( 183733 ) 2024/06/23 17:29:27 1 00 濱井正吾氏が浪人生活を経験して合格した竹林昂大さんについてのインタビュー記事を要約すると、竹林さんは旭丘高校を出身とし2浪して京都大学工学部電気電子工学科に入学。 |
( 183735 ) 2024/06/23 17:29:27 0 00 人力車屋で働く竹林さん(写真:竹林さん提供)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 今回は愛知県立旭丘高等学校から、2浪して京都大学工学部電気電子工学科に入学。現在、3留し、人力車でお金を稼いだり、自転車で47都道府県を旅をしたり、銭湯サークルを作るなどして大学生活を謳歌している6回生の竹林昂大さんにお話を伺いました。
【写真】人力車屋で働きながら、自転車で47都道府県を巡る竹林さん。
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■優等生だったが2浪を経験
今回お話を伺った竹林昂大さんは、愛知の名門県立進学校、旭丘高等学校の出身です。
小さいころから優等生で、「クラスでいちばんを維持するために頑張るタイプ」だった彼ですが、京都大学に入るまでに2浪を経験しました。
この浪人の経験を彼は、「胸を張ってよかったとは言えない」と語ります。のちの3年の留年も、その経験が大きいそうです。その一方で、「結果的に浪人のおかげで人生が面白くなった」と晴れ晴れとした表情で語ってくれました。
果たして彼が2浪して人生が楽しくなった理由とは何なのでしょうか。彼の人生観を大きく変えた浪人生活を深掘っていきます。
竹林さんは愛知県名古屋市中区に生まれました。父親が専門学校卒業のグラフィックデザイナー、母親が三重大学卒業の専業主婦で、子どもの意思を尊重する家庭環境の中で育ったそうです。
「普段はお菓子やおもちゃを買ってくれない厳しい親ではあったのですが、やりたいことができたら、本気でやるつもりがあるのかを子どもに確認して、覚悟が感じ取れたらなんでも応援してくれました。たとえば、サッカーをしていた僕がトレーニングをしたいと言うと、それに役立ちそうな書籍やDVDをすべて買い与えてくれました」
「子どものためになることは何でもしてくれる親のもとで育った」と語る竹林さん。彼自身は周囲の友達とのトラブルが多い子どもだったそうですが、小3のときには優等生に180度変わったそうです。
■友達に怪我をさせたことで、優等生に変わった
「当時の様子を母親に聞くと、すぐ手が出る問題児だったようで、近所を歩くのが恥ずかしかったそうです。ただ、友達に怪我をさせてしまったときに、一緒に謝りに行ってくれた父親が、友達の両親に土下座しているのを見て、罪悪感を抱いたことが変わるきっかけになりました。
もちろん、いちばん申し訳ないのは友達と友達のご両親ですが、子どもの頃の自分にとって、いちばんショックで鮮明に覚えているのが父のその姿だったのです。それから自分勝手なことはできないと思い、一切人に手をあげたり、怒ったりしなくなりました」
問題児から優等生に変わっていく中でも変わらなかったことは勉強の出来だったようで、小学校のクラスではいつも成績は1位。進学した公立中学校でも、いつも5位以内には入っていました。その中でも特に英語は、抜群の成績だったそうです。
「『これからは英語くらい喋れないといけない』と父に言われ、幼稚園から高校2年生くらいまで英会話の先生に英語を教えてもらっていました。中2まではサボっていたのですが、一念発起して本屋の英語の教材コーナーで英文法書を買ってきて、朝の1限の前にある読書の時間で、1年間かけて読破しました。英会話を習っていることを知ってる友達に『なんか喋ってや!』と言われて、喋れなくてごまかす自分が許せなかったんです」
中学からクラブチームでサッカーを始めた竹林さんは、その移動中にもずっと英語の文法書を読んでいたそうです。そうした努力を続けた結果、彼は中3で英検準1級を獲得しました。
内申点で最高の45/45点の成績を記録しながらも気を抜かず、友達と一緒に図書館で閉館の21時ごろまで勉強していた竹林さんは、学区で一番の偏差値だった県立の進学校、旭丘高等学校に進学しました。
こうして高校に進学した竹林さん。周囲がみんな優秀なので驚いたそうですが、英語で学年トップクラスの成績を取り、「ここでも自分は通用する」という確かな実感を得たそうです。ほかの科目でも真ん中より少し上くらいの成績は取れたようで、頑張ったらやっていけるかなと思えたそうです。
