は得をするのではないでしょうか。
・句読点打つところが違うだけで、文章全体の流れと印象が全然変わるんだけどね。文豪たちの名作を読んでみたらいい。ラインとかでの短文同士でのラリーの話なら別だけど、目上の人との会話なら句読点はある程度しっかり使ってある方が好感もあるし、適度な距離感も保てると思いますが。
・「ハラスメント」は最強の言葉だと思います。
正しく使えば、弱い人を守る。でも、その強さのあまり、主観や思い込みや悪意で使っても、相手に反論すら許さず言論を封じ込める力がある。安易に個人の感覚で使い過ぎだと思います。
若者じゃない私も、個人的なメールやメッセージアプリでは句読点を使わないことも多いです。音声としての言葉は、きっちりした区切りはなく、「ありがとう。助かりました。」というより「ありがとう~~助かりましたぁ」な感じでつながっている。その印象を、そのまま文字にのせる感じですね(私は、です)。
話し言葉と書き言葉がツールのせいであいまいになっている。短文で会話風にやりとりするなら句読点はいらないけど、それは「文字」を使っていても「書き言葉」じゃないですよね。
・面白い発想の歌ですね。 流石、という感じ。
ただ、句読点自体は、別に日本語の伝統でもなんでもないことは理解しておくべきでしょう。 和歌には句読点がありませんものね。
むしろ、ダラダラと言葉が続いて螺旋状に考えを深めていくのが日本語の特徴。 そういう意味では、欧米流のキビキビした思考形態を真似する中で定着していったのが句読点だったのではないかと思っています。
だから、若い人たちが句点を打つことに圧迫感があるというのは、日本語の特性としてはわからなくもない。 でも、その一方。 若い人たちは短いフレーズで端的に表現することを好むでしょ? これは、句読点を打とうとしなかった古い日本語とは逆の方向じゃないかとも思うんです。
つまり、句読点が必要だとする旧世代も、短いフレーズを大切にする若い世代も、日本文化という観点からすると、どちらも無理を抱えている。 国際化のためには必要なんだとしてもね。
・気兼ねなく話せる友人同士ならそれでいいけども、砕けられない知人とかなら失礼ないように正しい文章を使うのは気遣いと思える。 またLINEというハイレスポンスなチャットツールだから句読点を省くのは妥当ではあるが、相手がそれに対応出来るかどうかは考慮してあげてほしい。 最近のこういった所に出てくる若者は相手に考えてほしい思っているらしいが、一方的で逆に相手を考えていないということも考えてほしいな。
・「何でもハラスメントになる難しい時代」ホンこれw マルハラって冗談だと思ったら割と本気っぽくて、「正しい使い方の句読点」でハラスメントというならもう何でもありという感じ。
以前新入社員に優しく「焦らずゆっくり仕事を覚えて行けばいいよ」って言ったら後日別社員から、新入社員が先輩からそう言われて「自分は仕事が出来ないって言われた気がした」って思ってるらしいです。と言われ「若者は難しい」と思いました。 繊細過ぎるのかなと思います。
・句点を省略することは短文でやり取りするような場合は、それでも良いと思いますが、句点が入っただけで威圧的に感じるというのもどうかと思います。むしろ丁寧に返信しているだけのことが多いと思うし、相手の人柄や書かれている文章の意味、ニュアンスなどで判断すれば良いと思います。
・句読点に恐怖を感じるって言う人は小学校1年生からの国語教科書を復習して正しい文章の書き方を勉強し直してください。 時代で変わることもあるでしょうが、ただスペースを空ければ文章が成り立つわけではないことを認識してほしいです。
・若い子は国語の授業で煩く言われたとか、上司や先生、親から貰う文章に句読点が付いてるから、怖いイメージがあるのではないだろうか?句読点が怖いのではなく、それまでの体験で怖いイメージがついただと思います。だって、まるは何も悪くないですからね。 だから結局はコミュニケーション不足であったり、自分が勉強出来なかったりなど違う問題があるのだと思いますよ。
・何でもハラスメントと捉えられかねないい昨今。人付き合いも難しくなっていると感じます。、や。がないLINEを後輩から初めてもらったとき、むしろ「…え?なんか怒らせちゃったかな?」と思いました。 (私はまもなく40歳を迎える女性です) この話題に限らず、性問題でも難しさを感じます。例えば、同性同士で会話の中で、思わず肩に触れたり、友達同士の愛情表現のような意味でぎゅっとしたり、されたりすることがありました。私は「好かれてるのだなぁ~」と好意的に捉えてきましたが、中にはニコニコしていても「気持ち悪い」と思ってるかもしれない。 もうこれ気にしだしたら、表面上の付き合いしかしづらいなって思ってしまう。 どうやって相手の本意や感情を読み取ればいいんだろう?
