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新聞にも使われる「敵に塩」「常陸」は若者には難しすぎるのか? 史実・故事由来の伝わらない日本語

東洋経済オンライン 3/5(火) 7:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/e6f5e69e8aac5b9420e6e7c53fa79caee23ae8ee

 

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現代の若者は、歴史や文化に由来する言葉の理解が乏しく、コミュニケーションにおいて困難を感じることがある。

歴史や故事から生まれた言葉は、豊かな知識や教養を示し、人間の奥深さを表すものである。

若者たちは、活字知識や文化理解を広げることで、豊かな人生を送ることができる。

老若問わず、古き良き言葉を大切にし、次世代に伝えることが重要だという指摘がなされている。

(要約)

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歴史をもとにできている言葉は意外にも多い(写真:dejiys/PIXTA) 

 

スマホ社会の現代日本。 

若者たちは黙々と動画やゲームの画面と向かい合い、用事は絵文字を含む超短文メールを素早く打つばかり。 

時間を割いて他人と会って話すのは「タイパが悪い」とすら言う彼らと、「生きた」日本語の距離がいま、信じられないくらい離れたものになっています。 

言い換えるならそれは、年配者との間の大きなコミュニケーションの溝。  

「日本人なのになぜか日本語が通じない」という笑えない状況は、もはや見過ごせませんが、「その日本人同士と思うところが盲点」と、話すのは、言語学者の山口謡司氏。 

 

【簡単解説】若者には伝わりづらい? 史実・故事由来の日本語 

 

『じつは伝わっていない日本語大図鑑』と題された一冊には、日本人ならハッとする指摘が満載。 

 

その中から、会話が通じない「落とし穴」になりがちな日本語の興味深い例を紹介してみましょう。 

 

■言葉の理解は、歴史・文化を知ってこそ  

 

 日本語は、本当にもののたとえが上手です。 

 

●「赤子の手をひねるように」→簡単な 

●「奥歯にモノが挟まったように」→言いたいことを素直に言わない 

●「芋を洗うような」→すごい混雑ぶり 

●「絵に描いた餅のように」→実現不可能な 

 

●「腫れ物に触るような」→緊張感をもって慎重に 

 ……などなど。 

 (※各言い回しの詳しい説明は、記事の最後に) 

 これらは、頭に何となく具体的なイメージが浮かびますから、若い人であっても、比較的容易に意味をつかむことができると思います。 

 

 けれども、ウクライナ戦争に関して、先ごろ出された次のような新聞記事についてはどうでしょう。 

 

 単純なイメージをふくらませたところで理解に至らないある比喩の言い回しが添えられていました。 

 

 それは、ロシアがますます侵攻して、欧州有数の岩塩鉱があるウクライナ東部のソレダルという土地を占領したというもの。 

 

 そこから採れる良質な塩は、ウクライナ人にとっては「国民の誇り」にほかならず、まさにウクライナ人の命のもとだったそう。 

 

 やむなくウクライナはアフリカから塩を買わざるをえない窮状に追い込まれてしまった――。 

 

 一方、もともと塩の輸入国だったロシアは一転して、塩の大量保有国に。 

 

 こうした状況を伝えた最後に書かれていたのが、この結び文です。 

 

 

 「塩の純輸入国だったロシアは生産量が増えたが、敵に塩を送る気配はなさそうだ」(読売新聞2024年2月7日付) 

 

■意外にも歴史をもとにできている言葉は多い 

 

 我が国で古くから言いならわされた「敵に塩を送る」という言葉を織り込んでいます。 

 

 この言葉は、越後の上杉謙信が、宿敵・甲斐の武田信玄に塩を救援物資として送ったという逸話からきています。 

 

 海を持たない山国の甲斐で人の命に関わる塩が不足とは一大事。 

 

 敵の弱みに付け込まない謙信の振る舞いは、優れた人間性を示すと同時に、最終的にはそういう行為が巡り巡って自分たちのプラスになることもありうるという、いわばある種の教訓も込めながら伝えられてきました。 

 

 このように、有名な史実や故事が由来となっている言葉は、私たちの身の回りにたくさんありますが、年配者なら長い人生の途中で何度かは耳にして、多くの人が意味をだいたい知っているはず。 

 

 けれど、はたしてスマホの動画やゲームに夢中になっている現代の若者たちに、それらの理解がどこまで及んでいるのか……少なからず疑問です。 

 

 「敵から塩を送られる」とは、「かたじけない、身に染みてありがたい、感謝すべきこと」などと、即座に意味を把握できる若者は、実際どれくらいいるのでしょうか。 

 

 先日も「常陸牛」など、茨城県がブランド化している「常陸」の字を20~30代の約半数が読めなかったという調査が話題になりました。 

 

 おそらく、いまや我が国の喫緊の課題となっている若者たちの活字離れ(読書離れ)と連動していると思われるのですが、豊富な活字知識の蓄積がある中高年と、対照的に奥深い日本語とは遠く離れている現代の若者たち……。 

 

 世代間のコミュニケーションがスムーズにいかない一因が、こうしたところにもあるような気がしてなりません。 

 

■たかが言葉一つ、されど言葉一つ 

 

 難しい言葉なんか知らなくたって、コミュニケーションは成り立つ。 

 

 確かに若い人からはそういう声も聞こえてきそうです。 

 

 しかし、言葉一つでも、史実や故事が由来になっているものは、他の言葉とは圧倒的に重みが違います。 

 

 その言葉(言い回し)を発しただけで、歴史の知識や教養がおのずと立ち昇ってきます。 

 

 それらを知っていることが、会話の豊かな潤滑油になり、あなたの人間としての奥行きも示してくれるはずです。 

 

 

 たとえば、年配者も交えてスポーツ観戦などに行くことがあった場合、「応援しているのは、どっちのチーム?」と尋ねられて、「僕は『判官びいき』ですから、Aチームを」などと答えたなら、年配者からは「ほう、なかなか学のある奴だ」などと思ってもらえるかもしれません。 

 

 もしも、その人が会社の上司だったなら――、次からあなたを見る目もきっと変わるのでは。 

 

 ●「判官びいき」……「判官(はんがん/ほうがん)」とは、鎌倉時代の武将である九郎判官(源義経)のこと。兄の頼朝に憎まれて悲運の最期を遂げた薄幸の英雄を、多くの人々が愛惜し同情したことから転じて、弱者や弱い側に同情して肩をもったり応援すること 

 

 その他、故事由来のこのような言葉も、覚えておいて損はないでしょう。 

 

●「外堀を埋める」 

●「いざ鎌倉」 

●「背水の陣」 

●「ルビコン(川)をわたる」 

●「さいは投げられた」 

(※それぞれの意味は、記事の最後に) 

 歴史由来だけではありません。 

 

 日本語には、歌舞伎や日本建築などの文化と結びついている言葉も多数あります。 

 

 たとえば、あなたは次のような言葉を、由来と正しい意味を認識したうえで、日々の会話の中にスマートに滑り込ませることができますか。 

 

