( 189818 ) 2024/07/11 16:16:53 0 00 写真はイメージです Photo:PIXTA
昨今、職場において、性の多様性という課題に直面するケースが増えている。例えば、生物学的な性別が男性で心の性が女性である従業員が、職場で女性用トイレの使用を希望した場合、企業や自治体はどのように対応すべきか。果たして裁判所の判断は?※本稿は、中村博弁護士監修『労務トラブルから会社を守れ!労務専門弁護士軍団が指南!実例に学ぶ雇用リスク対策18』(白秋社 刊)のうち、野澤航介弁護士執筆分の一部を抜粋・編集したものです。
【この記事の画像を見る】
● 女性ホルモン投与を受けている 性同一性障害の男性
【事件の概要】
Aは、生物学的な性別は男性であるが、幼少の頃からこのことに強い違和感を抱いていた。Aは、平成10年頃から女性ホルモンの投与を受けるようになり、同11年頃には性同一性障害である旨の医師の診断を受け、平成20年頃からは女性として私生活を送るようになった。また、平成22 年3月頃までには、血液中における男性ホルモンの量が同年代の男性の基準値の下限を大きく下回っており、性衝動に基づく性暴力の可能性が低いと判断される旨の医師の診断を受けていた。なお、Aは、健康上の理由から性別適合手術を受けていない。
さらに、Aは、平成23年に家庭裁判所の許可を得て、名を変更し、同年6月からは職場においてその名を使用するようになっていた。
● 男性職員のカミングアウト後 女性用トイレ使用に不安の声
Aは、国家公務員として某省庁に勤務している。Aは平成16年5月以降、某省庁の同一の部署で執務をしてきたが、当該部署の執務室がある庁舎には男女別のトイレが各階に3か所ずつ設置されている。なお、男女共用の多目的トイレは、当該部署の執務室がある階には設置されていないが、他の複数の階に設置されている。
Aは、平成21年7月、上司に対し、自らの性同一性障害についてカミングアウトを行い、同年10月、某省庁の担当職員に対し、女性の服装での勤務や女性用トイレの使用等についての要望を伝えた。
これらを受け、平成22年7月14日、某省庁では、Aの了承を得て、Aが執務する部署の職員に対し、Aの性同一性障害について説明する会が開催された。担当職員は、同説明会の後、Aが退席したのちに、Aが女性用トイレを使用することについて意見を求めたところ、数名の女性職員がその態度から違和感を抱いているように見えた。これらを踏まえ、某省庁においては、Aに対し、Aの執務室がある階とその上下の階の女性用トイレの使用を認めず、それ以外の階の女性用トイレの使用を認める旨の処遇を実施することとした。
Aは、上記説明会の翌週から、女性の服装等で勤務し、Aの執務室から2階離れた階の女性用トイレを使用するようになった。なお、Aが女性用トイレを使用するようになってから、それにより他の職員との間でトラブルが生じたことはない。
● 女性職員と同等の扱いを求める 男性職員に人事院は拒絶の回答
Aは、平成25年12月27日付で、職場の女性用トイレを自由に使用させることを含め、原則として女性職員と同等の処遇を行うこと等を内容とする行政措置の要求をしたところ、人事院は、同 27年5月29日付で、いずれの要求も認められない旨の判定をした(以下、「本件判定」といい、本件判定のうちトイレの使用に係る要求に関する部分を「本件判定部分」という)。
そこで、Aは、本件判定の取消訴訟及び国家賠償請求訴訟を提起した。
● 【課題解説】過去の裁判例に見る 心の性に従ったトイレ使用の是非
上記の事例と類似の事案について、裁判所は、(1)原告が男性用トイレを使用しなければならないことは、日常的に相当の不利益を受けている状態にあること、(2)原告が女性用トイレを使用することによりトラブルが生じることは想定しがたいこと、(3)原告が女性用トイレを使用することにより特段の配慮をすべき他の職員の存在も確認されていなかったことなどから、本件判定部分を違法と判断しました(最三小判令和5年7月11日)。
ただし、この裁判例は、あくまでも当該事例に対する判断であり、当該事例と異なる事情がある場合には、心の性に従ったトイレを使用することはできないという判断がなされる可能性もあることに注意が必要です。
● 憲法13条から導かれる 自己決定権としてのトイレの選択権
憲法第13条は、「幸福追求に対する国民の権利」すなわち幸福追求権を保障しており、同条を根拠に「新しい人権」が主張されています。そのような新しい人権のひとつに、「自己決定権」があります。これは、一定の個人的な事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定することができる権利のことです。
他方で、自己決定であっても、公権力や他者からの介入がなされなければならないと考えられているケースもあります。それは、例えば、未成年であるとか、酩酊状態であるなど、自己決定をする能力に乏しい者がした決定に介入する場合や、その自己決定により他者に危害を及ぼす場合です。
自己決定権の一環として、自己が使用するトイレを選択する権利があるか否かという点については、本裁判例は判断していませんが、筆者私見では、性同一性障害者がトイレを選択する自由は、生命身体に関する自由の一貫として、全面的・絶対的保障ではなくとも、憲法上の保障を受けると考えています。
● 男性職員による 行政措置要求の法的根拠は?
