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「~してあげる」4歳娘の発した言葉から感じた日本の大問題 日本の福祉にも刻まれた「上下関係」への違和感

東洋経済オンライン 5/12(日) 8:41 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/c25d5c8aa50e214d5e710ae696d918438257b57b

 

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井手英策さんは、自身の経験から、「自己責任」論や社会の分断について問題提起している。

彼は自己責任論が社会を分断させ、生きづらい状況を生み出していると指摘している。

そして、日常の中で気づきや実体験を通じて、社会の変革に向けて大切な視点を示す連載を行っている。

第6回のテーマは「そばにいるということ」であり、他者との共にあることの重要性に焦点を当てている。

(要約)

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井手英策さんの連載第6回のテーマは「そばにいるということ」です(写真:maroke/PIXTA) 

 

財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。 

貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。 

 

勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。 

「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第6回のテーマは「そばにいるということ」です。 

 

■娘の言葉に妙な引っかかりを覚えた 

 

 わが家の4歳の末娘。ゆっくり、ゆっくり、会話が上手になっている。そんな彼女のなかで、最近、流行っているのは、お父さんにやさしくすることだ。 

 

 「お帰り。今日も頑張ったね。肩もんであげようか?」 

 

 「のど渇いた?  ビール持ってきてあげようか?」 

 

 「お肉が大きいね。切ってあげようか?」 

 

 娘のやさしさ、健やかな育ちに触れ、心が癒やされる……のだが、じつは、妙な引っかかりを覚える「もう1人の自分」がいる。 

 

 正直に言おう。してあげる、という言葉が気になるのだ。 

 

 4歳児のやさしさに難癖をつけるのは、相当、大人気ないことだが、こればっかりは学者の性(さが)、どうしても気になって辞書で調べてみることにした。 

 

 広辞苑によると、「あげる」は、動作を他の人にして「やる」という意味の丁寧表現だそうだ。じゃあ、「やる」の意味は? と思い、調べてみると、こう書いてあった。 

 

 「同等以下の者のために労を執り、恩恵を与える意を表す」 

 

 

 文字は恐ろしいものだ。違和感の正体が一気に可視化された気がした。そう、私は、格下に恩恵を与えてやっているという、「上からの目線」に引っかかっていたのだ。 

 

 もちろん愛娘の言葉のつたなさは大した問題ではない。だけど、もし大人の世界で、この目線が当たり前の<日常>があったらどうだろう。 

 

 その日常は意外に身近なところにある。それは<福祉>の世界だ。 

 

 生活保護、介護、看護、養護、援助、介助、支援……誰もが知っている、当たり前のように使われている用語だが、じつは、すべてに「まもる(=護)」「たすける(=助・援・支)」という語が含まれている。 

 

 そもそも「福祉」とは「福」も「祉」も「しあわせ」を意味する。日本の福祉には、「私があなたを護り、助けて、幸せにしてあげる」という上下関係が刻み込まれているのだ。 

 

■上下関係の「下」に組み込まれることへの不安 

 

 人間は歳をとると、何らかの障がいを持ち、多くの人が福祉サービスを利用することになる。そんな未来に不安を感じるのは、きっと、私だけではないはずだ。 

 

 なぜか。それは、自分が朝から晩まで誰かに守り・助けられる存在になる、人様のご厄介にならないと生きていけなくなる、助けてくれる人たちに不平不満も言えなくなる、要するに、上下関係の「下」に組み込まれることが不安だからなのではないか。 

 

 みなさんはどうだろう。「してもらうこと」を「情けないこと」だと感じないだろうか。 

 

 アジア通貨危機が起きた1997年から1998年にかけて、失業者はいきなり50万人ほど増え、40~60代の男性を中心に自らの命を断つ人が続出した。たった1年で自殺者数は8000人以上増え、14年にわたって3万人を超えた。 

 

 私たちにとって「死」よりつらいことはない。でも、住宅ローンを組み、家族を養わなければならないと考えていた少なからぬ男性労働者は、生活保護や失業保険に頼る、つまり、人に助けてもらうくらいなら死んだほうがマシだ、と考えたのだった。 

 

 

 日本は不思議な国だ。母子家庭の母親が働きに出ると貧困率があがってしまう。なぜなら、パート労働をはしごして稼ぐお金より、生活保護で受け取るお金のほうが多いからだ。 

 

 働くと貧しくなる。なのに、母子家庭の母親の就労率は先進国トップクラスだ。フランスやスウェーデンでは、生活保護の対象者の8~9割は制度を利用する。でも日本の利用者は2割にも満たない。救済されることは、権利ではなく、失格の烙印のようにうつる。 

 

 「してもらうこと」は「情けないこと」。だから、私たちは誰かに頼ることを恐れる。お金を必死に貯めて、サービスを「買おう」とする。「してもらう」ではなく「させる」ために。金で片づける能力を持つ人たちを私たちは「自立した人間」と呼ぶ。 

 

■「生活保護=public assistance」に込められた意思 

 

 ここで新たな疑問が浮かぶ。私が娘の「してあげる」に違和感を覚えたのは、日本人らしさからなのだろうか?  それとも、どの国でも、事情は似たり寄ったりなのだろうか。 

 

