( 137900 ) 2024/02/10 22:28:49 2 00 まずはお互いを知る機会を――インクルーシブ教育を目指す、障害当事者たちの声 #令和の人権Yahoo!ニュース オリジナル 特集 2/10(土) 10:39 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/d3df7b740aab7f870516787b0657deb104a3b387 |
( 137903 ) 2024/02/10 22:28:49 0 00 数矢雄さん
「インクルーシブ教育の実現」を目指す障害当事者が増えている。彼らは「すべてを包み込むこと」を意味するインクルーシブとは遠くかけ離れた環境で、差別や虐待を受けながら育った。そんな思い出したくない過去に必死に向き合いながら、教育の問題に声を上げるのはなぜか。当事者たちの声を追った。(文・写真:ジャーナリスト・飯田和樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
「なんで自分でやるん? 頼めばええやん」
アテンダント(介助者)からかけられた強めの言葉に、当時23歳で自立生活を始めたばかりだった兵庫県西宮市の数矢雄さん(35)は思わず固まってしまった。目の前には、スナック菓子が飛び散らかっている。脳性麻痺の特性で全身に筋緊張があるため思うように体を動かせず、袋を開けようとして中身をぶちまけたのだ。失敗したことで頭がいっぱいになり何も言えずにいると、その場の空気がどんどん悪くなった。
「大学卒業後、自立生活を始めた頃は、こんな失敗ばかり。いろんなものをあちこちでぶちまけました。言語障害があるから、何かを伝えるのに時間がかかるし、聞き返されることに対する恐怖もある。だったら無理してでも自分でやったほうが気を使わなくて済む分だけ、面倒くさくない。自分の希望ってあんまり言ったらあかんとも思っていた」
兵庫県西宮市で開かれたインクルーシブ教育に関するセミナーに参加した際の数矢さん
障害を抱えた人の多くは、自立生活をする上で介助者の存在が欠かせない。ただ、黙っていても介助者が何かをしてくれるわけではない。あくまで何をするかを決定するのは自分自身。やりたいことをするためには、介助者への指示が不可欠だ。でも、数矢さんはなかなかうまく指示ができるようにならなかった。「なぜなんだろう……」
答えが自分なりに見つかったのは2017年ごろ。障害の有無などにかかわらず地域で共に学ぶ「インクルーシブ教育」を広げる取り組みに携わるようになってからだ。勤務先の自立生活センター「メインストリーム協会」の先輩に誘われ、受け身で始めた活動だった。インクルーシブ教育の中身を知るほどに、自分が障害児を健常児から分ける分離教育を受けていたことを実感する。
地域の小学校の支援学級に在籍していた数矢さんは、普通学級の同級生と会話することもなく、一緒に遊びたくても思うように体が動かず輪に入れてもらえなかった。たまに優しい人に声をかけてもらうのを待つばかりで、気持ちを察してもらえるときはいいが、察してもらえないときは我慢するのが当たり前。誰かに何かを頼むことはなかった。
「他の子どもたちと分けられて育ったことが、現在の自分の欠点につながっているのでは?」
大学を卒業し、自立生活を始めたばかりの頃は失敗の連続だったという
30歳前後の時期に頭に浮かび始めたその考えは、新たに自立生活を始めようとする、脳性麻痺のある障害当事者と接することで確信めいたものに変わっていく。「彼らの多くは分離教育で育っているんですが、自分と同じように介助者とのコミュニケーションで悩んでいるケースが多いことがわかった。もちろん個人の性格による部分もゼロではないと思います。でも、健常児と分けられたことが影響していることは間違いない」
数矢さんは2月中旬から、1970年代にインクルーシブ教育に舵を切ったイタリアを2週間視察する。かつて日本と同じ分離教育を行っていたイタリアの教室は、今どのような雰囲気になっているのか。「僕自身の小中学校時代と比較することで、何かヒントがつかめると思っています」
奇しくも、数矢さんが視察に訪れるイタリアで障害児だけが通う学校が閉鎖されていった時期は、日本が障害のある子とない子を分ける流れを強めた時期でもある。その流れを決定づけたのが、1979年4月の「養護学校義務化」だった。
戦後しばらく、重度の知的障害者や身体障害者たちの多くは、「就学免除」や「就学猶予」の名の下、教育の現場から排除された。養護学校義務化は、一見、こうした子どもたちに学びの場を与える施策のようにも見える。しかし、障害当事者たちは「障害者を健常者たちと分離するのは社会からの排除で差別だ」と反対の声を上げ、実施直前の同年1月には当時の文部省前で座り込み闘争を行った。その時の様子を撮影したドキュメンタリー映画『養護学校はあかんねん!』の中で、脳性麻痺の女性が次のようなことを語る。
「障害児教育とかいろいろ言われてますけど、じゃあ、教育とは何かと聞きたい。私は、教育とは、人間が人間として、みんなと共に生きぬく(ことだ)と教える場だと思います」
教育は当時から、「共に生きる社会」を築く上で避けられないテーマだった。しかし、その後、教育は障害者運動の最前線になかなか出てこなくなった。数矢さんを活動に誘った先輩で、生まれつき脳性麻痺がある鍛治克哉さん(40)はその理由を次のように語る。
「教育の問題をやろうとすると、おのずと学校時代を振り返ることになる。でも、多くの障害者は、学校時代にあまりいい思い出がない。だからあまりやりたがらなかったんです」
障害者と LGBTQ の連帯イベントで、高校時代の同級生と共に壇上に上がった川端舞さん(左)
2023年の秋分の日。東京都三鷹市で障害者とLGBTQの連帯イベントが行われていた。壇上にいたのは、茨城県つくば市で自立生活をしながら「東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)」代表を務める川端舞さん(31)と、群馬県内で性的少数者の居場所づくりなどに取り組む「ハレルワ」代表理事の間々田久渚さん。2人は高校時代の同級生だ。
脳性麻痺のため運動障害と言語障害がある川端さんが、体をよじらせながらイベントを企画した理由を懸命に語り始める。講演内容はプロジェクターで表示されていたが、集まった人たちは川端さんの口から発せられる言葉を直接聞き取ろうと前のめりになった。
「間々田は生まれたときは女性を割り当てられましたが、今は男性として生きるトランスジェンダーです。高校時代、私はそのことを全く知りませんでした。しかし、高校卒業後10年以上経ってから、子どもの頃、お互いにどう生きてきたのかを語り合う仲になりました。話すうちに、障害児とLGBTQの子が学校で過ごしづらさを感じている背景には同じ問題があるはずだと思うようになりました」
東京インクルーシブ教育プロジェクトの代表を務める川端さん。自立生活を送る茨城県つくば市ではライターとしても活躍する
川端さんにとって小・中学校はただただつらい場所だった。小学校入学時に特別支援学校を強く勧められたが、両親の強い希望で地域の学校の普通学級に通う。しかし、地域の学校は障害児がいないことを前提につくられており、幼い川端さんは「障害のある自分は本当はここにいてはいけないんだ」と思っていた。
小学時代は教師に話しかけても聞いてもらえず、クラスメイトに何か手伝ってもらうと「なぜ介助員にやってもらわないんだ!」と叱られた。中学時代には、介助員から虐待も受けた。「小1から中1までの7年間、同じ人が介助員をしていたのですが、中2の時に介助員が代わりました。その頃、初めて生理になり、一人ではできないので新しい介助員にトイレ介助を頼んだのですが、『汚い』『くさい』などと言われてしまった。以後、手伝ってもらうのが怖くなり、一人で壁をつたい何度も転びながらトイレに行っていました」
それでも当時は「障害がある自分が悪い、生理になった自分が悪い」と思っていた。他にも階段から毎日のように落とされたが、こうした異変に気づいて川端さんに事情を聴こうとする教師は一人もいなかった。本気で死にたいと思った。「おそらく当時の私は透明人間だったんだと思います。あのまま自殺したら、存在ごと忘れ去られるような……」と振り返る。
しかし、介助員なしで通学した県立高校で学校生活は大きく変わる。入学前に当時の教頭から「自分からどんどん友達に手伝ってもらいなさい」と言われ、「手伝ってもらっていいのか」と驚いた。通学し始めると、小中学校時代と違って教師は直接話しかけてくれたし、クラスメイトとの距離も縮まった。間々田さんもその一人だ。
高校、大学を卒業し、障害者運動に関わるようになったとき、障害者が他の人と同じように生活できないのは障害者がいる前提で社会がつくられていないからだ、という「障害の社会モデル」の考え方を知った。今では世界的常識の障害理解に触れたことで、「障害がある自分が悪い」と思い込んでいた自分を客観的に見られるようになった。
海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いの会場に飾られた彼女の写真
さらにその頃に出会った海老原宏美さん(2021年12月、44歳で死去)が川端さんに大きな影響を与える。海老原さんは全身の筋肉が徐々に衰えていく進行性の難病だったが、車椅子や人工呼吸器を使いながら地域で自立生活を送り、テレビや全国各地の講演、書籍などで積極的にインクルーシブ社会の実現に向けたメッセージを送り続けた。特にインクルーシブ教育の推進に熱心で、2017年6月にTIPを立ち上げた人でもある。
