( 183058 )  2024/06/21 17:03:36  
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現代社会では、人々が簡単にだまされることが容易になっており、特殊詐欺のニュースも日常的に報道されている。

『全員“カモ”』という本では、人々がどのようにだまされるかを考察し、例を挙げている。

特に、SNSなどで広まる情報には注意が必要で、情報弱者や陰謀論に惑わされやすい人がいる。

専門家の意見を重視し、俯瞰的な視点や複数の専門家の意見を参考にすることが大切だと説かれている。

(要約)

( 183060 )  2024/06/21 17:03:36  
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もはや「嘘と真実の境界線」があいまいな世界で(写真:miyuki ogura/PIXTA) 

 

現代は、人をだますことがかつてないほど容易な時代。 

そして人は誰しも、多少なりともやすやすとだまされてしまう性質を秘めている。毎日といっていいほど報道される特殊詐欺のニュースは決して他人事ではないのだ。 

世界でベストセラーになった『全員“カモ”』は、「だましの手口」のケーススタディをふんだん挙げつつ、この時代に「人々はいかにだまされるのか」を体系的に考察した書。 

 

【写真を見る】「見えないゴリラ実験」で有名な著者の最新作 

 

今、もっとも詐欺のカモになりやすいのは、どのようなタイプなのか。 

 

人間の「だまされやすい性質」を克服するにはどうしたらいいのか。 

本書をもとに、ジャーナリストであり作家としても活動する佐々木俊尚氏に聞いた。 

 

■「起こらなかったこと」に目を向ける重要性 

 

 時代を問わず、ステレオタイプ的なものの見方をする人はたくさんいます。特にX(旧ツイッター)などを見ていると、いわゆる大衆の感情や思考の傾向がよくわかる。本書には、大衆がどういう認知の歪みに陥りやすく、いかにして詐欺の手のうちに落ちてしまうのかという考察と事例が多く載っており、日ごろSNSをウォッチしている身としても「たしかに」と首肯するところが多くありました。 

 

 たとえば本書には、「洪水を防ぐための予防策は成功しても称賛されないが、堤防が決壊すると市民の怒りを買う」という話が出てきます。「何らかの行動によって悪いことが起きるのを防いだとき、私たちはめったに覚えていない」、ゆえに「起こらなかったことに目を向けること」の重要性を指摘しているのですが、そこで思い出されたのは、反ワク派――つまり新型コロナウイルスのワクチンに反対していた人たちです。  

 

 ワクチンが開発され、世界中で10億人以上に接種されたことで、パンデミックはようやく収束に向かいました。ところが、そういう話をXにポストすると、必ずといって「私はワクチンを打っていないけど一度もコロナにかかっていない」「本当は新型コロナワクチンなんて不要だ、製薬会社の陰謀だ」というリプ(返信投稿)が山ほど届く。でも、その人たちがワクチンを打たずに元気でいるのは、まわりの大半の人たちがワクチンを打ったことで感染拡大が食い止められ、ウイルスに曝露する確率が低くなったからでしょう。 

 

 

 大勢のワクチン接種という行動によって、感染拡大という悪いことを防いだ、その事実が反ワクの人たちには見えていないわけです。もう少し世の中を俯瞰的に見て「もし世界の誰もワクチンを打たなかったらどうなっていたか」などと考えてみれば、ワクチンの有効性がわかるはずなのに、「“自分は”ワクチンを打たなくても大丈夫だった」という視野狭窄に陥っている。このように自分のことしか見えない、考えられない人は存外に多いという現実を、コロナ禍で改めて思い知りました。 

 

■SNSで「現場の声」が可視化されている 

 

 人は往々にして「現場意識」を見過ごしがちです。「お客さん意識」が強く、何かを実際に運用している側にはなかなか想像が及ばない。先ほど挙げた本書の「堤防」の例からも、国や自治体に怒ることばかりに役割意識を感じ、現場で予防策のために力を注いでいる人たちには目が行かない、そんな人々の姿が垣間見られます。「権力VSか弱き市民」「システムVS非システム」みたいな二項対立でものを考えがちなのです。そういう構図で物事を描いて発信してきたメディアの責任も大きいでしょう。 

 

 そんな中、SNSが普及して誰もが発信できるようになったことで、いわゆる「中の人」的な現場のありようにも目を向ける人が増えてきました。 

 

 たとえば数年前に、車椅子の人がバリアフリー非対応の映画館に行き、スタッフにスクリーンまで運んでもらったところ、「次からはバリアフリー対応の設備に行ってくださいね」と言われたというエピソードがXで話題になりました。「障がい者を排除するな」という批判の声が上がる一方、「車椅子をかついで運んだスタッフが気の毒」「現場の判断で、そこまで対応したのは親切」という声も多く見られました。 

 

 どちらが正しいという話ではありません。何やら強固で強大なシステムに一般市民が物申すという二項対立ではなく、その狭間にいる「システムを実際に運用している現場の人々」の存在が可視化されてきた。かつて見過ごされてきた「現場」に目を向ける人が出てきたことで、世間一般のものの見方のバランスが変わってきたと感じています。 

 

