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小学校で広がる 「卒業文集」廃止の動き 背景に先生の業務過多も保護者たちの反応は?

AERA dot. 3/14(木) 16:32 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/d199210f44f58bc44436695de04f3a856d05ffc5

 

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小学校の卒業文集が廃止される傾向があり、教員の人手不足や業務負担の増加がその背景にある。

多くの小学校では、卒業文集の制作には膨大な労力が必要であり、テーマの決定から清書に至るまで多くの工程を経ている。

しかし、文部科学省が2020年から導入した『キャリア・パスポート』という記録ツールがあり、これが卒業文集の代替として機能している。

教育現場では、活動を記録する方法も変化しており、新たな取り組みが求められている。

教師の人手不足や業務負担の中で、教育の充実を図る工夫が行われている。

(要約)

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かつては当たり前にあった「卒業文集」はなくなってしまうのか。写真はイメージ(PIXTA) 

 

 3月は、別れの季節。そろそろ小学校の卒業式ラッシュが始まる頃だが、最近、6年間の学校生活の集大成である「卒業文集」を廃止する小学校が出てきている。背景には教員の人手不足や業務負担増があるというが、大人になって当時を懐かしむことができる“思い出の記録” を削らざるを得ない教育現場の実態とは。 

 

【図】「なめているのか」。教員たちを困惑させた、裁判所が仕分けた残業内容 

 

*  *  * 

 

〈本年度より6年生の卒業文集を廃止いたします。文部科学省から示された大幅な授業時間数の見直しによって、卒業文集作成にかかる時数の確保が困難になったためです。卒業アルバムは卒業文集を除いた構成で制作いたします〉 

 

 神戸市立多聞東小学校は昨年11月、学校だよりにこんなお知らせを載せた。 

 

 文部科学省は教員の働き方改革の一環として、全国の小中学校に対し、年間の授業時間数が国の定める標準値を大幅に超えないよう求めている。その要請を受けてカリキュラムを見直した結果、文集制作をやめることで授業時間数を圧縮するという決断に至った。多聞東小以外にも、札幌市立和光小学校や北九州市立大里柳小学校などで、同様の決断がなされている。 

 

 とはいえ、大半の小学校では1~3月の3学期を通して文集の制作が行われているわけだが、教員の負担はどれほどのものなのか。多聞東小を所管する神戸市教育委員会で学校教育課課長を務める坂田仁さんは、元小学校教諭の経験から、その膨大な業務のフローを明かしてくれた。 

 

■文集制作にかかる膨大な業務 

 

 まずは、作文のテーマ決め。6年間で印象に残った思い出を書くのか、はたまた将来の夢か、児童が書きたいものを一緒に掘り起こしていく。中には、アイデアを言葉にできなかったり、もはや何も思い浮かばなかったりする子もいるため、休み時間や放課後を使って個別に対応することもままある。 

 

「テーマが決まったら、原稿の下書きを添削して、構成の不備や誤字脱字がないかを入念にチェックします。文集は卒業後何十年も残るものなので、子ども自身に悔いが残らないよう、必要に応じて何度も書き直しを指示します。一昔前であれば原稿を持ち帰って自宅で添削する教員もいましたが、今は紛失防止のため認められず、学校で作業するしかありません。また、プライバシー保護が叫ばれる時代なので、同級生の個人情報に触れる内容があると保護者からクレームが入ることもあり、基本的には自分のエピソードを中心に書くよう指導します 」(坂田さん) 

 

 その後、下書き原稿が完成したら、次は清書に移る。いまだに昔ながらの“ペン書き”が主流だが、デジタルネーティブ世代がゆえに悪戦苦闘する子も少なくない。間違えた場合、修正ペンや修正テープを使うときれいに上書きできないことがあるので、原稿用紙のマスの形に切った白い紙を貼るという手の込んだ処置を施す教員もいる。 

 

「最後は、ダブルチェック・トリプルチェックの観点から、先生同士で協力して、お互いが受け持っている児童の原稿を確認しあいます。それが終われば、完成した原稿を製本業者に渡すことができますが、ホッと一息つくのもつかの間、製本された文集に不備が見つかって刷り直しが発生するケースもあります」 

 

 文集制作だけでもこれだけの業務が発生するわけだが、教員たちは日ごろから、テストの採点、ノートのチェック、児童間のもめ事の仲裁など、多岐にわたる仕事に追われている。 

 

 

■「デメリットはあまり感じない」 

 

 坂田さんは、数十年前とは明らかに異なる教育現場の“逼迫(ひっぱく)”を感じるという。 

 

「背景の一つには、保護者への説明責任が重くなったことがあると思います。子どもがケガやケンカをした場合、経緯や状況について親御さんから説明を求められる場面が増えました。トラブルを把握していなかった場合は、把握していない理由も説明できないといけない。日頃からクラス内の様子に、目だけでなく心も配っていないと、対処できません」 

 

 加えて、教員の人手不足も年々深刻化している。まさに働き方改革待ったなしの状況の中、多聞東小は今回、文集の廃止という大きな決断に踏み切った。 

 

 だが坂田さんは意外にも、「文集がなくなるデメリットはあまり感じない」と話す。 

 

「文科省は2020年から、小学校から高校までの活動を記録する『キャリア・パスポート』というツールを導入しています。これは子ども一人ひとりが自分の学びを振り返り、シートに記入するもので、“学校生活の記録”という卒業文集の役割を肩代わりできます。学校側も保護者にきちんと説明されているのか、クレームが入ったという話は聞きません」 

 

 普段の授業をより充実させるためにも、時間を捻出しようとする工夫は、他校でも見られる。たとえば、「運動会を丸1日から半日に短縮して、全学年での練習が必要な競技は取りやめる」「音楽会は子どもたちの成長段階に合わせた難しすぎない曲を選ぶ」ことで、行事の準備時間を圧縮するといった事例があるという。 

 

 課題山積みの教育現場で、今、本当になすべきことは何か。子どもたちの思い出作りやその記録の方法も、前例踏襲では立ち行かなくなっている。 

 

(AERA dot.編集部・大谷百合絵) 

 

大谷百合絵 

 

 

( 149138 )  2024/03/14 21:54:16  
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(まとめ) 

卒業文集に関する意見は様々でした。

一部では教員の業務過多を指摘し、文集の廃止を支持する声もありました。

一方で、卒業文集が子供たちの成長や思い出に繋がる大切な機会だとする意見も見られました。

文集作成に関わる教員の苦労や子供たちへの思いを感じさせる意見も多く、過去の文集の重要性や学びとしての意味が再認識されるコメントもありました。

教員と保護者、そして生徒が共に意見を交わし、前向きな方向での変革を模索する必要があるように感じられます。

( 149140 )  2024/03/14 21:54:16  
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・何年か前に引っ越しをすることになり、物置を整理していたら小学生時代にいろんなものが出てきました。その中の一つが、シミだらけになった卒業文集。まるで子供時代の自分と会話するような気分でした。実際、書いた当時も大人になった自分、年を取った自分に読ませるつもりで書きましたから。 

ただ、担任の先生から何度も書き直しを要求されたことも思い出して、なんだか自分らしさに欠けるもののようにも思えました。自由に書かせてくれた隣のクラスが今もうらやましく思えます。 

教員の業務過多の原因って、教育委員会や文科省から余計な仕事を押し付けられてるせいではないでしょうか。また保護者対応が増えてしまってることも要因でしょうか。子供と向き合う時間を奪ってるのは、周囲の大人ではないでしょうか。 

