( 170453 )  2024/05/15 01:28:40  
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安倍晋三元総理が「悪夢の民主党政権」として批判した民主党政権についての記事。

民主党は小沢一郎代表のもとで党再生の過程を経て政権を獲得したが、政権運営の未熟さや内紛、普天間飛行場移設問題、消費税増税問題などにより支持を失い、震災や原発政策によって与野党の逆転が生じ、政権は短命に終わった。

それでも原発政策において菅政権が示した方針は、再生可能エネルギーへの転換や国内原発ゼロの可能性を示すものであり、その政策は政府の古い権力構造に立ち向かうものであった。

(要約)

( 170455 )  2024/05/15 01:28:40  
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Wikipediaより 

 

 安倍晋三元総理が、何度も口にし続けた「悪夢の民主党政権」。当時の民主党幹部の多くが集う立憲民主党を批判する文脈で、現在でもしばしば使われている言葉だ。2009年からのわずか3年にすぎない政権運営が、10年以上経っても攻撃材料にされてしまうのはなぜなのか。本稿は、尾中香尚里『野党第1党――「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。 

 

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● 小沢一郎が目指していたのは 「保守2大政党制」だった 

 

 小沢一郎代表のもとで、民主党は党再生の足掛かりをつかみました。 

 

 小沢氏が就任した翌年の2007年夏、民主党は小沢氏の代表就任後初めての大型国政選挙となる参院選を迎えました。自民党は、小泉純一郎首相が「党総裁としての任期満了」を理由に首相を辞任。その後継として安倍晋三氏が首相となっていましたが、閣僚の相次ぐ不祥事などで内閣支持率は低迷していました。 

 

 小沢民主党は参院選で安倍自民党を惨敗させ、参院は再び、与野党が逆転する「ねじれ国会」となりました。安倍氏はその直後の秋の臨時国会で、開会した途端に辞意を表明。続く福田康夫首相も1年の短命に終わり、後を受けた麻生太郎首相も、就任直後に見舞われたリーマン・ショックを受けて、早々に追い込まれました。 

 

 衆院議員が任期満了となる2009年を迎え、政権交代が現実味を帯びる中、民主党も激震に襲われました。小沢氏が、自らの政治資金団体をめぐる事件に絡んで秘書が逮捕・起訴された事件(いわゆる「陸山会事件」)を機に、代表を辞任する事態に見舞われたのです。後任を選ぶ党代表選で、岡田克也氏を破り代表の座についたのが、鳩山由紀夫氏でした。この年の5月のことでした。 

 

 小沢氏周りの事件で陰りが見えかけた民主党への支持は、一気に復調しました。 

 

 鳩山氏の就任から約2カ月後の同年7月。麻生首相は、追い込まれる形で衆院を解散しました。8月の衆院選で民主党は308議席という圧倒的な議席を獲得し、自民党から政権を奪取。翌9月、鳩山政権が発足したのです。 

 

 しかし、鳩山政権の誕生は「政権交代可能な保守2大政党制」の旗を振ってきた勢力には、おそらく逆の意味の、つまりは悪い意味での衝撃を与えたように思います。 

 

 ひと言で言えば「なぜ鳩山首相なのか」ということでしょう。 

 

 民主党はもともと、衆院選に小選挙区制度が導入された1996年、自民党・新進党の「保守2大政党」に抗い、民主リベラル勢力の一翼を担うべく結党された政党です。その時に菅直人氏と並んで初代代表を務めたのが鳩山氏でした。2人は政界において「リベラル派のリーダー」と位置づけられてきました。誤解を恐れずに言えば、2人は「保守2大政党」を求めてきた勢力にとって、たぶん「目障りな存在」だったのです。 

 

 

 「自民党と新進党の保守2大政党」の枠組みを阻むように民主党を結党したリーダーの1人が、自民党から政権を奪う。こんなはずではなかった。これはまさに「民主主義の誤作動」だ。 

 

 あの時にそう感じた人たちは、決して少なくはなかったと思います。そうでなければ、当時小選挙区制が求めていたはずの「政権交代」という目的を果たした民主党政権が、過剰なほどのバッシングを受けるはずがないからです。 

 

 「悪夢の民主党政権」という言葉は、民主党が政権から転落して10年以上が過ぎた今も、執拗に繰り返されています。これほど繰り返されるのはなぜなのか。一体、誰にとって「悪夢の政権」だったのか。改めて考える必要もあるのではないでしょうか。 

 

● 鳩山「最低でも県外」発言で 迷走した普天間基地移設問題 

 

 政界全体の「民主党政権を歓迎しようとしない」空気を察することができれば、民主党政権はもっとうまい立ち回りができたのかもしれません。つまり「政権交代しても、自民党的なるもの、保守的なるものには大きく手をつけない『保守2大政党』の枠組みの中にいる限り」彼らはもっと歓迎されていたかもしれないのです。 

 

 しかし民主党政権、特に鳩山政権は、その意味で「真逆」の道を取りました。その最大の案件が、米軍普天間飛行場移設問題でした。鳩山代表が衆院選の期間中に発言した「最低でも県外」は「政権交代しても外交・安全保障政策は変わらない」という、その根幹に手を突っ込むものでした。 