・非常に重要な話、考え方、相互理解
宗教、異文化理解に通じる
お酒の席でも、瓶ビールの銘柄が表示されているところを上に、相手側に とっくりのお酒の注ぎ口、そこは円の切れ目だから使ってはならないとか、 都市伝説のような話でも信じている人からみれば、不快に思ったりする
過剰反応せず、広い視野をもち、掲載の一首のように、プラスにポジティブに、人生を楽しむ方向にもっていくのがよいと思う
・40代です。若者ではありません。
「。」をつけるのが正しい日本語であり、何も間違っていないことは重々承知です。私も目上の方へのメールやビジネスでのやり取りは当たり前のように「。」を使っています。
しかし、友人とのやり取りで、いつもは絵文字や「!」を使う人が使っていないと、「あれ?いつもと違うな」と思ってしまう自分もいます。逆に家族とか全然気を遣わない相手だと「。」を使ったり何も使わず文字だけのこともよくあります。
・ありがとう! ・ありがとう。
文字から受ける印象ってちょっとしたことでだいぶ変わると思います。日本語として正しいかどうかではなく、心理学者とか脳科学者の方の見解を聞きたいです。
単純に興味があるだけでマルハラに賛同しているわけではありません。
・句読点を打つというのは、文章を書く上での決め事として学校で必ず習うはずなんだけどなぁ。それを自身の成長の過程で、様々な外的要因により、結果的に本人も気づかぬうちに歪んだ斜め上の方向へ解釈していたということなのだろう。だとすると本人たちだけでなく、道標を示せず軌道修正が十分できていない大人にも責任があるのかもしれない。成長の道半ばである若い世代を正しい方向へ導くのは、いつの時代も年長者の責務なのだから。
・もし理性があり、相手の心持ちをクリアに想像できるなら、物の書き方程度で問題になることは無いので、そうでは無いということの表れです。
と言うか、その程度の理性は持っているのが普通なんだけど。 印象とか感覚100%で、目で見えるものだけにどっぷり浸かった人間が増えちゃうのは、まずいよ。
・昔携帯メールが一般的になった時、短文で内容を省略した時に相手に(感情含めて)正しく伝わってるだろうか?と思ったりしてました。今回の件はSNSでの句読点の使い方なので正しい日本語とか云々は別として、何でもハラスメントにする事が気になります。
・うちの中学生の子いわく、LINEは会話と一緒なので、いちいち。は付けないらしいです。 私達世代からしたらメールと同じ感じでLINEを使ってしまうので、文章として入力するから。って普通に使いますよね。 そこら辺の相違ですね。だからって何でもハラスメントにするのは違うかなぁ。 若い子も相手が年が上なんだから。使うよね~くらいの認識でいて欲しいものです。
・自分は管理部門のコンサルや学習塾を経営して 他にPTA役員、地域ボランティア等をしているので 割と幅広い層の老若男女に触れていると思うけど、 誤解を恐れずに言うと、 年齢ではなく、知的レベルが高いか低いかで「今は」日本語の遣い方が大分異なってきていると思う。 そして、今は一方のカテゴリーの遣い方がメディアでクローズアップされているにすぎず、 あたかもその遣い方がスタンダードだとするのは危険だと思う。 言語の二極化は格差社会(経済格差)にはよく見られるもので、 洋服や住居や車などが所有レベルが経済レベルによって変わるように 遣われる言葉も変わる。 これは先進国ならどこでも見られる現象。 ある程度まで差が開くと今度は同一化しようという動きがみられる。 くっついては離れ、くっついては離れを繰り返して言語は発展していく。 日本語は今は離れていく過程にあるのではないでしょうか。
・最近特に、デジタルツールが拡がって来て、使い方が問題になっている。 使いこなせる者と使いこなせない者の差。 新たなツールが出ると、利用する者と、拒否反応の出る者。 デジタル格差の拡大だ。 変換ミスもあるけれど、「。」が怖いとか言う心理は、結局、人間が生身である証拠ではありませんか? 生身の人間は、直接、顔を合わせ、話をし、相手を理解し、その上で、メールとかLINEなどで、心を通わせる。 相手の顔も、気持ちも知らない(理解せずに)で、一足飛びにメールやLINEしても、心は通わない。 デジタルツールを使いこなせても、その相手は生身の人間です。 デジタルの文面だけ読んでも、相手の気持ちが理解できないのは、デジタルの功罪でしょうね。 その病を治すワクチンはありませんよ。
・何でもハラスメントと言ってる人ほど、周りに気を使わない人が多いと思ってます。 自分が気を使うのが嫌だから、気を使う事に対してハラスメントだと捉えやすいのだと思います。 人に気を使ったり、我慢したりすることは基本的に当たり前の事だと認識したほうがいいと思います。
・弱くなっていく人間に何でも合わせていくやり方って本当にいいのでしょうか? 昔話とかもいじめはよくないとかで話を挿げ替えられその物語の作品を変えられてしまう。そうではなくて「こういう話がありました、だからこういうことはいけないのですよ」というの教育をするべきでくさい物には蓋をしろ教育はねじ曲がった人間を育てると思います。
何もかもダメダメにしてしまい、個性も感情もない人間を育て上げコントロールしようという思惑でもあるのかな?