 

 

・文集こそデジタルを活用するべき。PCやタブレット入力で下書きをすれば、児童は間違っても書き直しやすく、教員も確認しやすい。 

もちろん子供の時の筆跡込みでの思い出だと思うので、最後だけ鉛筆で清書すればOKじゃないかな。 

私が子供時代に作文が嫌いだったのは、間違ったら書き直しが面倒だったからというのが大きな理由でしたが、そのハードルを取り除いてあげるだけで、意外と筆が進む子も出てきそうな気がします。 

先生も忙しいとは思いますが、親としては思い出を残してあげてほしいですね。 

 

 

・昔は、卒業文集だけでなく、学年の終わりに文集を学校の印刷機で印刷し、製本は難しいのでは製本だけ印刷業者にお願いしていたことを思い出します。 

 

ストーブのない寒い部屋に印刷機があり、大変でした。 

 

作文が苦手な子どももいるので文章の添削も大変です。 

 

最近は、卒業アルバムに将来の夢や小学校の思い出を掲載しているのが多いと思います。 

 

 

・学校には教員以外に必要な職業がでてきたという事だとも思います。 

それこそ卒業文集作り、テストや宿題の添削、子ども達の写真をまとめたり、プリントを作ったり、給食準備の補佐、各イベント時には準備から駐車場の案内等。人手が足りない瞬間は常にあります。 

担任や教師が生徒や授業に安心して向き合えるように、裏方というかサポート業務。名称はちょっと解りませんが… 

今のままでは先生も生徒も苦しい状況が続く気がします… 

 

 

・アラフォーですが、高学年は 

自分達で製本した記憶があります。 

2ページ分印刷してある物を 

半分に折って重ねて 

ホチキスでとめて、製本テープを貼る。 

あの作業も楽しかったなぁ〜 

もちろん当時は読んで楽しかったし 

今読み直しても思い出が蘇って 

懐かしい気持ちになります。 

こんなだからアナログから 

抜け出せないんですよね。 

アナログの暖かさが大好きです。 

 

ただ、先生方の負担が大きすぎるのは良くない。 

 

 

・義務教育はどの子どもにもひとしく思い出や教育を与えるものだと思います。文科省のお考えは、子どもの発達段階に応じて、適切な科学的な根拠をもったものなのでしょうか。現場の先生方はどうでしょうか。主体は子どもです。文集製作は子どもと共にできるものです。小学生時代を降り返り作文を書くという国語教育にもなります。大事な教育の中身が奪われてしまう教育現場を悲しく思います。 

 

 

・確かにあれは大変な作業ですね。 

うちの地区の小学校は、卒業アルバムで集合写真以外で1人の子が3回以上写っているか先生が全員分確認しています。アルバムは何とか残すとなると、文集からなくす方がいいかもしれませんね。 

もっとアンケート形式で「将来の夢は?」「6年間で1番の思い出は?」など、書かせるだけでも将来見たときに当時を思い出せて楽しいかもしれません。労力の少ないように工夫できるといいですね。 

 

 

・70年代生まれの私が小学生の頃は、卒業=今生の別れとなる級友がクラスの半分くらいはいた。 

しかも私は転勤族で引っ越しを繰り返していたから、高校以下の級友は誰一人、お互い行方を知らない。 

 

でも、いまはスマホとかLINEとかがあるから、今生の別れというのはあり得ないし、卒業文集やアルバムなんかなくても、当時を偲ぶ方法なんていくらでもあるしね。 

 

でも、幼馴染みが誰もいないというのも、意外とイイものですよ。 

想い出を心の中にしまっておけるし。 

 

 

・学校現場はスクラップビルドのスクラップができておらず、ひたすらビルドするだけだったので、少しずつでもスクラップの動きが出てきたのは良いことだとは思いますが、全く足りません。 

学校の業務はここからここまでです、と一度はっきり示すべきです。 

地域や保護者から当たり前のように業務外の要望がくるのも拒否できないのも異常です。 

 

 

・今から四十年近く前、小学校一年だった時のこと。作文の授業で転校して行った親友への想いを作文用紙に二十枚に綴りました。 

先生はその後、つきっきりで放課後に手直しに付き合ってくれました。ちょっと遅い時間までやってたかな。懇切丁寧な指導でした。 

どうにかして四枚くらいに収めたころ、これを区の文集に出すと言われました。手直しは大変だったけど、自分の名前が文集に載ったのはとても嬉しかったのを覚えています。 

この記事を読んでそんなことを思い出しました。担任の先生の名前も覚えていますが、大変な思いをしたのは先生も同じだったんだな。でも嬉しかったな。と感謝の気持ちが蘇りました。 

 

 

 

・子供の数は格段に減っているのに昔よりもやる事が増えている。 

いかに、要らない業務が増えているかって事だと思います。 

 

子供達の学校では様々な行事が削られ短縮されています。 

運動会は午前中だけになり、お昼を食べる事が無くなりました。 

マラソン大会も来年度から廃止になります。 

縄跳び大会も、大縄跳びが廃止になり個人の記録のみになりました。 

学校で催されていた夏祭りも廃止。 

その他、自分が子供の頃には開催されていた諸々がなくなっていました。 

 

子供の頃は楽しむだけだったけど、大人になった今、あの当時のPTAや先生方は沢山苦労されていたのかなと思いました。 

でも、楽しかった。 

子供心にとても楽しかったし、今でもあんな事があったなって思い出せます。 

文集もその1つです。 

子供の為にも、教育委員は先生方の不要なものや大変なものを見直してほしい。 

 

 

・凝りすぎなんじゃないかな… 

私が卒業した小学校は小さな小学校だったので、3年生くらいから普通のアルバムに少しずつ写真やプリントを貼って行って卒業する時に一冊のアルバムを完全させていた感じです。写真は入学当時のものから。みんなと同じ写真もあれば、自分メインの写真もあります。 

昔はアナログのアルバムと写真でしたから… 

今でも大切な卒業アルバムです。 

廃止ではなく、何かしらの形で思い出は残して欲しいですね。大人になってからよさがわかります。 

 

 

・近年では書き初めを冬休みの課題としては課題として強制ではなく任意とした学校もあったり、学校では掲示する手間、家庭では掃除する手間が、といった負担が多いものを削ったりする傾向が近年は見受けられるように思います。 

でも掲示とかはかつてもやってきたような、教員側の業務負担は昔からそこまで増えてるとは思わず 

むしろ教員の負担をわざわざ増やしてる行動をしている保護者の存在の影が少なからずあると思います。 

卒業文集だって余計な負担がなければ普通にできる話ですし。 

 

教育って先生だけではなく家庭での生活も教育の一貫なのに、近年は何でもかんでも子供が悪いことしたら学校のせいにし過ぎですよね。 

そういった親が少なからずいるせいで、昔から続く文化が失われる事が非常に悲しいです。 

 

 

・文集の発行を希望するのであれば、保護者が添削をする形もあるのかなとは思う 

ただ、印刷会社にお願いする窓口は教員になるだろうし、集めた原稿を元に構成をするのも教員なので楽にはなるものの負担は残ることにはなる 

そもそも、指導要領上で文集作成については触れられてないから、卒業生に思い出を残してあげたいという教員の優しさで作成してたものだから、教員が忙しくて負担になるのであればやらなくてもいいんじゃないかな 

 

 

・先生方の働き方改革には賛成します。 

今まで、適正な対価を得られなかったことは問題だと思いますし、そこを改善しないまま、今後も継続するのは間違いだと思います。 

 