 例を5つ挙げてみますので、説明を読みながら確認してみてください。 

 

 ●「板に付く」……板とは舞台のこと。役者が経験を積んで、その芸が舞台にぴったり調和する意から転じて、職業や任務、地位、服装、態度などがその人にしっくり合うこと 

 

 ●「反りが合わない」……人と気心が合わないこと。刀の反りと、それをしまう鞘(さや)が合わない意から 

 

 ●「うだつが上がらない」……出世ができない。いつまでも身分が低いままでパッとしない。「うだつ」とは、家の建築で梁(はり)の上に立てる短い柱。屋根の重みを受け、上から押さえつけられているように見える。それにたとえて 

 

 

 ●「タガがゆるむ」……タガは竹や金属で作る輪。桶や樽などの外側にはめ、きつく締めあげて、堅く丈夫に仕上げるためのもの。それがゆるむとは、すなわち、緊張がゆるんだり、気力や思考力などが衰える、などの意 

 

 ●「お膳立てが揃う」……始めようとしていることの準備がすべてできた。すっかり支度が整った。そのような場合に使う言葉。食膳に料理が全部並べられたという意から 

 

■語彙を増やせば人生も豊かになる 

 

 現代における世代間のコミュニケーション・ギャップは、読書も含め活字のシャワーを浴び続けてきた上の年代と、スマホ画面と首っ引きの若いデジタル世代の間に横たわる深い言語の溝に問題があることは、確かです。 

 

 しかしながら、歴史や文化に由来する言葉については、まったく別だと言えましょう。 

 

 なぜなら、いまを生きる老いも若きも皆、同じような過去に連なっている人間です。 

 

 昔の人が残した戒めや、故事が伝える教訓などは、現代人にとっての財産でもあります。 

 

 それゆえ、若いから昔のことには関心ないとか、興味ないとか、そんなことを言うべきではないと思うのです。 

 

 日本人が代々寄り添ってきた格言などを、若い方は、もっと若い方に、順々に伝えていく……そうした使命のようなものがあるのではないでしょうか。 

 

 せめて過去の人に学ぶ貴重な言葉の習得だけでも、ふだんからできるだけ努めてほしいと願うばかりです。 

 

 具体的には、次のようなことを心がけてほしいと思います。 

 

 ●日本に関する教養を広げる 

 

 本を読む。映画(時代劇や、アニメでも)を観る。演劇を観る。落語を聞く……。 

 

 いずれからも、私たちの歴史に触れ、日本文化を感じ取ることができる。知識を得て、いままで知らなかった言葉も知り、語彙が増える。 

 

 ●視野を広げる 

 

 室内にこもってゲームばかりするのではなく、外に出て行動してみよう。 

 

 たとえば旅に出る……など。古い寺社を訪れたり、新しい建築物に目を見張ったり。初めての人と話をする機会もあるはず。 

 

 そうした経験が重なることで、日本語も豊かになる。 

 

■たとえの各言い回し:詳しい説明 

 

 ●「赤子の手をひねるように」……まったくたやすくできるさま 

 

 ●「奥歯にモノが挟まったように」……言いたいことがあれば素直に言えばいいものを、思わせぶりに言い切らないさま 

 

 

( 145857 )  2024/03/05 13:47:23  
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(まとめ)この文章群から分かるように、故事成語や言葉の知識は現代の若者にとって必ずしも重要視されているわけではないという意見が見られます。

一部では故事成語や語彙の豊富さが表現力につながるという意見もありますが、若者が活字から離れているという指摘や、故事成語の誤用も問題視されています。

また、一部では故事成語や知識の重要性を強調する意見や、若者の教養やコミュニケーション能力が減少していると懸念する声もありました。

故事成語や言葉の重要性についての意見は様々であり、教育や文化の変化による影響も指摘されています。

( 145859 )  2024/03/05 13:47:23  
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・国際化社会と言われる中で、実は、この故事成語はとても大切だと思います。 

世界中で使われることの多い故事成語は、もちろんですが、故事成語は日本の歴史・文化の上に成り立っていることが多く、それがとても重要です。 

よく聞く話では、日本人が海外に行ったとき、実は日本はとても特殊な国なのに、現地の人に「日本はどんな国?」と聞かれても答えられない若い人が多い。日本を知っておくためには、故事成語とその由来(と関連知識)を知っておけば、そういった場面で必ず役に立つと思います。 

外国語を習得するには、その国の文化や言い回しを理解しておくとハードルは下がると思っているので、それと類似したことかと思います。 

 

 

・青春時代を昭和で過ごした人間ですが、これらの言葉は義務教育の中で教わったような気がします。 

若者がこういった言葉の言い回しが理解できないのは、単に覚えていないだけなのか、教育されていないのかのいずれか。 

ただ、(通勤電車を見回しても分かるけれど)今の若者が本を読まないことは確かなようなので、文字を読む癖だけはつけておいた方が将来のためになるでしょうね。 

 

 

・子供の頃は「ことわざ辞典」が愛読書だったので、いろいろ覚えましたが、特に他人にどうこう言うものでもないですね。 

この記事の判官びいきのくだりも、いずれ上司も部下も知らなければ使わなくなる言い回しだし、海外の人には通じないし。 

ただ、語彙力は表現力を豊かにするので知っておいた方が幅が広がるのは確か。 

 

 

・故事やことわざに関することが等閑になっていると思われるのは、何も若者だけに限らないことだと思います。 

いい例が、この間のカンニングの発言、古文漢文は・・・、だと思いますね。 

結局、若者がこういう言葉に興味を持つか、或いは関心が向くかは、大人や社会が若者に提供するコンテンツ次第だと思います。 

その上、行政や社会でも、デジタル社会を見据えての理科系偏重の教育と近世以前の歴史教育の簡略化を唱えています。 

こういう風潮なら、日本や東洋人としてのユーモアやウイットの利いた表現より、単刀直入で理路整然とした表現が好まれるに決まってます。 

普段の会話や、ビジネスでの会話にはいいでしょうが、とりわけ文章を以ての表現では、その人に人間性の豊かさの有無が垣間見えてしまいかねないと思いますね。 

 

 

・直球だと意図しないほうへ伝わってしまったりするので、こうした故事や比喩的な表現のほうがニュアンスが伝わる時もある。 

言葉は進化するから、そこまでコンサバでなくてもいいだろうけど、表現出来る選択肢が多くあるのはいいことだと思うね。 

 

 

・若者には難しい?なんていう、不要なラベリングをするから話がおかしくなるのだと思います。 

故事成語の意味を履き違えて使っている人は、中高年世代にだってたくさんいます。モノによっては誤用している人の割合の方が高いって統計、毎年出されていますよね。実際、記事中の「外堀を埋める……目的達成の邪魔になるものを、適当な口実を設けて取り除くこと」という解釈も、辞書に載っている解釈とは異なるのではないでしょうか。 

