( 185780 ) 2024/06/29 17:43:19 0 00 週刊新潮の不倫報道により、立教大の監督を解任された上野裕一郎。当時「女子部員との関係」について説明をしようとしたが、その機会は実現しなかったという photograph by Takuya Sugiyama
昨年10月、女子部員との不適切な行動が発覚し、立教大監督を解任された上野裕一郎。同校を55年ぶりの箱根駅伝出場に導いた指導者はいま、選手として陸上に取り組んでいる。佐賀で再起にいたるまでの話を本人に聞いた。(Number Webインタビュー全3回の第1回/第2回、第3回も配信中)
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佐賀県小城(おぎ)市にある小城公園。春には桜の名所にもなる地元の憩いの場、上野裕一郎はその場に走ってやってきた。「いや、もうここから家が近いですし、これからお金もかかるし、車は持ってないんですよ」
久しぶりに会った上野は昨夏、立教大の監督時代に菅平の夏合宿で対面した時以上に体が絞られ、精悍な顔つきになっていた。
衝撃的なニュースが流れたのは、昨年の10月11日だ。
立教大学陸上競技部男子駅伝チームの監督である上野が女子部員と不適切な行動をとっていたことが発覚し、その翌日に電撃的に解任された。
「週刊誌の直撃を受けたのは、10月7日でした。僕は、その際、気が動転して混乱してしまって……、相手の女子部員は僕を守るような発言をしてくれたのですが、僕は情けないことに何もできなかった。その後は、ほとんど眠れなかったですね。寮に駅伝部の部長と(原田昭夫)総監督が来て、『監督は謹慎します』ということだけを学生たちに伝え、僕は何も話をすることができなかった。週刊誌に書かれたことは事実のものとそうでないものもありました。ただ、監督と女子部員が不倫したということだけが書かれていたので、そこに体の関係はないなど、細かい事実や経緯を説明をして直接、学生に謝りたかったのですが……」
退寮した上野は、自宅に戻れず、自分で取ったホテルに投宿した。
「しばらくホテルに閉じこもっていました。自分のことが大きなニュースになり、怖くて外に出られなかったです。仮に外に出て、酒でも飲んでいるところを写真に撮られたら『あいつ反省もせずに酒飲んでいる』って書かれるじゃないですか。ネットも見れなかった。この頃は、精神的に安定せず、部屋で酒に走っていました」
週末には箱根駅伝予選会が控えていた。メディアの関心は不在の上野の動向とともに立大の駅伝部の選手たちに向けられる。実際、レース後は多くのメディアが立大の待機テントを囲んでいた。
その日、上野は友人宅にいた。
「テレビがついていたのですが、さすがに見られなかったです。やっぱり、直前に自分が不在になって申し訳ない気持ちが強くて、テレビの音声だけを聞いていました。これで予選敗退したとなると全部、自分の責任ですから、もう祈るような気持ちでした」
解任された時、チームはすでに調整期間に入っており、練習計画にはそれほど影響が及ばなかった。選手のメンタルだけが心配だったが、「レベル的には予選突破するだけの力がある」と上野は見ていた。選手は練習で培ってきた力を発揮して6位で通過し、難局を乗り越えた。
その後も上野は自宅に戻れず、実家に帰ることも考えたが、迷惑が及ぶことを考え、友人が都内に所有するマンションで生活することになった。監督時代、上野をサポートあるいは支持してくれた人は、波が引くように去っていった。身内のように思っていた人にさえ、「俺は注意していたからな」と冷たく言われ、関係を遮断された。
「自分がやらかしたことなので当然ですけど、みんな、いなくなりました。お互いに信頼関係が築けていたと思っていただけに、それはやっぱり辛かったです。ただ、去る人がいれば逆にサポートしてくれる人もいて、そこは本当にありがたかったです。彼らがいなければ、僕は今、走っていたかどうかわからないです」
マンション住まいになり、上野はハローワークに足を運んだ。
「職を失い、妻に『バイトでもいいから働いてほしい』と言われ、家族を養わないといけないと思ったので、ハローワークに通いました。仕事は、運転ができるし、ドライバーはけっこう稼げるので配送業がいいかなと思いつつ、自分が携わって来たスポーツ関係の仕事を探していました」
マンションに戻ると、頭に浮かぶのは陸上のことばかりだった。なんとか、陸上をもう一回やれないか。ただ、一方で「監督が女子部員に手を出した」という事実は重い。指導者の芽はもうなく、自分は陸上界に戻れないだろう――。そう思うと、陸上一筋の人生だったゆえに猛烈な後悔と寂しさを感じた。