なので、卒業文集等、生徒が大人になった時に過去を振り返り、『こんなことを考えていたんだ』と自分の成長を実感するために今しか出来ない業務は、れっきとした教師の勤めだと思います。 

 

『作らない』で解決するのではなく、適正な対価を払って業務してもらう事が、解決策だと思います。 

 

 

・キャリアパスポートと文集は同義ではないと思います。キャリアパスポートは、現場に無理やりやらされている業務の一つで、卒業文集の重みとは全く違います。たくさんの業務を増やしてきた取組の一つでしょう。確かに文集は大変でした。近年は映像に変えてきている流れもあります。一年かけて撮ってきた画像や動画をムービーにして、卒業式に流すなとしますが、保護者の要望に応え、学校や自宅で一枚一枚を数十時間かけて焼き付けていきます。文集の方がまだ楽かもしれません。今年は配らないとなると問題にはなりませんが、卒業式後になんだか後味悪い雰囲気になります。誰かが勇気を出して中止しないといけないと思います。次の担任も苦労しますから。 

 

 

・私の通っていた小中学校は、やたら作文を書かせる学校で、毎年文集があったけど、特に添削されたりはなく、原稿用紙そのままをただざらばん紙に印刷したものや、パソコンで打ち直したものは、挿し絵や表紙は生徒が作ったりしてました。私はアラフィフですが、文集を読み返して懐かしい気持ちになります。今の時代の子どもは電子機器使える子も多いので、子どもからファイルを送ってもらったり、生徒が主体でやっても良さそうですよね。 

 

 

・原稿チェックが大変なのだと思います。昭和の頃ですが、私の小学校時代の卒業文集読むと、今ならはっきりとアウトなことが結構書かれています。友だちのあだ名(今ならダメなやつ)、先生のエピソード(今ならダメなやつ)など。昔はおおらかだったので書いたものそのまま印刷して出していたのでしょうが、今は親もうるさいし、文集は後に残るものなので細心の注意が必要なのでしょう。 

 

 

・今年も作りました卒業文集。 

 

校正チェックも大変ですが、業者さんが上手にやってくれるので助かりました。また、保護者ページ(家族からの寄せ書き)を増やしたことでバラエティの富んだ文集になりました。その分高額にはなってしまいますが以前より担任教師の負担は軽くなりました。 

 

二十年後、三十年後にあの時やっぱり作っておけばよかったと言ってもできないのが文集です。今しか出来ない思い出こそ大切にしてあげたいと思っています。 

 

 

・教員です。 

私は書き直しも誤字脱字や文脈程度ですけど、ちょっと前までは手書きでしたから、本当に大変でした。12月に入ったらテーマを決めて下書き。年越しに持ち帰って添削。1月は清書。この清書もペン書きなので、1文字間違えたら修正か書き直し。途方もない作業でした。 

パソコンやタブレット端末で提出するようにしてからは、格段に楽になりました。書き直しも素早くできますし、そもそも誤字も少なくなります。字が苦手な子も、スムーズに書き終えられます。手書きの「味」は無くなりますけど。 

大変ですが、出来上がった文集を見ると、感慨深いものです。あ、それが「やり甲斐搾取」と言われているのか…難しいですね…。 

 

 

 

・我が子の学校は卒業文集はないけれど、クラスごとに先生が任意で何か生徒と後で見返して面白いものを制作してくれるています。卒業年だけでなく、それまでの学年でもクラス終了の頃にやってくれていることが多く、ファイリングしています。 

 

先生方にとっても生徒を送り出す(学校、学級)というのは最もやりがいを感じる時で満足感と寂しさを感じる時ではないですかね。義務となると負担だけど、やりたいと思ってやれる範囲で何かをやって下さる方が多いのも事実かと。 

 

 

・卒業文集もカリキュラムの一つとしてあらかじめ組み込める余裕が欲しいと個人的には思います。 

 

卒業文集を単なる思い出作りと考えたら、止めるという動きになるのも理解はできます。 

 

しかし、作文も教育の中で身につけたいスキルの一つではないでしょうか。 

 

教育の集大成として、作文の書き方を教わりながら、自分を振り返ったり、目標を書いて文章に残せるなんて、最高の勉強の機会だと思います。 

 

 

・「先生のなりてを増やすために先生の仕事を減らす」という考えからの施策が次々に出されてますが、苦し紛れ、その場しのぎという印象をもちます。どれも「子どもにとってどうか」という視点から語られていないところに学校教育の危機を感じてしまいます。卒業文集は子どものためにあるはずなのですから、卒業文集が子どもにとってどうか、という視点で考えてあげてください。 

 

 

・30年ぶりのクラス会、思い出ムービーで写真以外に重要だったのが卒業文集 

個々の思い出だけでなくクラスの思い出がつまったタイムマシンになります 

止めることは簡単、なぜ卒業文集なのか、それは後で思い返した時に重要性が初めてわかります。 

 

手書きでなくてもスキャナでも、タブレットやスマホで入力でもなんでもいいと思います。一律に簡単にできるようベースとなるテンプレートさえ作っておけばそんなに時間はかかりません。 

せんせいがやる必要もないし、作るかどうかはここで検討しても良いと思います。 

 

 

・私が小学生の頃は、立派な印刷した文集では無く、ガリ板刷りの茶紙に表紙を色画用紙でホチキスで留めた物で、生徒達が自分達でアルバム制作委員を六年生になった4月に全クラスから数名選んで、一年掛けて作った。 

勿論、先生にも相談した。 

先ず作文は止めて、アンケート形式に六年生が回答する形式にした。 

 

今の時代なら子供達の方がパソコンの扱いには慣れてる。 

遠足や運動会や修学旅行、そして日常風景を添付する事も可能でしょう。 

個人情報となる住所は非掲載にして、一問一答形式で在学中の一番思い出に残ってる事を掲載するとか。 

 

小学生は特に6年間と長い。 

やはり思い出は残してあげたい。 

先生に頼らなくても生徒に任せては。 

 

 

・親や先生(特に親)が完成度の高さを求めすぎだと思います。私のころは印刷された「ざらばん紙」をクラスのみんなで半分に折って大きいホッチキスで止めて、自分たちで製本していました。もちろん中には書き間違い(誤字や脱字)もあって大人になって見返すと恥ずかしいこともあるけれど…でもそれも含めて思い出だと思います。先生方の苦労は大変なものだと思います。校閲がどうしても必要だというなら家で親がするべきだと思います。 

 

 

・体育祭も午前中のみとかもあるみたいですね…文集に関しては、作文じゃなくても、もう少し簡易化しつつ、6年間の思い出しかり将来はこうなりたいとかの要素はアンケート的に残しつつ、好きなことなどが描けるスペースを設けたら良いかも知れません。割り当てはA4を2分割か4分割などして。自筆が良いと思います。遡った際も読みたいとなります。こんな字を書いてたんだなぁとか。パソコンが得意な子はパソコンも良いでしょう。切り貼りで良いです。 

体育祭はスポーツが得意な子が活躍するでしょうし、文集などでは、クリエイティブな子しかり文章が得意な子の表現できる場に思います。空白もしかりです。ガッツリでなくて良いので文集は6年間の集大成的で良い文化に思います。 

 

 