旧国名の読み方だって世代の問題じゃなく、結局は個人の関心・興味の持ち方次第だと思います。 

 

 

・自分は子供の頃祖母と一緒に暮らしていて、祖母との会話や一緒に見るテレビの影響か、こういった故事成語が友達との会話の中でも出てしまっていた。すると「お前は江戸時代からタイムスリップしてきたんか」ってよく茶化されたんだよね。 

それは大人になっても同じで、「お前はなんかしゃべりが固いなぁ」って言われることもあって、極力使わないように心掛けるようになってしまった。 

今は意味を知っているというだけ。言葉は生き物だけど、長い間使われていた表現が消えてしまうのは寂しい感じもする。まあその分、時代に合ったウィットが新しく生まれてはいるんだけど。 

 

 

・> 若者たちの活字離れ(読書離れ)と連動していると思われるのですが、豊富な活字知識の蓄積がある中高年と、対照的に奥深い日本語とは遠く離れている現代の若者たち 

 

著書『じつは伝わっていない日本語大図鑑』の宣伝記事ですが 

若者の活字離れということは調査でもして根拠があるのだろうか。 

個人的には2極化が進んでいる気がしている。 

スマホで簡単に検索できるようになったおかげか 

難しい単語や言い回しをよく知っている若者も多い。 

反面、全く文字を読まないので反語等のすこし捻った言い回しでさえ 

理解できない層も増えている。 

 

 

・ことわざや慣用句、故事といった用いなくてもいいけど、それを用いれば、「すとん」と落ちて、文章を短くできる「技」であり、それを知らないということは国語力が低いことをよく物語っている。しかも、それはどこの国に行ってもあるものであり、その国の国民性をよく表す指標でもある。 

 

新聞でも、書籍でも、そうしたことわざや慣用句、故事を避けてはならないと思う。使わなければ、文章が無駄に長くなるし、簡単に理解もできない。いまの「マルハラ」とか、文章を書く方は若者に媚びてはならず、文章をきちんと書いていくことこそが、「文化の継承」である。 

 

 

・コミュニケーションの中で面白くさせる言葉って使えた方が良いんですよね。教育なのかな? 

 

言葉を知らない自分達で会話をつまらなくして、コミュニケーションを避ける方向に向かってるのは確かですね。 

上司とのコミュニケーションは嫌で良いけど、同世代とですら避けてる若い子達が増えてる。 

 

 

 

・活字離れとは実際には活字離れではなく、「中高年がかつて読んでいたような種類の活字」から若者が離れていっているのだという本を読んだことがある。 

つまり実際は、若者は活字から離れていないのだ。 

確かに、統計的に小中学生の読書量は昭和よりも令和のほうが圧倒的に高いし、高校生以上は昭和と大して変わらない量を読んでいる。他国と比べても高水準だ。 

問題は「活字離れ」ではなく、そういった「若者の本」に故事成語が登場しないということだろう。 

 

 

・こんなことも知らないの?と思う事あるかもしれませんが、そういう自身にも知らない事は山ほどあります。勉強以外にも、というか勉強以外の問題が多すぎる今の学校ではなおさら苦労を思います。 

「知らない」とわかったときに教えれば良いだけの事。自分で調べる興味があればなお良しですが。知らない事を偉そうにあげつらう論調が本当に苦手です。なんでもご存知なのかも知れませんが人間全く成ってないですね、って心で思います。 

 

 

・根本的に、すごい偏見に満ちているなと思う。 

比喩表現を知らない人は、世代を問わない。 

そして若者も常に、新たな比喩表現を求めている。彼らの中にもちゃんと「気の利いた言い回し」への欲求があるからだ。 

「兜を脱ぐ」を最初に「シャッポを脱ぐ」と表現した人がいるはずだが、洒落ものに違いない。 

そして真に気の利いた言い回しを思いついた際、既存の言い回しが陳腐に映るのも否めない。 

ただ、ある程度トシを取ると、既存の言い回しがピンとくるようになってくる。その頃には、新たな比喩表現など思い浮かばなくなっている。 

それだけのことだと思うのだ。 

 

 

・「「うだつ」とは、家の建築で梁(はり)の上に立てる短い柱。屋根の重みを受け、上から押さえつけられているように見える。それにたとえて」というのは、もちろんそういう解釈も存在すると思いますが、家の中の部分のことなので、どちらかというと家の外で誰からも見える「うだつとは自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分で防風、防火の役割を持つが江戸時代中期頃には装飾的な意味合いが強くなり、家の財力を誇示する意味合いが強くなった。そのためうだつが上がるとは財力がある、地位が高い、出世したといった状態を表すようになった」のほうがしっくりくると思います。 

 

 

・難しいというより最初から興味、関心がないのでしょう。ことわざや地名にしろ、生きてきた中で一度は聞いた事があったとしても記憶に残らない。数学の公式や化学式とかと同じで、日常において使う場面がなければ分からないままでも生活できますし、他に関心事も溢れていますから。 

 

 

・ネットの記事は鵜呑みにしないが根付いたと思ったのにここ数年入社するような世代は鵜呑みにしてるんだと思う事が多々。タイパの影響でしょう。情報を見つけるの早いんでしょうが、リアルな社会で精査するということをしないのでしょうね。 

20-22年はコロナで利益がでず、企業としては借入をして給料を支払っていたかと思います。23年度決算はコロナ明けでどう頑張ったかの評価ですね。要するに金銭として評価がかえってくるのは24年度からですよ。大概の企業は。 

この2~3年で評価が低いだの給料が少ないだの言ってるFランは悪徳不動産やビットコインの養分にされて、奨学金返済との二重苦になった方がいいかと思いますね。早起きしてモーサテ見なさい。 

 

 

・語彙を増やし自分の日本語を豊かにすることは賛成です 

デジタル世代でスマホばかりみているからと言って 語彙が豊かではないとは限らない 

挙げられている具体的にイメージできる言葉は直喩の類でしょう。 

対して「敵に塩」などは故事成語 (個人的にはこの辞典を読むのが楽しみでした) 

これらは共通の認識によって成り立つ教養の類 ものの役には立たないが豊かな語彙を形成する ぴたりとはまれば「なるほど」となる (新聞の例はちょっとおそまつ) 

さすがを「流石」と何故書くのか疑問に思うことは大事だと思うしネットで調べることもできる 

カエサルは簡潔な名文で知られているが、「ヤバイ」「キモイ」「エモイ」などで何でも済ますのとは違う 

うっとおしい奴と思われれば「老兵は消え去るのみ」ですが 

 

 

・こういう話の理由は簡単で 

「古事由来の言葉」なんてものは 

試験に出ないから授業で教えず 

学生達も受験勉強に忙しいので 

そんなものを覚えている暇が無いためです。 

 

そしてもんだいなのは、受験勉強というものは 

受験が終わってしまえば(結果はどうあれ) 

不要になる為、結局、今の日本人の多くは 

物事をほとんど知らないまま、大学生になるか 

社会人になる等してしまう。 

 

こういう問題提起をするのであれば、原因となる 

現在の異常な受験システムを考慮するべきだと思います。 

 

 

・ものを知らない人は、まともに相手にされないし、狭い世界で生きるだけ。 

言葉を選ばなきゃいけない幼児との会話に誰が付き合う? 