 試しに「生活保護」という言葉を見てみる。英語ではpublic assistanceだ。assistanceの語源をたどってみるとラテン語のassistereであり、stand by、take a stand near、つまり「そばにいる」という意味が込められている。 

 

 publicの語源はpopulusであり、popularやpeopleと同源だ。現実の制度はどうであれ、英語圏では、垂直的な関係ではなく、「人びとがあなたのそばにいる」という水平的なつながりへの意思が言葉のなかに込められている。 

 

 そばにいるということ。してあげるのではなく、人びとが共にあるということ、私にとって、この違いはとてつもなく大きい。 

 

 社会福祉法人「訪問の家」の理事長である名里晴美さんは、重たい障がいを持つ人たちと「共にあろう」とする、私の大切な友人だ。他愛もない話をしていたときだった。彼女は僕にこういった。 

 

 「重度の身体障がい、知的障がいのある利用者さんで、身の回りのことは、ほぼ、どなたかのお世話になる人なんですけど、テレビで『嵐』が出てくると口角(唇の両わき)が動くんですよね。自信はないけど、たぶん彼女は、大野(智)さんが好きなんだと思うんです」 

 

 

 体が動かない。言葉も発せない。だから何かをしてあげてもお礼を言われることはない。それなのに、名里さんはその人のそばにいて、その人が何を感じ、何を幸せだと思うのかを全力で感じ取ろうとしていた。 

 

 彼女のような人たちは介護従事者と呼ばれる。介護従事者は、社会的に見て高い地位にある人たちとは言いがたい。 

 

 でも、彼女ら/彼らがいなくなった瞬間、重い障がいを持つ人たちは、他者との関わりから切断され、ひとりぼっちの存在になってしまう。そばにいることで人間の尊厳を精いっぱい守ろうとする仕事。介護の現場で働く人たちは、本当にすごい人たちだ、と思う。 

 

■私が心の危機を乗り越えられた理由 

 

 だが、このすばらしい物語は、心ある専門家の専売特許ではない。思えば、私自身、身近なところで同じような体験をした。 

 

 私は、2011年に脳内出血で生死の境をさまよい、2019年に母と叔母を火事で亡くす不幸に見舞われた。絶望の淵に立たされていたが、節目、節目を思い出してみると、連れ合いの穏やかな表情がまぶたに浮かんでくる。 

 

 当時の私は、毎晩、深夜まで、彼女に思いの丈をぶつけていた。正直、話した中身は、ほとんど覚えていない。だけど、彼女は私のそばにいて、文句も言わずに、黙って話を聞いてくれていた。この時間があったから、私は、心の危機を乗り越えることができた。 

 

 人間は温かな生き物だ。困っている人がいれば、悪い状況をいい状況に変えたくて、何かをしてあげたくなる。 

 

 もちろん、目の前の人に働きかけ、何かを変えることは大切なことだ。だけど、ただそばにいてもらえるだけでも、私たちは生きる力を手にすることができる。 

 

 人は誰しもが歳をとり、子どもたちに、仲間たちに、大なり小なり助けられて生きていくことになる。だから、「共にある」ことのすばらしさ、そのとてつもないエネルギーを、私たちはもっともっと分かち合っておきたいな、と思う。 

 

 

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(まとめ) 

日本語には微妙な上下関係が織り込まれている言葉が存在し、日常的な表現にも混ざっていることが指摘されていました。

子供の「してあげる」という言葉に対する感じ方や、福祉の報酬に関する社会的問題、他者へのサービスや親切を受け取ることの重要性などが話題になりました。

ただし、一部の意見では過剰に違和感を感じすぎることや、言葉を細かく問題視することに疑問を投げかける声もありました。

日本語やコミュニケーションにおける微妙なニュアンスや問題点に関する議論が広がっていました。

( 169526 )  2024/05/12 16:06:34  
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・わかります。日本語には、微妙に上下関係が練りこまれている言葉がある。 

 

そして、そういう言葉って、使うときにはまったく上下関係なんて意識しないで使う日常的なものにもたくさん混じってる。 

 

小さい子の場合は、「自分が役に立ちたい」「自分にもできる」っていう気持ちの表現が、語句としては「してあげる」なんですよね。相手が大人だと、そこを汲み取って「ありがとう」でほっこりしておしまいだけど、幼児同士だとうまくいかないこともありますね。「やってあげたい」「自分でやりたい」がせめぎあうというか。 

 

幼児の「してあげる」の申し出には、返答が「NO」の場合もあること(主導権が先方にあること)を学べたらいいのではないかと思います。 

 

私が気になるのは「元気を与える」「勇気を与える」ですかね。元気も勇気も、誰かから授けられるものではなく、自分の中にあるものです。 

 

 

・福祉ネイリストをしていますが、ネイルサロンでは3000円、5000円のメニューも、施設を訪問して福祉ネイルとして施術するとなぜか1000円以下になる。 

「福祉」と名前がつくと、何でも安くなります。 

介護士の方々がやってる仕事内容はとても大変なことなのに、福祉の世界だとお給料が安い。若者、特に男性は、結婚したり将来の希望が持てないので福祉の仕事を辞めていきます。福祉の世界にも、きちんとした対価が必要だと思います。 

 

 