・卒業文集の他に学年ごとの文集もあったような気がする。教師によって作り方は様々なだったが、まだ実家に゙あったか捨てたかよく覚えてないが、学校が忙しいなら廃止もやむを得ないとは思います。あれば何かの機会に思い出話に花が咲きますが、無ければないで特に困るようなこともない。でも人生は何らかの区切りでその時の思いを綴っておくと、未来から過去の自分を俯瞰するような感覚になれます。 

 

 

・自分の学校は卒業文集を作成する際に文集係を作っていました。毎回文集を可愛くしたいクラスで目立つ女子や絵の上手い子が立候補して文集に載せるアンケートやイベント時の思い出を載せたりして面白かったです。 

自分の時はいじめも無く、先生が言っていましたが良い意味で子供っぽい学年だったので楽しんで出来ましたが、生徒だけでっていうのも難しいんですかね。 

勿論先生も目を通していますが、最後の確認だけで印刷も学校で生徒達が印刷します。印刷した物を一冊にするのも生徒の仕事です。 

グループで目次や載せる順番、誰かが嫌な気持ちにならないように中身を考える、完成した物を先生に確認を取る、印刷に回す、一冊の本になる、今思えば大人になってもする勉強の時間でしたね。 

 

 

・小学校6年間のことを思い出して、自分にとって何が一番印象に残っている出来事かをじっくり考え、または将来に向けてどうなりたいかなどを考える、そして考えたものを記述する、これも文章作成の訓練であり教育の一環であると考えます。 

 

しかし私のような現場を知らない外野が偉そうなことを言っても、人手不足の中日々業務に忙殺されてる先生方の苦労を想像すると、廃止も仕方がないのかなとも思います。 

 

いずれにしても文集廃止のマイナス理由を考えると、何だか寂しい気持ちになりますね。 

 

 

 

・児童と教師が一緒になって作成する卒業文集がキャリアパスポートで代替できるとは思えない。 

 

しかし、教師の労働環境改善のためには仕方がない。 

 

試しに子どもに卒業作文を書かせると教師の苦労がわかる。 

 

 

これまで教師がサービスとして提供してもらったものの重さを感じ、感謝したい。 

 

 

・私が小さい頃から子供が卒業するまでの間は、年長の先生や校長先生が、先頭に立ち業務、花壇の草むしりまでしてましたね。 

保護者もその姿を見ていたので、信頼度は高くクレーマーは1%程だったと思いますが、今は先生の課題、業務が多い事と理不尽なクレーマーが多くなった事と、直ぐにSNSなどで投稿する親が居るので、学校全体で余裕がなくなってしまったのでしょう。我が家の卒業文集などは押入れの肥やしになってます。簡易的で生徒達で作るようにするとかが良いのでは?と3人の親が個人的には思います 

 

 

・教員の業務が増えるとどうなるか。 

子どもに手をかけることができなくなる。 

 

卒業文集だって、ただ書かせるだけでなく、添削を通して正しい言葉遣いを身に付けさせようとしている教員は少なくないはずだ。 

その卒業文集をやめるということは、教育の機会が一つ減るということだ。 

 

どうでもいいことを現場に押し付けて、現場の手間を増やすだけの文科省のもとでは、教育現場は押しつぶされてしまう。 

そしてその結果をもろに受けるのが子どもたちだ。 

政治が変わらないと教育も変わらない。 

もっと現場を大切にする政治をしてほしい。 

 

 

・自分の小学校(30年ぐらい前)は、自分達で製本した記憶があります。机を並べて一枚一枚、印刷された紙を集めていき、最後にホチキスと製本テープで完成。自分たちのクラス分だけだったような気がするけど、どうたったかな。 

 

もうすでに卒業文集はどこにいったかわからないけど(多分実家だろう)、作った思い出は今でも残っている。 

 

別に卒業文集という形でなくても、卒業なんちゃらみたいな活動でもいいだろうし、時代が変われば手法も変えて、子供に良い思い出が残ることは継続して欲しいとは思う。 

 

 

・完璧を求め過ぎてる部分もあるんじゃないかなと勝手に思っています。 

教員の負担はかなり凄いのは肌感で感じているのですが、他に削減出来る場所はないのかな? 

やはり小さい時の想いを大人になってから見返すのは人生に挫けそうな時や思い出を振り返るのに大切なアイテムだと思います。 

具体的な作成までの平均時間を校長が算出して 

タイムスケジュールにて簡素化して出来ないモノなのかな。 

 

 

・確かに正解、不正解の採点だけでなく、論文となると採点は大変でしょう。 

うちの子の卒業論文で「どんな人にも心を閉ざさない」って言葉を見た時は、こいつこの年でこんなこと考えてるのか、ある部分では俺を超えてるなと子供を1人の人格として認めるきっかけとなったことを思い出します。 

先生達のご苦労は我々の想像を超えるものがあるのでしょうが、小学生の教育の集大成として残して欲しい気もします。 

 

 

・こうやって何かを止めることは難しいことが多い。保育園で働いていた時も運動会やお楽しみ会、保育参観、季節の行事集会、誕生会、、地域交流、育児講座、園庭開放、一時保育など普段の保育以外にやることは増えていく一方。減ることはほとんどなく、更に行事の内容をパージャンアップしていく職員もいて自分たちの首を絞めているケースも多々ありました。やればやっただけ保護者が喜んでくれたりするけど、簡単な気持ちで一度レベルを上げてやってしまうとやめたりレベルを下げると苦情につながったりします。本当に続けていきたいものと内容は常に全体を考えて取り入れていけたら良いと思います。 

 

 

・うちの父は製本所を営んでおりました。毎年、あちらこちらの学校から 

先生が直々に沢山のプリントを持って来られてました。子ども達がお世話になっているからと、ほぼボランティアで製本していたのが懐かしいです。 

口コミで、本当に沢山の学校からお願いされてましたね。 

文集。廃止はとても寂しいです。 

しかし、先生方の仕事量をこれ以上増やすのも、、、。アルバムのように 

出費にはなりますが、上手く家庭とも何とか継続してほしいです。 

 

 

・文集にしてもアルバムにしても、学校の本来の教育活動に義務的な位置付けはないはずです。 

「卒業」の言葉が付くだけで、学校は何となくしなくちゃいけない、保護者もしてくれるはず、みたいな暗黙の了解のようなものがある気がします。(しかも文集に関しては実際にはあまり要望もない気がします。) 

業者に頼めばいいという意見もどこかで見ましたが、特に規模の小さな学校では容易ではないと思います。教職員がアルバムの撮影から構成まで負担を負う構図になっている学校も少なくありません。 

思い出は大切ですし、デメリットばかりではないというのもわかりますが、色々な視点で見直しが必要なタイミングなのかと思います。 

 

 

・小学6年生の時、卒業文集の原稿を書いた。何度も先生の手直しが入って、元々考えていたことや思っていたことは吹っ飛んで、元が何だかわからない作文になった。手直しされるごとに全部書き直しをした。あれが普通だと思ってはいけなかった。おかしい。自分も大変だが先生も大変だっただろう。なくしてもいいんじゃないかな。義務じゃないし、個人で作りたい先生は今後も作り続けるでしょうよ。 

 

 

 

・私の頃は、先生の添削ナシで自由に描きたいことを1人の割り当て分を書いて(描いて)いて、それを子ども達(編集委員)で集めて印刷したものを各々冊子にして終わり…という簡素なものだった 

 

出来た当初は、簡素な作りがイヤだったけど…今見ると逆に新鮮 

当時の字がそのままで味わい深いし、自分の幼い字も懐かしい 

 

