( 186912 )  2024/07/03 02:30:15  
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戦後、日本が「分断国家」にならずに済んだ深い事情、「米軍による占領」と引き換えにソ連が得たもの

東洋経済オンライン 7/2(火) 20:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/40f167756c34cfa3a0e4cae308ad3b08eab14f4d

( 186913 )  2024/07/03 02:30:15  
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第二次世界大戦終結から80年目を迎える中、連合国間では戦後の世界秩序を巡る複雑な思惑や協定がありました。

ブレトン=ウッズ会議では、国際金融協力や通貨制度が決定され、アメリカが世界経済の中心となりました。

一方、東欧におけるソ連とイギリスの覇権配分や、ドイツの分割占領問題も存在しました。

ヤルタ会談では、国際秩序の話し合いやドイツの分割が合意されました。

終戦後の日本では、ソ連による南樺太返還や千島列島編入、アメリカとの分割占領構想が検討されました。

(要約)
( 186915 )  2024/07/03 02:30:15  
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北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA) 来年で終結から80年を迎える第2次世界大戦。広島と長崎への原爆投下を機に、日本は無条件降伏を受け容れましたが、実はその裏側では、戦後の日本の統治を巡る連合国側の「幻の計画」があったといいます。土壇場でのソ連参戦の経緯と、連合国各国の思惑とは。 ※本稿は佐藤優氏の監修書『米ロ対立100年史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。 ■戦後の覇権を巡るテーブルの下での争い  アメリカのニューハンプシャー州北部にあるブレトン=ウッズは、ワシントン山に面し、スキー場やゴルフ場の広がる人気のリゾート地だ。連合軍がフランスに上陸した直後の1944年7月、ここで連合国に属する45カ国の代表によるブレトン=ウッズ会議が開かれた。戦後の国際的な経済と金融の枠組みはこの席上で決まった。  会議の趣旨として、1929年に起こった世界恐慌のあと、世界の主要国が閉鎖的なブロック経済政策を採り、それが連合国陣営と枢軸国陣営の対立を招いたことへの反省があった。  このため、国際的な金融協力や外国為替相場の安定を図る国際通貨基金(IMF)と、戦災復興を支援する国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行ともいう)の設立を決定する。  さらに、アメリカのドルの価値の裏付けとして「金1オンス(28.3495グラム)=35ドル」と定めたうえで、ドルを基軸通貨とした固定為替相場制が採られることになる。  各国の通貨とドルの交換比率(為替相場)を一定にすることで経済の安定と貿易の発展を図る仕組みだ。これで名実ともにアメリカが世界経済の中心となった。  これらの方針をまとめたものが「ブレトン=ウッズ協定」だ。会議の参加国はそのほとんどが協定に合意したが、ソ連は第2次世界大戦での被害が大きかったことから、IMFと世界銀行への拠出金の減額を求め、IMF運営のため自国の経済に関する情報を公開することにも抵抗した。  結局、ソ連は協定に調印したものの批准はせず、IMFにも世界銀行にも参加しなかった。そして、戦後は独自の経済圏を形成していく。  ブレトン=ウッズ会議後の1944年後半、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が大規模な攻勢に出る。  枢軸国に属していたルーマニア、ブルガリアでは親独政権が倒され、ソ連軍に制圧される。ユーゴスラヴィアでは、共産主義者のパルチザン指導者ヨシプ・ブロズ・ティトーが、アルバニアではエンヴェル・ホッジャが、ソ連と連携しつつ独力で枢軸軍から国土を解放しつつあった。 ■連合国の思惑とドイツの「分割占領」  こうしたなか、チャーチルとスターリンは、同年10月にモスクワで会談し、戦後の東欧でのイギリスとソ連のおおまかな勢力配分を定めた。これは「パーセンテージ協定」と呼ばれ、ルーマニアはソ連が90%・イギリスが10%、ギリシアはイギリスが90%・ソ連が10%、ユーゴスラヴィアとハンガリーは両国が各50%、ブルガリアはソ連が75%・ほかの諸国が25%とされた。  この協定にローズヴェルトは参加しておらず、当事国の合意もなかったが、チャーチルの言質の下、スターリンは東欧の支配を進めることになる。  劣勢となったドイツは、ソ連内で共産党政権に反発する勢力を集めたロシア解放軍、ウクライナ解放軍などを組織するが、大きな戦果はなかった。一部のウクライナ独立主義者はナチスと協力関係を結び、これは後年、ロシアのプーチン政権による2022年のウクライナ侵攻にも影響を与える。  一方でドイツ軍に抵抗したウクライナ人も多く、1941年夏に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)は当初、ドイツ軍と連携してソ連軍と戦ったが、戦争末期になると独ソ両軍と戦った。  連合国が完全に優勢となった1945年2月、ソ連のクリミア半島にある保養地ヤルタに、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まり、ヤルタ会談を開く。  