海老原さんは「いいことも悪いことも、他の同級生と同じように経験していくのが権利なんだ」と川端さんに教えてくれた。「舞ちゃんが苦しかったのは普通学級にいたのが悪かったんじゃない。学校が統合教育で、舞ちゃんが過ごしやすい環境になっていなかったのが悪かったんだよ」とも話してくれた。
海老原さんの数々の言葉は、川端舞さんをはじめ多くの人々に影響を与えた
川端さんは、小中学校時代を振り返り、後悔の念におそわれることがある。
「私は普通学級で『頑張り屋さん』と言われて育ちました。でも、無理して頑張ったことで、もしかしたら後の世代の障害児たちに、頑張らないと普通学級に行けない環境を押し付けてしまったのではないか、と申し訳ない気持ちになります。普通学級に行くのは障害児の当たり前の権利なのに……」
だからこそ、今は他の障害者が生きやすい社会をつくるために活動したいと強く思う。
障害者とLGBTQの連帯イベントは、川端さんと間々田さんが同じ教室で過ごしたからこそ実現したものだ。
「いろんな同級生に出会うって本当に大きなこと。最近改めて思っています」
海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いにオンライン参加した木村英子さん(スクリーン左)
「18歳まで同じ年の健常者の友達は地域にいませんでした。幼い頃の時間は大人になって取り戻したくても取り戻せません」
2023年12月16日、東京都立川市で海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いが開かれた。オンラインで参加した参議院議員の木村英子さん(58)は、スクリーン上でインクルーシブ教育の必要性を語っていた。
1965年に横浜市で生まれた木村さんは、8カ月の時に歩行器ごと玄関に落ち、首の骨を損傷。後に脳性麻痺があることも分かり、施設に入った。以後、短期間自宅に帰った時期はあったが、18歳まで施設と養護学校で過ごした。
「私はほとんど社会を知らずに育ちました。子どもの頃は、自分の命を支えているのは親と施設の職員しかいなかった。父には『やっぱり自分が死ぬ時にこの子を連れて行かなければ』と言われました。だから中学の時まではずっとそう思っていました。親が死ぬ時に一緒に死ぬ。それが私の人生なんだと」
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( 137904 ) 2024/02/10 22:28:49 0 00 ・じゃ、インクルーシブやるとして、授業はどうするんだ?一斉授業をやめるってこと?知的障害あったら授業ついてけないよね。多動の子は?脱走したら授業は中断するするの?どう考えても先生1人じゃ無理。
インクルーシブにするなら、全学年、学力別にクラス編成して、その集団の学力に見合った授業をしてほしい。勉強したい子の学ぶ権利も尊重してほしい。今の体制のままインクルーシブ導入したら、ますます私立志向が高まって、今以上に経済的に余裕のある家庭の子との格差が広がるでしょうね。 学力があるのに、肢体などに障害がある子へ配慮してインクルーシブにするのはいいと思います。あくまで学力で判断するべき。学校は勉強するところです。
・子供達が通っている公立の小学校では、障害のある子も普通学級に通われていて(大人1人支援員が付いている)、私が子供の頃にあったような特別支援学級というものは無いです。最近はそれが普通なのかと思ってました。 子供達皆んなで車椅子の子を支えてあげて、良い学校だな、と感じています。
車椅子の子たちのために、数年前にエレベーターの設置工事があって、それもまたすごいな、良い学校だな、と感じました。
・私は小学生の時、障害児のお世話担当にさせられた事がある。みんなが遊んでいる休み時間に私はその子に付いて移動するので遊べなかった。調理実習では他のグループと同じものは時間的に作れず、出来上がったものも鼻水まみれの手を突っ込まれ、挙句ひっくり返された。 共生する世界。とても聞こえは良いが私には一方が我慢する世界にしか思えない。
・私は下肢障害があります。養護学校、普通学校両方経験があります.どちらが楽しかったかと言ったら養護学校でした。普通中学へ行きましたが、歩き方が気持ち悪いと下級生から階段の上から石を投げられたり、いじめられたりしました。辛い思い出です。体育は多くは見学でした。小学校では、手術の関係で2年程度養護学校へ行きましたが、周りは障害児しかいない為歩き方が気持ち悪いとか、言われないし、体育でも手でやるサッカーとか考えられている競技を楽しめたり、気持ち的に凄く楽でした。一概に一緒にすれば良いという考えはどうかな?と私は思います。社会に出れば、罪のない子供に「気持ち悪い」とか、傷つく事なんて山ほどあります。色々な人に知ってほしいのなら、小学生の時に養護学校どの交流1年に1回位して貰えば良いのでは?
・障がいのある方と接して、一概にインクルーシブと言っても、特別支援学校で個人に合わせて成長していった方がいい方もいれば、インクルーシブな考え方で、健常者と一緒に生活した方が良い方とさまざまです。障がいのある方の希望だけで押し進めると、その方の成長に合わない場面もあると思いますが、最近は、インクルーシブを押し進めるところがあるように感じます。非常に難しい問題だと思います。
・重度知的障害の子供がいます。 私は特別支援学校にいけて本当に良かったと思っています。まず先生が多いのでその子にあった教育を考えてもらえること。 なによりも子供が笑顔で学校にいけてること。 その子にあった学習をするので無理がないのがいいんだと思います。一人でトイレにいけた、まっすぐ走れた、塗り絵ができたそんな小さなことがわが子は難しいでもできたらたくさんほめてもらえるので笑顔でかえってきます。 偏食はありますが先生が工夫してくれていろんなものが食べれるようになってきました。 インクルーシブは理想的ですが、軽度知的障害ならなんとかなるかもしれませんが重度知的障害は難しいかと思います。
・障害の有無に関わらず、当たり前ですが人は自分の経験しかできないんですよね。 自分はAだったけどBなら幸せだったかもしれない、上手くいったかもしれないと思っても、実際はわからない。
記事はどれも極個人的な体験が多くて、障害者全般の意見として成り立たないのではと。この記事だけ読んだ感想ですが。
私が子どもの頃は障害のある子が一般学級に混じって嫌な思いをしたという話を見聞きした方が多かったように思います。 そういう経緯で今のようになったのかなと思うと、また繰り返されることがないようにと思います。
・インクルーシブ教育の前に、専門家を普通学級(学校内)に派遣してほしいです。まずは現時点で困っている学校を救って欲しいです。 学校からの要請で外部派遣でもいいです。
先生方が「オヤ?」と思ったお子様は保護者も一緒に発達障害の専門外来などを受診して早期発見・早期療育につなげて欲しいです 将来障害年金を受給したり、国のお世話になるくらいなら 早めに専門家につなげましょうよ・・・
私は家族に障害があります きょうだい児です(一緒に過ごした学校生活は地獄でした) 障害を理解して、配慮して言えません 皆様一杯一杯です ただでさえ近年は、不登校数も更新して行ってますよ この状況でインクルーシブ教育を導入したら、先生も潰れますよ 先生志願者もまた減るでしょう。
あと。当事者家族として思うのは 視野が狭い。一方通行だ・・・あ、私の家族の場合ですけど。
・日本人の多くは幼少のころから『困っている人を見たら助けてあげましょう』って言われて育ってきているけれど、自分が困ったときに『助けてください』って言える人は少ないと感じる。 多分、助けてあげる側と助けてもらう側を無意識のうちに分けて『助けが必要な人=可哀想な人』という認識が定着しているのだと思う。 フラットな関係で助け合えるのが理想だけど、なかなか難しい。
・健常者と同じ様に出来る為に必要な事は理解しているんでしょうか。 四肢欠損の子供の話ではありません。 厳しいですが、補助具があるので本人の並々ならない努力によって、健常者以上の動きが出来たりします。 ただし、先天性の脳性麻痺であったり寝たきり状態で痰の吸引等の介助が必要な障害者は話が変わります。 障害者本人にとっては多くの同世代の子供と接する事が出来るので人格形成にも有利でしょう。 ですが、クラス担当する教諭の負担がどれ程のものになるか考えているんでしょうか? 専門性の知識も持たなくてはいけないんですよね? 教諭に覚えさせるんですか?介護福祉士か看護師の領分の事を? 結局どうやっても助けてもらうのが前提になります。 一人の教職員がこなさなければならない仕事を一度教えてもらってから同じ事言えますか?と聞いてみたいところですね。 細分化し過ぎても問題ありでしょうが、分ける事は必要だと思います。
・理想ではある。しかし、現実問題まだ難しいかと。常に支援者が障害児についてくれるのならうまくいくかもしれないが、福祉の方も現状人手不足。そんなに多く人を確保するのも難しいような気がする。だったらちゃんと程度に合わせた教育、支援も受けられる特別支援学校のほうがいいと考えています。でも障害ある人、ない人がどこかで交流?する機会は可能であれば作れるようにはなってほしい。
・うちの子のクラス、多動の子がもうめちゃくちゃ過ぎて担任はその子に付きっきりで授業止まりまくり、授業中にいつもハサミを動かしてて危険、暴言を吐く、理科の実験ではその子が備品壊して実験中止、物を盗まれて壊されても謝らない、他の子達のストレスは限界です。 みんなの我慢を持って成り立つ一人の幸せっておかしいと思います。
・理想論的な思いやりを実現するのが大変な事である。って事を実感するだけに終わることもあり得ると思う。
