( 145340 ) 2024/03/03 22:16:55 2 00 「これは地獄だ」 想像もしなかった万人単位の死、最前線で向き合った人々 #知り続ける朝日新聞デジタル 3/3(日) 17:00 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/bc8b994fbda5f331d80979055ec11747ac04e590 |
( 145343 ) 2024/03/03 22:16:55 0 00 震災の犠牲者名が刻まれた碑に触れる男性=2015年3月11日、仙台市若林区、日吉健吾撮影
直接の死者数は1万5900人、今も2523人が行方不明のまま――。東日本大震災は戦後の災害史上、最悪の規模となった。想像もしなかった「大量死」に、最前線で向き合った人々がいた。(敬称略)
【写真】震災の2日後、宮城県東松島市で見つかった遺体を運ぶ自衛隊員
元宮城県警本部長の竹内直人さん=2023年9月12日、東京都内、吉田耕一郎撮影
「1万人 地獄 これから本番」 大津波が東北沿岸部をのみこんで、一夜明けた2011年3月12日朝。 宮城県警本部長だった竹内直人(66)は、手帳に緑色のペンで、そう書き込んだ。 この時点で報告されていた県内の死者数はわずか。警察、消防、自衛隊が、懸命の救出作業を始めていた。だが津波の映像を目の当たりにし、救助を求めて殺到する110番の入電状況を聞いていた竹内は、前例のない数を予期した。 県警の幹部会議で告げた。「これは地獄だ」
雪の中、行方不明者を捜索する自衛隊員=2011年3月16日、宮城県南三陸町、西畑志朗撮影
前日のうちに編成された検視班16班が、仙台市中心部にある県警本部を出発した。総勢約200人。自然災害による死とはいえ、変死として死因や身元を調べる必要がある。 検視をする遺体安置所にはまず、県内で一番大きい利府町の県総合体育館が確保された。県庁の災害対策本部会議で、竹内は追加を強く求めた。「当該場所は、大きければ大きいほどよい」 安置所の設置は一義的に市町村の仕事だが、事前に安置所の候補地を決めていた自治体は皆無。代わりに県教育庁が、県立学校の体育館などをリストアップした。いくつかは住民の避難所と重なり、変更を迫られた。 いったい、遺体はどれだけの数になるのか。 県警はこの日から、住民から行方不明者の情報を受けつける「相談ダイヤル」を設けた。臨時回線を最大50本引き、オペレーターには県警の事務職員らを招集した。捜している人の名前や身体の特徴を聞き取り、エクセルで表にしてゆく。 行方がわからない人の全体数をつかめれば、このあと何人を捜し出し、検視の人員や場所をどれだけ確保すべきかがわかる。竹内のアイデアだった。 ことは簡単ではなかった。友人や知人に電話が通じないだけで問い合わせてくる人が殺到し、エクセルはやがて数万人まで膨らんだ。
地震発生直後、宮城県庁で開かれた第1回災害対策本部会議=2011年3月11日、仙台市青葉区、宮城県提供
12日夜。 壊滅状態とされた県北部の南三陸町の情報が、ようやく県庁に入ってくる。「避難所に7500人がいる」。町の人口1万7600人から差し引いた数字が、「南三陸町で1万人安否不明」とのニュースになって発信された。衝撃が駆け巡った。 何もかもが足りない――。竹内は焦りを募らせた。 水が引かない場所で遺体を運ぶボート、検視に使う注射筒、ゴム手袋、照明、死体検案書を書く医師、身元確認用に歯を調べる歯科医師。本来なら補充の要望を警察庁に上げ、関係省庁に手配してもらうのが、官僚機構のしきたりだ。 だが、待てなかった。 13日午後、東京から駆けつけた内閣府副大臣や省庁職員らが出席する県の本部会議で、SOSを発した。 「遺体は万人単位になるのは必至。装備資機材や医師が大至急必要だ」 南三陸のニュースも念頭にあった。だが数字に確たる裏付けはない。発言は竹内の意図を超え、「万人単位」の大見出しになって、翌日の新聞の1面に載った。
清月記社長の菅原裕典さん=2023年8月8日、仙台市宮城野区、石橋英昭撮影
仙台市に本社がある葬儀会社・清月記の社長、菅原裕典(63)は、11日の地震直後、取引先だった高松市の棺(ひつぎ)メーカー大手に電話をかけた。「とりあえず棺を1千本、届けてくれないか」 翌12日朝、同業者や県の担当課と打ち合わせを持つ。副理事長を務めていた県葬祭業協同組合は、震災の数年前、葬祭用品を供給する災害協定を県と結んでいた。1995年の阪神・淡路大震災で応援に赴いた経験のある菅原が、提唱した。しかし、零細企業が多い地域の葬儀業者には、棺のストックはほとんどなかったのだ。
遺体安置所となった宮城県総合体育館。棺の上に、衣類などを入れた袋と花が置かれている=2011年3月18日、宮城県利府町、高橋正徳撮影
四国から第1便の棺134本が届いたのは、13日。清月記の葬祭会館の一つを基地にして、各地にできた安置所に配送した。 社員の西村恒吉(50)も担当した一人。トラックで運んだ先の安置所では、納棺を手伝った。検視が終わった遺体が床に並ぶ。まぶたを閉じ、腕を整え、額や頰にごく簡単な化粧を施した。 そんな余裕のない安置所も少なくなかった。日がたつと、死に化粧すらできない遺体が増えてゆく。同じ災害で亡くなったのに――。 「死はなんて不平等なんだ」。西村は思った。
宮城県食と暮らしの安全推進課課長補佐だった武者光明さん=2024年2月14日、仙台市青葉区、石橋英昭撮影
さらに深刻なのは、火葬場が絶対的に足りないことだった。 県内には27の火葬施設があったが、津波や揺れで壊れた所や、燃料や電気が途絶えた所があり、一日に火葬できるのは15日時点で計50体ほどだった。身元がわかって家族に引き渡されても、遺体の行く先がなかった。 「ある首長が『土葬にしたい』と言ってきた。調べてくれ」 県庁で埋火葬を担当するのは、食と暮らしの安全推進課。課長補佐だった武者光明(59)は、「えっ」と上司の指示を聞き返した。
仮埋葬される犠牲者に別れを告げる人たち=2011年3月22日、宮城県東松島市、長島一浩撮影
日本の法律は土葬を禁じておらず、場所によって数十年前まで当たり前だった。部下がネットで奈良県に土葬習慣があった地域の例を見つけ、奈良県庁にも相談をして、土葬マニュアルをつくった。各市町村に流したのは17日だ。 「冷たい水の中で亡くなった人を、また冷たい土の中に入れるなんて、つらい」 ただし、この時はあくまでも「土葬」の想定。いったん地中に眠らせた2千体以上の亡きがらを、すぐ掘り返すことになると、武者は思いもしなかった。
宮城県内の死者・行方不明者数は、最終的に計1万757人。県警本部長・竹内の予想は不幸にも的中した。 竹内は「ご遺体を家族のもとに帰すことが、次への一歩になる」とした上で、警察と市町村との連携や、行方不明者の情報把握の点で課題があったと話す。 今年1月に発生した能登半島地震で直接死は200人以上に上り、東日本大震災後の地震災害では最多となった。切迫しているとされる南海トラフ地震では最悪32万人超、日本海溝沿いの巨大地震では19万人超、首都直下型地震なら2万3千人の死者が出ると、政府は想定する。 震災後、自治体の地域防災計画は大幅に改定され、安置所の候補地や遺体を扱う分担、手順について、細かく書かれるようになった。大災害時に火葬の余力がなくなった地域から、他の地域に遺体を運ぶ広域火葬計画も、全都道府県で策定された。 ただ、どれだけ死者の尊厳を守れるかは、起きてみないとわからない。 災害には、対策を重ね、犠牲をゼロに近づけることが第一で、「大量死」への備えは語りにくいテーマだ。それでも、千、万単位の犠牲は起きうる。 私たちに、向き合う覚悟はできているだろうか。