この席上で戦後の国際秩序が話し合われ、3人の首脳は連合国を中心とした国際連合の設立と、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4国によるドイツの分割占領に合意した。  議論が難航したのが、前年のパーセンテージ協定に含まれなかったポーランドの問題だ。  戦前までのポーランドはイギリスに亡命政府を組織しており、ソ連がポーランド内で成立させた共産主義政権のいずれを正当な政府とするかで意見が対立していた。最終的に、ローズヴェルトの提案で戦後に国民投票を実施して決める妥協案にまとまった。  また、ポーランドの範囲は、カーゾン線と呼ばれる戦前の国境を変更し、東部地域をソ連に編入して、代わりに国土を丸ごと西に動かすことになった。  それから間もない1945年4月末、連合軍の侵攻によって、ドイツに支援されたイタリア・ファシスト党の残存勢力(イタリア社会共和国)は崩壊し、ムッソリーニはイタリア人のレジスタンス組織に殺害される。  ヨーロッパの西からドイツに侵攻した米英軍と、東からドイツに侵攻したソ連軍は、ドイツ東部のエルベ川流域でついに合流した。両軍の兵士は握手して平和を誓い合い、これは「エルベの誓い」と呼ばれる。  おそらく、最もアメリカとソ連が友好的だった瞬間だろう。ベルリンはソ連軍によってほぼ制圧され、ナチス総統ヒトラーは自殺して、5月8日にドイツは降伏する。 ■ヤルタ会談で結ばれたソ連参戦の「秘密協定」  ドイツ降伏後、連合国にとって残る敵は日本のみとなる。先のヤルタ会談では、ドイツが降伏した3カ月後にソ連も日本に宣戦する秘密協定が結ばれていた。  しかも、かつて日露戦争で日本がロシアから獲得した南樺太(サハリン)、旅順、大連ほかをロシアの継承国であるソ連に返還すること、千島列島をソ連に編入する(引き渡す)ことも合意されていた。  1945年4月、ソ連は1946年4月に満了になる日ソ中立条約の継続破棄を宣言した。条約にはあと1年間の有効期限があったので、日本では首相の鈴木貫太郎らが水面下でソ連を介して連合国との和平交渉を進めていた。  しかし、その期待は裏切られることになる。  連合国では4月にアメリカでローズヴェルトが急死し、副大統領だったトルーマンが大統領に就任、イギリスでは7月の総選挙で労働党が勝利し、チャーチルは退任してクレメント・アトリーが首相となるが、対日戦の方針は変わらなかった。  トルーマンとアトリー、そして蒋介石は7月にドイツのベルリン近郊にあるポツダムで会談し、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表した。  会談にはスターリンも参加していたが、日ソ中立条約がまだ有効だったので、ポツダム宣言には名を連ねていない。  日本側は、ポツダム宣言で降伏後の天皇の立場について明示されていないことから、回答を控えて黙殺の態度を採る。軍の上層部ではなおも徹底抗戦の意見が強かったが、8月6日には広島に原爆が投下され、甚大な被害が発生する。  続いて8月9日、ソ連が対日参戦し、長崎にも原爆が投下される。  ソ連は満州、南樺太、千島列島に侵攻してきた。満州に駐留する関東軍は、すでに大部分が南方に転出していたためほとんど無力で、60万人以上もの軍人や民間人が捕虜としてシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。  2発の原爆投下とソ連の参戦、いわば米ソの挟み撃ちによって日本はとどめを刺された。 ■南下を続けるソ連軍と、日本の「分割占領」の検討  政府は8月15日にポツダム宣言の受諾を発表し、終戦を受け入れる。  だが、ソ連軍による戦闘行為はこの後もしばらく続く。千島列島では、8月29日までにソ連軍が、北端の占守島から南端のウルップ島までの全域を占領した。  これに前後して、別の部隊が9月3日までに、北海道とすぐ接する択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島を占領する。現在まで日本政府が「北方領土」と呼んでいるのは、この択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島の4島だ。  ソ連は、「千島列島および歯舞群島、色丹島はソ連領である」と宣言し、1946年2月にはハバロフスク地方南サハリン州に編入した。  日本の降伏前には、ソ連、アメリカ、中華民国、イギリスの4国による日本の分割占領も検討されていた。  この構想では、北海道・東北地方はソ連、関東・中部地方と三重県、沖縄県を含む南西諸島はアメリカ、四国は中華民国、中国・九州地方はイギリスがそれぞれに単独で占領し、東京市(現在の東京都23区)は4国の共同管理、近畿地方と福井県はアメリカと中華民国の共同管理となる予定だった。 ■米ソ間で東欧と天秤にかけられた日本  ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4国による分割占領を受け、首都ベルリンは4国の共同管理とされた。  のちに米、英、仏の占領地はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地はドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、ベルリン市街のうち米、英、仏の占領地は、東ドイツ領内にある西ドイツの「飛び地」となる。  日本も分割占領を受けていれば、ドイツと同じ分断国家となった可能性があったのだ。
( 186914 )  2024/07/03 02:30:15  
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(まとめ) - 日本の戦争の負け方について、勇気ある決断が必要だったという意見が多く見られる。