・日本語は、フランス語のアカデミー・フランセーズにあたるような正しさを担保する機関がないから、多数が使うようになればそれが正しくなる。「さわり」など誤用が正しい日本語とされるようになっている例は結構ある。 正しさが変化することの良し悪しは置いておくとして、日本語は正しさが変化する言語なので、これが正しい日本語だ!という議論には違和感がある。 日本語の正しさ自体が絶対的なものではないので。
・きちんとした日本語、国語を学んでいれば、ふつうの文章なのだけど。逆に。←を使うわれると怖いというのは感情を読み取る事が難しいネット社会の進んだ現在の問題点なんでしょうね。 相手の表情もわからない、会話すらない状態では相手の気持ちを理解するのは困難なわけで、自分の発信した事に相手がどう感じているかは必要以上に気になってしまうでしょう。かと言って、。がついているから怖いというのは自分が発信した事によほど自信がないのかな?と思ってしまいます。 大事な事や、これは大切な案件だと思うような事はやはり直接言葉で伝えるのがベストなのではと思います。
・自分はSNSでの句読点の使い方には気を使う方だね。主張や意思を書く時はきっちり句読点を使うけど、感情や不確かな意見の時は、特に句点は曖昧にする。“…”や絵文字で終わらせることが多い。コミュニケーションツールとなっているものでは、伝えたいのは“文章”ではなく“感情”。ただ、これは主観なので万人に通用するものじゃない事は理解してる。
・最近はもてない人間が片思いを告白するとハラスメント扱いらしいから 世も末だと思うが、要は興味のない相手は関係をもちたくもないという事 もう子供は乳離れしたらすぐ親元から離して集団で教育でもしないと 知り合い程度の他人に対して情をもてなくなってしまっているのではないか ある意味昔より心理的には他人への差別がひどくなっている気がしてならない、これが将来個人でなく地域や国家の争いの種にならない事を祈るばかり
・「マルハラ」なんて本当かどうか分からない、話題にしたいだけの作り話のように思う。もし本当に「句読点が怖い」なんて言っている人がいたら、その感覚が気持ち悪い。それはそうと、俵万智さんの一首はとても優しくて温かい日本語の良さを表現されていてとても素晴らしいと思う。
・若い子達が仲間内で使わないのは好きにしたら良いと思うが、それに慣れ過ぎると正式な文章書けなくなるんじゃないかな?間違っている側がちゃんとした文章にケチつけてる事の方が余程恐怖で異常だと気付ければ良いですね。 句読点使ってくる相手に対しては自分も正しい文章で返せるスキルが無いと将来辛い目に合うかもしれない。
・これは独り歩きの結果ではないだろうか。
文字に句読点をつけないことへの正当化とか、付けなかった時に指摘を受けたことがマイナスイメージで拡がったか。
句読点に限った話でなく、若い人たちの中にはアレルギーの様に指摘や批判が一切ダメなケースが見られる。チームでの仕事やその他集団行動の中では、互いに譲り合ったり他者を感じ取って動いたりとやっぱり改善を促しながら進むもの。全員ではないけれど、何でもいいよいいよのゆとりの弊害だと思う。
・勉強とか仕事とかはともかく日常会話やプライベートなやりとりは構文とか気にせずゆるくて良いんじゃね?っていう気持ちでやってたことが、逆に構文に嫌悪感を抱くというか無意識的な縛りになったんじゃないかなと、そう捉えると何となく理解できるような気がします。否定的な意見言ってる人の中にも実際そういう経験ある人も多いんじゃないかな。 ただこの意見はノイジーマイノリティかもしれないし、そう言った声があるからと言って自分の裁量を捨ててでもアップデートすべきことだとは思わないですね。
・セクハラとかパワハラは元は英語だし教義がついていてでわかるが、今はフキハラだとかマルハラって日本語と英語混ぜて気持ち悪く基準が曖昧すぎる。 なんでもハラスメント言ってれば許される時代になってるのがおかしく、多様性を謳っている割りに随分と狭苦しい社会ですよね。
・友達とのSNSでのやりとりで句読点使わずスタンプとかでやるのは好きにしたら良いとは思います。 が、会社関係の業務連絡とかをLINEなどで行う際にはマルハラなんて言ってる場合ではありません。 マルハラは退職理由にできませんよね? 句読点は文章を読みやすくする記号なのですから。 正しい文章表現をおばさん構文だの、スマホに標準装備されてる顔文字絵文字を多様することをおじさん構文だのと勝手なこと言ってますが、そんなこといちいちハラスメント呼ばわりして勝手に傷ついてたらそんな人社会に出れませんよ。 社会生活送れませんよ。
