( 190961 )  2024/07/15 01:20:34  
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嬉野市の「うれしの茶」では、茶農家たちが1杯5000円で特産品を提供する観光プログラムが始まった。

茶農家たちが低価格で提供していたお茶が高値になった理由や、茶農家のビジネスの変革、苦労などが紹介されている。

茶農家の苦境や地域の茶産業の変化が、高価格のうれしの茶を通じて浮き彫りにされている。

(要約)

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嬉野市街地からクルマで10分ほどの場所にある「天茶台」。茶農家の話に耳を傾けながらうれしの茶をじっくり味わえる贅沢な空間だ - 筆者撮影 

 

安いことは本当にいいことなのだろうか。佐賀県嬉野市の茶農家たちが2017年、1杯5000円で特産品「うれしの茶」を振る舞う観光プログラムをはじめた。かつて地元の飲食店やホテルが無料で提供していたお茶に、なぜ高い値段をつけたのか。フリーライターの伏見学さんが、茶農家たちに狙いを取材した――。 

 

【写真全12枚】1杯5000円のお茶。新緑の香りと旨みが口に広がった。 

 

■「うれしの茶」に起きている地殻変動 

 

 佐賀県の南西部。長崎県と隣接する人口約2万5000人の嬉野市。2022年9月に開業した西九州新幹線によって、実に91年ぶりに鉄道駅がこの街にできたことが話題になったのは記憶に新しいだろう。 

 

 嬉野の名産といえば、日本三大美肌の湯と呼ばれる「嬉野温泉」、400年以上の歴史を持つ工芸品「肥前吉田焼」、そして、やぶきたを主力品種とした「うれしの茶」である。昨今、そのお茶に“地殻変動”が起きている。 

 

 「こちら、最初の1杯でございます」 

 

 ここは嬉野市内を一望できる山の上の茶畑。その中に屋外茶室「天茶台」はある。担当してくれた茶農家の北野秀一さんから差し出されたのは、肥前吉田焼の白い茶器に注がれた煎茶。1杯5000円という。北野さんは「きたの茶園」の3代目。現在3.6ヘクタールの茶畑にて、農薬と化学肥料を一切使わない有機栽培を行う気鋭の生産者である。 

 

 この日、筆者が体験していたのは「ティーツーリズム」と呼ばれる観光プログラムで、生産者が自らお茶3杯を振る舞い、参加者と対話するというもの。茶菓子がつくコースもあるが、参加料金は一人1万5000円(税別)なので、単純計算でお茶1杯につき5000円となるわけだ。 

 

 このプログラムが誕生したのは2017年。そこから段階的にお茶の料金は上昇し、現在の水準になった。 

 

■かつては「お茶はタダ」が当たり前だった 

 

 うれしの茶が高価格化したのはここだけではない。ティーツーリズムを仕掛ける地元高級旅館・和多屋別荘では、客室に置いてある茶葉を除き、施設内で飲むお茶はすべて有料で提供している。 

 

 では、こうした取り組みが始まる以前はどうだったのか。嬉野の他の旅館やホテルはもとより、和多屋別荘でも基本的にタダである。地元の名産品にもかかわらず、お茶でお金を取るという意識は誰も持ち合わせていなかった。 

 

 ただ、これは日本全国どこでも言えることだろう。例えば、飲食店でもコーヒーやジュースは有料だが、お茶や水は頼めば無料で出してくれる。「お茶はタダ」であることが半ば常識になっていると言ってもいい。 

 

 客に大盤振る舞いしてもびくともしないほど、茶農家のビジネスは安泰だったかというと、当然そんなことはない。時代の移り変わりとともに茶葉の市場価格は下がる一方だ。全国茶生産団体連合会の調べによると、お茶(普通煎茶の一番茶)の平均価格は、2006年に1キログラムあたり2500円を超えていたが、22年には1944円にまで下落している。以前からお茶で稼ぐのは一筋縄でいかない状況だったと北野さんは回想する。 

 

 「23年前に就農したとき、この収入で家族を食べさせていくには厳しいことが目に見えていました。そこですぐに(お茶の閑散期である)冬場は造園業の仕事を始めたんです」 

 

 それが時は経ち、今ではお茶の仕事だけに100パーセント専念できるようになった。総売り上げも2015年ごろと比べて約2倍に増えた。 

 

 「お茶はタダではない」。安売りからの脱却を図った嬉野の茶産業の変革を追った。 

 

 

■家業を継いだ「茶農家の長男」の本音 

 

 「将来はお前が後を継ぐんだからな」 

 

 茶農家の長男として生まれた北野さんは、幼少期から親族にそう言われて育った。学生時代は陸上競技で鳴らしたスポーツマン。真っ直ぐな性格の北野さんは特に反発するわけでもなく、高校を卒業するとそのままお茶の道へ進む。 

 

 静岡の国立野菜・茶業試験場(現野菜茶業研究所)で2年間研修を受けた後、2001年に嬉野に戻り就農。ところが、北野さんが子どもの頃とは茶産業を取り巻く状況は一変していた。佐賀県や嬉野市が公表するデータを見ると、1995年の嬉野の茶栽培農家は1280戸、生産額は約21億円。ところが、そこから減少の一途を辿り、北野さんが就農した時には500戸ほどになっていた。 

 

 昔は後継ぎになれと言っていた親族なども「もうお茶は右肩下がり。お茶だけで食べていくのは難しくなるから、兼業農家という道もあるよ」と申し訳なさそうに口にしたという。 

 

 「長男だから継ぐことを決めたけれど、必ずしも明るい未来が待っている感じではありませんでした」と北野さんは話す。 

 

