( 170840 ) 2024/05/16 02:19:23 0 00 写真はイメージです Photo:PIXTA
毎日新聞出身のジャーナリストである筆者は、「野党は批判ばかり」「対案を出せ」という立憲民主党批判に、民主主義の危機を覚えている。政界では今、意図的に「対立軸が明確な2大政党が、選挙で政権を争う政治」の構図を作らせまいとするかのような言説があふれているという。※本稿は、尾中香尚里『野党第1党――「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。
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● 万年与党と万年野党の時代の再来? 「民主主義に疲れた」と嘆くばかりで良いのか
最近、個人的にとても引っかかっている言葉があります。「ネオ55年体制」というものです。つまり「新しい55年体制の到来」。現在の日本の政界を「再び万年与党と万年野党の時代が始まった」と分析しているわけです。
立憲民主党が2021年衆院選で公示前議席を割り込んだ直後に、境家史郎・東京大学教授(政治学)が朝日新聞に、この言葉を使ったコメントを寄せていました。
「2大政党がしのぎを削る状態に進んでいるのではなく、『ネオ55年体制』と呼ぶべき政治状況が続いている」 「小泉政権期の『改革疲れ』と民主党政権の挫折によって、改革競争は政治の焦点から外れ」 「代わりに浮上したのは、防衛政策や憲法改正といったイデオロギー的争点」 「この対立軸上で自民党と社会党が対峙したのが55年体制期で、その意味からも、日本政治は『改革の時代』を経て、『ネオ55年体制』とも言うべき局面に入ったと言えると思います」
確かに選挙結果、特に「政党の議席数の比較」だけを見ていると、現在の日本の政治が「このように見える」ことを、全く理解しないわけでもありません。しかし、例えば直近の2021年衆院選でさえ「自民圧勝、立憲惨敗、維新躍進」との評価に、かなりのゆがみがあることが分かります。
にもかかわらず「ネオ55年体制」といった言説が急に台頭していることに、私は強い違和感を覚えます。そこには「古い政治への郷愁」「新しい政治への諦め」といった響きを、強く感じざるを得ないからです。
「ネオ55年体制」という言葉自体に、何らかの政治的意図があるとは考えません。しかし、自民党やそれに近い勢力が「ネオ55年体制」という言葉をイメージする時には、そこに一種の希望的観測が入っているでしょう。「再び55年体制のような政治に戻りたい。野党は自民党の永久政権のもと、政府に適度に反対して存在感を出す程度にとどまっていてくれればいい」というわけです。野党やその支持勢力のごく一部のなかにさえ、同様の考えが巣くっているかもしれません。「政権を取るなんて無謀なことは考えず、ただ与党を批判してこぶしを振り上げている方が楽ではないのか」と。
一方、非自民の立場から「政権交代可能な政治」を求めてきた勢力から見れば、この言葉はある種の「敗北宣言」なのかもしれません。「もう政権交代は起こらない。我々の戦いは無駄だった。政治改革前の旧態依然とした政治に戻るのだ」と、日本の政治にさじを投げた言葉だと受け止めているとも考えられます。
どちらの考えにくみする気にもなれません。「政権交代可能な政治に疲れた」という安直な嘆きが、そのまま「民主主義に疲れた」にまで行き着くことが、とても恐ろしい。
そんなに簡単に疲れ果ててしまうほど、私たちは民主主義を「使い倒して」きたと言えるのでしょうか。疲れ果てるにはまだ早いのではないでしょうか。
55年体制が生まれてから、まだ70年も経っていません。その間に「万年与党」の自民党が政権から転落したのは、1993年(細川政権)と2009年(鳩山政権)のたった2回だけです。自民党は結局、ごくわずかな期間で政権を奪還しましたし、前者に至っては選挙を行うことすらなく、永田町の政治ゲームで政権を取り戻しました(1994年の村山政権発足)。
たったその程度のことで「政権交代可能な政治」に疲れてもらっては困るのです。
● 「批判ばかり」と批判する 政権与党・自民党の本当の狙い
政界では今、意図的に「対立軸が明確な2大政党が、選挙で政権を争う政治」の構図を作らせまいとするかのような言説があふれかえっています。
前述した「ネオ55年体制」もその一つかもしれませんが、最もポピュラーなものは「野党は批判ばかり」でしょう。特に2021年衆院選で、立憲民主党が公示前議席を下回った時に各方面から浴びせられた「批判ばかりの野党」という批判は相当なものでした。まさに「立憲には批判ばかり」状態です。