・今の時代、何でもかんでもハラスメントなんですね。 もう、ハラスメント自体がハラスメント? と訳の分からない考えになります。 ハラスメントによるハラスメントだと、略すとハラハラ? 考えながら笑ってしまいました。
俵万智さんなりの粋な一首だと思います。
・さすが俵万智さん。 元々明治の前までは句読点もなかったのでは? それを文書作法の共通化や国語教育の全国統一が行政によって進められる中で句読点が使われるようになったと理解しています。その中でも句読点の打ち方で意味が変わってくる、あるいは書き手が読み手に誤解無いように分かりやすくするために使われる、という例を数多く目にしてきました。 句読点を読み手に対する思いやり以外にとらえるのは、書き手の問題でなく読み手の自意識過剰問題だと思う。 また例えば上司から社会人として正しい日本語文章を書きましょう、というようなメッセージなどが込められた「。」であるならば、それはそれで温かい親心のようなもの。 そんなことを嫌がるのは。社会で生き抜く最低限の打たれ強さもないか、全て他人のせいにしたい幼稚さか、全く意に介す必要はない。幼稚な若者が精神的に成長すればいいことだ。
・SNSで「。」が省略されるのって、文字数制限のための対策だったり、LINEやDMなどで少しでも短い文字で簡潔に用件を伝えるための手段だったはず。 それが当り前になり、行き過ぎた結果として、「ここはこういうルールだから」という前提でやってる場所ならともかく、そうでない別に普通にやり取りしている場所であっても、その手のスタイルでないと恐怖を感じるとか。 正しい日本語を使った方が変に思えるって、一体何のために国語の勉強をしてるんだろうなと思う。
・だれかがハラスメントだと感じたことがハラスメントに認定されるわけではありません。この「。」に対する嫌悪感、苦手意識は個人的好き嫌いといってよいでしょう。発信する人たちや取り上げるメディアのハラスメントの認識でしょう。あまりにも国語にとらわれないSNSでのやり取りに慣れた結果かもしれません。上司や同僚からのメールやメッセージはきちっとした業務上の連絡ですので、文法体裁上正しいものを、そう感じることはハラスメントではありません。ハラスメントとは相手の人権を犯すような言動行為を指します。
・昨今の何でもかんでもハラスメント認定する風潮は、本来のハラスメント被害に対する目的や意図が大いに損なわれてしまってるよね。 独善的で改善や理解するのがそもそも面倒ということの、免罪符代わりとしてハラスメント認定するのは明らかに間違ってる。 そして、そのハラスメント・ハラスメントの正当化をするかのように、自称専門家や苦しい解説や対策案を提示してくる大人達は本当に恥を知った方が良い。 自分の好きなように、やりやすいようにするのはプライベートで自由にすれば良い。そこまで干渉してとやかく言うつもりは毛頭ないから。 ただ、ビジネスシーンでは時代どうこう関係なく、学生時代に積み重ねてきたことを発揮するフォーマットがすでにできてるし、一緒に仕事する相手は大前提として仕事仲間であり友達ではないし、さらにその中で学生時代と同じく上下関係もあるから、相手に失礼のない関わり方をするのは社会人として当たり前だよ。
・何でもハラスメント、ハラ・ハラの時代。 マスコミ広告出版業界の人は言葉遊びが好きでよく新語や流行語を作りたがる。 それはそれでいいとしても「言葉は変わる」と言って勉強不足の若い人達の誤用やおかしな日本語を良しとするのはいいとは思わない。 確かに古代から現代までの長いスパンで見れば日本語はゆっくり時間をかけて大きく変化していてそれは自然な事だと思うが、単なる誤用や言葉の乱れをそれらの変化と同じに見るのは少し違うのではないかと。 なるべくなら言葉の意味や使い方の変化はそう頻繁に簡単に起こらないほうがいい。 というのも同じ時代に生きる世代間で意思疎通が困難になるようなあまりに短いスパンでの変化は誤解や諍いを産む原因となり社会にとってもデメリットだから。 できる限り長く同じ意味と使い方で統一されてる方が余計な混乱を招かずに済む。 TVなどがわざわざ中高生の間の流行語を全世代に広める必要もない。
・様々な人の立場に立って嫌な気持ちにならないかと考えることは現代でとても大切。 しかし、都合が悪くなったことに関して、自分は弱者だとハラスメントを受けたと先に声をあげれば、事実性や物事の是非を問わず、被害者とされる方々が簡単に擁護されるのも然り。