 

 これだけの大きな案件を進めるには、非常に強い政治力が必要なことは間違いありません。政権運営の経験が乏しく未熟だった鳩山政権は、とてもこれだけの大きな案件をさばく力を持たず、迷走を重ねた末に、国民の支持を大きく失っていきました。 

 

 外野の批判は言うに及ばずでしたが、政権の勢いが下降するとともに、民主党内の不協和音も顕在化しました。 

 

 民主党はこの時点でかなりの「寄り合い所帯」となっていました。民主党は鳩山氏や菅直人氏ら、1996年結党の旧民主党時代からのリベラル系議員が政権や党の中枢を占めていましたが、一方で党内には、解党した新進党出身者との合流(98年)や自由党との合流(2003年)によって、保守系だったり、新自由主義的発想を持ったりしている政治家が、少なからず加わっていました。2000年代に入ると、保守系の政治家があえて民主党から出馬するケースも目立っていました。 

 

 

 簡単に言えば、民主党は政権交代を成し遂げた時点で「その後何を目指す政党なのか」が、とても希薄になっていたのでした。当時は、民主党政権に抱くイメージが、所属する個々の議員たちの間でも、支援する人々の間でも、バラバラだったように思います。 

 

 普天間問題の迷走などによって政権運営に早々に行き詰まった鳩山首相は、翌2010年6月に退陣を表明。後継には菅氏が就任しました。 

 

● 消費税増税反対勢力と 東日本大震災に挟撃された 

 

 就任直後こそ内閣支持率を大きく上げた菅氏でしたが、菅氏も鳩山氏同様、ある意味自ら墓穴を掘る行動をとってしまいました。就任直後、参院選の公約を発表する記者会見で、消費税について「2010年度中に税率などを含めた改革案をとりまとめたい」と発言。税率について「自民党が提案している10%という数字を一つの参考にしたい」と語ったのです。 

 

 当時の税率は5%。発言は政界に波紋を投げかけました。 

 

 良くも悪くも「消費税」は、非自民勢力にとって極めてセンシティブなテーマでした。発言は小沢一郎氏ら「身内」の党内勢力から大きな批判を受けることになり、党内対立のゴタゴタは、国民の民主党への支持をさらに失わせることにつながりました。 

 

 結果としてこの参院選で民主党は大敗。参院で与野党が逆転する「ねじれ国会」が生じ、菅首相はその後、政権運営に苦慮することになります。 

 

 参院選直後の党代表選で、小沢氏との一騎打ちを制してどうにか首相の座を守った菅氏でしたが、その約半年後の2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が日本を、そして菅政権を襲いました。未曾有の大災害と、世界的に見ても最大級の原発事故への「二正面作戦」を強いられ、菅政権が初動の対応に苦慮するなか、代表選で菅首相に敗れた小沢氏が、野党・自民党と組んで内閣不信任決議案の可決、いわゆる「菅降ろし」を画策しました。 

 

 「国難」のさなかに党内政局を見せつけられた国民が、民主党政権に強く失望したのも無理はないことでした。菅首相は震災発生から約半年後の同年9月、首相を辞任しました。 

 

 

● 原発なしでも日本経済は やっていけることを示した 

 

 ただここで、あえて一つ強調しておきたいことがあります。 

 

 菅政権が短命に終わった最大の理由が、民主党の党内対立と、それを制御しきれない政権運営の未熟さにあったことは否定できません。しかし、それに加えて、震災を機に菅首相がとった原発政策が、野党・自民党をはじめ当時の政財界に、大きな脅威を与えたことも間違いなかっただろう、ということです。 

 

 事故を起こした東電の「免責」を許さなかったこと。直接被災していない中部電力浜岡原発を行政指導で全炉停止に導いたこと。原発再稼働に際し、所管官庁の経済産業省を介さない新たな基準(ストレステスト)を導入し、再稼働を難しくしたこと。これらの施策の結果、菅首相が退陣した後の2012年5月、日本は一時的とは言え、国内で1基の原発も稼働していない「原発ゼロ」の状態が実現したのです。 

 

 また、菅政権で法制定のめどをつけた、再生可能エネルギーの「固定価格買取制度」(FIT)は、その後の国内における太陽光発電の比率を、飛躍的に高めました。短命に終わった菅政権ですが、少なくとも「原発政策は大きな転換が可能」ということを、現実味を持って示すことに成功したと言えます。 

 

 原発政策もまた、外交・安保と同様に、自民党が培ってきた古い権力構造と密接な関係を持っていました。「保守2大政党」を求めた勢力にとって、やはり触れてもらいたくない政策の柱であったのでしょう。原発政策に切り込んだ菅首相は、普天間飛行場移設問題に手をつけた鳩山首相と同様に、古い権力構造には邪魔な存在であり、だからこそあれだけ執拗に批判され続けたのだと思います。 

 

尾中香尚里 

 

 

 
 

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