- ソ連との和平交渉や分断統治を巡る議論で、アメリカやイギリスの影響力が指摘されている。

- 日本が分断国家にならなかったことについて、樋口季一郎中将らの防衛戦や日本陸軍の対ソ連戦が評価されている。

- 一部のコメントでは、日本の戦争負けはアメリカの陰謀や日本の失策によるものとの見解も示されている。

( 186916 )  2024/07/03 02:30:15  
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・第1次世界大戦の時参謀総長ルーデンドルフが戦略的に勝つ見込みがないと判断して連合軍がまだドイツ構内に侵入してなかったにも関わらず、ドイツ国王は反対したのに、降伏した。そのためドイツ国民は戦後のインフレに苦しんだが直接的な戦災は受けなかった。一方大東亜戦争ではサイパン島が陥落して、制海権・制空権が奪われて戦略的には勝つ見込みはなくなっていたのに、岸軍需大臣が降服を主張したのに、東條首相は戦争の継続を主張し、昭和天皇もそれに同調した。その後の戦いでは日本はアメリカ軍のなぶり殺し状態になった。日本の戦死者・戦災死者の90%は昭和19年10月以降のサイパン島陥落以降のものである。戦争の負け方にも全局を見通した上での勇気ある決断が必要なのだ。 ・日本がソ連を含む連合国に分割統治されなかったのは多分に幸運の一面もある。仮にルーズベルト元大統領が在任中に死去せず、トルーマン元大統領に交代していなかったらソ連に北海道位は強奪されていたかもしれない。勿論、必死にソ連軍の侵攻を遅らせた日本軍将兵の奮闘も有ったけれど。 ・日本が分断国家にならなかったのはなにも連合国側の理由だけではない 日本陸軍が大陸とアリューシャン列島でソ連軍相手に時間稼ぎの戦いをしてくれたおかげだ。 日本陸軍は色々言われているが敗戦間際の対ソ連戦だけは一日本人として感謝しかない ・日本はソ連に連合国との和平を仲介してもらう手数料としてポーツマス条約で得た権益の返還に加えて北千島の譲渡までオプションにしてたんだから、ちょっぴりだけ降伏条件を緩和させるよう口を利いてやって北方四島以外の全てを一滴の血も流さずにゲットする方が賢かったんじゃないかな。まあ独ソ戦でウン千万死んでる以上、対日参戦で少々増えても誤差みたいなもんという肚だったのかもしれんが >一方でドイツ軍に抵抗したウクライナ人も多く そもそもナチがスラブ人37564を党是にしてたしなあ。最初は解放に期待しつつも裏切られたところは東南アジアの独立運動家と日本軍の関係に近いかも ・1つはルーズベルトの死去も大きかったと思う。ルーズベルトはスターリンとの交渉でソ連の対日参戦の見返りに領土割譲要求に妥協を見せていた。 しかしルーズベルトの後のトルーマンは交渉内容は聞かされず、また原爆計画も初めて知った。 ポツダムで米英ソは交渉するが、そこでトルーマンはソ連に不信感を表し、ソ連外しをする。 日本はソ連を仲介役にしようとしたのが大きな失敗を招くわけで、ソ連は仲介役なんかする気はなく日ソ中立条約破棄し、対日戦へ。 日本は原爆投下もあって降伏するわけだが、ルーズベルトの死が無ければソ連は北海道勿論、日本は分断はされていた。言い方に語弊があるが北方領土まで済んだと言っても過言ではない。 ただこうした大国間の取引の交渉は現在でも尾を引いているのは事実で、日本は運が良いとしか言いようがない。 ・>日本はアメリカ軍と少数の英連邦軍が占領する代わりに、東欧はソ連の勢力圏とすることが決定した。 この文章を単純に解釈して、記事のタイトルと照合すると自分の頭の中ではこうなってしまう。 当初、予定していた日本の分割統治は、交換条件を提示してソ連に断念させた。その交換条件はパーセンテージ協定で規定されていた東欧の部分的支配権を完全支配権に変更することである。ソ連は日本に対する部分的支配権を諦める代わりに東欧の完全支配権を得た。 ある意味、東欧の犠牲を土台に日本の一体性は敗戦国でありながら、保たれることになった。 ・「ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして北方領土を占領することが認められていた。しかし、8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、北海道北東部(釧路-留萌を結んだ直線以北)の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めた(「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた)。17日トルーマンはヤルタでの協定を根拠にこれを拒否」 (ウィキ・日本の分割統治計画・日本占領計画案の経過の「ソ連の北海道占領計画」)  記事は長々と色々書いた上に引用と同じく、トルーマン米大統領がヤルタ協定(の密約)をたてに拒否しただけ。  2行で済むし、政治史では知的常識の部類。もったい付け過ぎ。衒学的手法は、日本の論文ではNG。  しかも色々書いているが、釧路・留萌線には触れていない。 ・ほんとに分断国家にならなくて良かったと思う。 ちなみに「太陽の黙示録」という漫画は分断国家になった日本の物語だが、当時読んでいて「分断国家になるくらいなら、国民がどれだけ氏んでも構わないから米中に支援など頼まない」と思った。 ・ソ連を作ったのは米英を支配する財閥です ロシア革命を起こしたレーニンにはイギリスを支配する財閥から、トロツキーにはアメリカを支配する財閥から活動資金が渡されています しかし、何でこんな大事な事が報じられないのでしょうか? ・当時の大日本帝国は、ヤルタ協定に気づかずソ連による仲介を期待してポツダム宣言に黙殺したととれる反応をし、ソ連参戦、原爆投下という事態を招いてしまい、千島も失ってしまったのでした。 ・となると、、、 ポーランド引越問題にしてもドイツ全域を勢力下に置けなかったとか、日ソ中立条約に抵触してまで満州侵攻した割に新興工業国たるわが国を勢力下に収められなかったなどを見るに、スターリンの政治判断力は二次大戦終結間際には相当衰えてたと見るべし。 ・戦後の大国による「事情」も多分にあったのだろうが、半島は気候あるいは地形的特性故、古来より国が分立することが結構あった。北(兄)と南(弟)の朝鮮族は兄弟分であり、気質も異なっていた。分断される理由もあったのだろう。 ・バルカン半島やドイツと違って、アメリカにとって隣国に当たる日本がソ連の衛星国になる事態は絶対に避けたい思惑があったと個人的には思います ・戦後80年、米国は日本を占領、主権剥奪自由が無い国・・・日本は在日米軍のロシア・中国・北朝鮮監視の陸の航空母艦、敗戦は惨めな未来が待つ典型例が日本! 米国は日本・ロシアは北方四島・韓国は竹島・中国は尖閣諸島? 日本は外交力不足が影響で返還交渉が苦手民族、尖閣以外は日本の敗戦結果で返還される事は無いだろね! 米国は日本の空も陸も占領、日本はこの現状から解放される努力が必要だね。 国の悲劇を知らない国民に隠さず伝える必要があるだろうね? ・ソ連は海を苦手としている。 米国は海が得意。  ソ連は米国と衝突しても勝ち目はなく、日本を諦めたのだろう。  また、ソ連に和平仲介を望んだのは日本陸軍だが、ソ連はそんなことをする気はサラサラなく、いつ日本との戦闘に入るかを考えていた。 日本陸軍を「バカ」の三乗と言った方がいたが、まさにその通り。 とっとと米国に降伏しておけば 日本の被害を減らせたのに。 ・仮に分断国家になっていたらソ連崩壊に伴い東西ドイツと同様に北方四島に加えて千島列島全島と樺太全島も日本に統合されていたかも。 ・日本を良く書き過ぎでは?  日本がロマノフの皇太子を斬りつけて大怪我させてもロシアは政治問題が大きくなるからと騒がなかった(イギリスの思惑にハマらない) 日本はかつてロシアに突如として侵攻(イギリスに言われてだが)向こうからしたらなんだよ!