( 186913 )  2024/07/03 02:30:15  
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第二次世界大戦終結から80年目を迎える中、連合国間では戦後の世界秩序を巡る複雑な思惑や協定がありました。

ブレトン=ウッズ会議では、国際金融協力や通貨制度が決定され、アメリカが世界経済の中心となりました。

一方、東欧におけるソ連とイギリスの覇権配分や、ドイツの分割占領問題も存在しました。

ヤルタ会談では、国際秩序の話し合いやドイツの分割が合意されました。

終戦後の日本では、ソ連による南樺太返還や千島列島編入、アメリカとの分割占領構想が検討されました。

(要約)

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北海道根室市の納沙布岬からは「北方領土」の一部が見える(写真:Agi/PIXTA) 

 

来年で終結から80年を迎える第2次世界大戦。広島と長崎への原爆投下を機に、日本は無条件降伏を受け容れましたが、実はその裏側では、戦後の日本の統治を巡る連合国側の「幻の計画」があったといいます。土壇場でのソ連参戦の経緯と、連合国各国の思惑とは。 

※本稿は佐藤優氏の監修書『米ロ対立100年史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。 

 

■戦後の覇権を巡るテーブルの下での争い 

 

 アメリカのニューハンプシャー州北部にあるブレトン=ウッズは、ワシントン山に面し、スキー場やゴルフ場の広がる人気のリゾート地だ。連合軍がフランスに上陸した直後の1944年7月、ここで連合国に属する45カ国の代表によるブレトン=ウッズ会議が開かれた。戦後の国際的な経済と金融の枠組みはこの席上で決まった。 

 

 会議の趣旨として、1929年に起こった世界恐慌のあと、世界の主要国が閉鎖的なブロック経済政策を採り、それが連合国陣営と枢軸国陣営の対立を招いたことへの反省があった。 

 

 このため、国際的な金融協力や外国為替相場の安定を図る国際通貨基金(IMF)と、戦災復興を支援する国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行ともいう)の設立を決定する。 

 

 さらに、アメリカのドルの価値の裏付けとして「金1オンス(28.3495グラム)=35ドル」と定めたうえで、ドルを基軸通貨とした固定為替相場制が採られることになる。 

 

 各国の通貨とドルの交換比率(為替相場)を一定にすることで経済の安定と貿易の発展を図る仕組みだ。これで名実ともにアメリカが世界経済の中心となった。 

 

 これらの方針をまとめたものが「ブレトン=ウッズ協定」だ。会議の参加国はそのほとんどが協定に合意したが、ソ連は第2次世界大戦での被害が大きかったことから、IMFと世界銀行への拠出金の減額を求め、IMF運営のため自国の経済に関する情報を公開することにも抵抗した。 

 

 結局、ソ連は協定に調印したものの批准はせず、IMFにも世界銀行にも参加しなかった。そして、戦後は独自の経済圏を形成していく。 

 

 ブレトン=ウッズ会議後の1944年後半、ヨーロッパ東部戦線ではソ連軍が大規模な攻勢に出る。 

 

 枢軸国に属していたルーマニア、ブルガリアでは親独政権が倒され、ソ連軍に制圧される。ユーゴスラヴィアでは、共産主義者のパルチザン指導者ヨシプ・ブロズ・ティトーが、アルバニアではエンヴェル・ホッジャが、ソ連と連携しつつ独力で枢軸軍から国土を解放しつつあった。 

 

 

■連合国の思惑とドイツの「分割占領」 

 

 こうしたなか、チャーチルとスターリンは、同年10月にモスクワで会談し、戦後の東欧でのイギリスとソ連のおおまかな勢力配分を定めた。これは「パーセンテージ協定」と呼ばれ、ルーマニアはソ連が90%・イギリスが10%、ギリシアはイギリスが90%・ソ連が10%、ユーゴスラヴィアとハンガリーは両国が各50%、ブルガリアはソ連が75%・ほかの諸国が25%とされた。 

 

 この協定にローズヴェルトは参加しておらず、当事国の合意もなかったが、チャーチルの言質の下、スターリンは東欧の支配を進めることになる。 

 

 劣勢となったドイツは、ソ連内で共産党政権に反発する勢力を集めたロシア解放軍、ウクライナ解放軍などを組織するが、大きな戦果はなかった。一部のウクライナ独立主義者はナチスと協力関係を結び、これは後年、ロシアのプーチン政権による2022年のウクライナ侵攻にも影響を与える。 

 

 一方でドイツ軍に抵抗したウクライナ人も多く、1941年夏に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)は当初、ドイツ軍と連携してソ連軍と戦ったが、戦争末期になると独ソ両軍と戦った。 

 

 連合国が完全に優勢となった1945年2月、ソ連のクリミア半島にある保養地ヤルタに、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まり、ヤルタ会談を開く。 

 

 この席上で戦後の国際秩序が話し合われ、3人の首脳は連合国を中心とした国際連合の設立と、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4国によるドイツの分割占領に合意した。 

 

 議論が難航したのが、前年のパーセンテージ協定に含まれなかったポーランドの問題だ。 

 