(この記事は、朝日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です)
朝日新聞編集委員・石橋英昭
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( 145344 ) 2024/03/03 22:16:55 0 00 ・当時千葉にいて東日本大震災を経験しましたが、地震のあとテレビを見ていて、津波の映像が流れていて、どうかこの津波から逃げてください、助かってくださいと、願っていました。今は映像がすぐにテレビで放送されて、でもとても胸の潰れる思いに捉われることがあります。現地で被災された方々、捜索やご遺体に携わられた方々の思いを無駄にしないように、備えていかなければいけないですね。
・当時、津波被害の全容がわからず、暗くなってからの「自衛隊からの一報」として、「荒浜沖に数百体の遺体らしきものを発見」とNHKのアナウンサーが伝えたときに戦慄したのを覚えている。 それ以外にも火災に巻き込まれてしまった人、家屋倒壊や土砂崩れによる自動車事故で亡くなられた方もいる。 それをお一人お一人収容して、特徴をまとめ、ご遺族一人一人に確認していただいたということなんだろう。 これを「地獄」と言わず何というか、という話はよくわかる。 仲間や家族で亡くなられた人もいる中、初動で対応された警察、消防、自衛隊の方には改めて感謝。
・シミュレーションにおける南海トラフ地震の犠牲者32万人はどこに収容し、どこで荼毘に付すのだろうか?政府はその辺の対策は考えているのだろうか? 津波に流された人が全員短期間で発見されることはないので、長い時間をかけて多くの人が捜索に当たる必要があるが、人的リソースもままならないだろう。支援・救援にも大人数の人出がいるし。東日本大震災よりも甚大な被害が予想される南海トラフ地震は人々の予想を遥かに超えた未曾有うの震災となるだろう。最近の各地の揺れを見るとその時は迫っている気がする。
・会社の人の田んぼに3人の遺体が流れ着いていたそうだ、その内の1人は知っている人だったと本人から聞いた。 私自身も海岸で発見した骨を警察に届けて新聞にも乗った。後で会社の人の親戚で不明になでていた人と会社の人から聞いた。 慣れとは怖いもので、おそらく遺体を見てもそれ程驚かないと思う。13年前には考えられなかったことだが。
言えるのは、深呼吸をして、なるべく冷静に、どうすべきかを考える。パニックを起こさないようにしないと、更なる二時被害を招いてしまうのは避けなければいけない。
・私も当時に応援要員として非常呼集され従事させて頂いておりました。まさに地獄とはこの事か、と驚愕した記憶があります。グロテスクな表現で申し訳ないですが、圧迫され頭部の無いご遺体や津波被害で海水でパンパンに膨れ上がったご遺体、急流で切断されたであろう手足が散乱し、私も当時は泣きながら救助活動をしておりました。今でも忘れられません。自然災害は必ずにいつでも起きる得る事です。我々はそれに備える行動や準備、訓練をするしか方法はありません。我が家でも災害時には役割分担を含め、家族会議で常に行動は約束事として決めております。皆様もぜひ、能登半島地震もありましたから、今一度に緊急時の対策をご家族でお話しして下さい。
・ちょっと待て。 「万人単位」とか「大量死」とか、言葉を慎め。 そのお一人お一人に命があり、家族がいる。 いまだ見つからない方もいる。 この記事を書いて掲載した方々の感覚が信じられない。
・2011年、当時私は44歳でしたが、人生であんなに泣いた事はなかった。毎日被害のニュースを見るたびに涙が止まらなかった。当時、大阪に住んでいて、東北に親類がいたわけでもなかったが、毎日悲しくて、辛かった。亡くなられた方々の遺体が収容されている場面の写真を見て、毎日泣いていた。なぜ、あんなに泣いたのかわからないけど、今でも当時の思いが蘇ることがある。
・当時自衛官で、災害派遣部隊の作戦幕僚として従事しました。あの時の光景は今でも夢に見ます。 その後転職し自治体の防災担当になった時は、タブー視されていた(というか恐らく想像も出来なかった)大量のご遺体の取り扱い等についてマニュアル化を進め、覚悟を促しました。 次の大災害は必ず来ます。その時に一人でも多くの人が救われるように、個人から国家のレベルまで備えを進められればと思います。
・東日本大震災の壮絶な影響について、直接的な死者数が1万5900人に上り、今も2523人が行方不明という事実は、改めてその凄惨さを思い知らされる。最前線で対応した人々の行動や判断は、想像を絶する状況の中での苦渋の決断を示している。特に、「1万人 地獄 これから本番」と記された手帳の言葉は、その時の絶望感を如実に伝えている。
震災後の日本では、防災計画や広域火葬計画の策定など、備えが進んでいるとはいえ、政府が想定する南海トラフ地震や首都直下型地震などの大規模災害が現実のものとなれば、再び「大量死」に直面する可能性がある。 災害への備えという観点だけでなく、人々が失われた命にどう向き合い、どう尊重していくかという課題にも、改めて目を向ける必要があるだろう。大災害に対する覚悟とは、ただの物理的な準備を超えた、もっと根本的な人間としての備えを問われているのではないか。
・実家が仙台市で震災発生時は連絡が取れず、最悪の事態も想定しながら週末を過ごした記憶があります。その後両親の無事を確認できたので食料物資を持って震災十日後に高速バスで現地入りをしました。周辺を自転車で見て回りましたが津波に襲われたところはこの世の地獄のような風景で、近所のボーリング場が遺体安置所になっており暗澹たる気分になったことを昨日のように思い出せます。しばらく現地に滞在すると感覚が麻痺してしまって瓦礫も曲がった電柱もひっくり返った車を見ても平気になってしまっている自分に気づいてしまい順応するって怖いなと思ったものです。
・私も地震後すぐに、いてもたってもいられず 仲間と食料品や日用品などを購入しトラックに 積めるだけ積めて被災地に赴いたが まさに地獄のような風景に呆然とした。 しかしそんな世紀末のような状況の中 被災者の方々は凛として逞しく 互いに励まし合いながら生きておられました。 あの時の陸前高田市や気仙沼市の風景は 忘れられません。でも避難所で避難を余儀なく されていた被災者が喜んでくださった姿と その時だけでもみせてくださった笑顔は 私の心の財産としてしまっています。 まだ陸前高田や気仙沼にはその後 悲しくて行けてませんが今年は2つの街に 伺って復興の姿を目に刻んでこようと思っています。