・故エリザベス・キュブラーロス博士が著書のどこかで書いていた「受け取る者がいなければ、誰が与えられますか」という言葉を思い出します。 

与えて感謝されると幸せだと感じたり、自分が行動することで満足したり、そういうことはよくあるけれど、サービスも親切も、それを受け取ってくれる人があってのもの。ということは、自分が思っている幸せや満足は相手が与えてくれたものだということ。与え手と受け手は時に上下や一方通行の関係のように見えるけれど、実際はお互いがお互いにとって必要であり、誰ひとり役に立たない人も見下されていい人もいないのだという気づきを私にもたらしてくれました。 

 

自己責任論と、「してあげる」と「してもらう」の関係の危うさ。全面的に共感できる、そして全面的に今すべき指摘であると感じる、とても良い記事でした。 

 

 

・4歳児の「してあげる」は娘さんの周囲の方々の言語の使い方の投影でしょう。まだ、限られた人間関係の中で幼児は生きているので。 

ただ、言語心理学的に考えれば、日本的な上下関係、ジェンダー意識など、かなり言語表現に埋め込まれていのは確かです。 

「女々しい女」、「気の弱い女」と言うように文法的にありえても使わない表現があります。知らず知らずに伝統的ジェンダー観を言語を通じて身につけてしまうところもありますね。 

 

 

・私はかなり前から違和感がありました。特に、NHKの料理番組で料理しつつ、材料に「~してあげる」を使っていて驚きました。 

「~してあげる」という言葉の意味を理解しているのだろうかと疑問をもちましたが「~してあげる」が普通に使用されるようになりもう慣れました。 

また「可愛い」をその言葉では違うのにと思うこともしばしばです。 

美しい、素敵、見事なども、ひっくるめて「可愛い」で表現されるような 

社会になのました。他の言葉の表現を知らないのか、または面倒なのでしょうか、とも思っています。「可愛い」はホントに可愛いときしか使いません。 

 

 

・NHKでやっていたアタッチメントですね。 

 してあげるについては、それで良いのではないかと思う。 

 してあげる相手よりも強くないとしてあげられない。気持ちだけでは無力だと思う。 

 子供の「してあげる」は、親がしてあげていると思っているから違和感があるのだろう。また本文にあるとおり成長段階で「してあげる」ことができることが嬉しくてそう言うのではないかと思う。 

 生活保護等守られる側ではなく守る側になりたいのは、自立した人間として当然と思う。「男(夫など)に守ってもらう」、「女を守る」というのは、女の人格、人権を同等に見ていないという意味で不適切な表現になっていると思う。子供や病人や障碍者等は確かに守ってもらわなければならず、守ってもらう必要がなくなった段階で、大人になった、病や障害が癒えたと言えるのだと思う。 

 守ってもらう側から守る側に回りたいのは子供も、大人も、男も、女も同じである。 

 

 

・子どもに対しても「してあげる」とかは違うのかなと思っています。子どもはただ後に生まれやり方を知らないだけ、お年寄りは昔に生まれ体が衰えただけ、そう思うと上も下もなく、関わっていけるのでしょうか。自分も手を貸し、いつか貸してもらう存在です。 

娘さんがその言葉を使ったのは、大人にそう言われてきたし、言っていたのをみたからでしょう。 

普通に「ビールとってくるね!」でいいんでしょうね。喜んでくれる姿がそれに対するお返しでしょうし、その見返りを求めてもないはずなので 

 

 

・自分の父はいつもこういう言葉を吐くのが好きだった。 

「食わせてやってる」「扶養家族の分際で」だ。 

小中学生の頃、事実そうだと思っていたし、弁えていたつもりなので、 

自分は父に対して逆らった事もなければ舐めた口を聞いた事もない。 

ただ、それでも虫の居所が悪いと酒を飲んでは放言するのだ。 

そんな親の影響を受けていないか心配だが気をつけてはいる。 

最近の記事では専業主婦の方の主張として、「家事をしてやってる」的なのが多い。 

単にお互いに役割分担なだけな場合に、 

互いに「してやってる」とマウント取りあうのって不毛だなと思う。 

 

尤も、4歳の「してあげる」の何が悪いのかと思うが。 

以前に欧州の介護を介護を受けている人間が、 

「して貰ってるんじゃない」「俺が雇って仕事をさせてやってるんだ!」 

と言ってるのを見ましたが、金は国が払ってるのに何であんな横柄なのかなと思った。 

感謝して減るもんじゃないのに。 

 

 

・福祉精神というのはある意味理想論だと思う。 

それはそれで美徳になるし素晴らしい精神だと思うけれど、それより現実に対応する事の方がもっと大事だと思う。 

思うばかり言うばかりで実際何もやらない人なら、なんであろうと実際やっている人の方が素晴らしいと思う。 

 

 

・何と言えば良かったのか。 

 

4歳児のしてあげる、は、上から目線というより、「私は、誰かの役に立ちたい」から来ていると思う。 

幼児期の誰かの役に立つ経験は、思いやりを育む通過点でもあるし。 

 

でもこの言葉は、この筆者のプライドに引っかかったのだと思う。なにかを施されるのは、自分が見下されているから、という経験から。 

相手が上から目線にしているわけじゃなく、自分が卑屈になったのではないかと。 

 