みんなそんなに暇じゃないし、会話がつまらないじゃん。 

 

昔の漫画やアニメ、映画は語彙の宝庫だった。 

活字を読まない人でも、ある程度身についた。 

それは、多様な言葉や故事が普通に使われていた社会と、作者側に一定の使命感のようなものがあったから。 

 

子供用のアニメは「人づくり」に貢献していたと思う。 

ことの善悪や社会のルール、おもいやり、何をやったらどうなるか、そんなことを教えられた気がする。 

 

自分の生きる世の中を、未来をどうしたいか、それは今の若者が考えることだから好きなようにすればいいけど、後悔しないようにね。 

 

 

・職場など使う「打ち合わせ」ちょっとした会議というか意思疎通を図ること。この由来は、日本古来の音楽・雅楽からきている。雅楽には楽譜が無い、なので全て口頭や実技での伝承になります。その時、打楽器系に合わせて練習するので「打ってる音に合わせる」が転じて「打ち合わせ」 

 

 

 

・若い人の知識低下のように捉えるのは短絡的すぎやしませんか。常識や知っていることの領域が変遷しているだけではないでしょうか。 

80台の親と話していると、今では間違いと分かっている常識(料理、子育て、病気や怪我の対処などなど)に凝り固まっています。 

今は専門家の情報や色んな情報をインターネットで一瞬で得られるので、もう高齢者というのは知恵袋どころか無知で非常識な傾向がある世代になってしまったとすら思います。 

 

 

・「敵に塩を送る」は江戸時代の文献には一切出てこない。 

つまり、明治から昭和に掛けての創作。 

 

「敵に塩を売る」と言う言葉はあったようだ。 

 

甲斐は海がない、つまり、塩をえるには北条か今川か上杉ルートになる。 

詳しくは調べれば良いが、北条と今川は今で言う経済制裁で売らなくなった。 

 

上杉はその頃の定価のような価格で売り続けただけ。 

 

明治から昭和期には色々な言葉か生まれている。 

史実・故事由来とするならば、それくらいは調べてから記事にして欲しかった。 

 

 

・敵に塩を送るといっても、タダであげたわけではなく、太平洋側より高くて買われなかった日本海側の塩の販売機会がうまれただけ。 

塩の販売を許せば金が手に入るし、武田が塩を求めて北上するのも防げる。 

例えの記事の結びに使うのは間違っている。 

 

 

・若者に文句をつけるのは、旧世代の指導不足を示すことだ。 

そういうことをするから「中高年は新しいことを知らない」と逆襲される。 

むしろ、マンガやゲームを通して、意外なことを知ってたりもする。 

世代争いにせず「誤用されがちな故事成語」として紹介すれば良いと思う。 

 

 

・アンケートを取った世代の偏差値や学力層によると思う。仮に中から下くらいの学力なら殆ど出来ないだろうね。 

 

とは言え、難し過ぎるのではなく、シンプルに教養がないだけだと思う。私立の進学校で勤務している理系の友人がいるが『成績良い生徒は語彙力が豊かだよ。語彙力ない子はパッとしないね。大学に入ってから成績良いのは現代文得意な子だね』と言っていた。 

 

聖書に『初めに言葉ありき』とあるから、頭の中に言葉が少ないと言うのは人生損しているし、大事な武器が少ない状態だと思う。 

 

とは言え、語彙力少ない人はそれすらも気づかないだろうが。 

 

 

・この記事で言いたいことはわかるけど、「知らない」のは若者だけじゃない。歴史やお城や大河ドラマに詳しい若者で、70歳近い私よりずっとモノを知ってる人を何人も知ってる。 

 

逆に、同じくらいの年齢同志でも、社会経験が違ってたり興味の分野が違ってると、お互いに「え、こんなの常識でしょ」と言いたくなるようなことを相手が知らなくて驚くことも驚かれることも。どちらかが「教養がない人」と言い切れるわけではない。 

 

若いから年配だからで区分するのは簡単だけど、必ずしもその分類が正しいケースばかりじゃない。 

 

 

・基本的にお年寄りと会話をすることが無くなると、言葉の量が減りますね。 

昔、外祖父祖母祖父と会話すると不思議な言葉が入っていて、それを調べて 

「なるほど」と覚えました。 

今でもその時の知識はしっかり残っています。 

後、メディアも難しい言葉使いを避けるようになっていることも言葉が伝わらなくなる理由ですね。 

 

 

・難しかったら調べればいいだけでしょ?今だったらちょっと検索すれば出てくるんだから、いちいちそれに合わせる必要はない。 

 

ウクライナ戦争の記事を取り上げているけど、そもそも「ハイマース」とか軍事用語なんて難解だらけだし「アウディーイウカ陥落」なんて言ってもウクライナ知らない人にはどこだか分からない。 

 

分からない用語は調べればいいわけだし、それが勉強になるんだから、難しいからと言って使わないなんてする必要はない。 

 

 

・こういう事が判らないって、なんというか下拵えが出来ていない、味気ないつまらない料理だろう。 

直接の味にならない下拵えなんて、タイパからしたら無駄でしかないだろうが、料理をつくる上で味付けより大事とも言われるくらいだ。 

確かに『常陸』が読めなくても、人生への影響は微々たるモノだろう。 

生きていく上で、故事来歴を知らなくても問題ないかもしれないが、人生という料理が凄くつまらない味気ないモノになっていると思う。 

まあ、本当に美味しいモノを知らないなら、それはそれで幸せかもしれないけど。 

 

 

・中高年は活字のシャワーを浴びて云々というのがそもそも幻想でしかない。正確に言うなら情報の範囲が限られておりみんな似たり寄ったりの情報のシャワーを浴びていたから言語表現が共通化されやすく同世代間なら通じる言葉が多かったというだけ。現在は情報のシャワーどころか豪雨レベルの中にあるわけで、そんな中で育つ若者は同世代間ですら共通言語を探すのに苦労しているんじゃないかね。そこから更に中高年との世代間ギャップがどうとか言われてもそりゃ情報の量と範囲が違いすぎるから当たり前じゃんとしか思えんよ。限られた情報から質の良いものを探せた中高年より大量の情報から質の良いものを探さなければいけない現代の若者の方が余程苦労していると思うよ 

 

 

 

・故事成語は単に知っているか知らないかという問題なのだが、言葉の誤用や誤読がはびこっているのは如何なものかと思ったりする。特に動画サイトで顕著で、それを指摘すると逆切れされることもあるし。子供たちが見て変に定着してしまうのも懸念する。 

 

 

・故事成語は別に日本の専売特許ではない(ルビコンを渡るのも賽が投げられるのも海外由来だ。「四面楚歌」のような中国の由来のものも多い)のだから、世界共通の問題。「日本に関する教養を広げる」や「視野を広げる」といった対処法が果たして正しいか…? 