・震災翌日、海岸線に週百の遺体が確認できると報じられ、被害の大きさに言葉がなかった。 前日暗闇の中海岸沿いで大規模な火災を映し出していたが、阪神淡路大震災を思い出した。 人は自然の脅威の前では無力と感じてしまうが、その後復興させるのは人間であり、日本の歴史から、このような災害のたびに復興させてきた先人の方には頭が下がる思いと共に、最前線で向き合った方々の存在は忘れてはならない。
・自分も悲しくて悲しくて、涙が止まりませんでした。家族を探す人、どうして自分だけ生き残ってしまったんだと、涙ながらに語る方、子供のことを心配する親御さんなどなど。 あんな辛い災害を受けても、生きていかなければならない辛さを実感しました。自分ならその状況に耐えられるだろうかと自問自答しました。 この記事では、自分の知らなかった別の過酷さがわかりました。個人で準備できるものには限度があるし、命を支えていくためには国が本格的にお金を使って準備していく必要性を感じました。 そういう中で、くだらない責任追及ばかりして身の保身しか考えていない議員のニュースにうんざりです。もっと、国民のために働ける議員に焦点を当ててほしいです。
・当時仙台市泉区に住んでいました。情報がない中、ラジオで荒浜に遺体200体という情報が流れた時、事態の深刻さを初めて知りました。数日後、泉消防署に長崎佐世保消防と書いた消防車があり、わざわざ長崎から救助捜索に来てくれたのか!と驚いたのを覚えています。佐世保消防の方々は消防署の駐車場に野営されていました。自宅のガス復旧は静岡ガスの方が一軒一軒チェックしながら開通してくれました。同業が損得なしに同業を助ける姿を見て、その道のプロの誇りと責任感を強く感じました。全国から支援に来ていただいた方々に改めて心から感謝申し上げます。
・私は、単身で仙台近郊にいました。水、電気、ガスが止まり、ガソリンもなく、会社には同僚と乗り合わせで行きました。通水後、数日で余震でそこから1ヶ月断水となった時はホント辛かった。会社の復興のプロジェクトに組み込まれ自衛隊の皆さんから頂く水をもらいに行く時間もなく壮絶でした。休みの日には寒い夜を耐えるためにウイスキーを求めて15キロ歩き、なんとか売っていただいた事を思い出します。そして食べ物もほとんどなくウイスキーをストレートで少々流し込み夜を過ごす毎日。ガソリンとトイレと水。これらは本当に行政で短時間に供給出来るように考えて欲しい。サンドイッチマンが寄付したトイレの車とか、政府が本当に考えて準備してほしいです。会社近くのボットントイレが満杯の中、それでも使用した日々が忘れられません。テレビを見れるようになってからのポポポポーンのCMは日常に戻れない象徴。二度と聞きたくない音です。
・日本の風潮が、人の死や戦争による被害をタブー視して封印したがるようになっていると思います。 例えば、日本のTVは人の死体は勿論、動物の死体さえ映さない。(尊厳の問題か?) また、原爆資料館に来た子供達がトラウマにならないようにと、リアルな写真を入れ替えている。 不都合な事は起こらないから議論しない という左翼的思考も一因かもしれない。 死は実は身近にあり、他国による侵略も起こり得るということを認識してこそ、最悪の事態に備えが出来ると思います。
・当時大学四年生だった。悲惨な被害をテレビやネットで見るたびにに私に何ができるのか、こんなところで学生として衣食住に不自由してない自分が非常に無力に思えた。
コンビニで買い物をして一万円札のを釣りをもらった時、レジ横に募金箱を見つけたので狭い投入口に無理やりお札を折って全部入れた。 力仕事なら役に立てるかと所属していたラグビー部の部員に声をかけて数十人でバスを借りてボランティアにも行った。
どれだけ役に立ったかわかりませんが、それらをやって思ったのは満足感ではなく無力感。自分にできることの少なさが悲しかった。
今回の能登地震では人命救助に携わる仕事として被災地に支援にいきました。
311は、多くの人の人生を大きく変えてしまった。
・職務とはいえ警察、消防、自衛隊など死体処理に携わった方々は言葉には出来ない程大変なご苦労があったと思います。今でも精神的なカウンセリングを受けられている方もいると思いますが、心の傷が早く解放する事願っております。
・発災時仙台市内に住む親と連絡がつかず、親の実家が海のそばだったり釣りが趣味だったりしたこともあり、生きた心地がせずまだ開設まもない「相談ダイヤル」に電話をした。 親の身体的特徴についての質問に答えている時、その意図が頭をよぎった途端に涙が堪えられず嗚咽をもらしてしまった私に寄り添うように、受付の男性は最後までペースを合わせて静かに優しく対応して下さった。 東京でひとり、心細さの極限にあった中でその誠実さや心の温もりが本当に有り難かった。 男性ご自身だって、まだ連絡のつかないご身内がいたりご自宅が大変な状況だったりしたかも知れないのに。 親の無事が確認できた後、その連絡をしないままだったことをだいぶ後になって思い出して今でも申し訳なく思っている。 即席だったにも関わらず事務的なところの一切ないあたたかい窓口を用意して頂いたこと、県警の皆様には本当に感謝している。
・発災した年の11月に気仙沼と陸前高田にボランティアに行きました。途中立ち寄った道の駅で地元の園児達が寄せ書きをして我々ボランティアに向けたメッセージが貼られていたのを今でも覚えています。 「心かはありがとう。私たちは元気です。」 前向きに生きようというメッセージが凄く込められていて、本当に涙が止まりませんでした。 今でも心は被災地の方々とともにあります。
・この時期になると思い出します。震災3日後に岩手県沿岸部や沿岸部に通じる峠道は勿論内陸部も大雪に見舞われ、内陸部から災害救助拠点になっていた地域に向かう道路が一般車両の進入が禁止されていたにも関わらず、無人のゲートをこじ開けて通過した他県ナンバーの冬タイヤを装着していない車両が雪道で身動き取れなくなり、警察に救助を求め、地元住民の手を借りて助け出されたことがありました。 震災が起こる度、この手の怖い物みたさの輩が必ず押寄せてきます。今回の能登半島地震でも散見されたようですが、進入許可車両以外、救助の妨げになる行為は厳罰を持って臨むべきです。
・高校生の時に阪神淡路大震災の画像を見て驚愕し、そして東日本大震災でまた同じような悲惨な画像を目の当たりにし…。
どちらも、テレビをつけて火災や津波の様子を見た時はたち崩れました。
そして、私自身その後熊本にて地震の被害を受けました。
義親の自宅や会社が無くなるなど、色々と辛いこともありましたが、やはり地震による津波や火災の悲惨さは比べようがありません。自分が被災して改めて地震被災者の気持ちがわかりました。
でも多分また大震災はやってくる。自然には勝てないけど、備えだけはしておきたいし、自分が出来る限りの協力はしていきたいです。
・被災地からは遠く離れたところに住んでいますが、3月11日のことは今も鮮明に覚えています。仕事中の震災で、津波が10メートルと予測されていたこと、その日の夜みた気仙沼の火災。夜もずっとテレビでその様子を見ていました。そのからまもなく夫が緊急援助隊として被災地に向かいました。能登の地震といい、本当にいつどこでどんな災害にあうかわからない世の中。大きな災害を目の当たりにするたびに、今あるこの平凡な生活がどんなに幸せなのかと考えます。悔いのない生き方をしたいです。