人権を守ることはとっても大切ですが、それに甘えて直接的な問題と自分に向き合わず、第三者に助けてもらうことしかしない日本人が増えているように感じますね。 小学生が当たり前に習う日本語の常識にすら難癖をつけ始める事態とは。
・結局どの年代も若いころは「今の若い者は」と言われ、 年取ってからは「今の若い者は」と言うであろう。
文化やコミュニケーションの方法についても世代交代を認めるべき。 LINEで業務連絡や病欠申請でもいいじゃないですか。 一部に「心がこもってない」と怒鳴る上司もいるけど、 私自身、その上司とは3歳だけ年下。 あらゆる意味で、若い人の芽を摘みたくない。
・私は「マルハラ」なんて知らなかったです。「。」が恐いなんて本当に驚きました。小学校で文字を習って文章を書き始めてから、句読点は当たり前のように使ってきましたし、読み易く伝わるようにどこで句読点をうつかは常に考えてきました。でも、そのような常識は、画面上の文字での会話には障害になる時代が来るのかもしれませんね。
・今19歳ですが、ハラスメントと言うほどの被害者意識はありません。 確かに、「。」で終わる文章は、省略の多いネット上での日常会話の中で「。」をわざわざ打つ、という意味があり、その感覚があります。 簡易的な敬語みたいな感覚です。 自分は目上の人にLINEをする時はなるべく「。」を付けるようにしていますが、それは正しい文章というのはもちろん、こういった感覚に影響を受けているのは間違いないと思います。
それぐらいの小さい感覚の話です。 ''マルハラ''のような簡単な単語に触発されないでね。
・「些細な不快感や違和感」と対処すべき「ハラスメント」ちゃんと区別しないと、この程度の話まで問題と映るようになる。 「誹謗中傷」と正当な「批判」もそうだが、マスコミや評論家は明確に言葉を使い分けてもらいたい。
・生きにくい世の中になぜ追い込もうとするのか 全てハラスメントとか言い出したら日本終わるよ 難しい時代って言うから拍車がかかってしまう ネットやSNSなどが当たり前になったことで、ちょっとしたことでもすぐ情報が入って良い悪いと評価され、少しでも違和感があれば叩かれたり、炎上したり。 スマホやパソコンなど便利なツールは大事だが、不特定多数に発信するようなアプリは結果的に害を及ぼすので連絡取り合うLINEとかだけでいいと思う
スマホもなくてもいいのかもしれない その方が幸せに生活できる世の中になってしまったと感じる
・何故、何でもかんでも若者の感性に合わせなければいけないのか? 何で「。」を付けただけで、〝マルハラ”と言われなければいけないのか? 若者が「威圧的」とか「怒っているように」感じるというが、必ずしもそうではないと考え改めてもらえれば良いのではないか? 正しい日本語を使っているだけで、〝ハラスメント”と言われるのも如何なものか? そうでないものは、そうでないと若者に認めさせるのも必要なのではないか? そうしないと、言った者勝ちで、あらぬ方に歪められていくような気がする。 (今の年輩者が、若い時に年上の考え方に違和感を感じていても、歳を経る毎に年上の考え方に同調できるようになっていったと思うけど・・) 今のご時世、会社でちょっと若者に注意すれば、〝パワハラ”と言われ、優しく諭しても、改める気配すらない。年上に対して「敬い」の気持ちすら抱かない若者が蔓延る世の中は、どうなってしまうのだろうか
・文章の終わりに「。」を使うと恐怖を感じる、というのは勘違いしすぎだとは思いますが、でも何となく分かるんですよね、その気持ちが。
私はアラフィフなので若い年代ではないのに、相手にメールを送る時に、素っ気ないように取られるかな、と相手の立場になって考えてしまう時があります。 もちろんそんな気は一切ないのですが。
多分、メールやLINEで絵文字を使ってきたせいかもしれません。 感情を伝えるために絵文字を使うので。
・急いで返信のひと言LINEには句読点を付けずに送信することはあるけれど、身内や友人からの文章に丸が付いてきたところで何も感じないしそれが文章終わりだと思っている。強い言葉の後にエクスクラメーションや怒りマークが激しく付いていたら動揺するが、句読点は打つべきだと思う。何でも流行りに同調するものではない。
・ハラスメントが乱立していてハラスメントの価値が下がってきているなぁと思います。 その中でもこのマルハラは意味不明。 マルをつけて文を終わるという基本を義務教育で学んできているはずなのに、なんとなくの感覚でハラスメント扱いしてそれをメディア等が取り扱うことでハラスメントとして確立してしまった。 ハラスメントのことをもっとよく考えてほしい。