今の時代は、記録って綺麗に整えられてデータ化されるから、アナログな思い出は逆に新鮮で良いと思うけど… 

大抵は、将来の夢や小学校の思い出とかまとめてるけど、グッドラック!と一言だったり、イラストだけだったり、趣味は〇〇と書いてるだけとか、色々あってホント面白い 

 

昔は自由だったのに、今は何も書けない(書かない)子の対応に手間暇かけて何かしら形になるようにしないとダメ教師の烙印押されるのかな…それが卒業文集撤廃に動かしてしまうなら残念 

 

最後の集大成に、子ども達に任せて自由に作らせても良いのに 

 

 

・今はスマホで色んな写真を撮れるようになったとは想うけど、簡単に撮れる写真はその他大勢の写真の中で埋もれて残って行かないような気がする。大人になったときやひととし取ったときに自分を振り返る機会を持つものとして、カビ臭くなった卒業アルバムは貴重な存在だとは想うけどな。お金やその時の手間が煩雑だと思うのなら仕方ないけど。 

 

 

・卒業アルバムの制作会社に長く勤めていましたがアルバム同様学校も大変だし我々業者も毎日胃が痛くなる時期です 

 

文集の原稿を学校から受け取って印刷所に回したころに「もう一度確認したいから返却して欲しい」という依頼が毎年あります 

アルバムの印刷業者は卒業式の逆算して入稿の締め切りを決めて言ってくるので入校が遅れれば納品が遅れて卒業式に間に合わなくなる事もあります 

 

そこからまた書き直ししたいので時間くれ 

そうすると卒業式に間に合わなくなるという説明をしても受け入れてもらえずに印刷所からはまだか?まだかの催促学校からは絶対に卒業式前日には絶対納品しろの言葉 

 

中には納品してから「マズい文章が有ったので全部やり直しして欲しい」という事も何度かあった 

そして必ず言ってくるのは「タダで刷り直しして家庭に配送していくれ」の信じられない言葉もあった 

業者や印刷場は学校の僕ではない、退職したから強く言いたい 

 

 

・批判も多いと思うけど… 

やはり学校生活を先生に任せっきりというのは違うと思う。PTA組織の縮小なんかは賛成だけど、子供の成長や思い出を作るのは学校と家庭が相互に協力していかないとできないと思う。 

限りある学校生活において子供達の振り返りであったり、将来の子供達に残せる貴重な財産は減らさないでほしいなと思う。 

 

 

・古いドラマや漫画が現代の基準でまずいことが多々あるように、個人情報保護の観点から住所録や文集もまずいと思う。たとえば、家に電話がないことや借家住まいであったことなど、大人になって経済格差を感じたことがある。悪意はなくても、文集から片親であることや、家族のプライベートが書き込まれたりするので、確かにチェックや先生のペン入れは大変だと思う。ネットオークションで有名人の子供のころの文集が売られる可能性もあるだろう。 

 

 

・最近の小学生は、文字を書く時間が今の親世代が小学生だった頃より格段に少ないねと親同士で話します。 

もっと漢字の練習を沢山したと。 

卒業文集は将来の夢とか、テーマを決めて、あとは生徒に自由に書かせれば良いのでは? 

もっと文字書かせないと、正しい文章書く力が少なくなるように思う。 

パソコン入力ばかりだと、変換した漢字が違うと気づけるのだが、正しい漢字が頭に浮かばないことがある。この、違うことに気づけるのは子供の頃に漢字を書いたからだと思う。そして、パソコンの変換に慣れたので、正しい漢字がなかなか思い浮かばなくなったと。 

最近のニュース記事、誤字脱字多いし。 

話し戻って、文字を書くのは大事だし、当時の自分が将来をどう考えていたのかも思い出せるから、卒業文集ない生徒はかわいそう。 

教員の労働時間削るのは、もっと他のことでもできそう。 

 

 

・アルバムの大変さは、実際に制作に携わった人間じゃないと分からないと思います。 

対価として給料が支払われるなら文句は言えませんが、卒業アルバムについては報酬ゼロ。全くのボランティアです。しかも積立金の管理も徴収も会計処理も全部6年担任の仕事になってしまっています。 

廃止についてはいろんな意見があるとは思いますが、アルバム制作は6年担任のボランティア活動になっている実態を(多分、戦後ずっと)多くの人に知ってほしいと思います。 

 

 

・先生の負担って大きすぎますよね 

中学教員だった父がプリントの準備とかテストの採点とか、家に持ち帰ってやってた記憶があります 

卒業文集が廃止になってしまうのは業務過多の中で仕方ないとは思いますが、デジタル採点のような業務効率化をもう少し検討して、卒業文集の廃止が一時期なものになることを祈ってます 

 

 

・短文でのやり取りに慣れすぎているせいか、長文を書かせるとかなりおかしな文章になる子が多いからなあ 

文集をやめてしまうのもありだとは思うが、作るのであれば内容的に問題がなければ校正せずに、そのときのその子の文章としてそのまま仕上げてしまってもいい気がする 

テーマとだいたいの文字数を先生が決める、あとは本人がすべて責任を持つといったように 

ポエムでもいいし、ちょっとした挿絵なんかもOKにして 

先生が一文一句添削したり漢字のミスがないようにチェックするなんてしないでそのまま 

それだけでも先生の負担はだいぶ軽くなる気がする 

きれいに整えられた文集より、個性満載のもののほうが読む気になりそう 

 

 

・結局のところは、教員に対する要求が年々増えて複雑化していく中で、何を優先すべきかということになるかと思います。 

イジメ問題にしても、昔は今ほど教員の責任だとは認識されていなかったと記憶している。 

イジメを隠蔽することは良くないが、イジメが起きるのは仕方がないという論調。 

ところが、最近はイジメを解決できなかった教員の責任が問われる時代になってきている。 

スクラップアンドビルドという概念があるように、段々と仕事や責任がビルドされていく中で、優先度が低いものはスクラップしていかないと現場が回らないでしょう。 

逆に言うと卒業文集を廃止せざるを得ないほど、現場は疲弊しているということだと思われます。 

 

 

 

・>> 背景の一つには、保護者への説明責任が重くなったことがあると思います。子どもがケガやケンカをした場合、経緯や状況について親御さんから説明を求められる場面が増えました。 

 

これめっちゃわかります。ひとりで35人みてるんだから、子どもなんだから大人の見えないところで色々やりたがるのまでは見られないだろう、という前提が通用しない。 

物理的に不可能なことなのに、保護者が怒鳴り込んできたら管理職は教員を守らず、安全管理ができてないとか言い出す。 

 

まじめに誠実に働いてる先生から病んでやめていきますね! 