色々思うところはあるが、全く知らない。と言う状態は良いことでは無いとは思う。
他方で、全員が全時間、お付き合いして、お助け申し上げるのも違うと思う。
やはりプロというか訓練を受けた人がした方が良い部分も出てくるだろうし、集団として行動しにくい部分とかを整えるとかも必要になってくるだろう。
なんやかんやで集団行動は日本人の必須スキルだと思うので、通常の行動や教育は集団で避難とか一緒に行動できるようにできる範囲での集団生活は重要になると思う。
適度な関係性が重要だと思う。
・難しい問題。簡単に同じ教室で生活できるか?授業できるか?と言うとそうもいかない。 分離学級をやめたとして、たまたま障害児がいたクラス、そうでないクラスでは、恐らく明らかに学力の差がつくだろうね。 それこそ積み重なれば児童生徒の一生に関わってくる可能性があるが、そこをクリアできるのか? 学生時代はそれで良いとして、結局成人してから全く同じ生活をするのはやはり難しいし、仝だけの義務を果たせるのかと言われたらそれも難しい。 分かれているからこそ良いことも、互いにたくさんあると思うのだが。
・近所に自閉症と知的障害を持った子がインクルーシブ教育に対応しているらしい近隣の公立高校に通っていますが、通学中にバス車内で堂々と自慰行為を行って警察沙汰になる案件がありました。ただ、警察も学校もこれといった対応はなく、怖い、気持ち悪いとバス利用ができなくなった人が増え、生活に支障を来たしている状態です。学校はあくまで校内での教育だけでその子の将来に繋がるような教育には程遠いように思えます。 普段から突発的に発狂したり、他人の敷地内に入って物取りしたり、脱走同然の家出を繰り返したり、その度に大騒ぎになるのでどこかへ隔離してもらいたいと思うのが近所としての本音です。
・知的障害児を育てています。 普通の小学校ではなく特別支援学校で過ごしていて、それで良かったと思っています。 全くの健常の児童と一緒に学ぶということは限度があります。また、親もかえって苦しい思いをする可能性もあります。
理想は理想でしかない。障害を持つ人の多くがインクルーシブ教育を望んでいるわけではないかと思います。
お互いを知る機会は重要かも知れませんが、常に同じ教室で一緒に過ごすのは特性や能力上、難しい話です。 線引きはある程度、大事かと思っています。
・健常者同士で普通に喋っていても、反応が思ったのと違うとか、笑うポイントが違うとかで、合わないと思うと離れて行って別の 価値観の合うグループになって行くのに。 優しい子も初めは話しかけたり世話したりするけど、気の合う子と休み時間ふざけ合ったり冗談を言い合ったりしてストレスを緩和してるので、しばらくすると距離を置いて気の合う子だけで遊ぶ様になると思う。 実際、職場に耳の悪い補聴器の子が来たけど、初めは話しかけたけど、周りがうるさい環境だと聞こえてない様だし、話の反応も薄いしで、冗談言っても反応しないだろうなと話す事が無くなって、無視ではないが、自分から関わろうと思わなくなった。 本人からも話掛けないので、作業者の一人として要るだけって思っています。
・これは理想はそうだろうけど、現実問題は、障害の程度や特性による。出来る人もいれば、やはり多少は分け隔てが必要な人もいる。だから少なくとも方策は2本建てで進めていく必要がある。
そして、これはいわゆる障害者の人たちよりも、いわゆる健常者とされる人たちの中に利己的で攻撃的な人間が実はたくさん隠れて紛れている。こちらを分け隔てすることも考えて制度化していかないといけない
・理想を語るのは簡単ですが、現実問題は厳しいです。 偏見を持ってるとか差別しているとか、そんな問題ではなく、です。 今の学校のシステムだと、ただでさえ暴力的なお子さんも同じ教室にいたりして、なにも悪いことしていない子どもが我慢する場面も多いです。 障害のある方々の人権やらは多く問題視される機会がありますが、一方で健常児(この言い方が正しいとも思ってませんが)の学ぶ権利も守って欲しいと思います。 その声を大きくすることは、なかなか難しいですが、やっぱり現状我慢しているお子さんは大勢いると思います。
・全授業を一緒にすると、どちらかに合わせた進め方になってくると思います。 立場の弱い方に合わせようという風潮があるように感じますが 学校という場に置いては全てを合わせる訳にはいきません。
どちらかを優先となると、ついていけなかったり、他の子がストレスになる事もあると思うので やはり分けて授業ということは必要かと思います。
何でもかんでも一緒ではなく、1日の中で何個か一緒に授業を受け、障害を持ってる方も積極的に参加して コミュニケーションを取っていくということは出来ると思います。
・障害児の親です。
インクルシーブ教育いいと思います。でも、それに対応できる教職員がいて、それに対応できる環境や設備があってからこそ。
現状、今の学校ではエレベーターもなく、各階に段差なしのトイレも整ってないところも多くあると思う。
はっきりいって普通教室がそんなによかったですか?昼休みも教室に先生が常にいるわけでもない。
音楽等の教室がかわる時はお友達というなの断れない子供がお世話がかりをやらなければならないのです。
多動児で、薬を飲まず学校でも突拍子もない子供がクラスにいたら、そのクラスは勉強がすすまないでしょうね。
我が子は知的障害がありません。こだわりもおちつき、見た目も学習面も普通と変わりません。
それのひとつは幼少期に療育、リハビリを親子で通い親がまずは我が子の障害をしっかり理解したからだと思っています。
差別じゃなく。お互いのための区別はあ、らだとおもいます。
・こういう意見には、それが大多数の意見かどうかを確認してから皆さんには判断、コメントしてほしいです。 本件は少数意見と見受けました。こういう方々は、なんだかんだで言って、なんらかのサポートや補助が自然と働いて、健常者に近い生活ができている人々。だから、できれば、障害者の適用から外してほしい。 本当に、身体を動かすのも大変な方々はかなり居る。そういう方々は、たとえ分けられても生きていくのに必要なことが多い。そうそう方々には苦労が増える事になる。
・小学生の頃、いわゆる「お世話係」になっていました。その範囲は校内だけではなく時に校外、私生活にも及んでおり、当時はあまり自覚していませんでしたが今思えばなぜそのようなことを担当しなくてはならなかったのか疑問です。 時が流れ今や親となりました。もし自分の子がそのようなことを任されることになれば、申し訳ありませんが学校に一言言わせて頂くでしょう。それは児童が負担させることではないばかりか万が一の際には責任も負えません。 障害者の仰ることにも一定の理解はできますが健常者にも自分の学習や生活を遂行する権利があります。支援が必要な方に設備・人員の両面で特化した環境が整えられそこで学習することはそんなにも悪でしょうか。
・長かったけど全部読んだ。 障害のある人たち、いろいろな我慢や苦労など嫌なことの多い日々を過ごしてきたのだろうと思う。そこはわたしには計り知れない部分がある。だけど、フラットな言い方をさせてもらえば、障害のある人たちは周りの支援をしようとしてきた人、小中学校で自主的でも任されてでもお手伝いを担当してきた人の気持ちや苦労に思いを馳せたことはあるか。 出来ない一人、授業の妨害になる一人、手助けをしないと先に進めない一人がいる中で何かを進めていかなきゃいけない多数が抱えていた色々な気持ちに思いを馳せたことはあるか。 弱者に寄り添うとか、同じ経験を同じ環境でみんな一緒にとか必ずどこかに歪みが出ることをどこまで理解していて、それが大きな目で見て全体の将来的にプラスになるのか。 みんな一緒、ではない。これは絶対。 同じ経験、同じ環境、同じようにみんな同じようになんて出来るわけがない。
・私は弟が知的障害者なんですが一年生の一年間だけ 普通学級で過ごしました その後はレベルにあった特殊学級(昭和はこう言ってました)で過ごしましたがそこで読み書き 簡単な計算あとは身の回りのことが一人で できるようになど教えて頂き 現在は施設に入ってますがその時教えて頂いたことが とても役にたってます 障害の種類にも寄りますがこういう学級が あったこと感謝してます ちなみに一年間だけ普通学級にいたので その時のお友達がよくうちに遊びにきて ゲームとかやってました それも良かったです
・障害の度合いによります。知的の障害があって声を上げてしまう場合、とても通常学級では無理です。通常学級の児童、生徒に我慢や協力を無理強いさせるのをインクルーシブというのなら、間違ったことをしています。通常学級の生徒の静かに学びたい権利を奪ってはいけない。支援学校を有効に活用し、支援学校と通常学校の交流を盛んにすればよい。
・インクルーシブ教育は、どちらにも負荷がかかる。障がい者の方を理解しようと言う心持ちで臨んでも、それが相手にはなかなか伝わらない。それは障がい者の方の気持ちは、その方しかわからないから。逆に、障がい者の方からしても、相手が自分の事を思ってくれての行動だとキャッチすることも、なかなか難しい。お互いの思いをマッチングしてみて、うまくマッチすればいいが、確率的にはまだまだ低いと想定する。現実、うちの娘は大学のゼミで、ゼミ生4名のインクルーシブ教育の場を経験した。3人が懸命に努力し支え、本人の意見をできる限り取り入れ、本人ができないところは請負い研究を進めたが、最後に「なんでみんな優しくしてくれないんだろう」と言う障がい者の学生からの一言に、共同の難しさを実感し、100%本人の意見が通らないと、優しいとは受け取ってくれないのか?と悩んでいた。こちらの気持ちも理解してもらえているのか?
