( 157323 ) 2024/04/07 23:33:39 0 00 京王バス(画像:写真AC)
京王電鉄バスグループ(京王電鉄バス・京王バス)は、2023年4月1日から、車内で掲示する乗務員の氏名について、本名とは異なる「ビジネスネーム」の選択を可能にする制度を導入した。この制度は、乗務員のプライバシー保護を目的としており、乗務員は任意でビジネスネームか本名の掲示を選択できるようになった。
【画像】えっ…! これが60年前の「海老名サービスエリア」です(計14枚)
乗務員が選択するビジネスネームは「山田太郎」のように氏名形式で、漢字・ひらがな・カタカナが使用可能だ。これまでどおり、選択されたビジネスネームは車内の運賃表示板に掲示される。また、制度の導入にともない、乗務員はバスに乗車して運転する際、胸のネームプレート(胸章)を外すことになった。
ビジネスネームの導入は、2023年8月の法改正で、バスやタクシーの乗務員の氏名を掲示する義務が廃止されたことを受けての措置である。
では、そもそも、なぜバスやタクシーでは乗務員の氏名表示が義務付けられていたのだろうか。その起源は、1956(昭和31)年に定められた「旅客自動車運送事業運輸規則」にさかのぼる。
当時は、無謀運転を繰り返す「神風タクシー」などが社会問題となっていたため、乗務員に
「プロとしての自覚」
を促すために氏名の表示が義務化されたようだ。この後、タクシーでは1970年に、タクシー業務適正化特別措置法の施行規則で顔写真の掲示も義務化されている。
これはバス・タクシーで乗務員の意識向上に一定の成果があったようだ。
ところが近年、氏名表示がかえって不利益をもたらす事例が相次ぐようになった。それは、乗客による乗務員への悪質クレーム、いわゆるカスタマーハラスメントの増加だ。
カスタマーハラスメントとは、顧客や取引先からの暴力や暴言、理不尽な要求などによって、労働者の尊厳や人格を傷つける行為を指す。
バス・タクシー業界でも、乗務員へのカスタマーハラスメントは深刻な問題となってきた。その実態を明らかにしたのが、全日本交通運輸産業労働組合協議会(交運労協)が2021年5月から8月にかけて実施した「悪質クレーム(迷惑行為)アンケート調査」だ。
この調査では、回答者の46.6%が直近2年以内に利用者からの迷惑行為の被害にあっていることが判明した。実に約半数の労働者がカスタマーハラスメントの被害に遭った経験がある実態が浮き彫りになったのだ。
さらに深刻なのは、被害回数が16回以上に上る組合員が643人(全体の3.1%)もいたことだ。一部の労働者が常習的な迷惑行為のターゲットになっている実情までもが判明したのである。
迷惑行為の内容を見ると「暴言」が49.7%でトップ、次いで「何回も同じ内容を繰り返すクレーム」が14.8%で続いた。そのほか威圧的な言動や長時間の拘束など、精神的苦痛を与える行為が上位を占めた。
カスハラのイメージ(画像:写真AC)
なかでも看過できないのが、SNS・インターネット上での誹謗(ひぼう)中傷である。鉄道やバスの乗務員から多く挙がったこの項目は全体で0.8%とさほど高くはないものの、自由回答欄には
「名札などの名前が分かるものを身に付けていると、SNSに掲載される恐れがあります。ネット上などで誹謗・中傷を受ける可能性があり、イニシャル表記などにすることでリスク回避するマニュアルを整備すべきだと思います」
などの回答があり、名札を付けることで不安を感じている乗務員がいることが明らかになった。
ちょうど、この時期から、名札など氏名を表示することによる弊害は、さまざまな業界で取りざたされるようになっていた。『読売新聞』2022年9月17日付夕刊は、「カスハラ 狙われる名札 ネットで中傷 国・企業 表記見直し」と題する記事で、こうした状況を詳しく伝えている。
この記事では、カスハラにおいて氏名を知られることによる被害の増大を報じている。例えば、あるコンビニではアルバイト店員がインターネット上に不当な中傷を書き込まれ、店長の判断で名札の着用を見合わせているという。