 

 

・卒業文集廃止の理由は、3月は学校業務が増える時期で、例えば、1年間の成績のまとめ、卒業式の練習、お別れ会の準備、受験、期末テストと3学期の成績、卒業写真、3月は特別時間割になる、等です。そこに卒業文集が加わると ①添削/点検をするのに膨大な時間がかかる。②冊子にする手間/印刷に出す学校も〔会計処理〕。③自校で作る場合は紙の使用料が半端無い。④自校作成は作成時間が膨大、半端無い。④卒業式までに間に合わせなくてはならない〔卒業式後に取りに来る学校も出てきましたが〕。よって、やってはあげたいのだけれど‥‥、が実情です。 

 

 

・修正とか印刷とか、文字数などは今や電子化されているのでパソコンのタイプでカバーできる。まさか手書きでなくちゃ味がないなんて言う人ひないと思う。主旨は卒業の機に感慨をことばでその時なりに表現する、今までの日々に感謝するなどと思うから、印刷だの修正ペンだのはいらない、あとになってただ思い返せrば、そしてそれが前進へのエネルギーになればいいだけかと思う。 

 

 

・卒業文集は保護者の希望に応えるためにと言うより、ただこれまでやってきたからやっているという傾向が強いと思います。教育界や教員は、無批判に前年度踏襲する傾向が強く、文集以外にも作文や詩の審査会、図画工作や書写の作品展なるものを継続しています。(ちなみに、学習指導要領の国語科に、詩を書く内容などありません。) 

それらの作文や詩、作品のほとんどに教師や保護者の手が加えられており、どこまでが子供オリジナルの作品か分かりません。はっきり言って、やめた方がいいと思います。昨今の学校現場は、学習指導要領の標準時数をこなすだけでも大変です。 

 

 

・卒業文集を無くすことに賛成です。 

理由は以下の通りです。 

・子どもの写真が出来るだけ均等になるように行事ごとにカウントする必要があります。(最近、AIが子どもの顔をチェックする機能がありますが精度がまだ高くないようです。) 

・文集を三〜五回程添削する必要があります。内容は変えないように配慮していますが、誤字脱字が一箇所でもないように確認する必要があります。(パソコンで書くと負担が少なくなりそうです。) 

・1人でも欠席があったり天候が優れなかったりすると、集合写真がれません。(どうしても、登校が難しい子どもに対しては、業者さんが加工して下さる場合もあります。) 

・子どもの名前の間違いがないか、ページの順序は合っているか何度も確認する必要があります。 

・相場が9500〜10000円と、一部の保護者様にとっては費用面での負担が大きいです。 

 

 

・典型的な素人談議に流れていますので、嫌われるのを承知でひと言。そもそも添削する・しない以前の問題です。ひとクラス30人として、まともに提出できる子どもは10人。次の10人は催促しながら待ちに待って揃う。残りの10人は、現場を踏んだことのない方々には想像も及びますまい。ほとんど教員が書いてやってるようなものです。登校が常でない子どももおりますよ。保護者の方と連携を密にしながら最新の注意を払って作文指導することになります。 

 

 

・教員は負担が多いのなら、教員を増やして仕事を分散化させたら良いのではと思ってしまいます。 

子供の教育に熱心な先生が昔より減った気がします。父兄からの要望や、やる事が多く責任が多い割には、感謝されない…。 

確かに気力もなくなるのもわかります。 

無駄な労力が多く、本来の教育が出来てないのではと思ってしまいます。 

土曜授業も減り、6時間授業も教員の働き方改革の為に減る…。子供の未来が本当に不安です。 

熱意ある教育の為に私立を受験する子が多いのが残念です…。 

 

 

・やめるという変化が良い変化なのかはわからないけど、ずっと同じことをやり続けてきたことの弊害だと思う。 

時代と共にシステムや教育の在り方を変えてこなかった弊害。 

デジタル時代だからこそ本当は文章を読む、書くということがより大事なのにね。そういう時間が学校外ではほとんどないから。 

 

意見や感想がないなんて、世界から見たらものすごい遅れていると思う。政治や国家に思想が制限されているわけでもないのに。考えなくてもいいという自由を与えたのはテストの点数さえ良ければいいという教育だよね。 

 

 

・すごい決断ですね。羨ましいです。 

もう何度も6担をしていますが、2学期末から3学期頭は文集にかなりの時間が取られます。早い子は早いですが、書けない子は書けないので、聞き取りながら何人分も作文します。 

タブレットでの入力をさせていますが、結局昔からの手書きとさほど時間は変わらない気もします。 

卒アル自体も高いお金を払って皆さんいるのかな?と思います。個人的には、アルバム好きなので嬉しいですけど、それなら候補写真が入ったデータの方が喜ばれる方も多いのかなとか… 

 

ちょっとでも卒アル楽になったら6担もやり手が増えるのではないかと思います。私の感覚ですが… 

 

 

・自分も子供の頃は学校の先生は何でもできるすごい人だと思っていた。教師だから○○出来ないといけない、できなければ教師ではないと考えていた。 

大きな迷惑をかけた訳ではないと思うが、今思えばそのような考えが回り回って教師を苦しめていた事に気づいた。聖職者といわれるが一人の人間。何でも求めることは、知らぬうちに教師にとっても大きなプレッシャーとなる。 

社会人になり暫く経てば自分と同年代の人もいる。年下の人もいる。自分がどれくらい未熟か分かれば、同年代の教師も同じである。 

子供の時はどんな人も同じように生活があって、家庭を持っているとい当たり前のことに気づけなかった。人間はロボットではないので、感情もある。 

 

 

 

・そもそも、卒業文集を作るという、指導要領の記載も、それを作るための時数もありません。国語や学活の時間をうまく絞り出して、作っているんです。 

つまり、本来指導すべき単元の時数を削っている。もっというと、国語の学習の時間に作文を各単元は、ほんの少し。作文を書くのが苦手な子がいて当たり前。なくていいと思います。また卒業アルバムも、業者に頼んでいるが、全員が公平な回数写真に写っているか、正の字をかいてチェックするのも大変。業者は学校から出された原稿を冊子にするだけなので。写ってなかったら、本人も悲しいし、保護者が怒鳴り込む。 

あれもなくていい。ない学校もありますし。 

 

 

・仕事柄、今の先生方の話を聞いたり見たりしていて、大変さが分かります。 

OA化から始まってIT利用も進み、一つ一つの書類や資料の作成・調べ物が早く出来るようになったのに、その分、種類や数がどんどん増えて、先生の負担は減るどころか増えています。 

その結果、児童生徒とのコミュニケーションの時間が十分に取れないとか、学校でしかできない思い出になる行事やアルバム作りなどが簡素化・廃止になる傾向では、学校の目的とは?先生の仕事の意義とは?と考えたときに、本末転倒のように思います。それ自体、変化することが進化なのかもしれませんが。 

 

 

・必要だと思う事柄は多い。が、それが思い込みの場合も多い。 

子どもたちになにかしてやりたい、という気持ちはすべての人にある。 

それを次々と実現させていくには時間と金銭が必要。 

限度がある。 

つまり、限度を超えて設定されている仕事がある、ということを理解する必要がある。 

いま行事を減らしているのではなく、正常に戻しているのだ という理解が必要。 

先生たちの仕事を、正常にもどしてあげてください。 

 

 

・小学校で卒業文集なんてあったかな? 

