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2004年に東横線が横浜~桜木町間を廃止し、横浜高速鉄道「みなとみらい線」への乗り入れが始まった。

20年が経った今、若い人々は当時の東横線の存在を知らないかもしれない。

横浜の中心地としてみなとみらいがイメージされるが、歴史的には神奈川宿や関内も中心地として栄えた。

横浜駅周辺の開発が進む中、みなとみらい計画が1985年に浮上し、横浜線との直通運転を想定した「みなとみらい21線」が計画されたが実現せず、東急が新たなパートナーとして選ばれた。

(要約)

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Photo:PIXTA 

 

 横浜高速鉄道「みなとみらい線」への乗り入れ開始に伴い、東横線が横浜~桜木町間を廃止したのが2004年1月30日。今年はそれから20年となる。今回は桜木町を起点に東横線とみなとみらい線の歴史を見ていこう。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也) 

 

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● 横浜の中心地はみなとみらい? 歴史的に見た「2つの中心地」 

 

 東横線横浜~桜木町間が2004年1月30日に廃止されて20年となる。東横線は翌々日2月1日から横浜高速鉄道「みなとみらい線」への乗り入れを開始して現在に至るが、20年もたてば、若い人は東急東横線が桜木町発着だったことを知らないかもしれない。 

 

 若い人に「横浜の中心地は?」と問えばかなりの割合で「みなとみらい」と答えるそうだ。横浜ランドマークタワーや横浜赤レンガ倉庫をシンボルに、庁舎、オフィス、商業施設、ホテルなどの高層ビルが林立し、大規模展示場やテーマパーク、ミュージアムまで、みなとみらいには何でもそろっている。国内の臨海地域再開発事例の中でも、施設の多様さと密度においては随一ではないだろうか。 

 

 みなとみらいの再開発事業は1960年代に方針が示され、1980年代から本格化したが、一帯はそれまで埠頭や工場地帯だった。その時代に中心地を聞けば横浜駅西口と関内が挙がっただろう。 

 

 西口は戦後、開発が進んだエリアだが、関内は横浜の成り立ちそのものといえる街である。そして桜木町は関内の玄関口として横浜の鉄道の中心で常にあり続けた。今回は桜木町を起点に東横線とみなとみらい線の歴史を見ていこう。 

 

 現在の横浜駅がある場所は江戸時代まで入り江で、埋め立てが進んだ後も、大正期まで現在も地名に残る「平沼」という沼地が残っており、埋め立てられた後も石油精製工場が置かれていた。 

 

 歴史的に見れば横浜周辺には二つの中心地があった。一つは東神奈川駅付近にあった、東海道第三の宿場町として栄えた神奈川宿。もう一つが幕末に開港した横浜港の外国人居留区を中心とした関内だ。関内とは「開港場」の内側という意味である。 

 

 1872年に新橋~横浜間で開業した日本初の鉄道は、神奈川宿付近に「神奈川駅」を設置。終点の「横浜駅」は横浜港への貨物輸送に適した、関内への玄関口にあたる現在の桜木町駅の場所に置かれた。以降、最初の横浜駅を「初代横浜駅」と記す。 

 

 

● 「初代横浜駅(現桜木町駅)」から 今の「3代目横浜駅」ができるまで 

 

 開業から30年以上が経過した1906年の地図を見ると、神奈川駅付近と初代横浜駅から伊勢佐木町の辺りまで市街地(黒い部分)が広がっているが、現在の横浜駅周辺は依然として大きな沼地が残っている。破線で囲んだ後のみなとみらいは、まだ海の底だ。 

 

 しかし横浜港に最適化した初代横浜駅は、鉄道網の拡大とともに問題に直面していた。当初、政府は東京~大阪間を中山道ルートでつなぐ予定で、新橋~横浜間は支線の扱いだったのだが、1886年に東海道ルートに変更したことで、行き止まりの横浜駅の扱いに困ってしまったのだ。 

 

 やむなく横浜駅で折り返し(スイッチバック)運転を行ったが、列車の方向を変えるには機関車の付け替えが必要で、輸送のボトルネックになる。そこで横浜駅を経由せず西に向かう短絡線を設置し、横浜付近の利用者向けに「平沼駅」が開設された。だが当時の地図を見ればわかるように駅周辺は沼と畑が広がっており、玄関口には不適だった。 

 

 そこで1915年に線路を南に移し、現在の市営地下鉄高島町駅の北側に二代目横浜駅を設置。平沼駅を廃止して、初代横浜駅を桜木町駅に改称した。だが二代目も短命に終わる。1923年の関東大震災で横浜の街は焦土となり、横浜駅も桜木町駅も焼失してしまったのだ。 

 

