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自動車評論家である徳大寺有恒氏の功績と影響について振り返り、矢吹明紀氏が彼の文章から学んだことを語っている。

徳大寺氏の文章は辛口でありながら、クルマへの愛情が感じられた。

矢吹氏もそうしたスタンスを学び、公正で明確な評価を行うことの重要性を認識した。

また、徳大寺氏は数え切れない数のクルマを購入し所有しており、クルマへの情熱を持ち続けていたとされる。

(要約)

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「徳大寺有恒ベストエッセイ」(画像:草思社) 

 

 2014(平成26)年11月に自動車評論家の徳大寺有恒(ありつね)氏がこの世を去って10年近い歳月が過ぎた。10年という節目を前に、ここで改めて氏の評論家としての功績を振り返ってみたい。 

 

【画像】えっ…! これが60年前の「海老名SA」です(計15枚) 

 

 筆者(矢吹明紀、フリーランスモータージャーナリスト)が氏の存在を明確に認識したのは1980(昭和55)年頃のことである。それは他の多くと人と同じく、その時点で既にベストセラーとなっていた氏の代表著作である 

 

「間違いだらけのクルマ選び」 

 

を通じてのことだった。 

 

 当時はまだ学生だった筆者は、いくつかの自動車雑誌を購読していた。ドライバー、モーターファン、そしてたまにカーグラフィックといったラインアップだったと記憶している。 

 

 これらの雑誌に掲載されていた記事は、おおむね 

 

・新車紹介 

・技術解説 

 

など、いずれも淡々と事実のみを紹介するだけで、書き手の“個性”などは基本的には無縁だった。個人的にはむしろそうした記述を好んでいた記憶がある。 

 

 唯一、カーグラフィックのみは外車のロードインプレッション(試乗記。新車を公道で試乗し、走行性能、操作性、快適性などを評価すること)なども多めに紹介されていたが、正直その内容は今ひとつピンと来なかった。これは当時の筆者の運転経験不足が主な理由だった。 

 

 そうした状況のなか、初めて接した徳大寺氏の文章は新鮮だった。何よりも書き手の顔がそこにあるようにも思えた。当時は“信頼できるジャーナリスト”であるかどうかなどはどうでもよく、 

 

「シンプルに共感できる文章と内容」 

 

だった。 

 

草思社のウェブサイトで無料公開されている過去の「間違いだらけのクルマ選び」(画像:草思社) 

 

 そんなこんなで当時は面白く読んでいただけだったのだが、筆者が大学を卒業し一転して文章を書く側になったとき、改めて氏のすごさを思い知らされた。 

 

・面白い文章 

・読者に共感を抱いてもらえる文章 

 

というものは一朝一夕に身につけることなどできない。それがクルマという機械を扱ったものであれば、それについての深く多岐にわたる経験こそがモノをいう世界である。一体、徳大寺氏はそれまでどれだけのクルマ経験を積んできたのか。そしてそこからどれだけのものを吸収してきたのか。 

 

 氏が執筆していた評論とは、いわゆる新聞記事のようなジャーナリスティックなものとは明確に異なっていた。むしろ事実をバックグラウンドとしたエッセー、それも恐ろしく内容が深いものだった。 

 

 筆者はそんな氏の文章が大好きだったが、無批判に礼賛していたわけではない。特に自動車雑誌での仕事を始め、さまざまなクルマを自身の手で運転できるようになってからは、氏が感じたものとは異なる印象を覚えることも多々あった。 

 

 そこで思ったのは、何がよくて何がよくないかではなく、感じたことの違いが文章の個性を生むということであり、それまで積み重ねてきた経験の違いでもある。 

 

 経験と感性を頼りにあるモノを評価し文章を紡ぐ――。それには何が重要なのか。このことは筆者自身常に自らに問いかけていたことだった。そこで常に注意していたことは、ページの向こう側でこの記事を読んでいる読者は、一体何を求めているのだろうか。ということだった。 

 

 1980年代のクルマというものは、正直今ほど出来はよくなかった。あらを探そうと思えばいくらでも見つかったし、そういった部分ばかりを集めたリポートは 

 

「辛口」 

 

として評価が高かった時代でもある。徳大寺氏がその名を高めるきっかけとなった「間違いだらけのクルマ選び」もまた、ある意味こうした辛口が売りだったことは間違いないが、今思えば決してそれだけではなかった。辛口の部分と同じくらい、むしろそれ以上にクルマに対する 

 

「愛情」 

 

があったといったら褒め過ぎだろうか。 

 

 今まで長く人生をともに歩んできたクルマというものに対する文章だからこそ、厳しいことも優しいことも同じように語る。そこには書き手の経験と人となりが伺うこともできる。こういったスタンスで評論活動を行っていたのが徳大寺氏だったということに気付いたのは1980年代も終わりの頃である。 

 

 こうして徳大寺氏の存在は、書き手としての筆者に大きな影響を及ぼすこととなったというわけである。 

 

 

日産スカイライン2000GT-R(画像:日産自動車) 

 

 ここでもうひとつ記しておきたいことがある。 

 

 これは徳大寺氏のことではなく、筆者自身に起きたとあるエピソードである。1990年代半ばのこと。当時、1970年代の日本車を解説する原稿において、必ずネガティブな悲しい結論となる1台があった。それは1973(昭和48)年式の日産スカイライン2000GT-R。いわゆるケンメリGT-Rである。 

 

 大成功作となったハコスカGT-Rの後継として誕生するも、オイルショックの影響とともにわずか197台で生産終了。レースでの活躍もかなわなかった1台。ボディが大きくなっていったことから、レースカーになってもハコスカほどの戦闘力はないだろうとまで酷評された。そして結論はお決まりの時代の流れに背かれた「悲劇の1台」である。 

 

 筆者はある雑誌の取材で、新車に近い状態のケンメリGT-Rの運転とインプレッションを担当することとなった。もちろんその時点で初めての経験である。ここで注意したことは、とにかく先入観のないスタンスで、ナンバー付きのこの状態のクルマのよいところを伝えようというものだった。 

 

 そして、実際に運転してみたケンメリGT-Rはエンジンのフィールもかっちりとした足回りも、クルマとして何の過不足もないものだった。むしろ個人的にはこういうクルマが欲しいとさえ感じ、ネガティブなことには触れることなくそのままの気持ちを原稿にした。 

 

NAVI CARS 2014年3月号(画像:エフテンブック) 

 

 筆者がこうしたスタンスに至った背景には、間違いなく学生の頃に読んだ徳大寺氏の文章があった。 

 

 評論家なら原稿のスタンスは好き嫌いで何の問題もない。ただし、そこには 

 

・公正さ 

・明確な評価基準 

 

がなければいけない。その上で、書き手の人となりが明らかになっていればいうことはないだろう。 

 

 最後に、徳大寺氏はその生涯の間に数え切れない程のクルマを自身で購入し所有していたという。人づてに耳にした話では、 

 

「収入の大半」 

 

はそれに注ぎ込んでいたとも。クルマではもうけることなく“損”ばかりしていた。これもまた筆者が氏を尊敬するエピソードのひとつである。 

 

矢吹明紀(フリーランスモータージャーナリスト) 

 

 

 
 

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