・学習障害のある息子が中学入学の際に、教室でPC使用しても良いなどの合理的配慮を提案されたが本人が断った。理由は、自分だけが違う事を許されることに疑問や不満を持つ人も出るはずだしそれは仕方ないことなのに不満を持つ人が「理解のない人」と責められる事になるのも違うと思うから自分は教室に入りません、といった。障害の程度や個人の意見もそれぞれだと思う。インクルーシブは私自身も賛成はできない。それぞれに適した環境で住み分けながらも共存できる「社会」になることが出来れば良いとは思う。
・私の通っていた小中学校には「特別支援学級」がありました。
ありましたけどその支援学級の子たちはそれぞれ普通のクラスに振り分けされていました。
なので普通に一緒に授業うけたり給食食べたり体育したりしてました。
一緒に勉強するなかで本人がついて行けなくなったり、先生が一旦支援学級で落ち着いて学んだほうがと判断したときには支援学級へ戻って1週間から1ヶ月ほどするとまた普通クラスへ戻ってきてました。
ただ、うちの支援学級には車椅子の子とかも普通にいましたが、介護者が同伴するほどの重度の人はいませんでしたね。
今思うと、子供達が「友達への思いやり」の範疇を超えて「介護者」にならないなように受け入れは見極められていたのかもと思います。
「思いやり」と「介護」は絶対に分けなければならない。 なので記事の方の言い分は一方的で 自分達を尊重するあまり健常者への思いやりが欠けてます。
・障害児関係の仕事をしていますが、私たちのやっていることが少なからず間違ってはいないのかなと思えました。 自分の出来ることは自分でやる、大人が察して立ち回らないで、まずは本人にやらせてみる、できない事はしっかり「手伝って下さい」と言う。 障害児たちもいずれは社会に出ていき、24時間支援者がいるわけではありません。 できることは多い方がもちろんいいですが、困った時に自分から発せられる社会性やコミュニケーション能力も大切だと思います。
・傷害のある人や、その子の親でインクルーシブを望まない人もいる。
傷害の内容や程度によると思うが、私の知る知的障害の人は、特別支援学校に進学し、作業訓練などをした結果一生を作業をしながら過ごせる施設に入ることができた。 手にも障害があったので、単純な作業も大変な努力で身につけたと聞いた。
当事者の意見も大切だが、障害者個々に応じて客観的な見方も大切だと思う。 本人や親の希望で、特別支援学級に行かないために、授業中じっとしていられず、個に応じた指導も受けられない結果不登校になっている人もいると聞く。
インクルーシブを否定しないが、インクルーシブが絶対正しいという空気を作るのはよくないと思う。
・特別支援学校で働いてます。 理想としてはわかりますが、障害児(特に知的障害の子)が健常の学校に通うのは双方にデメリットがあると思います。 もちろんお互いの理解を深める意味で交流することにはメリットがあると思いますが。 健常の子たちにとっては多動や奇行で集中力が阻害されたり、教員側も特別な配慮が必要になります。 逆に障害児にとっては行動を制限されたりするのは苦痛を伴い、行動が悪化したりパニックも有り得ます。 特別支援学校は学力向上は勿論ですが、生活していく上で必要なこと(買い物の仕方、落ち着いた行動の仕方など)を学んでいきますので、通常校で果たしてそこまで寄り添えるかという疑問もあります。
所謂グレーゾーンで、途中まで通常校に通っていた子たちの多くは他の子たちとの違いや付き合い方に悩み、傷付いたりもしています。 必ずしも同じ環境にいることがよい影響ばかりを与えるわけではないと思います。
・インクルージブに批判的な訳ではないんだけど、先生生徒ともに円滑に授業している様子がまったくイメージできないのも事実です。ヨーロッパに目を向けるのも良いと思いますが、例えばイタリアはかなり早い時期に精神科病棟を全廃して日本でも一部の人には素晴らしいと言われますが、実情は行き場を失った精神病者はスラムのような場所にあふれています。陽の部分だけではなく陰の部分もしっかり見てきてほしいと思います。この記事にある方たちは確かにインクルージブでうまくやれそうかなとも思いますが、もっと重度の方達はどうしましょう。インクルージブが導入された故に切り捨てられるなんてことになる可能性はないですかね。障害を負った方たちの中でもある一定のレベル以上を想定しているような、あくまで個人的にですがそんな感想を持ちました。
・インクルーシブは良いけど、学校の体制が整っていない。 田舎の方だと車椅子でも楽に移動できるような学校は少ない。移動教室もある。その時、誰が介助する? 多動や知的障害で授業中にバニックを起こしたら?健常者の学ぶ環境を奪われるし、お世話係みたいなのさせられる怖さもある。 インクルーシブの条件として、お互いの学ぶ権利を侵害しない、介助は最小限、医療行為必要な人は別室で処置するなど条件は必要だと思う。 冷たいかもしれないけど、知的障害のない聴覚障害者(耳の替わりのツールがある)や視覚障害者(目の替わりのツールがある)や身体障害者なら一緒の教室で過ごせるかな。
・中学の時は3クラスだったけど、障害ある子とか不登校の子とかがいる「4組」があった。 専任の先生はいるけど、生徒はそれぞれ3クラスのどこかに本籍?はあった。
障害のある子は普通の授業の時は4組にいるけど、学校行事とか体育の時は一緒に授業するんだよね。 その子は知的障害で、学習能力とかはないんだけど、みんな嫌がらず、むしろ跳び箱飛ぶの応援したり、一緒に走ったりしてた。 実感としては、一緒に過ごす時間をゆっくり作っていけばいいと思う。最初は腰が引けても、周りの友達が受け入れ始めたら変わるでしょう、きっと。 でも時間は必要。 騒いでしまう子は難しいのは事実でしょうね、、、
・分けたほうがいい事もある まず知ってもらうまでは行く。そこからは本人の意志だったり、周りの性格もあるからどうやっても超えられない壁が出てきたりする 皆から弄られた時、笑いに変えられるか引っ込んでしまうか 本人がどうしたいのかを尊重したげよう
・30年ほど前、小学校の同級生で特別支援学校に通う子がいた。定期的に交流があり、授業を一緒に受けるわけではないがみな同級生だと思っていた。担任の先生の努力もあったろうが同じ授業を受けなくてもクラスの一員であったと思う。その子がいたから知ったこともあるし、障害がどういうものかわからないから怖かったり拒絶してしまう。子どものうちから互いに理解しあえるような教育が大切だと思う。
・基本的にはインクルーシブ教育はありうべき姿だと思います。ただ、それを実現するためには、小中学校が受け入れる体制を整えなければなりません。現在の施設、人員のままでは不可能です。
車いすで生活する子のために、各階にエレベーターを備え付けるのは当然のこと。また、そういう子の移動を助けるために介助員を付けることも必要。
私の経験では、介助員を配備してもらえず、級友に援助させる体制を取っていた高校がありましたが、それはやめるべきだと思います。そうすると、障碍者は級友に依存するしかなくなり対等な人間関係を持つことが出来なくなります。また、その子の面倒を見させるために級友の成績が悪くても無理して単位を出すことにもなります。現実にあったことです。
ただ、知識障害者については、別に考えるべきでは?自分の理解できない授業を、無言で何時間もやり過ごすことが、本人の教育のために良いとはとても思えないのです。
・一般の学校の一般の教室に、障害のある子供を受け入れるのは、障害の程度にもよるとは思うが、賛否両論あると思う。 個人的には、優秀な学歴の優秀な先生(障害者への専門知識習得済みの)を集めた障害者がしっかり学べる学校を作って、入試から卒業まで健常者と同じ内容を学べる環境を整える方が、健常者、障害者両者にとって良いのではないかと思う。 分け隔て無く。というのは理想論ではあるけれど、どちらかに我慢や不自由を強いてまで同じ教室で授業することが正しいとも思えない。 障害があっても学びたい!という気持ちは尊重されるべきだが、健常者と同じ環境でなければ嫌だ!というのならば、話は変わると思う。