凶暴な日本人だな だしね でも大勢日本兵が死んだのにイギリスは約束を反故にした そしてロシアは北方領土についてわかってるけど日露戦争の仕返しだよって言うんだけど日本人はその認識が無いからワーワー騒ぐのよね 日本分割はアメリカは容認してたけどそれだと都合の悪いイギリスが大反対なので分割逃れたと言われてるね ブルガリアは日本の代わりに旧ソ連に組み込まれた 結局 イギリスとアメリカの攻防なんだよ 基軸通貨取りたいから(ドル刷ってるのはイギリスのユダヤ人だから)よーく考えるとロシアより英米の覇権争いだったりする 今回もドルを弱らせたいイギリスの思惑が面白すぎ ・日本は侵略戦争をしたから負けたのではない。日露戦争後からアメリカがすでに日本を仮想敵国として戦争計画を進め、それを実際に実行しただけ。誤算は、中国共産党とソ連、東ヨーロッパなどの社会主義国の広がり。太平洋戦争で得をしたのは、中国、しかも共産党とソ連、今のロシア。馬鹿な戦争だった。 ・北海道を占領されずに済んだのは占守島で身を挺して闘った日本兵の尊い犠牲があったからです。ソ連軍は予想以上の損害を出し諦めることになります。 ・たぶん 青森県の海峡で、拳を上げて「早く返せー!」と 北海道に向けて何十万人の大集会 NHKニュースが日常でもおかしくなかった。悲惨な 朝鮮戦争とベトナム戦争、北・南の悲劇があったのに 本当に、北海道は幸運だった ・樋口季一郎中将らの日本最後の防衛戦による活躍のおかげです。本来は歴史の教科書に記されなければならない人物です。スターリンの野望を打ち砕いたのです。 ・スターリンが極東に対する優先度が 低かったのと、マッカーサーの極東 重視の結果だよ すなわち民主主義と社会主義との対立が すでに始まっていて日本は救われただけ 天皇制もマッカーサーに助けられた 日本を理想的平和国家にしようとした GHQ民政局は愚かだった。 ・日本が原爆を作れなかった理由 って全く反省されて無いよね。 勿論運ぶ方法が皆無な気もするのだけど。 真珠湾攻撃する前に、原爆開発に全て の国力を割き、運搬方法はドイツのv2に 任せる等の計画性は無かったのだろうか。 どんなに国内に犠牲が出ても、反対する 奴は日本人同士とことん殺し合ってでも 戦争に勝つ気は無かったのだろうか。 内戦で滅びた方が遥かにマシだったなんて 本気で思います。 ・正しくはソ連の参戦で日本は降伏。 アメリカが来たら武装解除。 ソ連が来たら戦闘。 アメリカによる対日占領が優先事項でした。 ・大局を見る力のあった樋口中将がいなかったら、北海道はソ連領になっていておかしくなかった。 ・まあこれが今も続くアメリカの日本支配の始まりって事ね 実質80年くらいの ・ローズヴェルトが生きてれば 分割されていただろう。 ・資源が無い国が生き残るのは難しいという結論。 ・北方領土は日本固有の領土です。 ・西日本と東日本に分断されるところだった。 ・分断はされていませんが、ミサイルは飛んで来ていますね。 ・ウクラ…の現状の非道云々…の理屈もこうした…以下自主規制します ・忘れられない ・今から中国 ロシア アメリカで日本を分割統治しつよ ・私の母は満州からの引き揚げ者なのですが私が7〜8才の頃(昭和50年前後)から絶えず 『ソ連はね、条約を破って日本に攻め込んで来たんだよ』 と言っており、現在施設に入ってなおこの件を言い出したりします やはり民族の恨みはなかなか消えないのでしょうね ちなみに母はロシアの人達のことを相変わらずロ◯ケ、◯スケと大きな声で言ってます ・負ければ賊軍。 戦士した兵も所詮賊軍だから犬死になんだ。 特攻兵など称えるなどとんでもないこと。 戦争に反旗を翻して脱走した者こそ称えられるべきだろう。 ・まだまだ 北海道=ソ連(ロシア) 西日本=中国 って勢力があるのは確か。(ついでに対馬=韓国?) やはり自衛隊は必要。
 
 

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