( 166502 )  2024/05/03 16:06:30  
00

浜田幸一氏が1974年にラスベガスのカジノで大敗したスキャンダルが発覚し、その後小佐野賢治氏が受け取ったロッキード社からの賄賂20万ドルが浜田の借金返済に使われた疑惑が浮上した。

浜田は一連の問題をきっかけに議員辞職を決意し、1980年に自民党から離党した。

さらに、浜田は後に著書で、ロッキード事件に関連してカジノでわざと大負けをしたことを告白。

この告白により、長年の疑惑が明らかになった。

その後、浜田はテレビタレントとして活躍し、2012年に亡くなった。

(要約)

( 166504 )  2024/05/03 16:06:31  
00

衆議院予算委員会でやじを飛ばす浜田幸一氏(1988年) ©時事通信社 

 

〈国会議員がカジノで4億6000万円負けて大問題に…昭和を揺るがした「ラスベガス賭博事件」の発端とは〉 から続く 

 

【画像】涙を浮かべて…議員辞職の記者会見をする浜田幸一 

 

 いまから50年前の1974年、政治家・浜田幸一がラスベガスのカジノで大敗したというスキャンダルが週刊誌によって報じられた。その6年後、その出来事は思わぬ形で再注目を集めることになった。 

 

 ロッキード事件との関連を疑った検察は「K.ハマダ」なる人物が、実に4億6000万円の大金をバカラで溶かしたことを暴露。国際興業社主の小佐野賢治がロッキード社から受け取った賄賂20万ドルが、その借金返済に充てられたと指摘した。この疑惑について、晩年の浜田は何を告白したのか――。(全2回の2回目/ 最初から読む ) 

 

◆◆◆ 

 

 ロッキード裁判で思いがけず自身のスキャンダルが暴露された浜田は、その日のうちに自民党本部で記者会見を開き、ラスベガスで50ドルか100ドルぐらいは賭けたと認めながらも、「ロッキード事件と関係するようなことは絶対にない」と否定した。 

 

 それでも浜田は、政界に入る以前より暴力団とかかわりがあったという経歴もあいまって、社会的に大きな批判を浴びる。当時務めていた自民党の国民運動本部長も、スキャンダル発覚から2日後の1980年3月8日には「このまま続ければ自民党や国民への冒涜になる」として辞職、さらに4月10日、時の首相・大平正芳に、議員辞職と自民党からの離党を伝える。 

 

 浜田が議員辞職を決意した理由のひとつには、当時の自民党の厳しい事情があった。このころ自民党では、最大派閥である田中(角栄)派および時の首相・大平正芳を領袖とする大平派(宏池会)を中心とする主流派と、福田(赳夫)派・三木(武夫)派などの反主流派による対立が激化し、党がいつ分裂してもおかしくない状況だった。それに加えて国会は与野党伯仲状態で、大平は政権運営に苦慮していた。それだけに、浜田は自分の問題で党総裁の大平を苦しめてはならないと考え、辞意を固めたという。 

 

 

 ラスベガス事件の発覚以来、浜田に対し、野党だけでなく自民党内の反主流派も証人喚問を求めて一致団結した。本人もこれに応じる意向を示していたが、自民党は4月23日に最終回答として喚問拒否を通告する。このことは、翌月、野党が内閣不信任案を衆議院に提出する理由にもなった。 

 

 これと前後して、浜田を離党・議員辞職させるため長時間にわたって説得を続けた自民党幹事長の桜内義雄が、党の総務会でなぜ浜田問題が難しいのかを説明するなかで、「これにはデリケートな問題もあり、死んでも言えないことがある」と述べ、出席者たちが沈黙する場面があった。 

 

 一体、桜井が口にした「死んでも言えないこと」とは何なのか? これについてジャーナリストの立花隆は、《どうやら浜田が、自分をそれほどまでに追いつめるなら、証人喚問に応じて、「知っていることを全部ぶちまけてやる」といい、ぶちまける内容をあれこれならべたことをさすらしい。それは、児玉、小佐野とさまざまの政治家の関係が中心で、(中略)また、与野党議員の間で多額の金が動く賭けマージャンの実態についてもバラすといったようだ》と記している(『闇将軍 田中角栄の策謀』)。 

 

 実際、浜田は議員辞職後に出した著書『弾丸なき抗争』のなかで、次のように国会議員のあいだでの賭け麻雀の存在をほのめかしている。 

 