毎日、学級通信を作ってくれていた先生。B4藁半紙の左側が先生手書きの通信で、右側に日記を書く。それを綺麗に製本してくれた。一年で2冊。 

それとは別に、秋に全校児童の文集が発行されたな。 

今もきちんと取っておいてある。 

うちの親も教員だった。大変だったと思う。今の子供の先生も朝早くから夜までお仕事されていて大変だと思う。働き方改革で大分仕事が軽減されているはずだけど、個々の児童の対応が重責となっているんだろう。 

 

 

・昔は学校の先生になるには教育大を出たり採用もコネがないと無理なような噂が流れたりするほどハードルがすごく高かったけど、今は皆が嫌がる職業に。 

仕事量を減らそうという動きが盛んなのは、簡単に教師になれるようになり昔より働いている人の仕事に対する志が低くなったことや、個々の能力や質が落ちたせいもあるのかなって思う。 

 

 

・大人で言うコンプライアンスにひっかかるものがないかをチェックすることに多大な時間がかかる。少しでもミスがあるとクレームをつける人がいるから。 

 

クレームをつけてくる人は昔からいたのだと思いますが、すぐに静まるか見えずに終わる。 

ただ、今はSNS等でなぜか遠くの人が同調し、そのクレームをつけた人が仲間を得たような気持ちになり、さらにエスカレートする。場合によっては無関係な人間が教員を叩く。 

 

狭い世界におさまっていたものが、無駄に広い世界に出てしまうから、こうなってしまうのだと思います。 

 

 

・教職員一人当たりの児童生徒数の推移を見ると、昔よりもずっと最近の教職員の人数負担は、減少していることが確認出来ます。この記事にある廃止の理由と統計から見た現実は、真逆の状況と思います。今の教職員の人数的仕事量は、昔の半分くらいですし、昔は給食費や教材費等々まで全てをこなしていましたよ。 

 

 

・うちもです。今年の卒業生まで文集を作ったそうです。昨年から手書きではなく、児童が書いた作文を先生?か外注で入力したものになりました。 

来年度からは本人だけの作文になるとのことです。 

先生たちの“働き方改革”も大切ですが、休み時間がない時間割(1,2時間目 3,4時間目 5,6時間目の休み時間はない)にして、児童を15分早く下校させるとか、登校時、校門を開けてる時間を短縮するとか… 

子供側にとっては、息ぬく暇もないように思います。 

次の授業の用意も前の授業の片付けも、きちんとできない、板書の遅い子、苦手な子は大変だと思います。 

先生は、授業の途中に、問題解かせている間にトイレに行くけど、自分たちがトイレ行きたいといったら、怒られたと言います。 

これでいいんですかね? 

 

 

・ケータイやスマホにカメラが搭載されて四半世紀経ちますが、結局残るのは紙にプリントされた媒体(メディア) 

印刷物ならタンスの奥にしまっていて100年後に発見されるなんてことがありますが、CDに焼いたデジカメデータがはたしてそれだけ持つでしょうか? 

押し入れにしまった銀塩カメラ(←これも死後)を復活させるか悩む今日この頃です 

 

 

・業務過多な原因の一つは、メディアが子供が絡んだ事件事故問題が起こると、勤務時間や定数を無視して、対応すべきと理想論を振りかざして責任追及するのに、実現のコストに触れないから、予算の裏付け無しに指示通達ガイドラインが出てタダ働きが増えてきたからでは?まあ、都合が悪いからどんな業務が増えたかには触れないけどね。しかも、責任追及までして対応を求めるのに、対応した結果教師が壊れて、過労死や突然死や病休や離職になっても自己責任だし、時間外の対応は自主的活動にして、メディアも委員会も責任取らない、無責任な働かせ方を要求しているからじゃないの? 

 

 

 

・職員の業務過多は以前から言われていたこと。 

それでも昔からの伝統でいままでしていたことであり、子どもたちが将来見る楽しみがある。 

 

将来の夢を思い浮かべながら書くのはまた楽しい。 

減らせる業務、分担できる業務は、工夫していけばいい。 

頭がかたすぎる。 

 

ただ、保護者対応、子どもたちの多様性に対応するという業務は昔より大変だと思う。 

 

子どもたちの楽しみを奪わないような教育現場であってほしい。 

 

本音を言えば、業務過多が問題になっている中、教員になりたくてなったわけだから責任をもってやってほしい。 

したくなければ辞めればいい。 

 

 

・第二次ベビーブーム終わり世代だけど、昔は1クラス50人一学年10クラスとか普通。学級通信だって修正不可能なガリ版で作成して1枚1枚先生が刷ってたよ。文集も一緒。先生が全部やってくれてた。丸つけや学級指導も昔からあった。昔の先生は本当に偉大だ。感謝してる。 

 

 

・遥か40年も前の事だけど、卒業文集は児童会が中心になって3学期のHRで「卒業式に配るから〇月〇日までにクラス委員が全員分集めて児童会室に持って来て下さい」って発表してた。クラス毎にテーマを決めて皆が400時詰め原稿用紙に1枚書く。当然目いっぱい書く子も居たし、2,3行しか書かない子も居た。イラスト(当時流行ってたアニメやマンガのキャラとか)で埋めてた子も居たなぁ。それぞれ個性があって面白かった。職員室の輪転機を使って印刷し、半分に折って製本し、各クラスの人数分配って歩いた。絵が上手いと評判の子に表紙の絵を頼んだり、学校嫌いでどうしても書いてくれない子には「嫌な事でもいいよ、今思ってる事書いてみて」と説得もした。文集以外にも廊下に張るベニヤに学年全員で絵を描いたりもした。イジメっ子もイジメられっ子も皆一緒になって作り上げた思い出はそう簡単には消えない。物が無くなった今も鮮明に覚えてる。 

 

 

・子供の通う小学校で「6年生を送る会」があるんだけど、各学年が大層手の込んだ出し物やダンスをするため通常授業を潰して練習に当ててる。 

それが終わったら4.5学年は卒業式の練習が始まる。 

 

そんな事に時間使わなくていいから、授業進めて欲しい。 

 

 

・元教師です。こういう手間がかかるもんはどんどんカットした方がいいよ。僕は引っ越しでこの手のもんは全部、捨てました。卒アルやら文集やら持っててもしょうがないですから。書きたいこと言いたいことを誰でも世界に発信できる時代に無駄です。小中高の時のものは一切、残ってないです。先生って教科以外のことが忙しくて授業準備する時間無いんですよ。チャイム鳴るまでその手の雑務をやってるてのがふつうです。僕は教師してる間、お昼ゴハン食べたことないです。こういう環境じゃいい先生は来ない。僕はデモシカ系だから続いたようなもんだろう。 

 

 

・卒アル委員ってのが子供たちの中でも中学受験をしない人とか中学受験がとっとと終わった人の中から選出されてたけど子供たちの中では結構人気の委員で皆卒アル作りを楽しんでいた記憶がある。ただそれはランキングのページとか思い出の写真を並べるページ作りのことであり、卒業文集に関しては正直面倒臭かった。ありきたりなことしか書いてないけど、忘れた頃に振り返るとそれがめちゃめちゃ面白かったりするので、無くなるのはちょっと寂しいがやりたい人は個人的にやれば良いと思う。 

 

 

・時代に合わない小学校の行事って結構色々あって、これらを伝統の呪縛から解き放ち、取り止めるのも大事なことだと思います。 

 

ただねぇ。それが児童や父兄の負担とかリスクを軽減するためなら分かるんです。まずはPTAもそうですし。運動会組体操のピラミッドなんて、危ないだけなので早く止めて欲しいんですけど、未だにあちこちでやってますよね。児童の怪我も多いですが、いったい誰が責任とるんですかね。 

 

そしてこの度の卒業文集。 

教員が忙しくて大変だから……聞いて呆れます。アホなんですかね、こいつら。 

 

 

・卒業文集の制作プロセスに驚きました。今は大変な手間ですね。私の頃は、テーマこそ決めてたかも知れませんが、指定された用紙に自分で手書きした文章が添削されることもなく、そのまま印刷されるだけでした。不適切な表現ぐらいはチェックはされていたのかも知れませんが、誤字脱字なんかもそのままで、文章の短い子や、間違いに線を引いたり黒く塗りつぶして訂正していてもそのままでした。それがその子の当時の個性じゃないですか、ここまで手をかけないといけないほどクレーマーな親が多いのでしょうか。 