「夜、酒を飲みながら一人になって考えると、つら過ぎて、気持ち悪くなったり、涙が止まらなくなったりしました。もう陸上ができないだろうし、僕を信頼してくれたみんなを裏切り本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで、楽になった方がいいかなと思うこともありました」
この頃、上野は追い詰められていた。大事な家族を失いかけていたのだ。女子部員との不適切な行動はもちろん、3人の子どもの父親としての自覚と責任が欠けた行動は、どれほど妻を落胆させ、傷つけたことか。しかも、最初に謝るべきは妻であるはずなのに、上野はそれを怠った。
「真っ先に妻に謝罪すべきなのに、僕はいかなかったし、できなかった。週刊誌の直撃をうけて、気が動転してしまって、謝罪するタイミングや順番を間違えてしまい、どうしたらいいのか分からなくなったんです。相手の女子部員は僕の妻に謝りたいと言ったんですけど、それを含めて学生への謝罪などすべて総監督に止められてしまいました。でも、そこで自分が判断して、もっと本気で動いていればよかったんです。妻には、きちんと謝るべきだった。すべて後手に回り、妻との信頼関係が崩れたのは自分の責任です」
上野は、子どもたちが学校でいじめられないか、心配したが、学校で変なこと言われないように、いじめられないようにしっかりとケアされていることを聞いて安心した。また、ママ友たちにもケアをしてもらっていたという。
「もう、いろんな人に助けてもらって……申し訳ない気持ちと感謝でいっぱいでした」
上野は神妙な表情で、そう言った。
多くの人を巻き込み、大きな騒動に発展したが、そもそもなぜ女子部員と深い関係に陥ってしまったのか。上野は監督として「部内恋愛」を禁止していた。自分がルールを破れば部内の秩序が成り立たなくなるのは分かっていたはずだ。人を好きになるのは理性では止められない部分があるが、既婚者であり、3人の子の父親である。また、上野には監督という立場があり、箱根駅伝に出場させる責任があった。
なぜ、という疑問が拭いきれなかった。
「最初、部内でルールを破った部員がいて、それを注意したことで相手に逆恨みをされたようで、その相談を受けたりしていたんです。そのことを含め、いろんなことが起きる中、ルール厳守を口酸っぱく言っていた監督である自分が、そのルールを破ってしまいました」
気持ちを抑えることができなかったのかと問うと、「すいません」と上野は、頭を下げた。
2024年1月、箱根駅伝は実家で見ていた。
昨年よりも4つ順位を上げて14位となり、学生たちの走りに成長を感じた。一方で、部員や保護者への謝罪をする機会は、なかなか設けられなかった。解任された直後からその機会を大学に打診していたが、4年生の退寮が近づいてもその場は実現しなかった。
「彼らが卒業するまでに、なんとか謝罪したかったのですが……」
2月末、立大より保護者説明会を行う旨が伝えられ、上野は謝罪文の提出が認められた。部員と保護者への謝罪、あのことの経緯についても書いた。だが、説明会では全文が読まれることはなく、2~3行の謝罪で終わった。大学側からすれば、すでに処分が決まり、終わったことであり、これ以上、学生たちを動揺させるようなことは避けたいという配慮があったのだろう。
上野は、部員たちに何を伝えたかったのだろうか。
「箱根駅伝に向けてやってきた中で、監督という立場で軽率な行動をとって、みんなの努力や信頼を裏切ってしまった。それに対して、申し訳なかったと謝りたかった。また、学生の中には、事実を知りたいという子もいたので、その説明責任もきちんと果たしかった。保護者のみなさんに対しても高い授業料を払って立教大に入学させて、夢と希望をもち日々勉学と陸上を両立させて頑張っている中、指導者の自分がやってしまったことに対して、きちんと謝罪をしたかったんです」
結局、4年生が卒業するまで、その場を与えられることはなかった。それでも上野が救われたのは、箱根駅伝が終わった後の部員たちの声だった。
<最初は『何やってんだ』と思いましたけど、ここまでチームを作ったのは間違いなく上野監督だったので感謝しています>
<監督と一緒に箱根を目指してやってきて、最後は一緒に卒業したかったです>
多くの部員が、上野がチームを育てた手腕を認め、感謝していた。
「厳しいコメントもありましたけど、学生たちがそういう気持ちでいてくれて、僕はこの子たちと一緒にやれてよかったと思いました。でも、『本当に申し訳なかった』と、やっぱり直接言いたかったです」
上野は、その気持ちをあの日から一日たりとも忘れたことがない。
<つづく/「復帰」編へ>
(「箱根駅伝PRESS」佐藤俊 = 文)
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