・健常者でも助けて欲しい時に助けてと言わなければ、誰も助けてはくれないと思う。 察してというなら、それは難しい。 例えば車内の優先席を譲ってもありがとうという人もいれば年寄り扱いしやがって!と逆ギレする人もいるよね。 本人が何を望んでいるかは本人が言葉にしないと、それを面倒とか言いづらいとか、まわりのせいにされても… 介助を受ける側と介助をする側の双方が納得出来るなら良いけれど、普通学級で学びたいからクラスのみんな(児童や生徒)に介助を強いるのはいささか違う気がする。
・助けを求めることは大事。どう助けてほしいかを伝えることも大事。それが出来ないときは、出来ないと断ってもいいと思う。下手に引き受けてケガさせても責任取れない。それに対して助けてもらえない、などと言ったりしなければいいのではないかな。誰だって助けてほしいときあるし、困っていたら手を貸してほしい。ただ求める側がそれを当たり前と考えていたり、自分は助けようとしないで、誰かにお願いするのは違うのでは。助けを求められた側も事情ががある。その人も助けを必要としてるかもしれない。
・なんでもかんでもみんなと一緒という考え方がそもそもの間違い。そういう学校があってもいいけど、健常者側にそれを選ぶ権利を与えるべきです。会社でも同様、むりやり障がい者を入れた結果、健常者側がストレスで退社していくケースが非常に多い。私の部署でも重度の障碍者ではないのに、彼がいる事で普段の仕事以上にストレスを感じるという意見が多い。行政やマスコミは障がい者の事は考えるし、会社経営者も会社の評価を落とさないために受け入れてしまうが、その現場に強制的に立たされる現場の健常者の事はひとつも考えていない。だからいつまで経っても平行線なんだと思う。
・今のままのやたらと詰め込みの学習指導要綱とか受験体制とか、学歴がものをいう社会だとね、みんな一緒は難しいと思う。障害とひとことで言ってもさまざま。そして障害をもつ子どもたちだって感情がある。本当に一緒に参加したいって思ってるのかな。当事者の声っていうけれど、それは大人になって振り返ったらという話。成熟した大人になって考えた結果であり、周囲も当事者も幼いし理解しあうのは本当に難しいと思う。福祉業界を目指すような学科が高校くらいでできて、そこでインクルーシブ教育をやってみる等、限られたところから始めてみたらどうだろうか。
・簡単には論じられない。障害の度合いにより対応は全く違う。健常の子との交流は大切だが、学校という学問の場で健常者の子たちにあまり負担をかけるのもどうなのか。現状では、やはりクラス分けはしつつも、どこで交流をもつ(積極的に持つ)ことが一番だとは思う。その場合、障害者も健常者も傷ついたり、ショックを受けたりはあるので、その場での教員のスキルは問われるだろう。教員の資格やスキルへの報酬なども制度を整えなければいけない。
・健常者と同じ授業を受けることは理想かもしれないが、そうなるとどうしてもできない方に時間を費やされたりする。できる子は下に合わせないといけないのか?その子の意思はどうでもいいのか?
健常者でも例えば勉強ができる子とできない子は受験して偏差値で分けられていくし、みんなそれぞれ得意不得意があり、様々な環境下で悩みながら時には諦めながらも適性を見つけて仕事に就いたりしてる。
自分のことを知ってもらうために発信していくことは大事だと思う。だけど何でもかんでもみんなと同じにしようとするとお互いしんどい。差別しようという考えではなく必要な区別。差別と区別を混同しないでほしい。
・障害のある我が子は、分けてもらえてハッピーになりました。我が子はまだ幼いですが、「障害」=「自分の苦手なこと」という認識をしています。そして、「苦手なこと」を持ったままでも、それでも認めてもらえる環境に身を置ける安心を保障されたので、登校できるようになりました。同じ障害を持つ子どもが傍にいる安心感や思いの共有につながっています。普通のクラスにいたら、萎縮してしまって、のびのびと過ごせなかったと思います。 同じ障害を持つもう一人の兄弟は頑張って普通のクラスに居続けていますが、かえってコンプレックスを感じる機会が多いように思います。本人が希望するのでその環境に置いていますが…。 なんでも一緒にすればよいというものではないと思います。
・支援学校ができた理由の1つとして、人は誰でも独立して独りで生活ができるかどうかが重要。 そのために基本的学力として物を得るにはお金などの代価が必要、いつでも順番がある、自分に訴えがあるのならまず人にきちんと説明をしなくてはいけない等です。 それを学校生活の中で段階的に身につけて社会に出られるようにするのが目標でした。 支援学校で教えてくれるのは学歴よりも必要なのは生活力であり、社会の仕組みを伝えるために大切な物事です。 親のエゴや間違った平等意識だけで学校を選ぶのは気をつけたほうがよいかと思います。
・インクルーシブ教育について肯定的ではありますが、今の学校現場で導入・実践することは困難だと思います。
まず1学級あたりの児童・生徒数が多すぎること。せいぜい15〜20人くらいが上限でないと、そうした生徒の受け入れはできません。 2つ目は、学校に教員を補佐する職員配置が必要であること。 3つ目は、障害児童、生徒についての専門性を持った人材をせめて学年ごとに配置できること。 4つ目は、学級は今のままでいいけども、学科単位は学力順でクラス編成した方が対応しやすいかも。
などなど、個人的な見解ですが、乗り越えないと行けない壁は多いです。 こうした壁を乗り越えて、ぜひ日本でも全ての人が等しく教育を受け、能力に応じた社会参加ができる国になって欲しいと思います。
・我が子が通う学校はインクルーシブを取り入れています。 授業も活動も普通級の子供達に合わせて進んでいきます。 我が子は自閉スペクトラムの為、支援級に在籍していますが1日中普通級で過ごします。 我が子にとってはとても合っていましたが、本当は支援学校に入りたいのに人員オーバーで入れず仕方なく、という家庭もあります。 障害の程度や特性によって合う合わないはあると思うので、その子に合った学べる場所が増えるといいと思います。
・知的障害者と身体障害者は別に議論をしたいです
身体障害者については周囲が配慮したり、本人画の望む範囲で手を貸す事 それを学生時代から健常者と一緒にすることは 健常者側にとっても良いことだと思います。
一方で知的障害者についてはすべてを健常者と同じ扱いにはできないでしょう もしそれをして暴力を振るうなど、社会の中で許されない罪を犯したとき その責任の所在はどうなるのか? コレは避けられない議論だと思う 怪我をさせても責任能力がないなどという話になるなら 最初から分けることは知的障害者側にとっても いたずらに不幸な結果を招かないと思うのだけれど
・インクルーシブ教育が叫ばれてから何年も経ちますが、現実的には現在の人員でやるのは厳しいです。障害の程度にもよりますが、介助員がいれば周囲と同じことができること、教員が困ったときにすぐに専門家が助けられること、など教員の負担が増えないという条件でないと厳しいと思います。教員は医療の専門家でも介護の専門家でもないので、その分野の支援を期待されてもお門違いです。 私は本当のインクルーシブ教育は、自力で学校生活を送るのが厳しい人は特別支援学級や特別支援学校で学び、通常級に負担がないように交流していくことだと思います。それも通常級の生徒にも教員にもきちんと障害理解の機会があり、どうしたら一緒に遊べるのか、共同作業ができるのかを理解したうえで行うものだと思います。 特に障害を持った方を疎外するつもりはありませんが、一緒にいることだけではインクルーシブ教育とは呼べないと思います。
・学校において、全ての授業をインクルーシブにしたら、結局大変になるのは障がい者ではないかと思います。
障がいの程度や種類も様々であるので、その人その人に応じてインクルーシブできる部分を共にする方が、障がい者にとっても、周りの生徒にとってもよいのではないかと思います。
障害者認定されなくても、例えば色覚異常や色弱、色盲で人とは異なる不自由さを持つ人は世の中に沢山います。 色盲の人がパイロットになりたい。と言ってもそれはなれません。どんなにインクルーシブしたって無理なものは無理です。
障がい者であるという事は、生活する上で健常者とは異なる困難があるという事です。
障がい者も周りの健常者も負担にならない範囲でのインクルーシブが大事なのではないかと思います。