今の時代ですからパソコン学習の一環で作って電子化するとかカリキュラムの一部にはできないのでしょうかね。教員の授業外の負担が大きいのは事実ですし、むずかしい問題ではありますが、「デメリットはあまり感じない」の部分は、教育者側の目線でちょっと決めつけすぎのように感じました。 

 

 

・卒業の時期って、親としてもやる事が山ほどある。お世話になった方へのお礼、手紙、プレゼント。 

習い事が多かったりすると、本当に大変。 

それでも、感謝の気持ちを伝えたいし、子ども達にも、人と人とのつながりを大事にしてほしい。 

あ〜〜もう、大変!!と思うけれど、やって良かったなと思う事の方が多いと思うんです。 

先生の負担が増えているのも承知の上ですが、少なくとも子ども達が関わってきた先生方は、むしろ進んで色々やって下さる方ばかりでした。人生にそう何度もない卒業。 

何もかもなくしてしまうのは、悲しいなと思いますね。。 

 

 

・亡くなった時の処分が大変でした。 

いつまでも残す訳にもいかず、個人情報だからと思い、顔写真の部分は破いてましたが、最後は自分の所だけ破く形に。。子ども達もいらないといい始め、幼稚園、小学生、中学校、高校のなかで好きなのを一冊保存する形になりました。全員分の顔写真がわからない様に処分するのは、難しく燃やせる訳でないので無理でした。 

個人情報は大丈夫なのかな思いました。 

一部の少数だけだとは思いますが、いらないので希望制だといいです。子供に捨てといてと言われても処分に困りました。 

 

 

 

・昔、通勤の電車の中で卒業文集の原稿の添削していた先生いました。担任がコロナで休みの日、私が代わりに文集の添削をしたけど、やっぱり担任とその子しか分からない部分もあり、画像を送って、その画像に添削書き込んで返信。というような、高熱の中、対応した担任もいた。 

 

そこまでしないといけないかと思う。今は、行事の写真もネット販売。好きな写真だけ選んで、個々に簡単なアルバム作成を写真屋さんに依頼とかダメかな?表紙など一部は共通。中身は好きな写真で。それはそれで、様々なルールやチェックは必要だと思うけど、負担の軽減はすごいと思う。 

 

全員が同じものじゃなくてもいいと思う。誰が何枚写ってるか。どのくらいの大きさで写ってるか、全てを平等にする作業は骨が折れます。 

 

 

・卒業文集を書く時間は確保されてないからねぇ。 

結局、国語の時間を潰して作文指導しなくちゃいけなくなる。その分、授業は削られるからね。 

確かに大人になって読み返した時、懐かしいってなるのは大事かもしれないけど、その労力もすごいよね。 

正直、先生の業務過多というよりは、子どもが忙しすぎる。もっと休み時間に遊ばせてあげたい。 

業務過多でいえば、卒業アルバムの方。1人何回映ってるか全部チェックして、調整するのが本当に大変。AIで編集、構成してほしい。 

 

 

・若い先生で、文集の指導をしきれない人も増えてきてる印象でしょうか。あとは関係性のいいクラスならいいんだけど、崩壊してると担任の悪口を書いたりするのも聞く。その子の親とも関係が悪いと無理に訂正させられない。 

そんな難しさもありますが、個人的には文集には肯定的で、いい思い出もあります。だんだんと教育現場が味気なくなっていくなあ 

 

 

・なくてもいいかなと思います。寄せ書きみたいなもので十分かなと。 

それに先生が添削とかいるのかな?文集の誤字雑字はそのままの方が面白いかもしれません。添削して直したものより、その子のありのままの方がいいかなと。 

というのも、自分の子供に貰ったカードや手紙に間違いがあるものがあり、それが凄くいいって思ったんですよ。 

学校は学びの場だから、きちんとした文章で、漢字でってなると思うけど、後になって読み返すとそういう完璧では無い文章って、面白かったりするけどな。 

 

まぁ、まだ若いうちは恥ずかしいかもだけど。 

 

 

・対応出来る仕事にも限りがあるので保護者への説明責任が重くなったのであればその仕事を他に受け渡すか他の仕事を縮小、受け渡すことは必然です。 

子供にとって何が大切かを考えた上で必要なことを優先すればよいのではないかと思います。 

 

 

・学校という現場に、もう少し働き手を加えることは、無理なのでしょうか? 

児童指導員とか、子どもの仲裁、親の対応ができる職種の人が居れば、教師本来の仕事を全うできるのではないでしょうか? 

浅はかな考えかもしれませんが。 

 

すべてを教師に任せるではなく、 

雇用という形で教育現場を豊かにしてほしいものです。 

子供たちと接する仕事をしていますが、 

子どもたちは話を聞いてくれる人がいる場所に、安心感を覚えている気がします。 

ただ、褒めて欲しい 

怒って欲しい 

認めてほしい 

その場を学校、放課後等の居場所として、 

国が雇用に向けて、動いてほしいです。 

 

 

・確かに今時の先生は仕事量が多いですから、添削は保護者が担当、提出後にPDF化は生徒。 

なんなら手書きじゃなく、そもそもデータでも良い。 

そんな感じでデジタル化したら良いのではないかな? 

やはり卒業文集は思い出として重要なアイテムだと思うから。 

 

 

・想い出になるものはあった方が良いとは思うけど、それが文集である必要は別にないでしょ。誰もが自分の想いを上手に書けるとは限らないし、クラス全員に自分の想いを伝えたいと思わない子も居るだろうから。 

 

学校のカリキュラムとは別枠で、先生が「クラスみんなに伝えたいことがあったら家で書いて来てね。コピーして文集にするから。書きたくないって人は別に書かなくていいよ」と言って自分の文集を書く・書かないを選択できるようにしてあげればいい。それを人数分コピーして卒業文集として配るだけなら、そんなに手間はかからない。書きたくないって子の気持ちも汲んであげることが重要だ。 

 

紙媒体の文集ではなく、子どもたちが書いたテキストや撮った写真をスキャンしたデータをクラウドにアップして、限定した共有設定で見られるようにすればいい。この方法だと印刷の手間は要らないが、共有の設定とアップして問題ないデータの精査が必要になる。 

 

 

・懐かしいなぁと思いながら記事を読んでいましたら、思い出したことが・・・。中学卒業記念の1つとして、二十歳の自分へ手紙を書こうという国語の授業がありました。封筒に入れて封をして、当時400人近くいた生徒全員分を国語教師が預かって二十歳になる年に投函して下さるということで楽しみにしていました。 

30年経ちますが、いまだに届きません。当時切手を貼らずに集めていたので気になっていましたが、全員分の切手代がネックだったのかなと考えています。 

 

 

・確かに。これは納得です。 

30年以上前の小学校卒業生ですが、その時でさえ、誤字や送り仮名の間違えや段落の切り替え、個人名が書かれた時の先生の慎重な扱いぶり、挿絵の一つ、全てにおいてトータルプロデュースするような担任の先生の手間暇を何故か身近で見る機会がありました。 

ましてや今は、書いて良い内容も精査せざるを得ないほどクレーム社会です。 

小学六年生が簡単に文集で夢を語ることもままならないでしょう。 

 

一旦狭められたものはなかなか広げられないのだし、子どもの文章ひとつであれこれ他人様に邪推されるのもこれまた面倒。 

文集がなくたって各家庭でそれぞれにお子さんの成長とその節目を喜ぶのが一番平和なんじゃないかなと思います。 

 

 

 

 
 

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