( 157161 )  2024/04/07 14:33:38  
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竹末新奈さんは、3浪して京都大学に合格した経験をもつ。

小学生時代に九州で優秀な成績を収め、中学時代もトップの成績を維持していたが、高校で先生との相性が合わず退学。

その後3年の浪人生活を経て、京都大学法学部に合格した。

竹末さんは家庭での教育環境や両親の影響も受け、学力を活かすため大学に進学する決意を固めた。

3浪目には精神面で限界を感じたが、勉強に全力を注ぎ合格に至った。

(要約)

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3浪で京都大学に合格した竹末さん(写真:竹末さん提供) 

 

現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。 

今回は小学生時代に塾の模試で九州1位の成績を取るほどの優等生だったものの、県トップの難関高校に進学してから、学校の指導が合わず退学。その後、北九州予備校での3年の浪人を経て、京都大学法学部に合格し、現在同大学8回生の竹末新奈さんに話を伺いました。 

 

【写真】現在の竹末さん。周囲にもようやく3浪であることを伝えられるように。 

 

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■小学校時代は九州1位の成績を取る 

 

 今回お話を伺った竹末新奈さんは、小学校時代に塾で九州1位の成績を取った経験があり、中学時代も部活の部長や生徒会役員をしながら、すべての科目で学年トップを守り通した優等生でした。 

 

 表街道を突き進んでいた彼女の人生は、高校に入ってから急転直下を迎えます。先生の指導が合わずに高校を中退し、「なぜ自分はこうなってしまったんだろう」と過去と今の自分を比較して、思い悩む日々を送ることになりました。 

 

 しかし、自分を取り戻すための3浪を経て、今では自分の歩んできた道を肯定しようと考えられるようになったそうです。果たして、浪人の3年間が彼女の心の持ちようをどう変えたのでしょうか。 

 

 竹末さんは、長崎県長崎市に生まれました。両親はともに大卒で、教育関係の仕事をしており、教育熱心な家庭でした。 

 

 「父は京大の理学部数学科出身の予備校講師で、数学者や銀行員が多い家系でした。母も国立大の理学部を出て、プログラマーをしていたのですが、5歳くらいのときに公立大を再受験して入学し、大学院まで出て保健師になり、最終的には大学教員になりました」 

 

 

 一人っ子ということもあり、教育にお金をかけてくれた両親の存在は、人生において大きな影響を与えたそうです。 

 

 また、学問で道を切り拓いてきた両親の姿を小さいころから見ていたこともあり、竹末さん自身も「勉強を頑張ることで、いい人生を歩める」という高いモチベーションを持って、勉強に取り組めたそうです。 

 

 「本をたくさん買ってくれる家庭でした。小学2年生のころから父の勧めで学習塾の英進館に入って勉強をしていたのですが、理数系の成績がよくて、数学者家系の父方の遺伝を感じましたね。塾では、九州で1位の成績を何度か取ったことがありました」 

 

 抜群の成績を小学校の終わりまでキープした竹末さんは、塾の勧めで桜蔭中学校を受験しますが、残念ながら落ちてしまいます。「周囲に通える学校がない」という理由で、滑り止めは受けなかったようで、そのまま公立中学校に進みました。 

 

 中学に進んでからの竹末さんは、自ら「完璧主義」と語る性格もあって、3年間、文化部の部長や生徒会役員を務めながら、副教科を含めた9教科で1位の成績を守っていたそうです。 

 

■高校で先生の指導が合わず、授業も出なくなる 

 

 中学生を対象とする数学コンテストである「広中杯」でも全国決勝に進むほどの華々しい活躍を見せ、高校受験もそのまま推薦で県トップの公立高校に合格します。 

 

 しかし、この順風満帆の学生生活は進学を機に様相が一変しました。 

 

 彼女は300人いる同級生の中でも1桁に入るほどの成績を取っていましたが、高校の先生の指導と相性が合わず、授業に出なくなり、みるみるうちに成績を落としてしまったようです。 

 

 この時期、竹末さんは彼女自身も大きな苦悩を抱えていたそうですが、周囲の教師への不信感から、何も相談できずに抱え込んでいたそうです。 

 

 「一定以上の学力があることで、進路選択の幅が広がりすぎたんです。アニメや音楽が好きだったので、声優や表現者になるために専門学校で勉強したいとも考えたのですが、両親に育ててもらって培った学力がもったいないと感じてしまいました。 

 

 自分は恵まれている側なのに、進路を選べないという状況で悩んでいて、とうとう自律神経が乱れてしまい、遅刻、欠席、早退を繰り返すようになりました」 

 

