( 142283 ) 2024/02/23 22:28:37 0 00 撮影:栗原洋平
『未成年』『聖者の行進』など1990年代に数々の高視聴率ドラマに出演してきたいしだ壱成(49)。プライベートでは3度の結婚、離婚で世間を騒がせてきた。約10年半に及ぶ石川県での生活を終え、2022年に再び東京に戻ってきた彼は今、何を思うのか。地方移住の理想と現実、そして手に入れたものとは――。父親の石田純一との関係についても赤裸々に激白した。(文:岡野誠/撮影:栗原洋平/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
撮影:栗原洋平
「小さい頃から山梨県の八ケ岳や鹿児島県の屋久島などを転々として、自給自足の生活をしていた時期が長かった。だから、物質的な東京での生活にずっと違和感を持っていました。ちょっと都会を離れたくなったんです」
36歳の2011年秋、いしだ壱成は石川県と東京の2拠点生活を始めた。住み始めたのは金沢市からクルマで40分ほど離れた、白山市鶴来という小さな街だった。
「月4万円で2DKのアパートを借りました。すぐ近くに、僕の大好きな白山比咩神社があったのも決め手になりましたね」
自然に恵まれ、人も温かく、家賃も安い。田舎暮らしには多数のメリットがある。一方、都会からの移住者は仕事の問題に直面しがちだ。壱成もその悩みにぶつかった。
「ドラマや映画は主に東京で撮影される。石川で演技のワークショップの講師もしていましたが、それだけでは生活できない。地元のテレビ局を中心に活動できるかと言えば、それも難しい。ギャラの相場は東京からタレントをゲストに呼ぶと1回8万円前後らしいのですが、毎週のレギュラーで起用すると1回1万5000円くらいに下がる。芸人さんと違って、ショッピングモールの営業などに行けるわけでもない。結局、仕事は東京、生活は石川となって移動費がかさみました」
撮影:栗原洋平
地方移住をきっかけに波瀾万丈の日々が“再び”始まった――。思い返せば、壱成は幼少期から激動の人生を歩んできた。1974年、学生結婚をした石田純一の長男・一星として誕生。2歳の時、両親が離婚。母と暮らしていた小学1年生の頃、何げなくテレビを見ていると、「これがお父さんだよ」と教えられた。父との再会は16歳の時、突然訪れた。
「(純一の姉で歌手の)桃子さんのコンサート終わりに、少し挨拶を交わしました。父がトレンディードラマに何本も出ていた頃でしたから、芸能人に会うような気持ちでしたね。父という感覚は全くなかった。今後もあまり関わらないだろうと思っていました」
予想は見事に外れた。翌日から、純一は壱成を毎日のように誘った。ドラマの撮影現場に連れて行き、終わると食事を共にした。だが、大スターを前に壱成の緊張は解けないままだった。ある日、焼肉屋の個室でカルビを焼く音だけが響く中、父が急に切り出した。
純一:将来どうするの? 壱成:いやあ、バンドマンとかですかね。 純一:芝居は興味ないの? 壱成:寺山修司は大好きです。『天井桟敷』のようなアングラ劇団とか。 純一:やってみたいと思う? 壱成:まあ、そうですね。全然考えてないですけど、やってみたいとは思います。 純一:いやいや、テレビに出ようよ。
この一言がきっかけで、壱成は芸能界に入った。
「父は劇団での活動が長く、食えない時代が続いた。親心で、そう言ってくれたのだと思います。そこで父の個人事務所に入りました」
撮影:栗原洋平
純一は、『北の国から』などを手掛けていたフジテレビの山田良明プロデューサーを紹介した。92年、壱成は観月ありさ主演のドラマ『放課後』で人気を得る。翌年、最高視聴率37.8%を記録した『ひとつ屋根の下』にも出演し、一気にスターの階段を駆け上がった。
「でも僕の中で、父は仕事の先輩、事務所の社長だった。ビジネス目線で見ていたから、『純一さん』と呼んでいましたし、ずっと敬語でした」
CDデビューも果たし、94年には『WARNING』がヒット。翌年の主演ドラマ『未成年』(TBS系)は平均視聴率が20%を超えた。しかし、『ひとつ屋根の下2』の撮影を控えた97年初頭、突如としてうつ病が襲った。幼少期から自己肯定感の低い“実像”星川一星は、歌も芝居も完璧な“偶像”いしだ壱成とのギャップに耐えきれなくなっていた。
「現場に出ても誰ともしゃべれず、すぐに楽屋に引き返していました。当時はうつが理解されていない時代でしたから、何か様子がおかしいなくらいの印象だったと思います」
撮影:栗原洋平