また、医療機関では看護師が患者に名札で特定され、SNSで食事に誘われる被害に遭った。ほかの患者にもSNSをのぞき見られている恐怖におびえているという事例が記されている。
実際、現在では、名札の着用は労働者にとって不安の要素が強いもののようだ。
弁護士ドットコムが2023年8月に実施した調査によると、名札を付けての接客経験者の22.4%がカスタマーハラスメントの被害にあったと回答している。こうした実態を踏まえれば、氏名表示の廃止は従業員の安全とプライバシーを守るために必然的な流れだったといえる。この調査でも、接客スタッフの名札に実名を出さない取り組みについて、7割以上が賛成意見を示している。
つまり、バス・タクシー業界での名札の廃止は、文字通り「時代の必然」だったのである。
問題の浮上が、ちょうどSNSを通じた名誉毀損(きそん)や誹謗中傷が社会問題として取り上げられていた時期と重なったこともあってか、関係省庁の対応は素早かった。2022年6月には厚生労働省が、医薬品医療機器法の施行規則で名札着用が義務付けられている薬剤師らについて、カスハラ防止のため「姓のみ」や「氏名以外の呼称」を認める通知を出している。国土交通省でも、2022年4月に法改正を決め同年8月に施行した。
こうして「道路運送法施行規則等の一部を改正する省令及び関連告示」が公布されバス、タクシー内での乗務員等の氏名掲示が廃止された。タクシーでは運転者証等の様式も変更され、利用者に表示する面から氏名、顔写真、運転免許証の有効期限が削除された(ただし、運転者証等としての機能を保持するため、氏名等は利用者から見えない面に記載される)。
この改正を受け、全国各地のバス・タクシー事業者では、相次いで、乗務員の氏名表示を廃止することとなった。
バス運転手のイメージ(画像:写真AC)
しかし、一方で、改正には問題点も指摘されないわけではなかった。乗務員の氏名が非表示となることで、誰が運転しているのかわからなくなり、乗客に不安を与えかねない側面があるためだ。
とりわけタクシーでは不安を感じる乗客も少なくないようだ。『読売新聞』2024年1月14日付朝刊に掲載された記事では、名札廃止の話題を取り上げ、タクシー利用者の声を紹介している。
ここでは「乗務員の顔が分かれば、名札がなくても気にならない」という意見がある一方で
「乗務員とは初対面。名前が掲示されていた方がいい」
という声もあったとしている。乗務員の氏名がわからない状態では、安心して乗車できないと感じる利用者も少なくないわけだ。実際、女性のひとりでの利用などでは気にする人がいることは否めないだろう。
こうした課題に対する解決策のひとつとして、京王電鉄バスグループが導入したビジネスネーム制度は実に優れた制度だといえる。実名ではなく、乗務員が自由に設定した名前を表示するこの方式は、プライバシー保護と乗客の安心感の両立を図る上で非常に有効だ。
ビジネスネームは、乗務員の個人情報を完全に隠す「無名化」とは異なり、利用者に対して一定の情報を提供する。それでいて、本名ほど特定につながるリスクはない。つまり、
「プライバシー保護と利用者の安心感のバランス」
を取るための、理想的な方策といえるのだ。
コールセンターなどの接客業でも、オペレーターがビジネスネームで応対するケースは珍しくない。聞き慣れない名前でも、相手の氏名を認識できるだけで安心感は大きく異なる。乗務員との会話のきっかけづくりにもなり、トラブル防止や利用者満足度の向上にもつながるだろう。
乗務員の安全と尊厳を守りながら、利用者の信頼と満足を得ていく。それはバス・タクシー業界に課せられた共通の使命だ。ビジネスネーム導入は、その両立を目指す上で、各事業者が積極的に検討すべき選択肢のひとつではないだろうか。
樋口信太郎(バス・トラック評論家)
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