・あの時は高層ビルの中にいて、もうむちゃくちゃに揺さぶられて、その揺れが何分も続いて「あ、もうこれは死ぬかも」と思ってました。 人生で初めて死を意識しました。 一晩中ラジオで被害の様子を聞いていて、気仙沼が大火事で大変なことになっていると聞いて戦慄したことをよく覚えています。 あと、あの日の夜は晴れてすごく寒くて、街の灯りがないものだから干し柿すごくたくさん光り輝いていたことが忘れられません。
・当時学生で2ヶ月後にボランティアとして南相馬市に行きました。 現地で一番驚いたのは高圧鉄塔が倒れ、直径20cmから30cmはある送電線がぐちゃぐちゃに引き裂かれていた事です。あの太さのワイヤーが津波でこんなにも切れるなんて、そこに人が巻き込まれた事を考えると本当に恐怖した事を覚えています。 ボランティアは、1週間ほど見つかった写真の泥を落とし綺麗に乾かした後に避難所に持っていき知る人の手に戻す活動をしましたが、とにかく大量にあり、小さい子供から成人式の写真、家族写真などそこに写る人達の安否はどうなったのだろうかと、地味な作業ではありますが辛かったのを覚えています。 もう10年以上経ちますが改めて御冥福をお祈り致します。
・これが夏だったらと考えると‥、別の意味で恐ろしさがある(お盆の日航機‥)。 震災はどの季節にも可能性がある。 冬の津波、犠牲者のかたも避難の方も凍える寒さだったでしょう‥間違えて冷たいシャワーを出してしまうたび、こんなもんじゃなかったろうにと、お湯に浸かれる有り難さに感謝してます。
・人生で無力感を感じたのは、911の同時多発テロのニュース映像を観た時と311の津波のニュースを観たとき。 自分は安全なところでのうのうと生きていて良いんだろうかとボーっとテレビを眺めていた。当時は大学卒業、就職の時期で、ちょうど一人暮らしを始めた時期でニュースを観るのすら本当に孤独で怖かった。こうやって現地で活動されていた方には頭が下がります。すごい仕事ですよね。。
・かれこれもう13年になるのか。 当時自分は6強のところにいました。 電気が点かなくて 一晩中ストーブのそばで毛布羽織って 過ごした。 翌朝、新聞でやっと状況を知った。 目をまんまるになって読んでたのを 憶えている。 しばらくして数日間のあいだは ライフラインが麻痺して食品もガソリンも 品薄状態だった。 忘れられない出来事です。
いまだに行方がわかっていない方もいて 亡くなられた方々が多くて本当に無念です。 それでも風化させないためには積極的に語り継がれるべきです。
合掌。
・津波が来たら大災害になる土地だというのは過去の記録からもわかって、ハザードマップ等作ったり避難訓練したり防波堤作ったりしてても、いざという時人が危機感持って活用避難しないと、これだけの数の被害者が出る このときの記憶がまだ新しいから、能登では津波警報出たらすぐ高台避難して命が助かった人も多い 何度でもこうしてニュースにし、助けられる命は守らないといけない
・阪神淡路・東日本・熊本・そして能登半島。
被災された場所は、どこも地獄でしかないでしょう。 東日本大震災当時は宮城にいて、大震災を経験し被災者になった。 海岸沿いには知人もおり今も連絡が取れていない。 亡くなった人たちが海岸に流れ着いて、かつてのボウリング場などが遺体安置所になっていた。
大地震があった後でも、当時は巨大な津波が襲うなど考えても居なかった。 考えが及ばなかった事が悔やみきれない。
地震は、何処でも何時でも起こりえる。 故に、よく考えて自分で備えておくことが重要になる。 少なくても避難場所は自分の足で歩いて、危険な箇所や注意点など場所と共にチェックしておくことだね。
・仙台市内の地元で被災しました。 被災直後は情報がわからず、初めて詳細を知ったのは避難所で聞いたラジオからでした。 聞こえてくる情報一つ一つに震えが止まらなかったのを覚えています。
やっと理解したのは信じられない高さの津波が襲ったこと、沿岸沿いでなくなった方が大勢いるということでした。
当時自衛隊や消防、警察など対応した方たちの中には現在もPTSDなどで苦しんでいる方が大勢いると聞きます。
被災者やご遺族を前にして感情を出してはいけないと葛藤しながら仕事をやっていたとも聞きました。到底心は追いつかない状況だったと想像します。
心の傷は年々深くなる場合もある。そう言った方達のフォローも継続的にやっていってほしいです。
・徐々に増えていった死亡者数、行方不明者の痕跡を探し、ようやく見つけた遺体の一部が見つかり死亡届けが出せたのが7年後だったという記事も目にしました。
数年前に宮城県の防災担当者の話を聞いたことがありますが、あの時どうしていれば被害が最小限になったか、どうすれば助けられただろうということを念頭において防災対策を進めているそうです。 過去の悲しい記憶と向き合いながら、どうすれば良かったのかとケーススタディするのは身を削る思いだと思います。本当に頭が下がります。
・当時は、遺体安置所によっても、状況が違い、棺に入れることができたところと、それもすぐには叶わなかったところがあったと聞いています。
関わった誰もが精一杯でした。 あのような災害は起きないことが一番良い。
でも、地震国日本で避けられないとするのならば、棺を融通するネットワーク、仮設住宅資材のストックなど、災害を想定した連携体制はより一層進めていかないといけないとおもっています。 菅原葬儀社さんの当時の動きには感謝しかないです。
・当時山元町に職場があり非番でしたが隣町から職場に向かいました。 電気、スマホが繋がらない状況で津波がきた事も知らない私が山を超えて6号線を堺にした海側の光景は衝撃的でした。 今では堤防も出来て住宅も増えてきましたが津波の恐ろしさは語り継ぐ必要があると思います。
・東日本大震災が起きた当日の夜か翌日の夜の時点で、宮城県警本部長が「県内の死者は1万人を超える」見込みだと発表しました。まだ被害の全容が明らかになっていなかったのでまさかと思いましたが、結局は本部長の言ったとおりになりました。この記事でその背景を知ることができました。
・東日本大震災の津波で親族の伯母を亡くしました。直後の電話回線は全く繋がらず。遠方に住んでいるなりに探そうと、おそらく記事の電話番号に何度もかけました。当時も個人情報の扱いは厳しかったけど、情報出さないと伯母を探せないと思い、住所や身体の特徴など出来る限り伝え登録して貰った記憶があります。
宮城の私の家族は無事で、同じく伯母を探しました。一週間後ようやく連絡があり伯母は空港ボウル(ボウリング場)にいたと。 私は生きて見つかったと思い、そこの避難所にいたんだと言ったら遺体安置所だと言われ言葉も出ませんでした。伯母は綺麗な顔をしていたと聞き、あの混乱の中身体を拭いて棺にいれて下さった方々がいること言葉に出来ない思いでした。
あの時、極限の状況で対策を立て行方不明の方々のために動いて下さっていたと、13年経った今も改めて知ることが出来この記事を読んで色々思い出しました。