実はこうした表現の入口は、かつては立川文庫的な通俗小説だったりする。昔の柔らかい本は総ルビつきでとっつきやすい。その地位が今はマンガに置き換わっているが、マンガは会話劇なので、故事成語や慣用句の入り込む機会がなかなか少ないのだろう。 

あと故事成語や慣用句の知識がないのと、「常陸」のような難読地名を読めないのとは若干問題が違う気がする。実はスマホの方が難読固有名詞の読み方を調べるのは活字より簡単なはずだ。しかしネットは便利すぎるがゆえ、わからない・知らない物事を調べようという姿勢が薄くなっているのが原因かもしない。 

 

 

・確かに現代ではなかなか有職故実が伝わる世の中ではなくなってきました。 

 

しかし、例文にあるような、ロシアが侵攻してたまたま塩の産地を占領したことで「敵に塩を送る」という慣用句を引いてきていいますが、 

 

この場合果たして「敵に塩を送る」が正しい使い方かそれを議論する方が先です。 

 

 

・長々と書いてますが、記事中に出てくる故事成語だったり言い回しだったりを、筆者が想定している「若者」より上の世代だったらみんなが知ってるかと言うと、そうでもない気がしますね。 

 

あと、 

>難しい言葉なんか知らなくたって、コミュニケーションは成り立つ。 

・・・って言うのを「不勉強」だったり「教養不足」の言い訳にしてる人は多いような気がしますね。 

 

まぁ、確かに最低限のコミュニケーションは成り立つのかもしれませんし、ビジネスシーンとかではそれでもいいのでしょうが、プライベートな部分でその辺の教養がない人とのコミュニケーションは正直面白くないですね。 

 

こちらが「勉強になった」とか「知識が増えた」っていう楽しみもないですし。 

 

 

・いや、これらはやっぱり学校の先生がしっかり教えていないというのが一番の要因だろう。その先生でさえ実は知らなかったとか。「常陸」ぐらい行政地名だったんだから教えとけよなと。今後まさしく「負の連鎖」になってしまいそうだ。 

ちなみに、「サイは投げられた」というと、昭和歌謡で高橋真梨子がうたった「ジョニーへの伝言」にも出てくる、「五番街のマリー」のアンサーソングとされているが、いまは知らない人多いか。 

 

 

・言葉を知らない人が増えているのは間違い無いと思います。自分の子供ですら、学校で教わらないし、今の時代はそんな事習わないのが常識とか、平気な顔して恥ずかしい事をさも正論のように言います。この前は、職場で、毎月定期的に行う事を「月並み」といったら、意味が分からないと言われました。 

 

 

・そもそもそんなに日常の会話では 

あまり使われないですよね 

じゃあなんで耳にしたことある 

意味がなんとなくわかるかと言うと 

時代劇、戦国物、あと小説、など 

からの情報収集が私はほとんどです 

正月の戦国時代劇、夕方5時からの 

水戸黄門などの時代劇もやらなくなり 

まぁ各部屋にテレビがなかったから 

誰かが見てたら一緒にみると言う環境 

だったしね 

 

 

・いま(も)話題の古典教育の要否に関する議論に一石を投じる意図をもって書かれた記事と拝察いたしました。 

 

大筋では賛同しますが、やはり言葉は時代とともに変化していくものです。 

 

(年がばれるかもしれませんが)私が若い時にも年配者から、”最近の若い者の言葉使いはなっとらん!”とさんざんお叱りを受けました。 

 

今故事成語として使われている用語にも、オリジナルの意味から考えると誤用に近いものもあります。あるいは”病膏肓(こうこう)に入る”を“こうもう”と読み間違えてしまうことさえあります。 

 

最終的には辞書にも載ってしまう用法も出てきます。 

 

言葉の変化にはおおらかに対応していきたいものです 

 

 

・私が大学在職中,同僚の中国文学者から聞いたこと。「文書には,それよりも過去の文献や故事を下敷きにして書かれた箇所があるので,『あれだな』と推定できないといけません」。 

 

これは,私が「文献中に『猿』(中国語ではテナガザルを指す)が出てくるが,当時その地域には同種がいたのだろうか?」と質問したときの答えの一部。彼によると,「猿が鳴く」は定型で,本当に鳴き声を聞いたとはいえませんね,と。 

 

先日のTV韓国時代劇『御史とジョイ』では,科挙(公務員採用試験;中国から朝鮮にも移植された)の問題として,『孟子』の文言が出題されたといっていた。中国,朝鮮,日本にはそういう知識を重視する傾向があるが,欧米でも「それ,シェークスピアですね」というハイセンスの会話がある。 

 

本記事は「敵に塩をおくる」を知らない若者がいると嘆くが,私も「猿が鳴く」は知らなかった。程度問題であり,どっちもどっちといえる。 

 

 

・いやいや、若者というか、歴史や国語に興味のない人は知らない言葉ってだけでしょう。そういう人は老若男女問わず居ます。 

 

若者だから、っていうレッテルを貼って世代で区切る意味はないかな。 

年配の方のほうが知っている率が高いのは単に人生が長い分どこかでそうしたものに触れる機会がある可能性が高い。ってだけかと。 

 

 

 

・お笑い芸人とか某ミリオンセラー作家が漢文とか古典要らない人生に役立たないみたいに言ってるのを見ると、日本人の劣化が進んで嘆かわしいと感じるばかり。 

特に作家氏は日本の成り立ち、歴史を本にしたのにそんなことを寄稿していてなんだこりゃってなった。漢字を元に作られた仮名文字すら否定しかねない、まるで近隣の反日感情全開国みたいな? 

国の歴史、文化、風習…これらを軽んじる思想が簡単に出回るとは、日本国の崩壊が相当に進んでいると考えざるを得ない。 

 

 

・歴史的な事例での故事成語なら今後も生き抜きますが当時の生活から来たものは淘汰されても仕方ないと思います 

芋を洗うや絵に描いた餅とか現代社会を生きている若者にはピンとこないでしょう。芋は泥を落とされて出荷されているし餅はチョットお金を出したら容易に買える物。かくいう私も うだつが上がらない は意味として知ってはいたものの うだつ そのものを見たのは修学旅行で古い建物についていたのを見たのが初めてでその後見た事ありません。現代生活で実感できない物を例えに使われても却って意味不明になるのでは。言葉は変遷していくものではないかなぁ 

ちなみにうだつを見た時”こんなわずかな障壁で火を防げるのか?”でした。うだつを上げてもあんまり意味ないよね 

 

 

・若者とは言うが20年前でも既に同じような状況だったと思うけどね 

その言葉に触れて記憶に残るような印象を受けるなら嫌でも覚えるしそうじゃないなら忘れてしまうだけ 

個人的には本当に覚えて欲しい言葉はその場で説明するしどうでもいい言い回しなら伝わるように言い換えるだけだ 

 

 

・「若者」と一括りにするのは若者に失礼ではないだろうか? 