高校1年生の冬にはフリースタイルフットボールにはまったという理由で、これまで続けてきたサッカー部をやめましたが、部活をやめて時間ができた分「今できることをやって、やりたいことができたときに役立てられるように」と勉強にもより力を入れるようになりました。
いつも前向きに目の前のことをこなしてきた竹林さん。しかし、このあたりで自身の最大の欠点に向き合わざるをえなくなります。それが、「数学の問題が早く解けない」ということでした。
「高校2年生のとき、定期テストで13点を取ってしまいました。思えば、公立中学校のころからほかの科目はみんな95点なのに数学だけ70点くらいだったんです。文章題など、時間を割いて考える問題ではいい点数が取れていたのですが、当時から四則演算のような単純な計算を早く解くことができなかったんです。だから、センター試験では時間内に問題をすべて解き切るのが難しいと感じました」
この当時の旭丘高等学校は1割が東京大学、1割が京都大学、1割が国公立の医学部に進む感じだったそうで、真ん中から少し上の成績だった竹林さんは「めっちゃ頑張ったら東大に行けるかも」と思い、東大・京大の理系を第1志望にして勉強に励んでいました。
■数学が苦手なのに理系を選択した理由
しかし、なぜ数学が苦手な竹林さんが、理系を選択したのでしょうか。その理由をお聞きしたところ、彼は「迷ったらきついほうを選んだほうが、自分のためになる」という信念を持っていたからでした。
「旭丘高校は文理選択が遅くて、選ぶのが高2の10月、文系・理系に実際に分かれるのが高3からでした。当時の僕は英語と古文が得意で、苦手科目は数学・物理・化学でした。模試では英語の偏差値が84だったので、適性的に文系なら東大・京大も狙えるかもしれません。
でも、自分は理系の勉強が好きでしたし、理系の道に憧れていたんです。毎日風呂に入りながら考えていて、10月30日には一度、先生に『文系で行きます』と伝えたのですが、その日の風呂で、『男ならここで逃げるな!』と思って、10月31日に理系の道を選びました。
いばらの道に進むことを決めた竹林さんは、それ以降の模試は基本的に東大・京大の理系の判定はほぼD判定。もう高3のころにはすでに「周囲も(浪人を)するだろうから」という理由で浪人の覚悟が決まっていたようです。結局、現役時のセンター試験は7割に終わり、京都大学の工学部を受験するも、合格点から200点程度足りずに落ちてしまいました。
「現役のときに全然間に合ってなくて、受かる見込みゼロで突っ込みました。周囲も6割浪人するので、現役は練習で、1浪で(志望校に)ゴールすることを目指そうという感じでしたね」
■予備校ではなく自宅浪人を決意
こうして浪人を決意し、駿台予備学校に通う予定だった竹林さん。しかし、3月末のアルバイトで思わぬ出来事が起こります。
「予備校に入るまでに社会経験をしようと思って、引っ越しや居酒屋のアルバイトをしていました。そのときに知り合った方で、宅浪(自宅浪人)で広島大の医学部に受かった方がいたんです。
親に予備校代100万円を払わせるのが申し訳なかったのと、宅浪でも受かる人がいることがわかったために、先生や親の反対を振り切って、駿台への入学の申し込みをキャンセルしてしまいました」
こうして8時ごろに起きて、近所のスターバックスやドトールに行って勉強する生活を送ることになった竹林さん。「最初のほうは体を動かすことも大事だと思い、1日4~5時間の勉強だった」そうですが、夏ごろからは20~21時ごろまで勉強するようになったそうです。
数学・物理・化学の教科書をしっかり読み直して基礎を固め、成績もそれなりに上がったようで、最初はD判定だった模試も最後のほうはC判定が取れるようになってきました。
センター試験では数学がI+AとII+B合わせて102/200点だったものの、全科目の合計は83%で(京大に受かるかは)五分五分だと思った」竹林さんは、この年も前期で京大工学部、後期で京都工芸繊維大学を受験する決意を固めます。
しかし、この年も残念ながら合格点に30点ほど届かずに落ちてしまいました。
「センター試験は解けないとわかっていたので、それでもこのパーセンテージならいけるんじゃないかと思っていました。2次試験でも得意の英語は解けていて121/150点だったのですが、それでも数学でミスをして45/200点しか取れませんでした」
この結果を受けて、後期で京都工芸繊維大学に挑んだ竹林さんは、大学で挽回することを心に決めます。合格したら京都工芸繊維大に進むつもりで、大学近くの下宿も契約をしていたそうですが、ここも落ちてしまったそうです。
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