・私も当時は関東に住んでいたので震度5強の揺れは経験しましたが、遺体を身近で見ることはありませんでした。
テレビは津波の映像を何度も流しましたが遺体は映しませんでした。
当然の判断だとは思いますが、しかし、私は津波の被害にあった場所に倒れている多くの方の遺体の光景を見なかったことが本当によかったのかどうかわからない。
また津波にあった場所の、ありとあらゆるものが混ざった強烈な匂い。これも本で読むまで知りませんでした。
本当の震災をそんな自分が体験したといえるのか、そんな過酷な光景まで目の当たりにした被災者の心を想像できるといえるのか、今でもすっと疑問です。
・柳田国男の遠野物語を読んでいると「海嘯で亡くなった妻」という表現があって、中学生で読んだときには何のことだかわからなかったが、海嘯=津波だった。三陸地方は常にそうした天災に見舞われてきたが、東日本大震災の後テレビで川を遡上する「海嘯=津波」をビデオで録って、「すごいなー」という記録が流れていたことを思い出す。天災は忘れたころにやってきていたと思った。その後、Jビレッジを訪れたとき、海岸から民家は全て高台に移設されていたのを見て、日本の海岸は全てこうあるべきだと感じた。
・震災などない方が良い、しかし必ずくる。熊本地震の時、仕事で阿蘇にいた。南阿蘇の学生アパートの倒壊、住宅の倒壊。数えきれない土砂崩れ、道路寸断。東日本大震災の映像でも見たが、熊本地震の時も、全国から、警察、消防、自衛隊の方々、全国から電力会社の方々。真っ直ぐの道沿いに全国からの電力会社車両が、ズラリと並び、野営し、電力再開の為頑張っていただいた。ありがとうございました。感謝。 震災は、いつか必ず来ます。水、電池、食料等改めて備えておきましょう。
・6月に陸中野田に岩手県北バスのボラバスで行きましたが、瓦とか未開封のレトルトカレーとか沢山出てきました。ここに人が住んでいたのが信じられない光景なのに。それでも、笑った人々が写っている写真が出てきて、ここに人々の日々の営みがあったのだと実感できた。添乗員の方もご友人が行方不明なのに、ただでさえ10人も集まらなかったのに東京までの往復に親身に接していただきました。本当に頭が上がりません。
自分に出来ることは、3.11を忘れないこと、現地に赴き経済を回すぐらいです。幾度も各地の被災地を巡る中で、遺体安置所と書かれた案内を見ることもあり生半可な気持ちでは続けらないと悟りました。それでも被災地に赴き続けています。それはこれからも変わりません。
・震災が起こった時大学四年生でした。 その日は就職先で研修中で、携帯から緊急地震速報が鳴り大地震が起こったと。 只事ではないと休憩室のテレビをみんなで見ると、見た事ない大津波が街を飲み込んでいて言葉が出ませんでした。 とても現実のものと思えませんでした。
被災地に自分の身寄りがいるわけではないですが、テレビでは夜通し津波の映像と行方不明の方の名前が読み上げられていて、涙が止まらずそっとテレビを消しました。 1週間後が卒業式で黙祷を捧げたのを昨日のことのように思い出します。 それから何年かは自分も津波に飲み込まれる夢を見て泣きながら起きていました。 現地には遠く行けず何もできなかったけれど、せめてもと、募金させて頂きました。 生涯被災地の方の事を忘れる事はありません。
・東日本大震災、自分はボランティア活動で数回行っただけなので震災直後の悲惨さまではさすがに想像するしか出来ませんが、それでも半年くらい以上が経っていてもまだまだ瓦礫が残っていたのを覚えています
救助にあたった救急隊員や自衛隊員、捜索にあたった警察隊員に情報の窓口となった役所の職員さん達にばかり気を取られていましたが、冷静に考えたら亡くなった方達を納める棺を造っている会社の方々も直接被災していなくても、ものすごく大変な思いをしてきてるんですよね…
しかも殆どが、中小企業どころか零細企業っていう事を正直初めて知りました 超高齢化社会となった今、本当に採算が採れなくなってるんでしょう
ただ、今後も大震災は起きますし他の天災や火災などで多くの死者が出る可能性は充分ある以上、零細企業頼みにして早出残業ありきの労働環境にしたままではダメだと思う
今のうちに統廃合や畑違いの企業参入で安定化させては
・当時、遠く離れた九州にいましたが、テレビで津波の映像を見た時に凍りつきました。いつもは鳴り止まない職場の電話が、発災後はピタッと止まっていました。みんな津波の様子が気になっていたのでしょう。私も翌朝までずっとテレビを見ていました。津波の後の沿岸部の火災、夜が明けてからの救出活動、そして原発事故、何もかも忘れられません。
・一晩で二万人近くの日本人の命が失われたことなんて太平洋戦争以来の惨事であった。関東にいた私も地震をその後の停電、物不足を経験。これは戦後最大の国難だと感じ、微力ながら、被災地でボランティアのお手伝いをいたしました。震災発生から二か月が経っていましたが、被災地の光景は今も忘れません。
・当時は都内で接客メインで勤務していたので、お客さんの避難誘導、駅ビルや本社の人間とのやり取りが終わって、駅ビルの休憩室でテレビをつけたら何が起こっているのか理解が追い付かず立ち尽くしたのを覚えている。 外は風がかなり強くて、駅のターミナルにはバスやタクシー待ちの行列、深夜まで凍える人々、福一爆発危機の速報で眠れない夜。 最近は千葉沖が怪しくなって来たようなので、防災用品再チェックしないとですね。
・東日本大震災の場合は津波の被害が大きかったと思う。 阪神淡路大震災の時も万人単位の死者数では有ったけど、あの時は建造物の法律で耐震構造に関する規定が大きな地震に耐える様な法律になって無くて津波の被害よりも建物の倒壊による被害が甚大だったからね。 東日本大震災の場合は阪神淡路大震災の建物の倒壊の甚大さから建造物の耐震基準の法律が改正されて建物自体は耐震構造の高い建物も増えたけどあれだけの大きな津波が来たらどうしようも無いよね。 東日本大震災の時に震源地がもっと内陸の方で津波が無かったら被害はもっと少なかったのかもしれない。
・熊本でも能登でも大きな地震はあったけど、さすがに万単位の死者は出てないしな。やっぱり津波ってのは恐ろしいな。映画とかでは分かってても、実際に自分が生きてるうちにこんなに大きな災害が起きるとは思わなかったな。あれから各地で大きな地震が続いてるけど何か関連があるのかな。どこに住んでても地震はいつ起きるか分からないから怖いよな。
・津波で大きな被害を受けた仙台空港のすぐ近くで会社を経営していた大学の後輩がいました。震災の翌月に恐る恐る携帯に電話すると、車で逃げて寸前のところで津波から逃れられたとのことで無事でした。電話に出たときは亡くなられた社員の方の火葬で山形にいるというのを聞いて、改めて亡くなられた方の多さをその時に実感したの今でも覚えています。
・日航機事故のルポ、「墜落遺体」でも棺の手配に関する記述がありました。日航機の場合は遺体の損傷がひどく、検死に時間がかかることから棺を何回も取り替えたそうです。 人の死に対してしてあげたいこと、できること。極限の中で向き合ってこられた皆様に敬意を示すとともに、自分自身の備えも考えたいです。