 戦前までのポーランドはイギリスに亡命政府を組織しており、ソ連がポーランド内で成立させた共産主義政権のいずれを正当な政府とするかで意見が対立していた。最終的に、ローズヴェルトの提案で戦後に国民投票を実施して決める妥協案にまとまった。 

 

 

 また、ポーランドの範囲は、カーゾン線と呼ばれる戦前の国境を変更し、東部地域をソ連に編入して、代わりに国土を丸ごと西に動かすことになった。 

 

 それから間もない1945年4月末、連合軍の侵攻によって、ドイツに支援されたイタリア・ファシスト党の残存勢力(イタリア社会共和国)は崩壊し、ムッソリーニはイタリア人のレジスタンス組織に殺害される。 

 

 ヨーロッパの西からドイツに侵攻した米英軍と、東からドイツに侵攻したソ連軍は、ドイツ東部のエルベ川流域でついに合流した。両軍の兵士は握手して平和を誓い合い、これは「エルベの誓い」と呼ばれる。 

 

 おそらく、最もアメリカとソ連が友好的だった瞬間だろう。ベルリンはソ連軍によってほぼ制圧され、ナチス総統ヒトラーは自殺して、5月8日にドイツは降伏する。 

 

■ヤルタ会談で結ばれたソ連参戦の「秘密協定」 

 

 ドイツ降伏後、連合国にとって残る敵は日本のみとなる。先のヤルタ会談では、ドイツが降伏した3カ月後にソ連も日本に宣戦する秘密協定が結ばれていた。 

 

 しかも、かつて日露戦争で日本がロシアから獲得した南樺太(サハリン)、旅順、大連ほかをロシアの継承国であるソ連に返還すること、千島列島をソ連に編入する(引き渡す)ことも合意されていた。 

 

 1945年4月、ソ連は1946年4月に満了になる日ソ中立条約の継続破棄を宣言した。条約にはあと1年間の有効期限があったので、日本では首相の鈴木貫太郎らが水面下でソ連を介して連合国との和平交渉を進めていた。 

 

 しかし、その期待は裏切られることになる。 

 

 連合国では4月にアメリカでローズヴェルトが急死し、副大統領だったトルーマンが大統領に就任、イギリスでは7月の総選挙で労働党が勝利し、チャーチルは退任してクレメント・アトリーが首相となるが、対日戦の方針は変わらなかった。 

 

 トルーマンとアトリー、そして蒋介石は7月にドイツのベルリン近郊にあるポツダムで会談し、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表した。 

 

 会談にはスターリンも参加していたが、日ソ中立条約がまだ有効だったので、ポツダム宣言には名を連ねていない。 

 

 日本側は、ポツダム宣言で降伏後の天皇の立場について明示されていないことから、回答を控えて黙殺の態度を採る。軍の上層部ではなおも徹底抗戦の意見が強かったが、8月6日には広島に原爆が投下され、甚大な被害が発生する。 

 

 

 続いて8月9日、ソ連が対日参戦し、長崎にも原爆が投下される。 

 

 ソ連は満州、南樺太、千島列島に侵攻してきた。満州に駐留する関東軍は、すでに大部分が南方に転出していたためほとんど無力で、60万人以上もの軍人や民間人が捕虜としてシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。 

 

 2発の原爆投下とソ連の参戦、いわば米ソの挟み撃ちによって日本はとどめを刺された。 

 

■南下を続けるソ連軍と、日本の「分割占領」の検討 

 

 政府は8月15日にポツダム宣言の受諾を発表し、終戦を受け入れる。 

 

 だが、ソ連軍による戦闘行為はこの後もしばらく続く。千島列島では、8月29日までにソ連軍が、北端の占守島から南端のウルップ島までの全域を占領した。 

 

 これに前後して、別の部隊が9月3日までに、北海道とすぐ接する択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島を占領する。現在まで日本政府が「北方領土」と呼んでいるのは、この択捉島、色丹島、国後島、歯舞群島の4島だ。 

 

 ソ連は、「千島列島および歯舞群島、色丹島はソ連領である」と宣言し、1946年2月にはハバロフスク地方南サハリン州に編入した。 

 

 日本の降伏前には、ソ連、アメリカ、中華民国、イギリスの4国による日本の分割占領も検討されていた。 

 

 この構想では、北海道・東北地方はソ連、関東・中部地方と三重県、沖縄県を含む南西諸島はアメリカ、四国は中華民国、中国・九州地方はイギリスがそれぞれに単独で占領し、東京市(現在の東京都23区)は4国の共同管理、近畿地方と福井県はアメリカと中華民国の共同管理となる予定だった。 

 

■米ソ間で東欧と天秤にかけられた日本 

 

 ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4国による分割占領を受け、首都ベルリンは4国の共同管理とされた。 

 

 のちに米、英、仏の占領地はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地はドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、ベルリン市街のうち米、英、仏の占領地は、東ドイツ領内にある西ドイツの「飛び地」となる。 

 

 日本も分割占領を受けていれば、ドイツと同じ分断国家となった可能性があったのだ。 

 

 

 
 

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