《俺があれこれいわれた一件については、たしかに、カジノの借金を立て替えてもらったことは事実だ。政治家が公認バクチをやったのが悪いというならば、その非は認めよう。金を一時的にも立てかえてもらったのは軽率だったということも認めよう。(中略)だがしかしだよ、代議士だって人の子だ、メシもくえばバクチもするわな。賭けマージャンや競馬を、一度もやったことがないという謹厳実直居士がどれだけいるというのか。(中略)与野党問わず、俺と同じぐらいのことをやっている政治家はゴマンといる。これ政界の常識なり、だ。政治倫理の確立をいうなら、いまの政治家みんな退陣せなならんのと違うか》 

 

 先述の大平内閣に対する不信任案は、自民党の反主流派議員の多くが衆院本会議を欠席したため可決され、大平首相は衆院を解散、史上初の衆参同日選挙に突き進んだ。しかし、その選挙中、病に倒れ、投票前の6月12日に急死する。 

 

 

 浜田は、自身は出馬をとりやめたこのときの選挙で、テレビ朝日の開票特番に生出演したのが話題を呼び、このあと同局のワイドショーにレギュラー出演するようになる。上に引用した文章にも表れているように、彼のあけすけなキャラクターはテレビ向きだったのだろう。地元での支持も根強く、1983年の総選挙で返り咲いた。そのタレントとしての才能は、1993年の政界引退後、『ビートたけしのTVタックル』などの番組でますます発揮された。 

 

 ロッキード事件での小佐野の公判は、浜田の政界復帰を挟み、1981年の一審判決では懲役1年の実刑、1984年の控訴審判決では懲役10ヵ月・執行猶予3年が言い渡された。小佐野はその後、最高裁に上告するも1986年に死去する。 

 

 浜田は小佐野に対する各判決後の会見、その後の著書でも、ラスベガスでの借金を小佐野に肩代わりしてもらったことは認め、彼にはあとで全額返済したと述べる一方で、そのカネとロッキード事件との関連については自分の知るところではないと一貫して主張してきた。 

 

 しかし、2011年に刊行した著書『YUIGON』で、驚くべき告白をするにいたる。要約すると、ロッキード社は取引が成立しなかったため、日本側に贈った賄賂を、裏金として回収しなければならなかった。そのために浜田は、田中角栄にロッキード社から丸紅を通じて渡った5億円の領収書の精算を任せられ、ラスベガスのカジノでわざと大負けしたというのだ。 

 

 それ以前から、小佐野が浜田の借金を肩代わりしたことは、当の浜田が《小佐野さんという人は、そんなに気前のいい人ではない、根っからのビジネスマン》(『永田町、あのときの話』)と書くほどだっただけに大きな謎とされ、さまざまな憶測がなされてきた。そのなかには、小佐野とホテル側で裏金を動かす必要が生じたため、浜田がカジノでわざと負け、合法的に巨額の金をつくったのだとする説もあった(『新潮45』2005年12月号)。浜田の告白が事実ならば、裏金を動かす必要があったのはサンズホテルではなく、ロッキード社だったことになるが……。 

 

 もちろん、浜田の言い分を鵜呑みにするわけにはいかない。それでも、このとき83歳になろうとしていた彼が、すでに身体的に著述に困難がともなう状態にありながら、それまでの主張を覆してまでも書き遺したことだけに、まったくのでたらめとも思えない。ひょっとすると、浜田から話を聞いた桜内義雄が口にした「死んでも言えないこと」とは、このことだったのか。 

 

 なお、浜田は上記の告白に続けて、《蛇足ながら、小佐野も私もギャンブルは基本的にやりません。(中略)もっとも、「お前の人生そのものがギャンブルだろう」と言われてしまったら、グウの音も出ませんが》と付け加えている。浜田が亡くなったのは、『YUIGON』刊行の1年後、2012年8月5日のことであった。 

 

【主な参考文献】 

◆「『反田中・青嵐会』の浜田幸一代議士が4月27日 例の小佐野賢治氏とアメリカ大旅行 なぜ?」(『週刊文春』1974年7月1日号) 

◆浜田幸一『弾丸なき抗争 権謀術数に生きる男の戦い』(KKベストセラーズ、1983年)、『永田町、あのときの話 ハマコーの直情と涙の政界史』(講談社、1994年)、『YUIGON もはや最期だ。すべてを明かそう。』(ポプラ社、2011年) 

◆立花隆『闇将軍 田中角栄の策謀 ロッキード裁判傍聴記2』(朝日新聞社、1983年) 

◆毎日新聞社編『総理の犯罪 田中角栄・敗北の構図』(毎日新聞社、1983年) 

◆上條昌史「浜田幸一代議士のラスベガス賭博・巨額借金」(『新潮45』2005年12月号) 

 そのほか、事件当時の新聞・雑誌記事を参照しました 

 

近藤 正高 

 

 

 
 

IMAGE