 「授業に出ないで軽音部の部室に行き、ギターを弾いて帰っていた」日々は高3まで続き、高1のときは70あった校内偏差値は、2年で半分の34.5にまで落ちてしまったそうです。 

 

 

 3年生の途中で卒業が危ういと言われた彼女は、9月から完全に不登校になり、ついに翌年1月に退学を選択しました。 

 

 「保健室登校でいいという提案もあったのですが、高校の環境があまりにもしんどかったんです。中学のときは生徒会でリーダーシップも発揮していたし、勉強もできていたのに……。なんで私はこうなってしまったんだろう、当時は消えたいと思っていました」 

 

■高卒認定を受けて、浪人生活をスタート 

 

 彼女の現役時は、高校を中退したため、センター試験を受けられませんでした。 

 

 「みんなが受験しているときはぼーっと天井を見ていた」彼女でしたが、このころにはもう、アニメや音楽は趣味として折り合いをつけ、「自分の人生には大学受験が必要だ」と浪人の決意を固めたようです。 

 

 「自分が社会で発揮できる武器は、やはり学力だと考えられるようになりました。だから、大学に行ってその能力を磨くことが必要だと思ったんです。高校に入ってからずっと両親と喧嘩していたのですが、覚悟を決めて『京大に行く!』と宣言したら応援してもらえるようになりました」 

 

 「もともと父が通った京都大学に憧れがあり、中学時代も京大をテーマにした小説をたくさん読んでいた」と語る竹末さんは、父親が働く北九州予備校の寮に入り、高卒認定を受けて浪人生活を送ることに決めました。 

 

 ここでは高校とは打って変わって、チューターや寮長さん、寮母さんなどの周囲の大人にとても優しくしてもらえたそうです。 

 

 しかし、最初の1年は高校時代に崩れた生活リズムを取り戻すのに精一杯でした。 

 

 「高校生活のブランクで、勉強に取り組める体力が中学時代に比べて落ちていました。高校をやめる直前に受けたZ会のセンター試験型の模試では478/900点だったのが、600点台後半までは上がったのですが、机に向かっている時間の割には頭に入っていないと思いました。本気を出せば、1年あれば受かると思っていましたが、大学受験を舐めていました」 

 

 

 この年、彼女は初めて京都大学経済学部を受験しますが、全然手が出ずに落ちてしまいます。北九州予備校で2浪を決断することに、ためらいはなかったそうです。 

 

 「20年生きてきた中で、もっとも人生を懸けたことだから、何年かかってもこれをやり切ったと思える自分になりたかった」と語る彼女は、この年になると高校時代のブランクを取り戻し、センター試験でも790/900点の高得点を記録。センター試験利用入試で、早稲田大学に合格します。 

 

 「私が行った予備校には多浪生がとても多かったので、孤独感を抱かなかったのがありがたかったですね。勉強面では同じカリキュラムを2周したために理解も深まり、成績も上がってきました。現役の模試はE判定ばかりでしたが、この年はD~Cが出るようになりました」 

 

 2次試験のころには上振れがでれば受かるかもしれない状態にはなったそうですが、残念ながらこの年も合格最低点から20点足りずに落ちてしまいます。しかし、彼女はこの不合格を前向きに捉えていました。 

 

■3浪で精神面が限界を迎える 

 

 「納得の不合格でした。2次試験の場で、たまたま合格できても、大学で苦労するだろうなと実感したんです。完璧主義なので、京都大学に受かって、恥ずかしくないと思えるくらいまで学力をあげたい、ここからもう1回頑張って、安全圏で合格しようと思えたんです。そう思えるくらいには勉強が好きだったので、そのためのさらなる1年は惜しくありませんでした」 

 

 こうして3浪に突入した竹末さんでしたが、この年の彼女の精神面はもう限界を迎えていました。 

 

 「現役生と3歳の年齢差がついてしまうことに悩んでいました。大学に入っても馴染めなかったらどうしようと思い悩みました。私はとても太っているからダメだと思い、無理なダイエットをして体重を15キロ落としました」 

 

 一方で、3周目に入った北九州予備校のカリキュラムは「授業のリズムに従い、脳の機能を維持していくため」真面目にこなし、成績もいい状態をキープしました。 

 

 「自分にとっては簡単な内容でも、予習と授業に出ることだけはきっちりやり続けていました。この年はもう復習しなくても理解できることが多くなっていたので、京大に特化して対策しました。すごく楽しかったのが、予備校の同じクラスにいた京大・阪大志望生と論述問題の交換ノートをやっていたことですね。勉強の調子はいちばんいい年でした」 

 

 

 
 

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