私がやりたいからやってもいいかな?と言われたら満足なんだろうか。 

でも、これはこれで変な気がする。 

このあたり、日本語の難しさを感じる。 

 

なので、横のつながりという感覚は相手に責を求めるだけではなく、自分の価値観も見直したほうがいい時もあるように思う。 

 

でも、してあげる、が行き過ぎると、おせっかいを通り越して、マウントにつながるから、気をつけて育てないといけない思いであるのには賛同する。 

 

 

 

・最近 似たような経験をしたので目に留まりました 

同じ仕事を並行してやっていたのですが 

相手が上司ということもあるのですが 

私がうまくやれなかった尻拭いをしてやってる感が強く 

文言も常に上からでしたし 

しまいに他の第三者を巻き込んで面倒なことに 

その第三者の方も私が上司とうまくやれていないことを察して 

良かれと気遣ってくれたことは理解できるのですが 

してあげてる感を物凄く感じてしまいました 

卑屈になっている部分はあるのかもしれませんが 

今もそうは思っても感じてもいません 

仕事は仕事と果たすべき結果に共同協同作業していける職場を切に願います 

 

 

・~してあげる=同等以下の者のために労を執り、恩恵を与える意を表す 

 

身体的にも心理的にも親子逆転した役割を求められるヤングケアラーの人たちは、本来自分が頼るべき存在である親との関係性においてすら幼少期からこのような世界観で成長しているわけですね。 

 

この4歳の娘さんが筆者であるお父さんを内心どのような目線で見ているのかが気になります。 

もし「〜してあげる」を上記の語義通りに父親を同等以下と潜在意識で感じているために使っている表現ならばその理由や背景も気になります。 

 

別段理由もなく娘さんが覚えた表現を無意識に使っているだけなのであれば考えすぎかも知れませんが。 

 

 

・「あげる」か「あげないか」 

常にモノ、ヒトの上下を考える人にとっては、ひっかかるのだろうと思う。 

 

誰かに何かをしてあげたい、誰かの役にたちたい、誰かが私に何かをしてくれた…ごく当たり前の事として行っている人にとっては、全く気にならない。 

お隣さんにお土産をもらった、今度はうちもお土産買って持ってってあげよう。 

友人は花が大好きだ、誕生日には花をプレゼントしてあげよう。 

 

私には少しも問題だとは感じない。 

なぜなら、誰かに何かをしてあげることによって喜んでくれる顔を見るのがうれしい。そして同じことをしてもらったら私もうれしい。 

だから、また何かあったら役にたつことをしてあげたい。 

 

確かに、「してあげる」ことがエスカレートしてマウントをとる輩もいるかもしれないが、それはそれ。 

 

普通に自然に受け入れても良いのではないかと思う。 

 

 

・この筆者は4歳児にしてあげるとウエメセで言われたことで引っかかりを感じたようだが、それって自分はプライドが高くて扱いにくい人物だと自白したようなものだよね。自分はエリートだという思い上がった意識が透けて見える。 

子供は親の悪い部分を真似てしまう。 

ちょっとした振る舞いや言い方、他人から見たらどうってことないことでも、親としては直視できないくらい引っかかるものがあったりする。 

 

次男と喧嘩して言い争いになったことがあった。 

その時「お前が」という言い方をされて、キレそうになったことがある。 

親に向かって「お前」って、ふざけんなと思ったよ。まだ学生で、親のすねをかじってる身分でさ。 

 

けど、冷静になって振り返ってみれば、自分が次男に対して名前で呼ぶだけでなく、「お前」という言い方をしていたことに気付いた。 

つまり、親に養われている身分の次男に対して、「お前」と偉そうに言っていただけのことだった 

 

 

・してあげるの上から目線にひっかかるって事だけど、これをさせて頂くまでへりくだらせる極端さもまたよろしくないよな。 

別にそこはしてあげるで良いと思うぞ。4歳の末娘ちゃんだってたくさんの「してあげる」を受けてそだってるんだからさ。そのしてあげる立場に立ちたいっていう親切心のモチベーションに、実は上から目線が役立ってるケースもある。 

 

上から目線がいかんっていうのは、それを根拠に相手を従わせようとするのが良くないだけ。 

 

すべての上から目線がいかんなんてのを強調しすぎると小さな親切心すら無くしてしまうだろう。 

事実、手助けだの募金だのにものすごく反発する人の言い分って、相手から上から目線で返されたから二度とやらないみたいなのが多い。 

やる側の上から目線を許さんみたいなのを受け取り手が発信してしまうと手助けは得られないよ。 

 

末娘ちゃんのしてあげるって親切を素直にありがとうっていう方が大切。 

 

 

・例えばある店である日だけあるグッズが配られているとする。自分はそのグッズが欲しい。でもその日は用事があって行けない。このときに家族や友人が「じゃあ代わりにもらってきてあげようか?」と申し出てきたらどうなのだろう?これで「あげる」に引っかかるという人はむしろ感謝がないと思う。 

 

 

・マンスプレイニングのされる側体験ですね。自分が無意識にしている側で当たり前だと、されたときにビックリして怒り出す。それまで偉そうにしていた人がお年寄りになって若い女に介護され、できない者扱いされたときに感じる違和感、怒り。 

4歳のお子さんでは悪意がないことがわかっているし、怒りもわかない。前もって認識できてラッキーでしたね。 

 

 

・障害を持った人や高齢者に親切にした話が報道されると自分が親切行為をしたわけでもない他人がネットで「お礼がない」とか「してもらって当たり前だと思うな」とか怒ってますね。その人たちは親切は「してあげた」とか「してやった」ものと思ってるのでしょうか?見返りを求めない親切ならお礼なんか言ってもらえなくても何ともないはずなんですが。まあお礼は言ってもらえたら嬉しいですがなくても何の支障もありません。自分にできる当たり前のことしてるだけですから。 

 

 

・家庭内ならまだ良い。どうにかできる。 

無意識に学校で 

遊んであげるとかいう子は半分ぐらいいるんじゃない? 

