( 178433 )  2024/06/07 17:42:52  
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男子校の伝統や男性中心の教育が現代の社会に影響を与えているという記事がある。

東京大学では女性学生や研究者への性差別的な言葉が見つかり、男子校出身者が多い東大では性差別やセクハラの問題が報告されている。

男子校の教育が「諸悪の根源」とも言われ、男子校や共学校での性教育やジェンダー教育の違いが問題視されている。

男子校出身者が「デフォルトマン」像を形成し、男女不平等の社会を維持しているとも指摘されている。

男子校側は包括的性教育を実施することで男女平等社会への貢献が求められている。

(要約)

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すべての学校および社会全体に潜む「旧来の男子校の亡霊」とは?(写真:Fast&Slow / PIXTA) 

 

 2024年5月、東大の学内にセンセーショナルなポスターが掲示された。向かい風を受ける女性の写真に、「女子なのに東大?」「女子なんだから浪人しないで」など、性差別にもとづく言葉が落書きのように書かれている。東大の学生や研究者が実際に浴びせられた言葉の数々だという。 

 

【画像】#WeChange「#言葉の逆風」のポスター。東京大学内では、上の段の「問い」のポスターをめくると、下の段のポスターが出てくる形式で掲出されている 

 

■東大で幅をきかせる男子校出身者 

 

 東大は、2026年度までに、大学院生を含む女子学生の割合を30%以上、女性教員を25%以上にする目標を掲げているが、東大入学者の女性比率はなかなか2割を超えられない。この20年ほど足踏みが続いている。 

 

 逆にいえば東大は、約8割が男性で構成されている。東大合格者数ランキング上位には、私立・国立の男子中高一貫校がずらりと並ぶ。その出身者たちが東大の中で幅をきかせ、性差別的、セクハラ的な発言をしているという証言が学生からも教員からも報告されている。 

 

 「諸悪の根源だと思うので。やっぱり男子校はないほうがいいかなって気はします。よっぽどそこでジェンダー教育をちゃんとやらない限り」。私が識者から聞いたコメントだ。 

 

 「諸悪の根源」であるならば、男子校をなくせば、あるいは男子校でジェンダー教育がしっかりと行われれば、諸悪が消えるということだ。 

 

 そこで私は全国すべての男子校に独自のアンケートを採り、どんな性教育やジェンダー教育が行われているのかを尋ねた。すべての男子校といっても、全国の高校に占める割合は約2%で、いまや100校にも満たない。 

 

 私立男子校の約半数から返信があったが、国公立の男子校からは返信がなかった。返信があった学校のうち約1/4は、「センシティブなテーマなので具体的な回答は控える」との主旨だった。世間では積極的な性教育には反対の声も強く、注目を浴びたくないという政治的な理由が含まれていると考えられる。 

 

有効な回答は33校。そのなかでも特にユニークな取り組みについては現場を訪ね、拙著『男子校の性教育2.0』にまとめた。 

 

 具体的取り組みを知れば、男子校もなかなかやるじゃないかと思うはず。一方で、すでに全国の9割以上の高校が共学なのになぜこの国はこんなにも男女不平等なのだろう?  男子校をなくせばましになるのか?  ……という疑問が強まる。 

 

■東大合格者に男子校が多い歴史的カラクリ 

 

 そもそも、東大合格者数ランキング上位を男子校が占めるのは、歴史的なカラクリのせいであって、そのような学校において東大合格のための特別な教育が行われているわけではない。 

 

 

 1960年代まで、都立の日比谷、西、戸山、新宿、小石川など、公立共学校出身の男子が東大合格ランキング上位を寡占していた。しかし1967年の都の高校入試改革が大失敗し、都立高校が凋落する。 

 

 教育行政の失敗という嵐が都立進学校を壊滅させていったあとの荒野に残っていたのが、私立・国立の進学校であり、当時東大入学者のおよそ95%は男子だったので、必然的に男子校が上位に残った。 

 

 隕石の衝突によって恐竜が絶滅して、それまで隅っこのほうで暮らしていた哺乳類が栄えた……みたいな話だ。 

 

 東大合格ランキング上位を男子中高一貫校が寡占するようになったのは1970年代半ば。当時の学生が社会の指導的地位に立つようになったのは、年齢的に考えて早くても2010年代に入ってから。それ以前は公立共学校出身者がエリート層の圧倒的多数を形成していた。 

 

 さらに、首都圏で中学受験ブームが始まったのが1980年代半ば。その結果、私立高校からの進学者数が東大で過半数を形成したのは1990年代に入ってからのこと。その世代は現在まだアラフィフだ。 

 

 現在の男女不平等な社会をつくったのが男子中高一貫校出身者であるかのような言い方は、やや無理があるのではないかと思われる。 

 

 男子校への取材で印象的だったのは、受験競争のトップを行くような男子生徒が集まる超進学校でこそ、教員たちが「競争に勝ち続けてバリバリ稼いでぐいぐい引っ張るばかりが男性ではない」というメッセージを発していたことだ。 

 

 彼らは過酷な中学受験を乗り越えてきた。さらに中学合格と同時に「次は東大だ!」という大学受験塾のチラシを手渡され、さらなる競争へと駆り立てられている。それを教員たちもわかっている。 

 

 ある女性教員は、「ジェンダー・バイアスにとらわれている限り、いまあなたたちのなかにあるコンプレックスと優越感の難しい戦いは、きっと大学受験終わっても終わらないからね」と真剣に生徒たちに語りかけていた。 

 

 自分たちの弱さや不安を否定するのではなく、むしろ受け入れることで乗り越えてほしい。「あるべき男性像」のくびきから自由になってほしい。……という願いが込められている。 

 

 冒頭の東大のポスターの女性に対するメッセージとは相互補完的な関係をなす。 

 

 

■世界を席巻する「デフォルトマン」とは?  