これは誤りです。野党が長い歴史のなかで、議員立法で多くの政策を提案してきたことは、周知の事実です。最近では2022年、旧統一教会の「2世信者」の方々の救済問題について、野党が議員立法で提出した被害者救済法案が岸田政権の背中を押し、成立にこぎつけました。野党の存在がなければ、法律は成立するどころか、政府案が国会に提案されることさえなかったでしょう。
野党の法案が日の目を見ることはごくまれで、実際は与党の手によって多くの法案が国会で審議すらされず、たなざらしにされてきたことも、よく知られているはずです。
にもかかわらず、なぜにここまで「野党は批判ばかり」批判がわき起こるのか。理由は三つあると思います。
第一の理由は、政権与党の自民党が「自分たちが批判や監視をされたくない」がために、批判する勢力の勢いを削ごうとして、世論をそのように誘導したい、ということです。
2012年の政権復帰以降の自民党は、こういう姿勢をむき出しにしていました。日本銀行とか内閣法制局とか、政府(内閣)からの独立性が一定程度担保されている組織を、人事などを通じて自分たちの下部組織であるかのように扱おうとしました。
政府組織とは違いますが、政権監視が本来の目的であるメディアへの介入も図りました。2023年初頭から大きな関心を呼んだ、放送法の「政治的公平」の解釈をめぐる議論で示されたことは、それを端的に表した例だと言えましょう。
つまり、第2次安倍政権以降の歴代自民党政権は、政権の思い通りにならなかったり、牙をむいたりしかねない存在から、その牙を抜いてきたのです。私はこれを、これらの組織から「野党性を失わせる行為」と表現しています。
しかし、国会における野党とは、野党「性」などではなく、名前からして正真正銘の野党です。その存在意義はまさに、政権の監視と批判です。だから、他の組織のように「牙を抜く」のは容易ではありません。野党から野党性を抜いたら、それこそ何ものでもなくなってしまいますからね。
だから彼らは、政権に近い識者や論客を(それこそメディアも)使って、大々的な「批判ばかり=悪」イメージを世論に印象づけ、外野から野党の牙を抜こうとしているのだと思います。
● 批判を前面に出してはならない 与党に都合のいい「提案型野党」
第二の理由は、野党が「批判ばかりしている」と強調することで「政権担当能力がない」と印象づけたい、ということです。「野党は批判ばかりなので政権を任せられない」という印象を植え付けることで、事実上「政権選択選挙」の意味を失わせ、彼らを「万年野党」の位置に押し込めておこうとしているのです。
小選挙区制度を導入したことによって、世論の風向き次第で政権交代は以前より起きやすくなっています。だからこそ自民党は「絶対に政権交代が起こらない」状況を無理やりにでも作り出すことに躍起になっています。安倍元首相が「悪夢の民主党政権」と批判してきたのも、ある意味同じ趣旨のものと言えます。
政権を奪還して以降の自民党は、コロナ禍などの非常事態を機に、政権担当能力の劣化ぶりをさらけ出しました。少し冷静に考えれば「民主党政権の方がまだましだったのでは?」と思えることが、実は多々あります。そのことに国民が気づいてしまわないよう、彼らは余計に野党批判に血道を上げているのでしょう。
以上の二つの理由が、野党を「万年野党」の位置に押し込める、つまり「昭和の政治」に押し戻すことが目的ならば、第三の理由は方向性がやや異なります。「政権批判はほどほどに、政権に建設的な提案を行える野党が良い野党」というふうに、国民の野党観を変えてしまいたい、ということです。「それこそが「政権担当能力のある政党」であり、2大政党の一翼たる野党第1党はそうでなければならない」と。
これはむしろ、野党を「平成の政治」の位置に押し込めようとする動きだと言えます。実際、小選挙区制が導入された平成の時代から、当時の野党第1党だった民主党には、何かにつけてこういう圧力がかかっていました。立憲民主党に対する「提案型野党であれ」という批判も、まさに同じ趣旨のものです。
はっきり言って根本的に間違っています。「提案型野党」という言葉自体に「だから批判を前面に出してはならない」という圧力が含まれているからです。
野党は「批判も提案も」どちらも行うのが当たり前です。二者択一を迫る必要など全くありません。にもかかわらず、野党を批判したい勢力は、あえて「批判か提案かのどちらかを選べ」と迫ることによって、野党の役割をごく一部に限定させ、結果として弱体化させようとしています。こうした狙いを見抜けない野党は、結局衰退していきます。
尾中香尚里
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