親がやってあげるとか声かけしてるから子供も真似するのだからこのお母さんは以後あげるってつけない言い方をすれば良いと思います。 

 

 

・よくボランティアなどで偽善批判がある。 

無償で困っている人のために尽くすなどするわけがない。自分をよく見せる偽善だという批判だ。 

それは批判する人の心根をよく表している。 

何かしてあげるのは自分が上に立ちたい、よく見られたい、承認欲求を満たしたからだとその人たちは思う。 

そういう部分もあるかもしれないが、多くは人に尽くす事が自分の喜びになる事を経験的に知っていると思う。 

釈尊は人のために尽くせば善業なり、謗れば悪業になると説いている。 

それが実感できれは、人にしてあげるのではなく、させていただくという気持ちになる。 

 

 

 

・子どもの言葉から違和感を感じたと言うが、そもそもな話として子どもは学習した言葉を使ってるはずなのであって、~してあげると言う上から目線な言葉遣いをどこかで学んできたという話。少なくとも身近なところで、上下関係が存在し、上の人が下の人に対して言うものを言いを学んだ結果なのだとしたら、その学習先は誰なのでしょう?日本のなどと言う大きな範囲で問題提起する話なの?それ。 

 

 

・同居してた方の祖母が割と“してもらう”ことを嫌がる人だったけど、母に家事を“させる”のは割と平気そうにもしてたので、その違いはどこにあるんだろうな、と考えてみれば、要は自身と相手の上下関係だったのかなぁ、と思わないでもない 

 

そういうところを気にする人がいる、というのは分かるけど、結局のところ上か下かでしか相手を見られないというのは可哀想なことだな、と祖母が故人となった今なら思う 

 

してあげる、という言葉選びになってたとしても、四歳の娘さんの意図に上下関係などはなく、役に立てることの喜びとか、ほめてもらえる嬉しさとか、そういう純粋な気持ちから発されてたんじゃなかろうか 

 

記事を書いた人は学者さんらしいので、言語の一つ一つまでも気に留めて分析する姿勢も必要なことなのだろうとは思う 

けれども、日常生活においては言葉尻を捉えるのではなく相手の気持ちに目を向けて、感謝の気持ちを忘れないようにしたい 

 

 

・心温まる話だ。 

「共にある」という言い方はメルケルがコロナの時にドイツ国民に語って心に響いた言葉だ。最近になって岸田首相が何故か国民の同意も無しに米議会で「日本はアメリカと共にある」と言う趣旨の演説をしてどっ白けさせられると共に、「共にある」という言葉の尊さも雲散霧消させられた気分になった。 

だが、ここは気を取り直して、弱者や困っている人と「共にある」事を心がけよう。 

 

 

・言語はその民族の歴史・文化の上で成り立っている。時代とともに緩やかに変化していき,意味も使われ方も全く異なったものに変節したものもある。これからもそうだろう。 

日常でのコミュニケーションは,個々に違う感性・価値観など多様な人物間で行う。発信者の意図と受信者の解釈にズレが生じる場合があるのは仕方がない,避けがたい。 

私の場合,「〜してあげ(ましょう)ようか?」「〜してやろうか」は違うように感じる。前者の場合,私のやろうとしていることは,あなたにとって「余計なお世話ではないですよね」の気遣いが込められているように思う。 

前者だと,お願いするなら「ありがとう(ございます)。お願いします。」だし,断るなら「(お気遣い)ありがとう(ございます)。自分でするよ(します)。」 

後者だと,よっぽど親しい仲でないと断るだろうな「結構です。」と 

両者を同じに感じる人もいるだろう。それをダメとも思わない。 

 

 

・「してあげる」。私も子供の頃、父に注意された事があります。 

以来、気をつけています。「してあげる」ではなく「する」となるような言い方を心がけています。高い棚の上で手が届かないとき「取ってあげましょうか」と言わず「取りますよ」と言うように。 

 

 

・生粋のマウンターはいるよね。 

その様な人に我が子にはなってほしくない。 

人に厳しく自分に甘い人をみるとアホにしか見えない。 

 

上下関係はどうしても存在するけど、日本の美徳でもある謙虚を双方がもっていてこそ良い関係が築けるのだと思います。 

 

 

・事例が変だからおかしな話になってる気がする 

4歳娘、実際に「してあげてる」ようにしか見えない 

肩揉んでビール運んでもらって肉切ってもらうのを当然の権利みたいに受け取る父親のほうが嫌じゃないかな 

それに親子関係ならお互い様でしょ 

娘が肩揉んであげた代わりに父親は遊びに付き合ってあげたりすればいいだけで、 

「してあげる」をお互いに返せば済む話でしかない 

 