■視点の長さを伸び縮みさせる 

 

 ただ、現場の視点とは、言い換えれば、かなり絞り込まれたミクロな視点ですから、あまりにもそこに偏ると、今度は俯瞰的にものを考えられなくなってしまうでしょう。 

 

 

 最近の事例でいうと、北陸新幹線の未着工区間、敦賀~新大阪間のルートを巡る議論です。当初は京都を経由することが決まっていました。ところが、ここへきて環境保全の観点から京都府が難色を示し始めたこともあり、新大阪までの延伸計画は暗礁に乗り上げています。地元民の間でも「京都に北陸新幹線が通っても地元にメリットはない」「そもそも東京から金沢あたりまで行ければ十分。新大阪まで延伸する意味はない」などと紛糾していますが、どれも俯瞰的な視点を欠いていると言わざるを得ません。 

 

 そもそもなぜ北陸新幹線の区間が東京~新大阪になったか。それは、古くにつくられた東海道新幹線がコンクリート製の陸橋ではなく、盛り土の上に敷かれた線路を走っているため、ちょっとでも強い雨や雪に降られると、線路の土台が崩れて走行できなくなる恐れがあるからです。 

 

 つまり北陸新幹線には、東京と新大阪を結ぶ大動脈である東海道新幹線が機能しなくなったときのセーフティネットという意味合いがある。「北陸新幹線が新大阪まで延伸する」という話に接したときに、こうした背景について考えが至らない人ほど、「地元のメリット」「自分にとって便利か、不便か」というミクロな視点でしか見られないわけです。 

 

 一事が万事で、ある物事について考えるときには、俯瞰的な視点も持ち合わせていないと、事の本質を大きく見誤る可能性があります。近くで見たら、今度は一歩引いて遠くからも見てみる。マクロ的な見方とミクロ的な見方を行き来する。一方から見たら反対側からも見てみる。いろんな意見に接してみる。このように、ものの見方の「射程」を伸び縮みさせることが大切です。 

 

■メディアが仕掛ける「情報エンタメ」のしくみ 

 

 ものの見方の射程を伸び縮みさせる重要性について述べてきましたが、視野が狭いものの見方をする危険性は、そのまま「だまされやすさ」にも通じていると言っていいでしょう。人はいかにだまされるか。その事例が鋭い考察と共に紹介されている本書を読んでいると、そんな「カモにされやすい人」の類型が想起されます。 

 

 

 まず、「情報弱者」は間違いなくカモられやすい。たとえば、テレビのワイドショーに乗じて怒ったり騒いだりしているような人たちです。 

 

 ワイドショーは、たいてい「おもしろい人」「キャラが強い人」「ズバリ言い切る人」「何か含蓄に富んでいるように見える人」などを瞬発的に選んでコメンテーターに据えているだけで、「その道の本当の専門家であること」「まともな知見にもとづいていること」「一貫性があること」といった信憑性の優先順位は実は非常に低いのです。そのため昨日と今日とでは論調が真逆であることもしょっちゅうです。 

 

 そういうものに飛びついて安易に怒ったり騒いだりする人は、総じて真実を知ろうとする姿勢に欠け、大きな声に流されやすい。いってしまえば、ワイドショーは「情報弱者の人たちをいかにカモにするか」というビジネスモデルであり、しかも、それがしっかり的中してしまっているという意味で秀逸なビジネスモデルと言えます。ワイドショーだけでなく、SNSで過激な意見を発信しているインフルエンサーも同様。 

 

 また、YouTubeを見て「9割の人が知らない世界の真実」といった、いわゆる陰謀論にハマる人も「カモにされやすい情報弱者」の類型に入るでしょう。それこそ反ワク派の多くは、情弱であるがゆえにワクチン陰謀論にからめとられている、要はカモにされているわけです。 

 

 私は、現代は「専門家の時代」であると思っています。玉石混淆の情報が膨大に溢れているからこそ、「玉」の情報を発信する専門家の存在価値が高まっており、情報を受け取る側である私たちは、常に「信用できる専門家かどうか」を見極めなくてはいけません。手始めにテレビに出ているような「自称・専門家」の言うことを鵜呑みにせず、むしろテレビにはあまり出ていない複数の専門家の発信を並列的に眺めるようにすることで、「カモにされやすい情報弱者」にならずにすむでしょう。 

 

■無邪気なだけに危険 

 

 世の中には「成功者が成功の秘訣を説いた本」があまたあります。しかし結局のところ、成功とは「時の運」によるところが大半です。たまたま、自分のアイデアが世の中のニーズにマッチした。たまたま、いい協力者に巡り会えた。こうした偶発的なラッキーが積み重なった結果に過ぎません。したがって、仮に、その成功者と同じことを同じように実践したとしても、同様に成功できるとはかぎらないわけです。 

 

 成功と失敗は紙一重であり、一握りの成功の陰には幾万の失敗例があるはずです。では、その一握りの成功に必然性があったかというと、そうとは言えないでしょう。にもかかわらず「自分はこれをしたから成功できた」と断言するのは、決して悪気はないだろうとはいえ、一種の「成功者バイアス」でしかありません。 

 

 

 
 

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