・阻害されて生きて来た人達の想いを否定するつもりはないけど、障害があろうがなかろうが、他人を手助けしないことに対して絶対悪だという決めつけはしないでもらいたい。 元気に見える人だって他人との心身の関わりに苦しむ人間もいるし、例えば生理のお世話だって自分のすら嫌なのに他人のとなると抵抗感半端ないと思う。 教育のあり方としては、世の中には色んなか人がいるから、経済的にも心身的にも手助け出来る余裕のある人は関わっていこうね、ぐらいがお互いのためにベストと思う。
・理想と現実は違うこともまた大事な事実です。インクルーシブ教育は理想であって、現実の社会はそこに至っていません。なので、分かる必要も今のところ必要だと思います。呼び掛けていくことは必要ですが、社会に理解のないうちに全て一緒にしてしまって辛いのは障害のある方たちです。
・健常の方にもいろんな意見があるように、障害当事者の方にもいろんな意見があるものです。うちは当事者の側ですが、健常の方とは違う環境で学びたい派です。その方が特性に応じた環境で無理なく学びやすいと思っているからです。もちろん、お互いを理解するための学びの場は時々あっても良いと思います。
・インクルーシブは目指すべき理想です。でも今の学校システムに導入は本当に難しい。だからやらないのではなく、まず大きく根底から規模やクラス人数などのシステムや教員の勤務状況、教員採用の仕方、特別支援教育の専門の知識を持った教員、管理職、上げたらきりがないくらいまず変えなければいけないことがたくさんある。 多くのこどもたちが「波長や趣味が違う」だけでいじめたり、はじいたりする現実。一番やってはいけないのは、いきなり「インクルーシブ」という名のもとに今の体制のまま学校に導入して、現場の先生が限界感じて心身壊したり、生徒が今よりもっと分断する気持ちをもってしまうことです。 大人が学力の高さ低さで自分たちを分断していることをこどもたちはよく知っていますよ?
・障害がある子供が支援学校に通えることや、大人になっても介助者が助けてくれること、素晴らしい制度だと思います。
障害がある人とない人では出来ることも違うし生活の仕方も違う。 それが教育となると学び方も違うでしょう。 その違いを「健常者と分けられて育った」と言っているように聞こえます。 同じように扱うのは無理なのは分かるはず。 そこに自然と溶け込めるように居るためには健常者の子達が頑張らないといけないのです。 そういう空気になるからね。 優しい子は率先してお世話しようとします。 その優しい子が本来学んだり遊んだりする時間を犠牲にするんです。 娘の学校だと、発達障がいの子が普通学級に居るのですが、その子の癖のある癇癪や、自分本意なワガママに優しい子が振り回されて損な役回りばかり押し付けられてる。 結果、障がいのある子は嫌われてます。 普通学級に障がい者は入れなほうがいいと思います。
・そう思うことが既に差別してる。学ぶ権利は誰もが均等にある。それは分かる。でも、その子に合った教育や学ばせ方がある。今はフリースクールなど様々な学校がありそれぞれに事情を抱えた子ども達がいる。もし、発達障害や知的障害でついていけないのに無理して健常者と同じ授業を受けてイジメや差別に繋がるくらいなら、見合ったクラスや学校に通った方が友達もできて、本人も楽しいと思う。要は、将来、いつか親が先にいなくなったときに少しでも困らないようにしていくことが一番大切なんじゃないのかな。
・小学校一年生でお世話がかりの経験があった者です。 出席番号が1番という理由だけで担当になりました。 お世話した子は暴れたりとかはなかったのですが、常に母親が恋しいのか常に泣いていてあやすのも大変だった記憶。 校外学習やグループなどで常にその子とペアになり、入学したばかりで友達作りのきっかけも失われて孤独や疎外感を感じました。 半年以上続き、担任に相談しましたが、全然取り合ってもらえませんでした。 お世話がかりは担任が変わる1年間続きました。 障害への理解は深まったかもしれませんが、出だし悪い小学校生活となり、担任への不信感など辛かったです。 母には心配かけたくないと言えなかったし、状況をうまく説明できる年頃でなかったと思います。 担任のことは恨んでおります。意思疎通は難しかったけど悪い子ではなかったこと、ときどき後ろにいらっしゃったお母様がお礼を言ってくださり優しい方だった記憶が救いです。
・我が子は障害児で特別支援学校へ通っています。 通常学級では叶わないであろう、障害特性に合わせた丁寧で個別的な対応をして頂けることに感謝しています。 棲み分けは大切です。迷惑かけたい訳じゃないんです。でも迷惑かけてしまうのです。だから棲み分けてそれぞれが尊重されたら良いのになと思います。無理に一緒にする必要があるのでしょうか。 一般社会とは別で良いので障害がある人が安心して暮らせる小社会が認められたらそれが1番嬉しいです。
・騒音を立てない・多動で気を散らすようなことがないなら健常クラスでも良いのかな、とは思います。 しかし災害時の事も考えると生徒たちのみで車椅子など障害持ち生徒を誘導できるか不安がありますよね。逃げ遅れという可能性もでますし…… ヘルパーをつけるにしても、人員的な意味で金持ち以外厳しいのかなとは思います。
生徒たちが平等や介助を学ぶ機会にはなっても、学校は勉学優先なので与えられた時間的に難しいですよね。
・正直、教育現場ほど保守的な所はない。今も昭和を引きずっている。インクルーシブを否定はしない。でも体制を整えないとね。誰にでも人権はある。そりゃそうだ。健常児にも学ぶ権利、遊ぶ権利がある。それが壊されてしまうようでは本末転倒。多様性と言うけれど色んな子がいてそれによってお互いが刺激を受けたり認めあったりできるのなら理想。でもそうなるには そう導く教育が必要で今の学校にはそのキャパはないと思う。だけどはなから無理だと決めつけるのではなくどうすれば良いかを考える事は必要だと思う。難しいけどね
・小学生の頃、知的障害者のクラスメイトがいました。 支援学級もありましたが、親御さんの希望でそこには入らなかった。
放課後は毎日、遊ぶ時間を削ってその子の宿題をクラスで見ていました。 それは頭良い子もそうでない子にも、順番に係として回ってきました。 正直、頭が良いとは言えない私には苦痛でした。 時に癇癪を起こして噛まれたりもした。 障害者への知識がない者が関わることの大変さ分かってない。 差別ではなく区別は必要なこともあるのですよ。 区別するということは、区別された人にとって良い環境であるように配慮されているのですから。
・分けた上でちゃんと教育を受けたらいい。
障害者側の言い分はわかるが、一緒にされた健常者側のことも考えなきゃですよね。 集中して授業を受けている最中に奇声をあげられたら集中力はきれちゃう。大丈夫かなと気にしながらハラハラしなければいけないなら、やはり集中力はなくなる。
昔と違って親切な人は増えた。障害を持つ人向けの施設や設備も増えた。
ただ分けなければいけないところはわけましょうよ。身体障害者と知的障害者だって違う。一緒にはできない。「一緒に」「分けないで」という気持ちはわかるが、健常者側は「分けてほしい…」が本音。
とても難しい問題ですね。
・知的障害の有無で違ってくると思います。 甥が重度の知的障害を伴う自閉症です。 当事者の親は殆ど、支援学校を希望しているのが現状です。支援学校の教員が不足しており、重度の知的障害でも優先順位で就学先を支援学級に指定される事があるそうです。教育委員会に異議申し立てをして支援学校に変更した親もいるそうです。支援学級に入学して度々、学校から呼び出されて、結局、支援学校に転校する事になったり。 就学前相談で支援学校を希望していても学区内の小学校の校長と面会するそうですが「当校はご協力できることはありません。」と言われたそうです。これが公立校の現状です。
・できない人に合わせるやり方ではなく、その人に合ったやり方を見出せる教育方針にできるといいですよね。
仕事で養護学校に行く事がありますが、普通学校では基本やらない(本人が学んでいるであろう)事を本人ができる様に噛み砕いて授業としてしている。 企業実習もだいぶ丁寧に行なっていて、普通学校まで全部やっていたら手が回らなくなるけれど、良い制度ではあると思う。
学校卒業=就職に繋がりがちだけれど、自信がなかったり、練習をしたかったらまだ練習したって良いわけで。