国家公務員法第86条は、「職員は、俸給、給料その他あらゆる勤務条件に関し、人事院に対して、人事院若しくは内閣総理大臣又はその職員の所轄庁の長により、適当な行政上の措置が行われることを要求することができる」旨を規定し、同法第87条は、「行政措置要求がされたときには、人事院は、必要と認める調査、口頭審理その他の事実審査を行い、一般国民及び関係者に公平なように、且つ、職員の能率を発揮し、及び増進する見地において、事案を判定しなければならない」旨を規定しています。
そこで、国家一般職の職員であるAは、同条に基づき、行政措置要求を行い、人事院により判定がなされたことになります。
● 性的マイノリティーへの対応は 企業の人権意識を問う試金石
従来、企業の社会的責任として捉えられていたのは環境問題が中心でした(環境コンプライアンス)が、ここ10年の間に人権問題一般についてコンプライアンスが問題とされるようになっています。人権コンプライアンス分野の議論は急速に進んでいます。性的マイノリティーのトイレ問題について、企業が取り組むべき課題であると認識され始めたのもここ数年間のことです。
国際的にも、2011(平成23)年3月、国際連合が企業活動において人権問題にどのように取り組むべきかという行動の枠組みとして「ビジネスと人権に関する指導原則」、いわゆる「ラギー・フレームワーク」を提示したことにより、企業は人権の視点からも経営を行うことが求められるようになりました。
会社法上、取締役(会)は内部統制システムを構築する権能を有し(第348条3項4号、第362条4項6号)、特に大会社においては取締役会が決議を行うことが義務付けられています(第362条5項)。また、委員会設置会社では、大会社ではない場合にも取締役会において決議を行うことが義務付けられています(第416条1項1号ホ・第2項)。内部統制システムとは、会社の業務執行が適切かつ効率的に行われることを確保するため、取締役が業務執行の手順を合理的に設定するとともに、不祥事の兆候を早期に発見し是正できるように構築すべき社内組織の仕組みのことです。
コンプライアンス違反についても、これを事前に防止し、早期に発見し、是正するというシステムを構築しておくことが求められます。そのため取締役が、性的マイノリティーの権利を保護する仕組みを構築できなかったことにより、会社が性的マイノリティーの権利侵害を引き起こした場合には、取締役が任務懈怠責任(第423条1項、第429条1項)を問われる可能性があるといえます。
企業による私人の権利保護という議論が急激に進んでいることからすれば、性的マイノリティーを保護する仕組みを内部統制システムの中に構築しておくことは、そう遠くないうちに、当然のこととなると思われます。
また、人権を顧みないというイメージを持たれた企業を顧客が支持するという期待は薄く、人権法務分野に無頓着であることは経営上も合理的な判断とはいえません。特に、製造業においてこの傾向は顕著で、ひとたび人権侵害企業とのレッテルが貼られてしまえば、バッシングを受けて商品が全く売れなくなってしまうおそれすらあります。企業にとって人権対策は、人権を尊重する社会的な責任があるという点に加え、このような危険を防止するというリスクマネージメントの観点からも必要性が高いといえるでしょう。
以上のことから、事実上、企業は性的マイノリティー問題をはじめとする人権問題に取り組んでいくべき責任を負っている、ということができます。
● 社員研修などにより 潜在的な「当事者」に対応
1. 誰でもトイレの設置
労働安全衛生法施行規則第628条が、事業者に対して男性用トイレ及び女性用トイレの設置を命じていますが、これにとどまらず、早急に多目的トイレもしくは、男女問わず利用できるトイレを設置することが求められます。「我が社にはいないから、いいだろう」などと胡坐をかいているわけにはいきません。カミングアウトしていない潜在的なSOGI(Sexual Orientation and Gender Identity 性的指向及び性自認)の存在を見逃すことになりますから、上記トイレを設置する必要性は高いといえます。
2. 社員研修
会社側が何らかの措置をとろうとしたところ、社内で社員から反発が起こり頓挫してしまうような事態は何としても避けなければなりません。迅速な対応をするためには、日頃より社内において対SOGIに限らず、差別問題一般に対する理解を深める研修をしておくべきです。たとえば、性的マイノリティー当事者による講演会や性的マイノリティーの人権問題に明るい弁護士に指導を仰ぐ例があります。とはいえ、押し付けられた座学では効果が期待できず、むしろ反発を生む可能性すらあるため、工夫が必要でしょう。
|
![]() |