・当時、義弟の実家が岩手の沿岸部でまったく詳細が入ってこなかった。 連絡も取れず安否確認出来ない状況でした。 翌朝にSNSで周辺一帯が津波で水浸しになっている画像が上がった。 SNSをあげた人に連絡を入れてみると義弟実家の隣の人と言うことが分かり家族は避難して無事と言うことが分かりました。 私は当時生まれたばかりの子供がいてこの先どうしたら良いのか日本は大丈夫なのか不安しかなかったことを覚えています。
・東北で同じように地震がきたら次は被害が少ない対策をしていると信じたいですが、もし被害が同じように出た場合この期間何をやっていたのか無駄になります。進んだ議論をして全国で対策しなければ国の資金は枯渇して今度はもっと違う深刻な状態になりますね。自分の事だけ見ずに被害を減らす対策が必要。
・当時、仙台に住んでいました。 保育園に行ってた息子を園の指定の避難場所で見つけた時はホッとしたと同時に先生への感謝、そして地震発生時に息子のそばにいなかった事にとても申し訳ない気持ちになりました。 息子と2人でとても不安で心細かった。元夫は当時、関東へ長期出張していて私達家族より元カノや友達の心配をしていたようです。 震災は色々、心の壊れる出来事でした。
・初めて見聞きする内容が多い記事だ。死者の葬り方や今もなお行方不明者が二千人を超える東日本大震災だった事…
当時子育て真っ只中にあって、殆ど被害の無い生活環境に居た自分が知り得た被害は本当に氷山の一角だった事を目の当たりにさせられた。 能登半島地震でも未だ、日常生活に戻れない中にも今後、次々に発生しても不思議は無い自然災害。寛大な被害での死者数はケタ違いになる。
恐怖心に苛まれる必要は無いが、やはり何時でも覚悟してる。そうした生き方が大切じゃないかと思う。生きるも死ぬも平等は無い。
自分にとって一番大切な事だけは、忘れずに人生を終えたい。本当にそう願って生きる。
・10mを超える津波が襲ってくるわけがない。びびりすぎ。
この惨事が起きるまではそんな雰囲気でした。 津波は防ぐことはできないが、ここまでの被害は繰り返してはならない。
今後起きるだろう東南海の地震については、とにかく何も考えず高いところ海から遠いところへ。例え結果的に大したことがなくてもこれが当たり前になることを望む。
・当時親類が宮城にいて、3日後にレンタルでディーゼル1BOXを借りて、ガソリンや大量の水・食料を積んで届けてそのまま片付けを一週間くらいした後、何回も手伝いに行きました。 やっていくうちに「あれが・これが足りない」とTwitterに書き込んで状況報告していたのですが、有事に必ず現れる匿名の方々から「偽善者」と罵られて悲しくなりTwitterをやめました。 そんな時杉良太郎さんの「名前も語ることが出来ない奴が偽善を語るな」的なコメントに感銘を受けて泣けてきた記憶があります。
妻の友人の旦那は、毎日被災地の体育館で検死を何人もしたと聞きました。 今も会えば飲む仲ですが、このことに触れることはできません。
・震災は報道だけでは想像だにしない大規模な被害はあるのです。 実際、現地に行って息を飲むほどの。
能登もそうなんだと思います。 支援は一時のものにならず、継続的に行われる事が大切です。
SMAP×SMAPの最終回までSMAPが「東日本大震災の為に募金お願いします」と5人で頭を下げておられた事。 これはさすが、国民的アイドルとしか言いようが無い素晴らしさでした。
・東日本大震災の死亡者と行方不明者を加えると、実に18423名という膨大な数となる。 これは今から約1100年前の平安時代前期の貞観地震の時と比べ、当時の人口を今に置き換えると約2万人と、ほぼ今回の東日本大震災と同数であり、同じ規模の津波による大災害だったことが分かる。 阪神淡路大震災の時は7割が建物の倒壊による圧迫死だが、東日本大震災は9割は津波による死亡者だと考えると津波の恐ろしさを実感する。間違いなくこの地震は今後も繰り返されるが、前回の貞観地震の時の津波の到達点には石碑が建っていたらしいが、今の人にはそれが何の石碑かが理解できずに活かされなかったのが残念だ。ここ迄津波が来たぞと言う警告の石碑だ。 地震の研究機関が東日本の前年に国に、東北のこのエリアに想定を越える規模の津波を予告したらしいが、国も東電もこの警告を活かせなかったのが悔やまれる。
・震災の日が近くなると、両親姉弟祖父母を一度に亡くした中学生の事を思い出す。テレビの取材にも淡々と応えていて本当に涙無くしては聞けなかった。親戚の方に引き取られ栄養士になられたと風の噂で聞いた時、また泣いてしまったな。たくさんの悲劇があったあの日。我々は伝えていかなければならない。
・都会にいると何処かで他人ごとに聞こえてしまう。日常に繰り広げられる自己主張の波。おかずが俺の分だけ少ないとか子供より俺のおかずが少ないとかドアを蹴散らす夫の姿は子供が僕のは少なくて良いという。 私のも少なくて良いと言う。 いけない事ですが地震でも起きれば 解らない夫にも解るだろうかと思ってしまう。もしもの時に子供を若い人を守れるか。改めて考えさせられる。今更ではなくともたとえ働いていると言う自負が合っても私も働いている。 収入も私のほうが上なのに夫は気にも止めず自分が働いていると思っている。地震でもくれば解るのだろうかと疑う。人間身の上に起こらなければ実際解らないのだろう。都会という家庭という当たり前が一瞬に無くなる事がどんな事か。改めて日常の中に考えさせられる。小さな問題過ぎておかず一つの事がここまで考えさせられる。 身の上に起こらなければ解らないとは恐ろしいと改めて思う。
・秋田・新潟・奥尻・・・地震国の歴史は繰り返される。そのたびに多くの犠牲者と復興の課題に直面しているのが現実。今後起きるであろう巨大地震の被害シュミレーションを復興シュミレーションに切り替えていくべきではないでしょうか?住む人の備えは勿論、おきた時の行動や支援、復興への現実課題をそこに住む住民と行政、国と議論し構築しておくべきではないでしょうか。
・東日本大震災の被災者の一人です。被災状態は各人それぞれ、居た場所や条件状況により変わって来たはずです。逃げるのがやっとの人、ちゃんと逃げたのにその場所が運悪かったり、津波以前に倒壊被害にあった人等々様々です。悔やまれるのは震災当日の2~3日前の大きな地震の時の気象庁はじめ関係機関が、もう少し具体的な注意喚起をしてくれたならと思いました。都合よい話だとは思いますが、振り返ってみて何とか出来なかったのかと考えてしまいます。家族友人他多数の知り合いと仕事関係者を失いました。残念でなりません。
・仙台空港側でくで被災したけど 近くの物流倉庫の屋上に逃げ助かった。 津波が引いたあとの翌日は 地獄絵図だったよ。 強震で破壊された後の 20mの津波で丸呑みされて 死体の詰まった滑走路下の県道や 辺り一面に死体が散乱。 車の中にも眼を見開いた死体 カラスが集まり死体の眼球を突っつき とっさに瓦礫を投げて追い払った 死体を避けながら岩沼警察署へ行き 助けを求めた。 破壊と市域を丸呑みする津波の震災は 悲惨です
・南海トラフ地震が発生する可能性が高いと言われていますが、何か備えはされているのでしょうか?