福祉に関してはお互い様ではなく一方的になりがちだから負い目を感じやすいんだと思う 

ただそれは多少の心苦しさを持ちつつ受け入れたほうがいいのでは 

言っちゃなんだが「してあげる」側の優越感も金払いとかを促進する面はあるでしょ 

対価もなく気持ちすらも受け取れないでは慈善行為をやる人を減らすだけな気がする 

 

 

・4歳の子は親などから(してあげるね)と言われているから同じ言葉遣いをしているだけ。違和感があるなら先ず親が声かけを見直したら良い。中盤までは成る程という内容もあったが、最終的にではどうしたら筆者が求める社会になるのかは書かれていなかった。 

ほぼ見出しにつられた記事でした。 

 

 

・してもらう方がお願いするときは「~してください」と言います。価値を与えるほうが「くだす」ではなく「あげる」と言っているなら丁寧なことばではないの?お母さんにはあげるで、犬には餌をやる、この使い分けでよいと思うが。神社で御札をもらうときは神社側は「1000円で御札をいただけます」みたいな言い方をするのを見たことがある。 

 

 

・子育てや幼少期は「~してあげる」で問題ないと思うけど、小学生中学年以降の友人の会話、夫婦の会話とか高齢者福祉で介護者に話しかける言葉としては、好ましくないこともあるとは思いますけどね。 

記事の書き方だけど、題名に「~してあげる」と書くからモヤモヤする人が出てくるとは思いますけどね。 

 

 

 

・元々の意味はともかく、娘が上から目線などありえない事はわかるはず。 

下手に知識があるので編屈な思想に凝り固まっている。 

 

子供は本来は親から面倒を見てもらう立場だ。 

その本来やらないことを“逆”にやるからやって“あげる”になる。 

 

例えば介護施設の職員の人が利用者に御飯を食べさせて”あげる”とは言わないはず。ご飯にしましょうね、とか食べましょうねと言うはずだ。 

介護職員はそれが本来の仕事だからわざわざ“あげる”というのは変になる。 

逆に利用者が御礼にプレゼントするような場合は“あげる”を使っても違和感がない。 

 

弱者や下の身分への〜あげるよりも、下から上への〜あげるの方がしっくりくる。文の娘の言葉がそれを示している。本来の下賜するという意味は消えたのである。 

 

 

・4歳娘の「~してあげる」表現は、親や周囲の物言いの投影だ 

それを日本語の問題としたわけだ 

その比較として外国語に倣い「共在感」という単語を創作した 

で、そのように言葉をすり替えたら現状の変革が起きるだろうか? 

そもそも4歳娘の発した「~してあげる」から「上下関係」への違和感を覚えたのは本人 

他の日本人は気にもしない上下関係を感じ取ったのは、上下関係を意識しているからだ 

 

 

・4歳の娘の言い方のクセは単に周りの大人からの継承だと思う。 

この人の言いたい福祉の話は分からなくもない。 

社会的に少数派や弱者と見なされる人達に対する言葉の端々に「それ」は現れる。 

「私たちはいつでも手を差し伸べますよ」と言われたことがある。「差し伸べる」という言い方に引っかかった。 

平等に認めて欲しい、例えば障害があっても負けずに社会の一員として頑張って生きたい人には引っかかる言葉ではないだろうか。 

「それ」=善意で無自覚の上から目線 だと思う。 

福祉を受ける側の自尊心を優しく崩していくような言葉。 

 

 

・失礼ながら、気持ち悪いと思ってしまった。 

<共存感>と言い換えているけど、新しいかたちの「やりがい搾取」のように思えます。いぜん介助ボランティアしているときも福祉界隈にはいろいろ理屈を並べる方がおられてそれはそれで理解できるけれど、他人からサービスを受けられることが当然だと思うようになると、身をすり減らして仕事して税金を納めている人たちの感覚とますます乖離するのではないかと思います。 

 

 

・何が大問題だろうか。 

自分が、母親や叔母にしてもらった負い目がそう感じさせていると思われる。 

してもらうことに敏感になる。 

世の中、一人で生きていけないから、してもらうこともしてあげることも当たり前なのに。 

 

 

・少しの事で違和感を感じていたら思考が狭くなり対人関係も悪くなります。 さらりと聞き流すだけでいいと思います。 4歳の娘? 日本の大問題? 誇大妄想し過ぎではありませんか?  駅の広告板に違和感を覚えクレームを付ける人がいるそうです。 これは自分を中心に考えているから違和感を感じるのです。 

 

 

・赤ちゃんが言葉を発し、言語を覚える〝お手本〟は親です。つまり「〜してあげる」は多分、お母さんの口ぐせ。それを子供は真似ているだけでこの子が発する「〜してあげる」の中に上下関係等、大人の事情なと微塵もないと思いますが…ここから〝日本の大問題〟へ繋げる意図が解らない。 

 

 

・4歳の子が「してあげる」なら全く問題ないのではないですか。「○○する」は自分の行動、「してあげる」が他人への行動。一番シンプルな表現でしょう。区別できるようになったという「成長」です。それからだんだん学んで、他人への思いやりの表現が生まれてくるのではないですか。二十歳になって、なんでも「してあげる」と表現したなら問題視してもよいかもしれません。でも男が二十歳の子に「してあげる」と言われると、鼻の下が伸びますが。 

