( 137901 )  2024/02/10 22:28:49  
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障害を抱えた数矢雄さんが、インクルーシブ教育の必要性に取り組む理由や、自身の経験を語っています。

彼は自立生活を送りながら、昔の学校での苦い経験から教育の問題に取り組んでいます。

また、脳性麻痺を抱える川端舞さんも、学校での過酷な経験を振り返りながら、障害者とLGBTQの連帯イベントを開催しています。

さらに、障害者運動に関わる木村英子さんの経験も紹介されており、障害者の教育や社会への考えを深く探ります。

(要約)

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数矢雄さん 

 

「インクルーシブ教育の実現」を目指す障害当事者が増えている。彼らは「すべてを包み込むこと」を意味するインクルーシブとは遠くかけ離れた環境で、差別や虐待を受けながら育った。そんな思い出したくない過去に必死に向き合いながら、教育の問題に声を上げるのはなぜか。当事者たちの声を追った。(文・写真:ジャーナリスト・飯田和樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 

 

「なんで自分でやるん? 頼めばええやん」 

 

アテンダント(介助者)からかけられた強めの言葉に、当時23歳で自立生活を始めたばかりだった兵庫県西宮市の数矢雄さん(35)は思わず固まってしまった。目の前には、スナック菓子が飛び散らかっている。脳性麻痺の特性で全身に筋緊張があるため思うように体を動かせず、袋を開けようとして中身をぶちまけたのだ。失敗したことで頭がいっぱいになり何も言えずにいると、その場の空気がどんどん悪くなった。 

 

「大学卒業後、自立生活を始めた頃は、こんな失敗ばかり。いろんなものをあちこちでぶちまけました。言語障害があるから、何かを伝えるのに時間がかかるし、聞き返されることに対する恐怖もある。だったら無理してでも自分でやったほうが気を使わなくて済む分だけ、面倒くさくない。自分の希望ってあんまり言ったらあかんとも思っていた」 

 

兵庫県西宮市で開かれたインクルーシブ教育に関するセミナーに参加した際の数矢さん 

 

障害を抱えた人の多くは、自立生活をする上で介助者の存在が欠かせない。ただ、黙っていても介助者が何かをしてくれるわけではない。あくまで何をするかを決定するのは自分自身。やりたいことをするためには、介助者への指示が不可欠だ。でも、数矢さんはなかなかうまく指示ができるようにならなかった。「なぜなんだろう……」 

 

答えが自分なりに見つかったのは2017年ごろ。障害の有無などにかかわらず地域で共に学ぶ「インクルーシブ教育」を広げる取り組みに携わるようになってからだ。勤務先の自立生活センター「メインストリーム協会」の先輩に誘われ、受け身で始めた活動だった。インクルーシブ教育の中身を知るほどに、自分が障害児を健常児から分ける分離教育を受けていたことを実感する。 

 

地域の小学校の支援学級に在籍していた数矢さんは、普通学級の同級生と会話することもなく、一緒に遊びたくても思うように体が動かず輪に入れてもらえなかった。たまに優しい人に声をかけてもらうのを待つばかりで、気持ちを察してもらえるときはいいが、察してもらえないときは我慢するのが当たり前。誰かに何かを頼むことはなかった。 

 

「他の子どもたちと分けられて育ったことが、現在の自分の欠点につながっているのでは?」 

 

 

大学を卒業し、自立生活を始めたばかりの頃は失敗の連続だったという 

 

30歳前後の時期に頭に浮かび始めたその考えは、新たに自立生活を始めようとする、脳性麻痺のある障害当事者と接することで確信めいたものに変わっていく。「彼らの多くは分離教育で育っているんですが、自分と同じように介助者とのコミュニケーションで悩んでいるケースが多いことがわかった。もちろん個人の性格による部分もゼロではないと思います。でも、健常児と分けられたことが影響していることは間違いない」 

 

数矢さんは2月中旬から、1970年代にインクルーシブ教育に舵を切ったイタリアを2週間視察する。かつて日本と同じ分離教育を行っていたイタリアの教室は、今どのような雰囲気になっているのか。「僕自身の小中学校時代と比較することで、何かヒントがつかめると思っています」 