今回の能登地震でも全てが後手後手で救える命も救えなかったと聞いています。
東日本の大震災を教訓に大地震に備えて欲しいものです。
・心無い人の言葉は辛かったと思います 災害の時など警察官、自衛隊、医者、看護師などが先頭に立ち働いておられます ご自身が被災されている方も沢山おられ 堪えて従事してる姿には尊敬いたします いつ来るかわからない大地震に 自分で出来る備えはしておこうと思います
・記事にある「死は不平等」は、本当にその通り。 知っている範囲で、身内が不慮の死にいたってしまった方がいるが、何でこの方がこういう亡くなり方をしなければならなかったのか?と今でも感じる。 3.11は、能登で亡くなられた方への思いも込めつつ、改めて黙祷を捧げたいと思います。
・人口が一極集中してる大都市がこうなれば 人口も経済も縮退してる地方部が支えることはできない。 できるのは、未開発の原野・山林を仮設住宅向けに提供するくらい。 一極集中をある程度の強制力をもって反転させておかないと そのときになって慌てて都会から地方部に散らばったとしても 受け皿になる産業も財政力もないままでは生活再建できない。
・地震直後から山形県のローカル局では、宮城県内から大量の怪我人が搬送されて来る可能性があるので、拠点病院への不急の通院は控えるようにとアナウンスされた。
都会である仙台市などからヘリや救急車で大量の怪我人が運ばれて来る状況を想像して戦慄を覚えた。
実際は建物の倒壊などによる「怪我人」は比較的少なく、津波による「死者・行方不明者」が圧倒的に多く、大量の怪我人流入は無かった。
・13年前の4月の記事を読むと死者の95%が津波による溺死。その他も津波要因の圧死や凍死などほとんどが津波によるものだったらしい。 関東大震災以降三陸関東東南海などの地震地域では建物の強度もあがり地震そのものでの死者は昔に比べて絶対数は減っていると思うけど、正直大津波による被害は太平洋側の各地に伝説として残っているけど実際に経験した人はほとんどおらず、大多数の日本人はここまでの力を持っているとは思っていなかったかと。 僕自身も自身地震地域出身で幼い頃から大地震については口うるさく言われていたけど、津波に関しては奥尻島の時に初めてちゃんと被害を認識できスマトラで初めて本当の映像を観たけどあの日あんな事になるとは全く想像できなかった。 今は真の津波の怖さが動画サイトに多数残ったので今後はあれを未来に伝えていかないといけないのかなと。
・これ県庁所在地の仙台も空港が津波に襲われるくらい被害も出てたわけで、ほんとに宮城県職員の人達は大変だったと思う。公務員を日頃から税金泥棒だとか民間にやらせれば無駄が無いとか、国の借金が、とか言う前に、今一度、彼らが誰の為に、何の為に仕事をする人なのかをもう一度、考えてほしい。
・自分の身内も被害があって津波でやられて、大分日にちが過ぎてから遺体で 発見され何か体の力が抜けて何もやる気になれなかった事を思い出す災害 だった。 都内で仕事をしてたけど、揺れが凄かったし当時携帯のテレビで最初に目に したのが宮古市の大津波の映像で、昔大きい地震の後にこういう大津波が 来た事があったと言う映像だと思ってたら生の映像だとしって、エッアッて 自分がテレビを見ながら硬直した感じだった。 その日は電車は何処も止まって帰れなくて次の日になって、やっと帰れた けど、ニュースを見た時に宮城県の海岸で人間の遺体が、200体位浮いて る状況と耳にした時は現実とは思えない感じになったのを思い出す。 能登の地震の時も当時の事を思い出し、被害が出なければ良いなと思ってた けど、日にちがたつにつれ被害が増してきてるし。 政府の対応は能登地震の時に、進歩してないなと感じた。
・大震災が起きれば何もかもメチャクチャになります。震災による被害は言うまでもないが、この例のように、火葬まで大変なことになる全国ネットを作ってみたところで、災害は県単独ではない。その近くの県も被害を受ける。となると近隣の県を利用することもままならない。遠くの県迄いかなければならなくなる。震災直後に遺族にそんな余力があるだろうか。もちろんある人は行けばいいが。こういう時得てして余力のある人が地元で火葬でき、余力のない人が遠くへ回されることも出てくる可能性はある。 今の時代、土葬するのは田舎や僻地しか土地がない。そのような所なら土葬するまでもなく火葬で間に合う。人が多い所で火葬以外ではどうするか? 水葬と火山葬が考えられる。水葬は主に海、戦時中にもあったが、津波被害者には気の毒。火山葬は私のアイデア。火山の火口に遺体を放り投げる。遺骨がないというかもしれないが遺髪をとればいい。
・これは凄いですね!