 

日本は次第に貧困国化しつつある。つまり「貧すれば鈍す」そのままだ(分からない人の為に説明すれば「貧しくなればバカになる」だ)。 

 

恐らく多くの貧困な国に見られるように、一部の比較的富裕な層は一般教養があるがその他の貧しい層は一般教養が無い、そういう国になって来ているのだろう。 

 

一般教養を大事にしない親の子は、その価値観で育ち、自分の子にもその価値観を引き継がせるものだから、一度そうなればもう簡単には変わらない。 

 

日本人が一般教養を大事にする価値観を育んで来たのは、江戸時代から連綿と続く文化だったが、たいがいの文化とは生活にゆとりがあって初めて生まれ引き継がれるものだ。 

 

「貧しくなるという事はバカになる事」まあ、そのまんまだな。 

 

 

・この記事の本筋とは違いますが、常陸が読めない件についてはテレビのニュースで見ました。 

メジャーな地名であれば、熱海や神戸などの難読地名だってみんな読めますが、常陸は無理でしょうね。 

常陸が使われている市名は、たぶん常陸太田市くらいでしょうし。 

「ひたち牛」とか平仮名にするしかないかなあ、と思いました。 

 

ちなみに私、子供の頃は日暮里や春日部が読めませんでした。 

 

 

・確かに「知らなくても困らない」生活はできる。 

知ってて「得」したことは少ない。 

こういう意味の言葉が無い外国でも、何の支障もなく会話している。 

 

でも、こういう言葉がありそして使える日本、日本語が好きだな。 

 

 

・上司に見直されるならいいですが、あんまり昔の言葉や故事成語使っても、何だこいつめんどくせ、そんな事よりコミュ力や仕事出来るようになれよって思われるかと 

最近の若い人は活字離れで日本語がおかしいから本や新聞読めとか、昭和末期の頃から今まで言われてるし、当時の若者ももう中高年で、言う側になったよ 

今言われてる子らも30年後には言うんだろうな 

 

 

・自分は高卒で学が無いが語彙力だけは自信がある。 

本は余り読まないが、ネットの記事でも分からない言葉や文字が出てくるとコピペですぐに検索できる、こんな便利な機能を使わないのは勿体無い。 

微分積分や素因数分解なんかはサッパリだけど、語彙力が有ればちょくちょく賢い人と勘違いされる、それがなかなか気持ちいい。 

占拠シリーズの登場人物も全部読めますよ。 

 

 

・江戸期どころか戦前の日本語すら読解不能 

古いどころか平成期まで作られていた寅さんの標準語(江戸言葉?)ですら使わなくなった言い回し多数 

喋り言葉はそれでも伝わりますが問題は文章日本語 

古文書まで行かなくともせめて明治期以降の文章日本語程度はすらすら読めるよう義務教育の過程で訓練すべきかなとは思います 

海外でも例えば100年前の英文を現在の米英人が読めないなんて事象はあるんですかね? 

 

 

・マンガやゲームからでも、言葉や漢字を学ぶこと結構ある。この大学教授はそんな事もわからんで、スマホゲームばかりやる若者が・・・なんて、よく言えるな。 

 

自分そこ、マンガ読んだりゲームやったり見識を広めては?と、思う。 

 

こういう言葉が伝わらないのは、様々な要因が重なり合っての事。 

 

核家族化が進んだ事に触れないのも、この筆者の感覚が偏ってる証左。 

 

 

 

・こう言っては何だが全員が知的に優れ教養に満ち溢れているわけではないから、その時代で「重要な知識」を最優先で脳内にため込むことが生き残りに必要だ。中高年が歴史に詳しく難しい(?)日本語でも問題無いが、一方で「最新ンのアプリ」はまったく使えない。TVでは盛んに「東大生クイズ」みたいなものをやって「常識あるか?」みたいなアプローチがあるが、世代によって「必須の常識」も変わるモノだ。こういう「今の若者は・・」的な議論には意味が無い。これから何百年たっても同じ事が起きている「だけ」だ。 

 

 

・インパクトのあるひとことで、普段使いまわせそうな言葉は記憶に残りますね。 

少し前だと「記憶にございません」、「いいとも」。 

時代は下って「来たらすぐいる?」、「おもてなし」。 

最近では「映え」や「TKG」など短い言葉が増えました。 

 

 

・故事ことわざ辞典 

慣用句辞典 

ビジネス文書、季節の挨拶等 

どの時点で学ぶ機会があったか? 

かと 

小学生から社会人、教育の機会の問題 

(自分の意識、家庭の意識、会社の意識と…) 

今の世代の多数が知らないなら今後、「知らない」(不要)が主流になるだけかと 

現代国語とかは常に変化、進化しているのだから 

 

季節の挨拶なんかも気候が変われば今の季語の様に実際と合わなくなってもこよう 

 

 

・> 「うだつ」とは、家の建築で梁(はり)の上に立てる短い柱。 

 

との意味もあるようですが、一般的には自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を指すのでは? 

防風、防火、装飾の意味があるようですが、装飾に重きを置くようになり高価になった事から「うだつが上がらない」と出世しないとか裕福になれないとかいう意味になったとか。 

 

 

・テレビを見てアナウンサーが使っていると引き継がれて行くとは思いますが、テレビを見なくなってネットばかり見ている層が増えるとこのような言葉は廃れていくかも知れませんね。 

 

 

・故事成語や喩え話は会話の潤滑油。表現の幅も広がることで冗漫な言い回しやくどくどしい説明を防ぐ効果もある。ただ、本当の知性や教養は他者に対する気遣いや理解度とセットのもので、単にこうした知識をひけらかし相手構わず繰り出していては空回りするばかりだろう。 

 

若者が古くからの言い回しに通じなくなったという論調があるが、言葉が時代を超えて淘汰され、あるいは変化していくのはある程度仕方ないこと。秋の日は釣瓶落とし、灯台下暗しと言われてももはや釣瓶や灯台自体を目にすることが無い以上は無理からぬことだろう。 

 

それでも生き残っていることわざや故事成語は便利でもあれば言い回しのテンポがよく現代にも通じるシチュエーションが多く用いやすいなど、何らかの理由があるのだと思う。 

 

 

・言葉は生き物と言いますが、このような故事由来の言い回しも残るものと廃れるものがあるのが自然でしょう。無理矢理使う必要もなく、研究者が資料として残すものだと思います。 

 

 

・英語早くから覚えさせられて、故事成語もことわざも入る余地なしなんじゃないの?そして大人が気取ってカタカナ使いまくるから、若者は伝統的な言い回しを聞く機会ないよね。ことわざも故事成語もカタカナも英単語も覚えないといけないなら、50年前の倍以上の記憶力必要では?今の大人は、カタカナ分からないで苦労してるけど、若者も昔の言葉分からなくて苦労してるのかな。それとも言葉は移りゆくから、とか言って気にしないのかな。 