・京ことばの所謂「ぶぶ漬」と同じ恐怖があるのかも知れない。
「。」自体が怖い訳ではなく、時短文化を気にする人々の間では、それをわざわざ打つ行為に何か相手の意図があるのではと勘ぐってしまう。例えば、断定的に話題や会話そのものを終らせたいときなど。 年配者も親しむ小説などでは慣例として科白の終りに「。」は打たない。「」がその替わりを果しているからだ。LINEでは枠が同じ役割を持つ。私も含め、時短文化に組みさない人間にとってみれば、そこが理解できず、「。」を取ること自体が事重大に映ってしまう。
・罪悪感で相手をコントロールしようとすること、なんて言うんだっけ。 日本語として、会話の最後に句点を打つのは相手に恐怖を与える為ではないし、もしそれを怖いと感じる若者がいるのだとしたらそれはご本人の中にある問題である。「なんでもハラスメントになる時代」とか言ってこんなものまでハラスメント認定しちゃってたら本物のハラスメントが見えづらくなってしまう。ちゃんと分けないと。
・文末の『。』に、怒ってるとかハラスメントって感じる若い世代の人達は、授業中常に教科書などの文章を読んで、文末が『。』で締めくくられていたらこの人は怒っているって解釈していたのだろうか?
確かに友達同士などの気の置けない関係のLINEなどのやり取りで、今まで文章に句読点がなかったのに、いきなり含まれていたら怒っているという印象はあると思うし、文章を送って来た相手もその人に対して何かしら距離を置いた意図をもっていると思う。
しかし、TPOも考えず、送られてきた文章の文末の『。』だと怒っているとかハラスメントとか思ってしまう人は、脳がTPOの判別ができない状態にまでなってしまっている人は依存的な危険性を感じるので、一定期間SNSなど文字だけのやり取りから離れて見た方がいいと思う。
・>「怖い印象がある」という声もある一方で、「別に思わない。正しい使い方。過剰なように思うし、何でもハラスメントになる難しい時代」という意見もあり、個人や世代間でも意見が分かれるようだ。
句読点がどうとかいう問題で議論すべきだろうか。まず最後でナチュラルに世代間の対立を煽っている。そして何でもハラスメントに成り得るというのは受け手次第であるハラスメントの性質からその通りであり、なぜそんな風に社会を誘導したい人達がいるのかを考える方が建設的だろう。
・言われてみれば、「、。」が付くことで冷たい印象を感じると言えばそうかもしれないけども。 あと、改行が多いのは句読点をあまり使わなくなった代わりにってことなんだろうか。
どちらにせよネットの浸透やリモートワークで文字だけのコミュニケーションが増えたことで、文字に載せる感情に敏感になってしまった人も多くなったんだろうなと思う。
・別に「。」だけの問題じゃない。文字だけによるコミュニケーションだとニュアンスまで伝わらないから仕方ないこと。 皆、メールを出した後になって、軽すぎたかな?とかキツすぎたかな?失礼だったかな?とか思ったことあるはずだ。色々気にかけて文面書いてみても、ニュアンスまで完璧の文章って難しい。 そう言うものだと諦めるのが一番。
・数ヶ月前、英語圏の海外でも「今の若者世代はピリオド付きの文章は怒られていると感じる」という記事があったので、この問題は日本がどうのというわけではなく、世界規模でのコミュニケーション変容の潮目なのだろう。 チャットや短文でのコミュニケーションが一般化した現代では当然に起こりうる反応であり、別に良い/悪いの話ではないと思う。
・俵さんのその短歌を国語便覧で拝読していたので ちょっと懐かしかったです 文章で答える問題では必ず「。」を付けるようにと国語の先生に言われました なぜかというと 文部科学省が「文章の最後は『。』で締める」という見解を示しているからだそうです
学校のお勉強は文部科学省スタンダードの上に成り立つものだ しかし 賞状を見ても分かるように 「、」「。」は文字として認めなかった時代もある 卒業したら自分の言語表現を作り上げていきなさい だそうです
いろんなハラスメントが指摘され 近頃は言葉の使い方に慎重をを要するようになり ハラハラしています これ オヤジギャグと言っちゃいけませんよ
人は誰しも間違いをおかすものです 目くじら立てすぎず 相手のこと周囲のことを思いやり できる限り気をつけよう ということだと思います
・「少し遅れます。」「承知しました。」 に関して言えば、「遅刻してしまう負い目」を「怒らせたかも? 怖い」と履き違えてしまっているように思う 逆に「少し遅れます。」が急いでいないように受け取られないか?とは考えずに自身は「。」を使っていながら相手の「。」を怖い・怒っているかもは、機嫌を損ねたら嫌だ・怒られたくないという自分のことしか考えられていない視野の狭さを感じる