そういうのを見てるので、普通学校も勉強だけではなく、社会に出た時のことをもう少し学べた方がいい気がします。
・うちの小学校は確か授業によって障害を持った子と一緒の時とそうでない時があった。授業以外にも給食とかは一緒に食べてた記憶。それが1番良い気がする。そもそも健常者にしたって全員が教室に詰め込まれて同じ授業を受けること自体、是非が問われている。何でもかんでも同じにすればいいわけでもない。一緒にやることで発生する虐めみたいな問題もある。一緒にやるべきことと、個別にやるべきことを分けられたら理想。教育者の数が足りないだろうけど。
・福祉の仕事に従事していました。 『差別』はもちろんダメでしてはいけないけれど、『区別』は必要だと思います。 あくまで学校については、健常者の方、肢体が不自由な方、知的な障害がある方、病気でたくさんの支援が必要な方など、それぞれが学びやすい環境で学ぶのがいいのではないかと思います。それぞれに合わせた環境も整っていますし、人員も整っていると思います。 それは差別ではなく、学びやすく区別することだと思います
・私達は困っている人を助けなさいと子どもの頃から教えられた。 それと同時に『他人に迷惑をかけないように』とも教わった。自分は周囲に助けを求めることをためらうが、他の人にヘルプを依頼されたら断ることに罪悪感を持つ。 障がいと共に生きる人達に自分に出来ることはしたい。でも『今はできないよ。私もしたい事があるから』と断ることが出来る関係じゃないと長続きしない。障害と共に生きる人達のお世話をするのか当たり前じゃない。健常者が犠牲になって成り立つ関係は長持ちしない。 仕事として大人がケアする事が望ましい。フォローする事はクラスメイトの役割じゃない。 誰かのために我慢する日常は健全じゃない。通級に入る希望がある人はどうして欲しいのか知りたいです。障がいのある子を育てた経験から、支援級の必要性が先だと思いました。
・それが出来たらいいと思います。 社会に出れば色んな人がいる。 大人になっていきなり障害を持つ人と接するから戸惑いや距離が出来てしまう。 ただ、普通学級は未だに1クラス40人の学校がたくさんある。 その中で介助が必要な障害を持つ生徒を担任が見守りつつ授業は正直難しいと思う。 国が介助者をつけてくれたらね。 結局は子供たちの教育にお金を出さない政府が問題。 お金をもっと出せば、子どもたちの教育環境は格段に良くなりますよ。
・そもそも難しい事に他者を受け入れる気持ちが人類には少なく特に自分にとって不快な人を受け入れる事が生理的に難しい人も多い。
その中で、ある一定ラインが学校や職場で暴力暴言、座り続ける、騒がない、他者と円滑なコミュニケーションを取るなどですがゲームなどで多少は学べるようになる未来がある気がしますが、今は難しい。
早く未来にあると良いツールを作成出来るよう働きかけるのが早いと思います。
また、受け入れても良い人達で新しいコミュニティを作るのもありですね。
・身障者本人の、その人なりの自立だけの焦点を当てるのであれば、特別支援教育を受ける方が良いのではないかと思う。 特別支援学校の方が設備面も教育の内容も、その子に合わせて行ってくれるところはありますし、私の知る限りでは、健常の子供に混ざって一般の学校に入学しても、結局、どこかの時点で支援学校に転校してくる子供は多いですし、例外なく、転校してきて良かったという声が聞かれている。
ただ、健常の人達からすれば、障害者は非常に少数派で特異な存在という認識であると思うのだが、それは障害者と触れ合う機会がなく、理解が進んでいないからだと思う。
今は自分の家族も障害などとは縁遠い状態でいても、明日、どうなるかは分からない。 中途障害といって、事故や病気によって、そういった状態である場合もあり、いつ我が身にも起きることになるか分からないということも理解して頂きたい。
・お互いを知るからこそ、できること・できないことがある。 障害者がなにかしたい時、健常者以上に周りが手助け気遣いをしなければならないし、手助けする側は相当な労力がいります。 自分たちに合わせてほしい、察してほしい、一緒にしてほしい、その気持ちは大事だと思います。 ただ健常者もできること・できないことがある中で生きていることを理解してほしい。
・差別と区別は違うと思います。多様性という時代ですが、違いがあるのに同じ環境でみんな一緒というのは、多様性なのでしょうか。出来ないのに出来る人に合わせる、出来るのに出来ない人に合わせる、双方しんどいと思います。まだ子どもであるクラスメイトがケアさせられるのもどうなのでしょう。教育と耳障りの良い言葉に置き換えているだけではないでしょうか。 健常者だから何でもできる、障害者のすること全てを許容できるわけでもない。健常者にも権利はあるし、感情もある。人の手もお金にも限界はある。健常者にとって大きな負担になるようなことを当たり前に求められても、余計に分断に繋がると思います。私は障害者から怖い思いをさせられたことが何度もあります。障害だとわかっていても、怖いものは怖いです。
・かなり昔になるが学生の頃、クラスメイトに足に器具をつけている子がいた。何とか歩けるけど走れない子。友達になったんで最低限の手助けはしたけど、障害の子だから助けるというよりは、友達が困ってたら助けたという感じ。さすがに体育は無理だったので、体育の時間だけは障害のあるクラスの子とやってたな。そういう時間割が組まれてた。 地域(教育委員会)によって障害の子を受け入れる度合いは違いがあり、一度前例が出来ると同じような子は受け入れが簡単らしいが、この前例を作る1人目の親の労力がすさまじいと聞く。すべての障害をの子を受け入れるというのは無理があるにしても、地域によって出来る出来ないの違い辺りはどうにかなるといいのにとは思う。
・昔、小児麻痺の同級生と一緒に学びました。 サポートしたいけど、どう声かけたら良いか分からなかった。 声かけて自尊心傷付けないかな等考えたりしました。 何もサポート出来なかった自分に今は情けないと思っています。 その人は皆と一緒に頑張っていました。 心の中で「辛いこともあるのだろうに偉いな」とリスペクトしていました。 障害のある人も皆で助け合いながら育む環境は大切なことだと思っています。 障害がある人のために時間かかっても良いではないですか。 障害ある人の辛い分を皆で分かち合えたら嬉しいな。
・私も軽度ですが障害者の一人です。小学校時代は普通学級で中学から支援学級に入りましたがインクルーシブ教育には反対です。理由は、重度知的障害がある生徒に普通学級の勉強を教えても理解出来ないと思いますし、重度知的障害の生徒が暴れたら加減が出来ないので普通学級の生徒に怪我をさせたりする可能性があるからです。それに、普通学級の生徒が支援学級の生徒をイジメたりする可能性(実際私はイジメを小学校時代から体験してますし支援学級の先輩がイジメられているのも見ています)もあります。
・どこまで援助できるのかというラインはあると思います。 また、お互いさまですが、支援する側の気持ちも考えていただきたいし、その支援される側の方たちで支え合える環境を作っていただきたいです。 それが出来ないのなら、お互いに支えあえません。
まずは弱者の枠を定義を決めて作り、弱者とされる側が、その枠の中で、より弱者を主張する側を助けられるのか?それをよく考えて支え合える体制にしてから発信していただきたいです。 弱者同士が手を組み、主張するのは弱者が繋がってもお互いに助け合う気はないのではないのでしょうか? 巣の中の雛鳥といった感じがします。
可哀想という感情はなんでもやってもらえる引き出しのようなものではありません。
自分が損をしているというような感情は、人からもっと引き出してやろうとする態度を助長するので寛容できないことだと思います。
自分が何を貢献できるかを考えることが先です。