 

奇しくも、数矢さんが視察に訪れるイタリアで障害児だけが通う学校が閉鎖されていった時期は、日本が障害のある子とない子を分ける流れを強めた時期でもある。その流れを決定づけたのが、1979年4月の「養護学校義務化」だった。 

 

戦後しばらく、重度の知的障害者や身体障害者たちの多くは、「就学免除」や「就学猶予」の名の下、教育の現場から排除された。養護学校義務化は、一見、こうした子どもたちに学びの場を与える施策のようにも見える。しかし、障害当事者たちは「障害者を健常者たちと分離するのは社会からの排除で差別だ」と反対の声を上げ、実施直前の同年1月には当時の文部省前で座り込み闘争を行った。その時の様子を撮影したドキュメンタリー映画『養護学校はあかんねん!』の中で、脳性麻痺の女性が次のようなことを語る。 

 

「障害児教育とかいろいろ言われてますけど、じゃあ、教育とは何かと聞きたい。私は、教育とは、人間が人間として、みんなと共に生きぬく(ことだ)と教える場だと思います」 

 

教育は当時から、「共に生きる社会」を築く上で避けられないテーマだった。しかし、その後、教育は障害者運動の最前線になかなか出てこなくなった。数矢さんを活動に誘った先輩で、生まれつき脳性麻痺がある鍛治克哉さん(40)はその理由を次のように語る。 

 

「教育の問題をやろうとすると、おのずと学校時代を振り返ることになる。でも、多くの障害者は、学校時代にあまりいい思い出がない。だからあまりやりたがらなかったんです」 

 

 

障害者と LGBTQ の連帯イベントで、高校時代の同級生と共に壇上に上がった川端舞さん(左) 

 

2023年の秋分の日。東京都三鷹市で障害者とLGBTQの連帯イベントが行われていた。壇上にいたのは、茨城県つくば市で自立生活をしながら「東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)」代表を務める川端舞さん(31)と、群馬県内で性的少数者の居場所づくりなどに取り組む「ハレルワ」代表理事の間々田久渚さん。2人は高校時代の同級生だ。 

 

脳性麻痺のため運動障害と言語障害がある川端さんが、体をよじらせながらイベントを企画した理由を懸命に語り始める。講演内容はプロジェクターで表示されていたが、集まった人たちは川端さんの口から発せられる言葉を直接聞き取ろうと前のめりになった。 

 

「間々田は生まれたときは女性を割り当てられましたが、今は男性として生きるトランスジェンダーです。高校時代、私はそのことを全く知りませんでした。しかし、高校卒業後10年以上経ってから、子どもの頃、お互いにどう生きてきたのかを語り合う仲になりました。話すうちに、障害児とLGBTQの子が学校で過ごしづらさを感じている背景には同じ問題があるはずだと思うようになりました」 

 

東京インクルーシブ教育プロジェクトの代表を務める川端さん。自立生活を送る茨城県つくば市ではライターとしても活躍する 

 

川端さんにとって小・中学校はただただつらい場所だった。小学校入学時に特別支援学校を強く勧められたが、両親の強い希望で地域の学校の普通学級に通う。しかし、地域の学校は障害児がいないことを前提につくられており、幼い川端さんは「障害のある自分は本当はここにいてはいけないんだ」と思っていた。 

 

小学時代は教師に話しかけても聞いてもらえず、クラスメイトに何か手伝ってもらうと「なぜ介助員にやってもらわないんだ!」と叱られた。中学時代には、介助員から虐待も受けた。「小1から中1までの7年間、同じ人が介助員をしていたのですが、中2の時に介助員が代わりました。その頃、初めて生理になり、一人ではできないので新しい介助員にトイレ介助を頼んだのですが、『汚い』『くさい』などと言われてしまった。以後、手伝ってもらうのが怖くなり、一人で壁をつたい何度も転びながらトイレに行っていました」 