個人的には、顔を合わせている人とのやり取りなら「。」の有無は特に気にしない 恋人同士や友達ならスタンプや絵文字で機嫌を察知してしまうときはあるけども 会社の上司や取引先との連絡だと、むしろ仕事っていう一線を引いて感情は二の次だから、「。」の有無でこちらのメンタルを痛めるのは損だと思う
お互いの立場を考えたときに自分が取るべき姿勢があるから、標準語・丁寧語・謙譲語・タメ口と使い分けを教えられる
それが会話でしょ
・若い人がハラスメントだと思えば、ハラスメント、ってさ ほとんど逆差別の世界だよね。
これまで普通だったものに なぜか恐怖を感じる世代。 叱ると怒るが同義語になってしまい 叱ることも注意することもできない社内風土ができあがる。
そういうのって 若者ポピュリズムであると同時に
叱ることを放棄した、腰の引けた大人たちの「冷たい仕打ち」でもある。
社会のルールを教えない親に育てられて 入社して怒られたら、そりゃあふくれるし、びっくりするし、怖がるよ。
どんな世代にも反応が過剰な人がいる。
大人たちが理解できない反応のうえに 泣き出す、大声を出すような若い人の反応を見て、 いい大人が尻込みしちゃうわけでしょ。
それじゃ子どもは子どものままだ。 それでもしかたない、自分が嫌な目にあうよりは この若者たちは放っておけばいいやと
投げ出している部分もある。
・LINEの場合は1文または単語ごとに吹き出しを変えられるから句読点が無くても意味が通じる。ビジネスでも論文でも一般文書では句読点は必要である。特に読点なんかは日頃から使ってないとどこで打ったらいいか学べないのでは?
・丸に恐怖を感じる人も丸がないとダメだって主張する人もどちらも気にしなければって思います 私も普段は丸を付けませんが、ヤフコメでもその辺の批判をされる方々がチラホラ。。。 私が付けない理由は単純に打つ速度と文字数の関係ですけどね 仕事で公的に使う文章には必ず丸を付けますし、時々によって変えてます
ヤフコメを見ていると日本語のルールだから守れ!!!みたいなコメントもありますが、そもそも日本語は常に変化しています そういった批判をされている方々の日本語も数十年遡ればルール違反になります 人が使うものですからね 変化があって当然です
仕事の時なら別ですが、プライベートでは好きな様にすれば良いと思いますけどね なんでもかんでも批判する世の中の方が言葉が汚い世の中よりも嫌ですけどね
・嫌な思いをしたら何らか理由をつけてリベンジしなきゃ気がおさまらない風潮があるね。でも自分が嫌な気持ちになっていることの方がくだらないことってあるよ。はっきり言って、少々のことはどうってことないと、いなす発想がなければ結局のところ平和には向かえず、どうでもいいことにまで自分が嫌な思いをしなくちゃらならないだけで、自分が嫌な思いをさせられた相手を巻き込んで、巻き込まれた方が迷惑なことが沢山あるわな。
例えば、相手を怒らせておいて殴られたら、法的に犯罪者は殴った方になるんだが、筋としては殴らせる程怒らせた方がまず悪い。その後先のバランス感覚が崩れているのが現代。
・これはメールの経験がある世代とLINEなどのチャットから入った世代のギャップだよな 世代もばらばらで決して仲良くもない職場とかで、仕事のコミュニケーションにLINEを使っていること自体がそもそも良くないと思うね。特に一対一のやりとりでさ 使うツールによって異なるマナーや空気が醸成されることはよくあるし、例えばSlackとかだとLINEとはまた違うのよな
・。をハラスメントと感じるのは、普通の日本語を読んでいなさすぎるのでは。どの言語でも文の終わりは必要ですし、そろそろ現実世界に戻るべきと思います。
他者にハラスメントせずに生きている人の方が大多数ですので、「何でもハラスメントに取られる」と感じる場合は全体的に自省する必要があると思います。
・マルハラとか何でもハラスメントにしてしまうと、我々の考え方も動きも、制限されて、生きづらい世の中になってしまう。 マルが怖いとか言うのは、若者の甘えと大人や目上の人との会話などのコミュニケーション不足だと思イマす。 文章に句読点を付けるのは、文章の意味を捉えやすくすることや、読みやすくするためと学校で習った記憶があります。
因みに私は、文末の『!』や『!!』がついている方が、著者の怒りや叫びなど、感情の強さを感じます。 『。』については、感情より話の区切りとかを感じて、特に感情は感じません。