・例えば同じ授業を受けます。学校は義務教育なので授業ペースは決まっていますので、一部の学習が遅れている子に合わせる事はありません。先生もやるべき範囲はやらなければいけませんので授業を中断する事は決してありません。また途中で教室を退出したとしても誰もあなたを止めません。親が呼び出され事情を話すくらいですし、続くようだとマークされますし、それが分けないという事です。もちろん通信簿も平等です。特別扱いはできません。 特別学級はプレッシャーなく自分のペースで学ぶために特別に設立されたものですよね。すごく発達した教育現場だと思いますけど。 「意思の選択権を与えてほしい」という運動なら理解できます。枠組みをいっさいなくしてほしいというのはいささか矛盾であると思います。障害を持たれる方でも特別学級で自分のペースで学びたい子もたくさんいるでしょう。分けた方が最終的な学びの量は増えると思いますよ。
・子どもの通っていた幼稚園に障がいを持った友達がいました。その子と知り合えたこと、友達になれたことは、我が子の一生の財産だと思います。子どもは大人が考えるよりフラットで友達が大好きです。幼ければ幼いほど。 小学校に入れば勉強が主となるため、そう上手くはいかないかもしれません。でも教科によっては一緒に学べるような環境があればいいですね。 健常な人も、いつ自分が障がいを持つか、障がいのある子を産むか、家族が障がい者になるかわかりません。そしてその可能性は決して低くありません。 それを少しでも頭の片隅に置き議論できればいいなぁ。
・小学校時代 6年間、近所だったからだと 思うけど、知的に障害のある子と 6年間一緒のクラスでした。 連絡プリントをいつも私がその子の家の ポストに入れていました。
地域の学校には支援学級はありませんでした。 その子は普通クラスにいましたが、ほとんど 机の周りをうろうろ、トイレも自由に 行って給食も配膳後に先に食べ始めてました。 先生は、時々、授業をしながらその子にも 必要な時だけ声かけをしていました。 その子は、授業は理解できていなかったと 思います。 でも、みんなともめることもなかったし 先生も見た感じ困ってないというか、 何も揉めなければほっておいた感じです。 教室に戻らないときには、探しに行って みんなも一緒に心配してました。 ちょっと昭和の、とある教室の日常です。
インクルーシブ教育って こんな感じですか? 時代が違うから大変そうですね。
・目の難病を患ってます視覚障がい者です。 私は小学生の頃、普通学級で健常者の子たちと学んだり遊んだりしまさしたが中にはイジメてくる子もいました。 が仲良くしてくれた子たちが慰めてくれたりしました。 令和では障がい者に対して冷たいと思います イジメたり嫌がらせしたり酷いと私は思いますインクルーシブ教育はアリだと思います。
・インクルーシブの理想は素晴らしい賛同いたします。問題なのは通常の学習速度に付いて行けるかどうかという最大の問題があります。健常でも学習速度は常にある問題ですから。それによっての学習の差や劣等感等の心の問題もあります。その領域の問題は健常障害に関係のない差ですからね…障害者が通常の教室に入ると付いて行けず問題が多数発生するのはいくつか知ってます。理想だけでは解決できてない難しい問題
・補助員を増やしつつ子供に負担のない様にしながら現実できたら良いと思います。
知的障害の方が授業中どの様な挙動かなど、他の方のコメントを読みながら理想と現実に乖離がありがあり課題が多いように感じましたが補助や介助士を付けることなどで現実に出来る方がこれからの未来良いのだと思います。
また身体的な障害の方の場合、うちの子の保育園にも足が不自由でも大丈夫な様にエレベーターがあったり、補助の先生と補聴器を付けた子がいたり、少しずつ進んできているのではないかとも思います。
子供のうちから身近に障害のある方がいる事で障害のある方の働き方が広がることや、障害理解は特別な事ではなく、高齢者や妊婦さん赤ちゃん連れの方など社会的弱者への配慮や気づきにも繋がり、全ての人の生活の向上に繋がるのではないでしょうか。理想的ではありますが急には難しくてもひとつひとつ解決しながら進んでいって欲しいです。
・理解してほしいのは、国も教員も(もちろん国民も)万能ではないこと。税金は無制限・潤沢に湧いてこないこと。公立学校は税金で運用している以上、予算や効率の兼ね合いからある程度標準的・定型的な教育にならざるを得ないことです。
その中でも障害者に対しては特別支援学級があって教員が通常より手厚く配備され、公費で普通学級では行われない教育や配慮も行ってもらえて、さらに普通学級との交流も用意されてるなど、現実的制約の中でできるだけのことはやっています。
普通学級の児童生徒だって、それぞれ悩みも抱えてるし「こうしてほしいな」ということはありますよ。「悩める」という点では平等です。
標準ではなくオーダーメイドを求めるならば、受験に備えて学習塾に通うように、子供一人ひとりの個性に合わせてくれる私立学校に通うなり親御さん達で理想の学校を経営されてはいかがでしょうか。
・デリケートな事ですが、支援級•支援校に在籍するからこそ受けられるサポートがあるし、定型発達の子どもたちが集まるクラスとある程度の区別化は必要なことだと思います。 色々な障害特性のある子と関わって理解を深めたり接し方を知ること共生することを学ぶことは必要だけど、お世話係のようにになり負担が重くなりつらい思いをする子がでたり、授業どころではなくなる現実があります。 どちらもバランスがとれるやり方でやっていくべきだと思います。
・20代後半の子どもたちが小学校の時は支援クラスもあったが、うちの子の学年は一般クラスで学習しその子に補助の先生がついていた、教科によっては更に全体をみる補助の先生もいて教室に3人の教師がいたりした。田舎で少子化でクラスの人数も少なくてできたことがわからないが。修学旅行も学年行事も一緒に。中学では、支援クラスの子たちは学年行事に名簿が無かったのが疑問でしたが。インクルーシブといっても授業が滞ったり影響があれば無理なのでは…一般クラスでも算数などは習熟度によってクラス分けでの授業をする学校もあり、そうするとこれも差別と感じますか?
・とりあえず現行の日本の教育システムでは難しいと思う。 ランク、クラス分けしたら、低学力等の低ランクと障がい者がインクルーシブになっても、ほとんど変わってない、、、、 優しさや度量は今まで通り個人の能力で良いのでは、、、、 もし積極導入するなら、大人の仕事の世界で、受け入れ能力とか管理力が通常の管理職より数倍高く評価される位メリットが強ければ、 大人の方から学校に取り入れをお願いされると思うし、 今のサラリーマンにとっては、社会で結局弾かれる人と分け隔てずに生活する能力や配慮は社会性として役立っても率先して取り入れ希望にはならないと思う カツカツリーマン達は自分の人生でいっぱいいっぱいなので、当然子供の未来は少しでも良くしてあげたい親心が限界点だと思う。 これが収入も安定、雇用は安定してなくても、転職自由で、貯蓄もしっかりできてる社会なら他者を受け入れる余裕もあるかも。今は無理だよ。
・私も障害者を社会と分けるのは良くは思いませんが、かと言って障害児を通常級に突っ込むのもどうかとも思います。 まず授業内容がわからないからと先生がその子に付きっきりになったり、授業の進み具合を合わせてしまったがために遅れてしまったり、逆にその子を置いてけぼりにして傷つけてしまうのは違うし(これらの例は実際に身近であったことです)、障害がある人が学ぶ権利があるのと同じように、健常者も等しく学ぶ権利があるのです。 やはり学力別でクラス分けして、なおかつ教員の数を増やしたり、負担を減らしたり、待遇をよくしてあげるなどしないと教育の質は上がらないのでは?
確かに健常者も必要な時には障害者に手を貸してあげたり、1人の人間として受け入れて友達になってほしいとも思いますが、いまの日本でこれを求めるのは酷かと思います。 みんな自分の事でいっぱいいっぱいで、余裕を持てないからです。
・インクルーシブって、今の教育体制で少しずつとかやろうとすると、片方もしくはお互いに負担になります。 一旦全部壊して、作り直すくらいのパワーが必要。だから、実現しないと思う。 ただ、分離教育を当たり前を続けてきて、社会に出て、ハイ、障害者も社会人として健常者と同じ仕事しろっていうのは、絶対に無理だとは思います。お互いにです。 合理的配慮如きでそれが出来るなら、分離教育は必要ないはずなので。 だから、分離教育を続けることを選ぶならば、障害者を障害者として一生福祉で面倒をみる選択を推進するということだと思います。
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