 

 

・いや、勘違いをしている。この記事の理解は適切ではない。 

 

「語彙力」という言葉の意味の差というべきか。 

「豊富な活字知識の蓄積がある中高年」は、別に豊富な活字知識があるわけじゃない。今よりももっと、情報が制限されていて、共通して理解している言葉が多かった。より限定された情報のなかで、同じ言葉に触れる機会が多いために、それが共有されてきたと。 

 

現代の若者が触れることが「できる」情報はそれよりも圧倒的に多い。 

そのため、故事成語のような言葉も「常套句」ではありえない。 

 

彼らには彼らの「語彙力」があるのだと理解した方が良い。 

我々のような中年と、若者とは、語彙の範囲にズレがある。 

 

若者からしたら、中年の方がよほど語彙力がないとも言える。 

彼らには彼らの豊かな言語空間がある。 

 

ただ、文化的な意味においては故事成語や四字熟語、古くからつたわることわざは大切にしたいですね。 

 

 

・言いたいことはわかるが、じゃあ若者間で通じるネットミームが年配に通じるか?という話で。 

そう切り出せば歴史は知ってて当たり前だろ若者が悪いみたいに年配は言うが、新しい言葉は今のことで若者が未来を作るのに今の話が通じないのは年配の方なのだ。 

敵に塩とかもそもそもの話が創作説が濃厚だしな…結局伝わると言うことは知っているかどうか。わかりやすく言えば20年前まではテレビの流行りがみんなに通じたが今はテレビの流行りなんてなくほぼ通じない。それくらい時代の流れは早い。 

日本史は学んでほしいとは思うが、ここ50年でもことわざの誤用が正しい意味で使われる例はかなりあるしな 

 

 

 

・むかしはスマホでなく本で暇つぶししてたからね 

スマホの広告表示のように、自分の検索に沿って出てきている情報じゃないから、幅広く知れた。 

今はAIが勝手に気を利かせて、「あなたの興味のあるもの」しか表示しなくなったから、どんどん狭い情報源になる 

 

 

・いつの時代にも無知な人はいると思うがね。 

故事成語にしたって、みんな何でもかんでも知ってるわけじゃないでしょう。自分が知ってる知識を知らない相手がいたからといって直ちに無知扱いするのも視野が狭い。その相手は自分が知らないことを知ってる。 

 

 

・何か二つの言葉を無理やり共通話題にさせようとしてるところが苦しすぎるのだが、 

 言葉が無くなる一番の理由は『別語で便利な言葉があるから』で、 

耳障りの良い言葉にどうしても寄りがちになる。又、ネット文化が主流の時代はなるべく短文で構成されがち。 

 

後、大人になって思うのだが、慣用句や故事成語を何処で使うの? 

個人的には、親父ギャグと同じで放ったが最後引かれるのがオチだと思うんだけど。 

 

 

・本なんて読まないし、古典教育は要らないってテレビで放言して恥じない著名人がいるくらいだからなぁ。 

 

英語なんて教えている場合じゃないんだよ。 

高校での選択科目でじゅうぶん。 

あとは大学で学べばいい。 

英語教育はコンプレックス産業。 

背を伸ばす薬とか髪をはやすローションとかと同じレベル。 

日本の英語教育はダメだって言ってるのに、学校以外で自分で努力して学ぶ人はほとんどいないのが現状だ。 

 

 

・スマホという、なんでもすぐに調べられるツールをほとんどの人が肌身離さず持っているような時代なのに、 

自分が聞いてわからなかった言葉を調べないのはもったいないね。 

 

 

・若者を貶すという目的ありきで記事を書いてるから内容がめちゃくちゃだし、筆者の主観だらけだね 

 

「年配者なら長い人生の途中で何度かは耳にして、多くの人が意味をだいたい知っているはず。」 

自分でこう言っているのに、それを若者に求めるのはおかしいでしょ… 

常陸も40〜50代でも3割が読めなかったのだから、20〜30年も人生経験が違うことを考えたら騒ぐほどの差では無い 

 

活字離れと言うけど、漫画にゲームにネットにと若者は年配の人たちが思い込んでるよりもずっと活字と触れ合っている 

連絡手段もLINEなどの文字媒体が多い 

実際、難読漢字などは若者の方が読める場合も多々あるよ 

筆者は知識マウントしてる暇があるなら客観視できないことと、自分の主張に整合性が無いことを恥じた方がいい気がする 

そっちの方が読めないよりも致命的だと思う 

 

 

・>年配者なら長い人生の途中で何度かは耳にして、多くの人が意味をだいたい知っているはず。 

 

年配者は「長い人生」を送っているからであって、それより人生経験が短い若者が聞いたことなくても当たり前だと思うのですが。そうした時、「今時の若者は~」「スマホ、ゲームが~」とか嘆くより、まさしく若者の人生の途中にあった経験として話をするのが、先に生まれたものの務めではないでしょうか? 

 

 

・年寄りは史実、故事由来の言葉を知っているかも知れないが、 

若者はアニメや韓流に由来する言葉だったり聖地だったりを知っている。 

多くの人間は持てる知識の量に限りがあるのだろう。その時代、その時代によく語られる言葉を覚える。 

そういえば、昭和の30年代とか40年代とかのおじさんは飲むと軍歌ばかり歌うとバカにされていたが、私も今の若者から見ればフォークソングとか昭和の歌しか知らない年寄りだろう。 

 

 

・見える化 

腹落ち 

 

など、個人的に使いたくないような言葉も新聞では見られますね。 

それは別として、正しい日本語を学ぶ機会としての新聞には価値があると思います。若者だけでなく、日本語を使う全ての人にとって。 

 

 

・敵に塩を送る 

歴史の授業を受けていれば意味は分かる 

真面目に受けて無くてもフィクションノンフィクションを問わず本や映画テレビドラマから意味は伝わる 

新聞なら一応は高卒以上の記者だろうから歴史の授業は受けているだろう 

居眠りでもしていない限りは覚えていて当然の諺 

上杉謙信と武田信玄の関係も分かっていて当然 

今ならネット検索でもすぐに分かる 

ヘボ記者、と言われても仕方がない 

それともシャレのつもりで書いたのだろうか? 