 震災復興計画の一環で横浜駅は、ちょうど埋め立てが完了したばかりの平沼の中心に移設することになり、1928年に二代目横浜駅は廃止され、三代目横浜駅が開業した。これで東海道本線と桜木町行きの京浜線電車(現在の京浜東北線)の両方が停車できるようになった。 

 

 同時に横浜駅から近い神奈川駅は廃止となった。それまで神奈川駅をターミナルとしていた京浜電気鉄道(現在の京急電鉄)や、終点を神奈川駅にする計画だった東横線は、横浜駅への乗り入れに向けて計画を変更していく。神奈川駅は現在、京急線の駅としてのみ存続している。 

 

 

● 1985年に浮上した みなとみらい地区の鉄道計画 

 

 ようやく安住の地を見つけた横浜駅を中心に、横浜の鉄道網は急速に形成されていく。1928年に東横線、1929年に京浜電気鉄道、1933年に神中鉄道(現在の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れた。この他、1931年には湘南電気鉄道との連絡線(横浜~黄金町間)が開通して直通運転を開始し、後に両者は合併して京急電鉄となる。 

 

 1931年の地図を見ると市街地は、北は東神奈川駅周辺から南は黄金町駅周辺まで広がっているが、横浜駅周辺は西口に広大な資材置き場、東口に造船所と貨物駅が広がる空白地帯だ。横浜駅は鉄道各線を集約するため、広大な空き地に建設された、人工的なターミナルだったのだ。 

 

 こうして昭和戦前期に現在の鉄道網の原型はできるが、横浜駅周辺の開発が始まるのは戦後のことだ。西口駅前は戦中、戦後を通じてしばらく資材置き場のままだったが、1952年に相鉄が一帯を買収し、西口の大規模開発に着手したのである。 

 

 1950年代末から1970年代にかけて横浜高島屋やダイヤモンド地下街、横浜ステーションビル、ジョイナスなどを次々と開業させて街の様相は一変。相鉄の経営基盤を確立し、神奈川の一地方鉄道を大手私鉄の一角に押し上げた。 

 

 横浜駅周辺の開発と歩みを同じくして横浜市は人口が急増し、東京のベッドタウン化が進展した。市は横浜駅周辺と関内周辺の機能を一体化した新たな業務集積地の建設が必要と考え、造船所と貨物駅を移転し、跡地にビジネスセンターを建設する「都心部強化事業」を1965年に発表した。これがみなとみらい計画の源流だ。 

 

 みなとみらい地区に鉄道計画が浮上したのが1985年の運輸政策審議会答申第7号だ。1983年に三菱重工横浜造船所の移転が完了して事業着手したことを受け、2000年をめどに整備すべき路線として「みなとみらい21線」を追加したのである。 

 

 

● 横浜線との直通運転を想定した 「みなとみらい21線」 

 

 ただし、この「みなとみらい21線」は現在のものとは異なり、東神奈川駅で国鉄横浜線との直通運転を想定していた。横浜市を縦断し、新横浜を経由する横浜線は市としては都合の良い案だったが、民営化前後ではすぐに着工できる状況になく、みなとみらいの開発を急ぎたい横浜市は待っている余裕がなかった。 

 

 横浜高速鉄道にも出向していた元横浜市都市整備局鉄道事業担当理事の太田浩雄氏は、2022年2月16日に行われたNPO法人田村明記念・まちづくり研究会の公開研究会で、横浜線との直通を断念した後、京急や相鉄、東急などさまざまな方面に当たったと明かしている。 

 

 横浜線とみなとみらい線の直通は国鉄民営化でご破算になり、JRから断ったと受け取られることがあるが、実際は横浜市から断りを入れたそうだ。太田氏は「横浜市が東急に決まってから、私、JRの会社へ行ったけども、はっきり言ってカンカンでしたね。要するに、仁義、切ってないと。横浜市が仁義を切ってなかった」と語る。 

 

 その上で「JRとしては嫌だとは言わないよ。それは国鉄が切り替わって、すぐはできないけども、利権だよ。利権を、だって放棄するわけがないじゃない」と、微妙な駆け引きとすれ違いがあったと振り返っている。 

 

 結局、東急が新たなパートナーに決まるが課題も多かった。東横線の横浜駅は高架で東海道線を乗り越していたが、みなとみらい線につなぐには地下化が必要だ。横浜駅だけ地下化はできないので、東白楽駅から地下化する大規模な造り替えを行った。 

 

 高架下店舗の立ち退き、高架線の撤去費用、廃線に反対する野毛地区との協議、新線建設で生じるさまざまな費用について、横浜市と東急、横浜高速鉄道が協力して対応した。そうして2004年2月1日、横浜高速鉄道みなとみらい線は構想から約20年で開業を迎えたのであった。 

 

 桜木町からみなとみらいへ、2004年の大転換は、横浜150年の歴史を象徴する出来事だったといえるだろう。 

 

枝久保達也 

 

 

 
 

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