 

それでも当時は「障害がある自分が悪い、生理になった自分が悪い」と思っていた。他にも階段から毎日のように落とされたが、こうした異変に気づいて川端さんに事情を聴こうとする教師は一人もいなかった。本気で死にたいと思った。「おそらく当時の私は透明人間だったんだと思います。あのまま自殺したら、存在ごと忘れ去られるような……」と振り返る。 

 

しかし、介助員なしで通学した県立高校で学校生活は大きく変わる。入学前に当時の教頭から「自分からどんどん友達に手伝ってもらいなさい」と言われ、「手伝ってもらっていいのか」と驚いた。通学し始めると、小中学校時代と違って教師は直接話しかけてくれたし、クラスメイトとの距離も縮まった。間々田さんもその一人だ。 

 

 

高校、大学を卒業し、障害者運動に関わるようになったとき、障害者が他の人と同じように生活できないのは障害者がいる前提で社会がつくられていないからだ、という「障害の社会モデル」の考え方を知った。今では世界的常識の障害理解に触れたことで、「障害がある自分が悪い」と思い込んでいた自分を客観的に見られるようになった。 

 

海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いの会場に飾られた彼女の写真 

 

さらにその頃に出会った海老原宏美さん(2021年12月、44歳で死去)が川端さんに大きな影響を与える。海老原さんは全身の筋肉が徐々に衰えていく進行性の難病だったが、車椅子や人工呼吸器を使いながら地域で自立生活を送り、テレビや全国各地の講演、書籍などで積極的にインクルーシブ社会の実現に向けたメッセージを送り続けた。特にインクルーシブ教育の推進に熱心で、2017年6月にTIPを立ち上げた人でもある。 

 

海老原さんは「いいことも悪いことも、他の同級生と同じように経験していくのが権利なんだ」と川端さんに教えてくれた。「舞ちゃんが苦しかったのは普通学級にいたのが悪かったんじゃない。学校が統合教育で、舞ちゃんが過ごしやすい環境になっていなかったのが悪かったんだよ」とも話してくれた。 

 

海老原さんの数々の言葉は、川端舞さんをはじめ多くの人々に影響を与えた 

 

川端さんは、小中学校時代を振り返り、後悔の念におそわれることがある。 

 

「私は普通学級で『頑張り屋さん』と言われて育ちました。でも、無理して頑張ったことで、もしかしたら後の世代の障害児たちに、頑張らないと普通学級に行けない環境を押し付けてしまったのではないか、と申し訳ない気持ちになります。普通学級に行くのは障害児の当たり前の権利なのに……」 

 

だからこそ、今は他の障害者が生きやすい社会をつくるために活動したいと強く思う。 

 

障害者とLGBTQの連帯イベントは、川端さんと間々田さんが同じ教室で過ごしたからこそ実現したものだ。 

 

「いろんな同級生に出会うって本当に大きなこと。最近改めて思っています」 

 

海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いにオンライン参加した木村英子さん(スクリーン左) 

 

「18歳まで同じ年の健常者の友達は地域にいませんでした。幼い頃の時間は大人になって取り戻したくても取り戻せません」 

 

2023年12月16日、東京都立川市で海老原宏美さんの志を引き継ぐ集いが開かれた。オンラインで参加した参議院議員の木村英子さん(58)は、スクリーン上でインクルーシブ教育の必要性を語っていた。 

 

1965年に横浜市で生まれた木村さんは、8カ月の時に歩行器ごと玄関に落ち、首の骨を損傷。後に脳性麻痺があることも分かり、施設に入った。以後、短期間自宅に帰った時期はあったが、18歳まで施設と養護学校で過ごした。 

 

「私はほとんど社会を知らずに育ちました。子どもの頃は、自分の命を支えているのは親と施設の職員しかいなかった。父には『やっぱり自分が死ぬ時にこの子を連れて行かなければ』と言われました。だから中学の時まではずっとそう思っていました。親が死ぬ時に一緒に死ぬ。それが私の人生なんだと」 

 

 

 
 

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