公の席や公式な文書にはうろ覚えな言葉を使わないことだ 

仲間内なら笑い話で済むが、失笑だけでなく後から問題になることも有る 

 

 

 

・茨城県に仕事の関係で長く住んでいたけど、「常陸」を「ひたち」とよむ理由は最後まで分からなかったな。 

「ルビコン川を渡る」は新型コロナの尾身先生がよく使っていたから、それで若い人にも膾炙したのでは。 

 

 

・古典無駄議論と同根だな。教養を限定的にしか考えない視野の狭さが問題。役に立つ?若者言葉はわかるのか?そんな発言こそ知恵の浅さの証明。本物の教養は統合に向かうもの。例えば、文系の言葉が理系の論理に役に立ったり、過去の出来事が現状分析、未来予測に繋がったり。 

 

 

・文章読本の類には、こういった手垢がついた表現は使うな、と書いてある。読本通りに書かれた最近の小説しか読んでいないと、慣用句を目にする機会が少ないのかもしれない。 

 

 

・古臭いから使わない、もしくは覚えなかったって若者、多いんだろう。そうでなくとも入試にでるわけでもなし。最近は、タイパの関係か遠回しにせず、後先考えずズバッと相手に斬り込むタイプが普通のようだし。 

 

 

・こういう「今の若者は」的な記事を目にするといつも思うけど、別に若者だけじゃないって。 

どの年代にもわからない人は一定数いるし、若者でもちゃんとわかってる人はいる。 

ただ最近は、わからない人の声が大きくて目立つだけ。そこがスマホ(SNSとか)で可視化されただけ。 

 

 

・「本」を読ま無いのが最大の原因だと思う。漢字にも語句にも接する機会が少なくなり過ぎていて、話の主旨すら伝わっていないと感じる事が多々ある。もしかしたら現代の国語能力は江戸時代より低いんじゃないの? 

 

 

・故事麗句ではないが、現代では頻繁に使われているが、昔はそうでもなかった言葉を羅列してみると、 

「カワイイ」:昔は人(赤ん坊)、動物以外には用いなかった。 

「お疲れ様」:挨拶としては用いなかった。本当に労苦の後でのねぎらいの意味だった。(戦地からの生還とか) 

「こだわり」:現代と違い良い意味ではなかった。(執拗さのニュアンス) 

「大丈夫」:Yes/Noの意味はなかった。 

「ヤバイ」:「拙い」、「危険」と言う意味以外はなかった。 

 

 

・これだけGPTなどが発展してる状況で、「断片的な知識の塊」は無くていいとおもいますね。故事成語から発展して、その時の歴史的状況や流れをつかむならともかく。 

 

 

・語彙がないということは、その背景知識がない、つまりは歴史を知らないという事。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (ビスマルク)歴史を知ることは、社会や生活を俯瞰しイメージし、その変遷を思考する事。つまり、推測予測能力に基づく思考力が低下する事。そういう人たちの思考は非常に浅く身近な経験則に脊髄反射するのみであったりする。 

 ちなみに新聞購読率は25%、紙の新聞を読んでいる人が20代では6.3%、10代ではわずか2.5%なので、新聞はもはや標準ではない。 

 

 

・たとえば常陸なんか、誰かに教えてもらうか、ルビ付きの書物で読んだりして知るものだ。読めない漢字や分からない語句等、今はスマホ・パソコンで以前より簡単には知ることもできる。要はそれだけの努力をするか、分からないままでいいやって放ってしまうかだ。 

 

 

 

・うだつの意味合ってるか?屋根の上の防火壁で(だから水鳥の名がある)「うだつも立てられない」つまり出世して金持ちになれない意味だと聞いたが。まあ諸説あるいいかげんなシロモノだという事だろう。 

塩を敵に送るにしても実際は逆で、謙信は武田に塩が流通しないよう封鎖してたって話も聞いたし。 

きっと『義経=チンギス・ハーン説』みたいに「日本人はこんなに身も心も美しい偉大な民族だ!」とわめきたいだけの幕末の愛国右翼国学者が捏造しただけなんじゃないの。 

故事ことわざなんてその程度のものだよ。知ってても教養があるとは思わんし、逆にひけらかしてると下品としか思えないけどね。 

 

 

・古事成語と言う奴ですね。少し前に、古典は勉強しても意味がないと言うような記事がありましたが、この様な古事成語も、元になっているのが古典の一部であったりしている訳で、それを知っている事で、こう言う言い回しも理解しやすくなるメリットがあります。この様な事からも、古典を学ぶ事は決して無駄ではないと言う事が言えると言う訳です。 

 

 

・敵に塩は史実とは若干異なるんだよね。 

塩を送ったというよりも、販売の規制をしなかったってだけの話。 

いずれは和解の道を探っていたので、他家に同調して塩止めに参加するようなことはしなかったんだよ。 

 

 

・知っている人は使えばよい。知らない人は調べればよい。そこは昔から変わらない。 

 

変わったのは、知らないときに調べる方法が増えたこと、その方法が容易であること。 

 

 

・ジョージ・オーウェルの1984年という小説を思い出した。 

ビッグブラザーという独裁者が支配する世界(ディストピア)において真理省という国の機関で働く男の仕事は「辞書から難しい言葉を削除すること」。 

これにより人々から複雑な思考をさせる力を奪うそうだ。 

なんかこの記事見てそんなことをふと思い出した。 

 

 

・>年配者からは「ほう、なかなか学のある奴だ」などと思ってもらえるかもしれません。 

 

それはどうかなあ。年配者の側に学があるとは限らないから。 

「今日のプレゼン、彼の独擅場(どくせんじょう)でしたね」と本来の正しい日本語で言っても、上司が「独占場?独壇場(どくだんじょう)だろう、モノを知らない奴だ」と思うかも知らないし。 

「綺羅、星の如く」「間、髪を入れずに」と正しく言おうものなら「変なところで切るなあ。“きらぼし”“かんぱつ”だろう」とか思われそう。 

 

 

・まぁ…。 

 

僕も語彙はあるほうですけど…。それでなんか悦に入ったとかそういうのはないな。どっちかというと相手のレベルに合わして難しい言葉は使わない感じですね。昔の言葉もいいけどさ。今のネットスラングや若者言葉もなかなかおもしろいですよ。 

 

どっちも憶えるとより日本語が好きになるとは思いました。本はねぇ…。幼少期の読書経験がモノを言うから(素質)、僕は無理に読書しろとは言うつもりはないな。得手不得手があるので。 

 

 

・語彙力はあらゆる場面で重要 

国語の授業でも英語の授業のように単語や熟語をしっかり学ぶ習慣をつけたほうがいい 

 

その上で、あまり例え話や慣用句を多用しすぎるのもおっさん臭くて好きではない 

 

 

・今って『なぜ、どうして』を言いにくい世の中になったんだと思った。 

質問する事される事に時間を割く人が減ったのと、今どきに限らずネット民はすぐにググれとか言う。 

勿論自分で調べる事大切だし、簡単に解るから人に聞くのは怠け者だと思う人いてもおかしくない。 

 

でも言葉って読書だけじゃなくてコミュニケーションからも理解が深まるものなので、やっぱり大人が子供に話しかけるのを怠けたからだと思う。 

頑張ろう。 

反抗期育児。 

 

 

・言われてみれば「敵に塩を送る」は子供向け歴史マンガでも出てこないしな。オレもなにかの本でたまたま見たあとに大河ドラマ「武田信玄」でこのエピソードを再確認したくらい。 

 

 

 

 
 

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