 

 

・一般社会では「してあげる」は心で思っても、口に出してはいけない言葉です。 

子供が親に言うのは、子供はされる立場でする立場ではない、と言う無意識の感覚があるからでしょう。 

 

 

・「して差し上げる」の略かもしれないだろ 

それなら謙譲語であって上から目線なんかじゃない 

結局こんなのは枝葉末節に拘った難癖であって実に下らない 

心優しい娘さんにひねくれた教育をしないよう祈るわ 

 

 

 

・でも、家庭で「ほら、パパに***してあげたら?」みたいな言い方でお手伝いとかを促す教育をしてたら、子どもの表現もそうなるよね。 

 

意図的に「***してあげよう」という表現を使わないように親が気をつけるとしたら、お手伝いとかは代わりにどういう表現になるんだろ? 

「***したらママ、助かるよ。」とか?それにしたって結局は「助けるためにやってあげる」というニュアンスは含んでる訳で。 

 

 

・「〜してあげる」、私もとても上から目線に感じて嫌です。 

この私がお前みたいな奴にわざわざしてあげてるんだから感謝しろよ!というニュアンスにも聞こえるからです。 

ではどうしてそのような言葉遣いをするのか気になり、色々と調べたところ「〜してあげる」を使う人々にとってはそれが最大限の優しさ・思いやりの表現だと思い言ってるそうです。 

例えば、普段食べないような美味しい物を自分1人で食べた時に「親にも食べさせてあげたい」「家族にも食べさせてあげたい」、そう思う気持ちと同等だというのです。 

その結果が「〜してあげる」という言葉遣いになるそうで…成程と思いましたね。 

 

 

・そりゃして貰うんだからその時限りは下の立場だ。 

だから何だというのか?常に上にいないと 

気がすまない性分なのだろう? 

してもらってありがとうで良いだろう。 

ありがとうはもちろん有り難しから来ており、 

上下関係が存在している。 

 

 

・してあげる/させていただく→する側からの押し付け感が出やすい。 

なら、しようか?/しましょうか?と相手にまず聞けばいいのでは。相手のしてほしい/いや自分で出来るからいい、の気持ちを尊重する意味になるから。 

 

 

・日本語は難しい。外国人技能実習生を大量に受け入れるのならこれらの言葉を簡略化する必要があるのでは?外国人には意味が分からないのでは? 

 

 

・あなたも父親として娘に何かしてあげてるという感覚で、おそらく口にも出しているのだと思うのですが。 

小さな子は親を真似て成長します。 

気になるなら先ずはご自分から変えて行く事をおすすめします。 

少し違いますが、私は勇気を与えるという言葉が引っかかります。 

与えるも〜してあげると同様な上下関係ですし、勇気は人から貰うものではなく内から湧いてくるものです。 

 

 

・引っかかるのは同等からの格下目線でしょ。子供の「してあげる」に引っかかったら異常だよ。お母さんや先生の真似事、優しいおままごと。大人になっても「してあげる」「してやる」「してあげたのに」が口癖の人は痛い人が多いけどね。 

 

 

・する。を使うと対象者の意見を無視の私の要求みたいだから嫌。 

対象者が望んでそれに応じる意味合いで使っているに過ぎないと思う。 

大抵の人はその程度の扱いなのに、状況も手伝うと上から目線になるんだろうね。 

揚げ足取りの気がする。 

 

 

・モヤモヤを解消するには、エッセンシャルワーカーの社会的地位と給与を上げる。 

では、その分どこの給与を下げるか? 

60歳以上の再雇用者、仕事もしない名義貸し制度の廃止などでも、十分捻出出来ると思うなー 

 

 

・考えすぎでは?いちいち上下関係感じるとか繊細すぎないか?こういう印象だけで感情的に言葉を捉える人の言うことって言葉狩りしてる人と一緒だと思う。こういうこと言ってる人の周りの人は付き合いづらい人って思ってるだろうな。 

 

 

 

・でも、このお母さんも自分の娘に「してあげる」と言ってませんか? 親子は人格的に対等ですよ。法律的にも親は子を養育する義務があるから、養育して当然なのですよ。親子に「上下関係」はないのに「してあげる」に違和感を感じないのは何故? 

 

 

・何か引っかかると感じるのは、自分の中にそのような思考(してあげる)があるからでしょうね 

4歳の娘さんは純粋にお母さんのために何かしたかっただけだと思いますよ 

 

 

・一番は親の言葉遣いの問題でしょう。 

子供って周りの大人から言葉を覚えているんですよ。きちんと言葉遣いを正してあげてください。 

 

 

・大人になれば、 

「コーヒー淹れようか?」「コーヒー淹れるね」 

「買い物してこようか?」「アイス買ってきたよ」 

みたいに自然になるよ。 

だっていちいち「~あげる」を付けるのって、 

「コーヒー淹れてあげようか?」 

「アイスを買ってきてあげたよ」 

言葉としても長くて面倒だもん。 

 

 

・体験から得られることは貴重ですよね。わざわざそういう逆体験してもらって認識を改めてもらうという病気治療があるようです。 

 

 

・マイナンバーで各人の預金状況は把握できるだろうし、 

何うまい仕組みを考案して、生活保護を自動給付にすることはできないのかな? 