驚きました。この様な経験を語り継ぐのは素晴らしいです。
俺も当時目黒の低層の高級マンションに住んでましたが、それでもかなりの揺れでした。数分揺れが続いたので外に出たら向かいの低層の高級マンションが免震装置がついていて、建物はそれほど揺れず、基礎部分の土台だけが揺れていたのが衝撃でした。
夕方に当時付き合ってた彼女を迎えに六本木までベンツで迎えに行きましたが、2時間掛かっても着かず結局引き返しました。
本当に美人な方でした。色んな記憶が蘇りますね。あれから10年以上経ちましたが、今日本は空前の好景気です。皆んなで前を向いて頑張りましょう。すでに成功した者として応援します
・実際にはこの死亡数の人に追加しなくてはならない人がいる震災後に亡くなった人たちだ。原発事故で放出した放射性物質に被曝して半年後に亡くなった人だ。私の甥も震災後半年で白血病を発症してその後亡くなった。さらにその父親もガンで亡くなった。震災とは無関係と政府はいうかもしれないが、健康体の19歳の若者が急激に体調を崩して検査、急性白血病だった。折角希望の大学に進学したばかりで入院生活を送り半年後に亡くなった。
・息子の友達と親戚が犠牲になりました。 人生であれほどの棺が並んだ光景は 生涯忘れることはないでしょう。 海の近くでは民家のリビングに大きな防風林がつきささり、田んぼには漁船が何艘も横たわり…… 月命日は今でも空を見て手を合わせます。
・大量死への備えは必要ですね。たとえ大災害が無くとも大都市では、出生者数よりも亡くなる方のほうが増えていきますので、「火葬場建設反対」などと言っている場合ではないはず。 慣習として土葬が行われ続けている地域は、奈良県以外にもあるわけですが、法定伝染病で亡くなった場合は、火葬が義務のはずです。 石巻では、取り急ぎ仮埋葬してその後掘り起こして火葬、というケースは耳にしています。すぐに墓地が用意できるわけでもないですし、新たに墓地を造るにも土地を見つけるのは大変でしょうから。 約100年前の関東大震災の後や、東京大空襲の後は、首都圏ではどう対応されたのでしょう。
・地震当日の夜の静かさが今でも忘れられません。夜が静かなのは当たり前なのですが停電や車両が激減して社会生活が一旦止まってしまった時の静けさは桁違いに静かになります。このような怖い思いをする人がこれ以上出なくなるよう祈ります。
・あの日、父母のことが心配でとにかく自転車にできるだけの水と食料を積んで家を出ました。 幸いふたりとも無事で自家用車でその夜を過ごすことにしましたがラジオが伝える情報ではじめてその悲惨な状況を知りました。 比較的中心部に住んでいた私は津波が来ることなど考えもせず飛び出していたわけです。 もし父母が沿岸部に住んでいてそこへ向かっていたらと思うと今、考えるだけでも恐ろしくいかに冷静さを欠いて浅はかに行動したと反省するばかりです。
・私も経験あり。遺体が奇麗な状態は身元が分かりやすいけど、まっ茶色になって顔も性別も何もわからない遺体を黙々と運んで検視する警察官を見て凄いなと。DNA鑑定とかするのでしょうけれど、分ったとしてもその遺体を家族に見てもらっても多分自分の家族だと分らないでしょう。遺族も警察官も相当つらいでしょうね。
・あっという間の13年、忘れもしない。 あの日、、仙台港を飲み込む黒い津波と空爆でもされたのかと錯覚するくらいの火災を目の当たりにした。 苦悶の表情で亡くなった方々を目の当たりにした。 この13年、熊本地震や能登半島地震、その他にも多くの災害が起こった。 その都度思うのだ、なぜ東日本大震災を思い出さない。 備えておかない。 彼らの犠牲を無駄にしちゃいけない。 今、この瞬間を過ごしているのは過去に犠牲になられた方々の上に成り立っている。 どうか、、、考えてほしい。 自分が被災者になったときのことを。
・仙台出身で、親戚はみんな宮城県。私は高校卒業後東京で就職していましたが、あの地震には心底震えました。結局、家が津波で流された方がいらっしゃっただけで、皆さん命は無事でした。とてもほっとしたのを覚えています。東京にいた私は、当時トイレの個室で右往左往してましたが、その晩は帰れませんでした。
・阪神淡路、新潟、長野、東日本、熊本、能登、他にも大きな地震があったが、何年経っても、人は何人も死ぬし、避難所の環境は、最悪な状況から始まる事が辛い…日々考え、準備をしておかないと行けないと思ったが、平和な日常生活に戻ってしまうと忙しい毎日を送っていると、忘れてしまうよ…
・酷かったよ。 親戚がいたから次の日深沼の方に行ったらそこら中に死体なのか体の一部なのか分からんものがあり、数日後には野外に袋が並びなんとも言えんかった。 そりゃ各部署の動きが最善だったとは思わないが皆一生懸命助け合いながらやってたよ。 私は感謝しかないな。 一番腹が立ったのは気象庁や地震学者。何時間以内に地震が来るとか津波が来るとか適当なことばかり言いその発言で救助が滞ったり。 わからないのだからわからないと言えばいいのになと思ったよ。 それで亡くなった人もいるだろうな。
・東日本大震災は関東にも被害が出たけど日本全体からしたら何分の1の被害で全国から応援、救援物質が届いた。結局津波到達地域の多くが住宅不適地域になり、港には巨大な防波堤を作ることに。南海トラフ地震では被災者は日本の過半数を超えるかもしれない。どうするのかな?三陸みたいに津波到達地域は住宅不適地域になったら大混乱だろうね。アニメの進撃の巨人みたいに津波と言う巨人から守る為に太平洋沿いに巨大防波堤を作ることになるのかな?
・ちょうど先ほど家の中の防災用品の見直しをした。久しぶりに見たから期限切れもあり、備品に関してもアップグレードの必要性を感じた反面、東日本や能登のように逃げる間もなく…という状況に晒されたらどうすればいいのか?と考えてしまった。特に幼い子供や動けない身内がいる場合は。自治体や隣近所の人たちとの関係の希薄さも不安に感じられた。 もっと物資の準備以外に出来ることや考えることはないのか?と自問自答する一日だった。
・救出活動や遺体を収用して頂いた警察官、自衛官、消防吏員の皆様には感謝しかありません。 自分の仲間や家族が被災している中、悲しみをこらえ黙々と活動された姿はヒーローです。 日本は、このような泣き言も言わずひたすら使命を果たす名もなき英雄達がいるから安心なのです。
・警察、消防の隊員は御遺体を見る機会が事件事故であるが(酷いのも)若い自衛官は御遺体を見る機会が全く無いのに大量の御遺体を見て物凄いショックを受けたそうだ。ただ、一週間も経つと御遺体を見ても普通になってしまった自分に気付いてさらにショックを受けたそうだ。
・当時、都内に住んでいて電車は不通だったが、余震が続くなか明かりがある道を不安な気持ちでひとり徒歩で帰宅した。 帰宅後、有難いことに停電もなく、テレビを観ながら本当に国内で起きている惨状なのか脳が正常に動かなかった。ビールを何缶も空けて、正直飲まないとやってられない、そんな感じだった。 ひと月ふた月くらい、なぞの眩暈、平衡感覚がおかしくなっている日が続いたし。
・初動捜査体制時、現地入りしてた当時国土交通大臣が頼まれたのは、棺桶5000個省庁を超えた依頼に息を飲んだ。復旧作業の指示で乗り込んだが愕然としたそのためか常磐道の復旧は奇跡の速さだった。
・JA8119(日航機123便)も、真夏だったので遺体安置所は悲惨な状況だったと聞く。高温多湿で腐敗が早いところに、損壊が激しいために腐臭がこびりつき、結局解体してから再建造したと聞いている。
百数十人の遺体収容でコレなのだから、大規模災害や戦乱となると、東京ドームクラスの冷凍施設が最低でも複数かつ全国的に必要になるだろう。
・東日本大震災で未だに身元不明遺体が有り県警が家族や近親者に帰す調査をして居る事を知りました。検死が終わっても家族に帰す事の難しさが有ると思います。遺体が綺麗で分かるなら帰す手掛かりが有ると思いますが、余りにも損傷を受けて入ると決めてがありません。検死は生死の判断ですが後の問題が大変です。日航の事故でも本人を特定するのに最期は歯型でした。
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