順風満帆な芸能生活の歯車が狂い始める。01年8月、大麻取締法違反で逮捕され、活動休止に。プライベートでも結婚、離婚を繰り返した。そして、石川との2拠点生活が8年目を迎えていた18年4月、24歳年下の女優との3度目の結婚、相手の妊娠をきっかけに石川への完全移住を決めた。
地方での芸能活動は難しいと実感していた彼は、一般社会で働く覚悟を決めた。完全に芸能活動をやめ、職安にも通い、コンビニや工場のライン工など片っ端から様々な職種に応募した。鶴来の近隣住民たちからは、「冗談でしょ?」と驚かれたが、本気だった。だが、どの仕事も受からない。20社以上申し込んだものの、書類の通過は5社程度にとどまった。
職が見つからない。家では小さな子どもが待っている。自分は何をしているのか――。壱成は強い自責の念に駆られた。
「水を飲む時でも、『全然稼がずに家族につらい思いをさせているのにいいのか』と悩んでいた。何かと理由をつけて、自分を悪く考えてしまう。家から出るのも恐怖でした。田舎の小さな街で近所の人はだいたい顔見知りだから、『最近元気ないね』と思われたくなかった」
かつては過ごしやすいと感じていた鶴来という街も、うつ状態の彼にとっては圧迫感を与えるものになりつつあった。毎朝、目が覚めると「今日も起きてしまった。まだ生きている。どうやって死のう」と頭に浮かんだ。友人の勧めもあり、生活保護を受給し始めたが、SNSでは大バッシングが起こった。
撮影:栗原洋平
「数カ月間、毎月12万円ほど受給したのかな。のちに、そのお金は返しました。世間的に、生活保護に対するイメージは良くないですよね。うつも同じですが、『甘えるな』『言い訳するな』と考える人はまだまだたくさんいます。その空気は人を追い詰めてしまう」
光の見えない絶望的な状況の中、壱成はほんの少し意識を変えた。
「自分を客観視したんですね。うつにも周期がある。僕は双極性障害という躁うつ病で、季節によって気分が変わるんです。6月頃にガーンと上がって、8月頃にドーンと下がる。10月頃にハイになって、12月頃にまた落ちる。自分のパターンを知ったことで、『今は落ちてるけどまた上がるな』と思えたんです」
うつと真正面から向き合うのではなく、上手に付き合うことで少し気持ちがラクになった。
撮影:栗原洋平
3度目の離婚をして数カ月経った22年春、壱成は石川から東京へ生活拠点を戻した。トルコでの植毛を話題に、5月には『ワイドナショー』(フジテレビ系)にゲスト出演。カメラが回ってない時、松本人志がこんな言葉をかけた。
「壱成君もね、今までいろんな苦労してきて、大変だったと思う。でも、その経験は必ず役者としてのスパイスになる。演技に投影されることを楽しみにしています」
気づくと、壱成の目から涙が溢れていた。
「『うつになって良かった』と思いました。自分でも苦労は演技に生きると考えてきたけど、松本さんの言葉で確信を持てた。今も心の支えにしています」
東京へ戻った頃から、頻繁に父から連絡が来るようになった。純一の妻・東尾理子なども含めて会合を重ね、徐々にわだかまりが解けていった。
「過去の件は時効だと思いますし、非難しても何も始まらない。もともと、父のおかげで芸能界に入れて、良いこともたくさんあった。それに、お互い大変ですしね(笑)」
撮影:栗原洋平
数カ月前、仕事の打ち合わせをしていると、自然とある言葉が壱成の口から漏れた。
「生まれて初めて『パパ』と呼びました。(純一は)一瞬、間があって『おお、おお』と戸惑いながらも、うれしそうでした。それ以降、電話でも『パパだよ』と自分から名乗るようになって、僕も『ああ、パパ』と返事します。自分でもビックリしましたけど、言葉にするとしっくりきました」
49歳になった壱成は、前を見据えながら、ゆっくりと歩き出している。昨夏の舞台『呪怨 THE LIVE』では多重人格のキャラクターを演じ、千秋楽には当日券を求める行列ができるほどの評判を呼んだ。
「いろんな経験が、役者としてプラスに働いていると実感しました。石川の人たちは温かかったし、いい思い出もたくさんある。今は地震の影響でエンタメを楽しめるような状況ではないと思いますが、いずれ石川を舞台にした映画や演劇ができたらなと考えています。それが少しでも復興の一助になれば、こんなにうれしいことはありません」
人生、悪いことばかりは続かない。谷が深ければ、そのぶん山も高くなる。地方移住を経て、壱成は役者として大きな財産を手に入れた。今、心からそう確信している――。
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