 

 

・子どもたちに「〜してあげたら?」って口をはさむことがあるのには気付いたけど、自分が言ったり言われたりは意識したことないなぁ。 

子どもには指図する立場に私はいるけど、これってだめなのかな。 

 

 

・「させていただく」を多用するのも違和感あるんですよね。日本では対等な立場が理解されにくいんじゃないかな。だから、真の民主主義が育ちにくいのでは。 

 

 

・ただ努力して成功した人を蔑み、何もしなかった人を称える方向で動いている世の中は、何か不気味なんだよね。 

劣等感を煽らない人を精神的に便利だから使っているだけというか。 

 

 

・植物に水をあげて、とか、ペットにごはんをあげて、の違和感の正体ですね。水やり(遣る)、餌遣りは動詞じゃないから、この形を崩さなければヘンな方には行かなかったと思うんたけどな。 

させていただく。が横行しているが、このあいだまでは、 

する→いたす  

だった。 

 

 

 

・日本語って言葉選びで微妙にニュアンスが変わるから難しいですよね。 

無神経と考え過ぎのバランスも難しい。 

 

 

・「してあげる」はやはり偉そうな言葉 

 

 

昨今、話題の頂き女子たちは 

貢がれてもなお 

「貢がせてあげた」「尽くさせてあげた」と上から目線だったりする 

 

「してあげる」はやはり危険な発想 

 

丁寧語だと思って誤用してるだけならいいが、、、 

一歩間違うと自己愛がおかしい人になる 

 

 

・大きくなれば「〜してあげる」の言葉のニュアンスに気付くから、どこでも使わないようになる。 

 

4歳の言葉尻にそこまで引っかかり、ここまで壮大な話が出来る、さすが学者さん。 

 

 

・考え過ぎ 

 

おそらく、あなたが娘さんに言ってる言葉の真似 

 

あなたが無意識と意識の中間くらいでちょっと上から使ってるのでしょう 

 

大抵の人は上からじゃない時も普通に使います 

 

 

・このお父さん鋭いね。 

でも、もう遅いよ。そんな社会でも生き残れるように娘さんを育ててくださいね。 

 

 

・自分が出来る事は、してあげる。 

 

自分では出来ない事は、して頂く。 

 

お互い、感謝し感謝される。 

 

駄目なのかな。 

 

 

・以前から看護師の言葉遣いに大きな違和感があります。 

患者とはいえ大人相手に、子供をあやすような言葉遣い。 

 

 

・ふわふわした記事だなぁ。 

 

要するに 

日本はもう脱成長の時期、 

資本主義の加速は無理ってことでしょう。 

 

ある程度 

共産主義にならないと 

日本はもう維持できんよ。 

 

 

・でも社会保障制度がない国も沢山あるからね。普遍的な権利ではないと思う。 

 

 

・最後まで繰り返し読んでみたが、よくわからん 

世話をする側も言葉に気をつけてほしい、ということかな 

 

 

 

・●●して上げても良いよ 

っていう小学校に通う姪がいる。いらっとするけど親は注意しないし私も将来どんな子になるのか楽しみで注意しない。途中で気付くかそのまま育つのか。苦労するのは本人。 

 

 

・夫がこの『してあげる』を使います。 

姑も同じです。 

 

親から受け継がれた言葉遣いだと思います。 

 

 

・そうですよね。共にある喜びが大切なんですよね。 

そこがボヤケてしまうと上下関係になってしまいますよね。 

 

 

・何もしないでぼーっとしてる人に 

無償で肩叩きをする人がいたら 

上下関係は無償で肩叩きしてる人の方が 

上になると思います。 

 

 

・〜してあげる、縦関係、ヘルプ、多くの社会福祉 

〜しよう、横の関係、フォロー、一部の社会福祉 

 

それがヘルプか?フォローか?って、割とよく使う概念。 

 

 

・『〇〇してあげる』と言ったら『お前何様やねん!』と言われた事あるので、それから『してあげる』は使わないようにしてる。 

 

 

・ただ単にお母さんの口癖や話口調を真似ているだけでは? 

 

 

・これで看護・介護・福祉がまた差別用語になって違う言い方が考えられるのか、めんどくせえ。 

 

 

・させていただきます 

 

させてください 

 

が、お望みですか? 

 

それも上下関係じゃないですか 

 

 

・貧しい親に借金抱えさせてまでラ・サールに行く思考回路が理解出来ない。 

 

 

 

・言えばいいんじゃない?「お前の『してあげる』は、恩着せがましい、やめなさい」って。 

 

 

・「これなら子供も野菜を食べてくれる」って言う情けない親が多い 

 

 

・途中で、読むのを止めました。 

 

 

・その結果、「〜させていただきます」になる。 

 

 

・親の背中を見て育つ 

 

 

・細けーこと気にすんな\(^o^)/ 

おおらかに生きようぜ!! 

 

 

・「~あげる」 

「~しようか」 

 

後者がいいと思う。 

 

 

・鈍感力。 

 

 

・著者が上にいる感が満載の矛盾記事。 

 

 

・〜してあげる。 

いややのー。 

 

 

 

 
 

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