 

 権威の象徴としてのマッチョな男性像を、学校という組織が宿命的にもつ権威主義的な雰囲気が維持・強化していると指摘するイギリスの本がある。『男の子は泣かない 学校でつくられる男らしさとジェンダー差別解消プログラム』(著/スー・アスキュー、キャロル・ロス、訳/堀内かおる)。1980年代のイギリスが舞台だ。 

 

 たとえば、生徒たちの私語が多くて困っている女性教員の教室に男性教員が乗り込んで怒鳴って一喝する。このような方法で、困難を抱える女性教員を権威主義的な男性教員が“助ける”と、そのことによって、女性蔑視の構造はさらに強化されると指摘する。男子校だけでなく、共学校でもあることだ。 

 

 イギリス生まれのアーティストでテレビ司会者のグレイソン・ペリーは著書『男らしさの終焉』(訳/小磯洋光)で、「異性愛白人ミドルクラス男性」のことを「デフォルトマン」つまり「社会の初期設定」と皮肉っている。彼らは女性と同性愛者と非白人を無意識的に下に見る。彼らの価値観でいまの世界は構築されているというのだ。 

 

 その価値観では要するに、“いい家”に住めて、“いい車”に乗れて、“いいレストラン”で食事ができて、“いい女(女性蔑視へのアンチテーゼの文脈でここではあえてこの表現を使わせてもらう)”を連れて歩けることが成功の証とされる。競争社会における、いわゆる“勝ち組”のイメージだ。 

 

 その価値観を前提にして、男女別学が主流だった時代には、男子向けの教育は「生産・仕事・競争」に偏っていた。女子向けの教育は「再生産・家庭・ケア」に偏っていた。世界的な共学化の流れのなかで、もともと男性のために計画され、多分にジェンダー・バイアスを内包した教育が、すべてのひとに施されるようになった。 

 

 世の中のすべてのひとが、「再生産・家庭・ケア」よりも「生産・仕事・競争」を重視する価値観を内面化してしまう。その結果が、現在のいびつな社会を形成しているといえるのではないか。すなわち、教育をされればされるほど、エッセンシャル労働ともいわれるケア労働の軽視、家庭や地域社会の弱体化、そして少子化が進行する……。 

 

 

 共学校のなかにいまだに「旧来の男子校の亡霊」がそれとは気づかれないように擬態して暗躍している。見えにくいぶん、たちが悪い。その結果ジェンダー・バイアスが社会に巧妙に行き渡る。拙著ではそのことを指摘する学術論文にも触れている。 

 

 これこそが、日本ではすでに9割の高校が共学になっているのになぜ男女平等社会にはなっていないのかという問いに対する根本的な答えであるように思われる。 

 

■男子校は包括的性教育の先駆者たれ 

 

 さらには、男子校出身者が東大のいわゆる「ホモソーシャル(女性や同性愛を蔑視することで維持される男性同士の癒着的人間関係)」な雰囲気をつくっているのではなくて、「最強の異性愛男性“勝ち組”集団」への無意識的な強い憧れを幼少期から刷り込まれた男子たちが≪東大≫に吸い寄せられてきているのではないか。 

 

 そこに至る最短ルートと認識されているのが時代によって共学の都立進学校であったり男子中高一貫校だったりするだけではないか。……と仮説を立てることができる。 

 

 ≪東大≫と表記したのは、日本の競争社会の象徴としての意味がある。男子進学校だけの問題ではない。経済界は、若者の国際競争力を高めろとさらなる競争を煽る。競争に勝ち抜くマッチョな人材たれというメッセージと、多様性に開かれた協調的な人間であれというメッセージ。このダブルバインド・メッセージからいま、子どもたちは逃れられない。 

 

 しかるに≪男子校≫はたしかに諸悪の根源であった。ただしこの場合の≪男子校≫は、全国に2%しか残っていない男子校そのもののことではない。すべての学校および社会全体に潜む「旧来の男子校の亡霊」のことである。 

 

 社会の各所に潜んでいる男子校の亡霊を成仏させることこそ、男女平等社会の実現のためにいま必要なことではないか。そのヒントが男子校の性教育やジェンダー教育のなかにあることを、私は見た。 

 

 そのヒントを広く世の中に提供するために、そして、この男子校批判の風潮なかで男子校が男子校であり続けたいのであればなおのこと、男子校は圧倒的なレベルで反性差別的教育を行い、包括的性教育を行い、むしろ日本のそういった教育の牽引者となる覚悟を示すべきである。 

 

おおたとしまさ :教育ジャーナリスト 

 

 

 
 

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