・句読点は義務教育で使い方習っているはず。今の義務教育で句読点は相手に怒りを伝えるために使うとでも教えているのだろうか?こんなこと言ってる人は、ホントに社会で通用するの?マルハラがあるなら、句読点を使い難くさせるのもハラスメントだと思うよ。どんどん使ってやれと思うね。
・格式張った表現でドライな印象を受けるのでしょうね。 これはむしろ、句読点の有無でまで情動を表す、現代日本語の表現力の高さという事では。 ギャル文字とかも驚異的な表現力でしたよね。
・ハラの乱用はマスコミのネタの1つと思ってるからいいけど、ハラスメントの普遍的な定義が「上から下」であるはずのものが、そのうち下の世代が上を必要以上に脅しにかかるという意味でも出現しそう。 昔と違って、いまのおじさんおばさん世代は明らかに世代相応の威厳はないし、それでいてSNS過渡期で如実に顕になった大きな世代間ギャップもあったり、気づいたら常に若い世代のプレッシャーに晒されてはいないだろうか。 あれをしたらセクハラ?これをしたらパワハラ? 年を取るということは何をしても嫌がられるという前提でいなければならない。
・なんでも神経質すぎ。人と交流したり話し合ったりすると、大なり小なり気になることや嫌なことは必ずある。それを全てハラスメントでかたづけるのは安易。自分は全てに対応するのは不可能。それなりにやって、できるだけ、そういう神経質な人種にはなるべく近づかないようにするしかない。避けてると、それもハラスメントとか言われそうだが。
・「なんでもハラスメントになる時代」… 前後の文の途中で読み分けしやすい様に 「。」を使います。 小学生の時に習ったし。 流行りとか風潮に乗ろうと思いません。 どうせ又変わるし ハラスメントなんて言われ始める前から「自分にされて嫌な事は人にはしない」「今から言おうとしてる事は相手に嫌な思いさせないかな⁈」と考えてます。 自分の判断が正しいとは限らないけど その場の空気って言うか 目の前の人への ちょっとばかりの思い遣りを一瞬持てばいいのでは⁈ 「間違えたら謝る」し「嫌なら嫌と言う」し「自分の事は人には決めて貰わない」し「人のせいにしない」と思い乍ら日々生きています。 10年後にはどんな風潮になっているんだろう。
・自分の職場でのメッセージのやり取りは何故か「!」が多用されます。特に短文の時。 提出された資料を確認したという内容のメッセージも「確認しました。ありがとうございます!」のような感じで送られてくることが多いです。 これに慣れるとたまに「確認しました。ありがとうございます。」と返って来た時に「あれ、!がない……なんか怒ってる?疲れてる?」と感じることがあります。 たぶん深い意味はないと分かってはいますが。 なので、ちょっとだけ気持ちはわかります。
・そもそも文章の最後に句点がついているのをハラスメントと感じる感性がおかしいと思っています。 シャットアウトも何も、そこで文章は終えられているのだからマルが有るのは当たり前、無い方が逆にぶっきらぼうとかいい加減な印象を受けます。 世代の違いによって解釈の仕方にズレが有るのはわかりますが、句点が有るのは威圧的でそれをハラスメントと感じているのなら、句点を付けている側からすればそう断言している事も立派なハラスメントだと思いますが。
・本当の所を言ってしまうと、句読点は文章を区切って読みやすく理解しやすくするための補助記号であり、打っても打たなくても文法上は何ら変わりはないです。無いと読みにくいだけで。 表彰状の文には句読点は無いのが通例で、それは表彰される人に敬意を表して「補助記号は無くてもちゃんと文章読める方ですよね」という体裁にしてあるからですね。 ちなみに、江戸時代の手紙など、句読点は皆無な場合に、文末に「候(そうろう)」などと付いていて、そこで切れているのがわかるというお約束みたいな表現方法はあったようです。
・とてもステキな一句。 あぁホンマ日本語っていいな と思える。
なんでもかんでもハラスメントと言われる昨今、めんどくさい世の中。 若者に多いやり方が今の時代の標準であるかのような書き方の記事や、「おばさん構文」と世代を一括りにしてバカにしたような記事は嫌い。「おばさん構文」と言われるスタイルが間違っているとも思わない。 世代関係なく、友達同士のやりとりでは略したり句読点がなくても、目上の人や改まった場面では誤解のない文章、正しい文章が使えるのがいいと思う。
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