■10年足らずで農家数はほぼ半減、親に止められた同級生も… 

 

 先に、その未来がどうなったのかを明かしてしまうと、嬉野の茶産業の衰退は加速していると言わざるを得ない。茶栽培農家数は2013年の324戸に対して、2022年は189戸と半分近くに。生産額は10億4800万円から7億4769万円にまで落ち込んだ。およそ30年間で市場規模は約3分の1に縮小した。 

 

 北野さんと同じく実家が茶農家だった同級生は皆、早々に家業を継ぐのをやめていた。親の方から止められた人もいたようだ。それなのに、なぜ北野さんは継いだのか。 

 

 「畑の面積が大きかったし、他に先駆けて有機栽培をしていたこともあって、どこかやりがいを感じたんですね。お茶を飲むのが好きだというのもありました。何よりも、親父が一生懸命やっているのをずっと見てきたので」 

 

■お茶の収入だけでは生活できない 

 

 家業を前向きにとらえた北野さんだったが、現実は想像以上の厳しさだった。 

 

 「帰ってきて初年度のお茶の収入を見て驚きました。さすがにこれだと来年暮らすのは難しいから、冬場はどこか仕事に出ないと無理だなと痛感しました」 

 

 そこで北野さんは10月から翌年3月までの期間、造園業の会社で働いた。何とかして家族を養おうと必死だった。結局、造園の仕事を5、6年ほど続けた。その間に結婚をして家庭を持ったことで、より年収を上げなくてはならなくなっていた。そこで導き出した答えが、市場へのお茶の出荷量を減らし、小売に乗り出すことである。 

 

 ただ、これには父親の説得が必要だった。基本的には父と北野さんの2人で切り盛りしていたため、北野さんが行商に出てしまっては人手が足りなくなる。話し合いの末、何とか理解を得て小売を始めた。 

 

 とはいえ、営業経験などあるわけではない。そこで頼ったのが、茶農家の先輩・副島仁さんだった。副島さんは現在、副島園の4代目として茶栽培にとどまらず、カフェやバーの経営など手広く事業を展開する、地元のリーダー的存在である。当時既にいち早く小売を始めていた。北野さんは、まずは生産量の2割を販売することを目指し、副島さんの紹介でスーパーマーケットの催事イベントなどに出展した。 

 

 

■質よりも安さが求められる「小売りの現実」 

 

 北野さんのお茶は無農薬だったこともあり、とりわけ農産物直売所では人気だった。客も足を止めて、北野さんの話に耳を傾けてくれた。ただし、売るためには値引きをしたり、詰め放題にしたりと、お得感を出さねばならなかったという。 

 

 「お客さんの受けはいいのですが、いざ買う段階になると、2割、3割引にしてと言われてしまいます」 

 

 手塩にかけて育てたお茶。しかも有機栽培であるため、一般的なお茶と比べて収量も限れられている。でも、客の多くはそれよりも値段が安いかどうかに目がいってしまう。小売を始めたことで収入面では以前よりもマシにはなったものの、薄利多売という構造からは抜け出せなかった。 

 

 お茶をもっと高く売りたい。北野さんは切実にそう願っていた。 

 

■「絶対に継ぎたくない」と思っていた茶農家5代目 

 

 ここでもう一人、北野さんと同じようにもがいていた茶農家のストーリーを紹介したい。永尾豊裕園の永尾裕也さんだ。 

 

 永尾さんは嬉野で100年以上も続く茶農家の5代目で、2001年に就農した。子どもの頃から畑作業の手伝いに駆り出されていた永尾さんは、「絶対に継ぎたくない」と思っていたそうだ。ただ、歳を重ねるにつれ、徐々に考え方が変わっていく。 

 

 「高校は進学校で、大学にも行けたんですけど、別に何かをやりたいということはなかった。ただ家業に入らなくてもいい方法はないかなって思いながら、何となく大学に行こうという考えでした」 

 

 結論だけを言うと、目標にした佐賀大学農学部は不合格に。腹を決めて、静岡の野菜・茶業試験場に。そこで2年間学び、その後は掛川市の山啓製茶で2年間の修行を積んで嬉野に帰ってくる。当時はちょうどお茶の“バブル”が弾けようとしていたタイミングだったという。 

 

 「90年代後半ごろにお茶のペットボトル商戦が始まりました。それに伴って原料の茶葉が足りないからと、メーカーがかなりいい値段で大量に買ってくれたそうです。僕が静岡にいる時に親父が嬉しそうに話していました」 

 

 しかし一方で、一般家庭向けのリーフ(茶葉)の消費量が下がり、売れ行きは悪化。さらにペットボトルのバブルも長くは続かない。永尾さんが嬉野に戻ったあたりからそのしわ寄せがやってきた。 

 

 いきなり大赤字になるといった絶望的な状態ではなかったというが、永尾さんの表現を借りると「真綿で首を絞められる状態」。つまり、売り上げが毎年5%ずつ下がっていき、徐々に廃業する茶農家が増えていった。 

 

 

■「もっと高く売れるはず」強気の値付けが逆効果に 

 

 永尾さんもお茶以外での収入を得るため、冬場は海苔の養殖工場やコンクリート工場などでアルバイトをした。お茶の小売はしなかったのかと尋ねると、手間がかかることもあって、あくまでも市場への出荷をメインに考えていたという。 

 

 ただし、既存の業界構造には疑問を持っていた。お茶はもっと高く売れるはずと思い、強気な価格設定をしていたそうだ。 

 

 「もの作りって何でも、作った人は自分で値段を決めて、その価値をお客さんが理解して買ってもらうのが一般的ですよね。でも農作物はそうではない。そこに納得がいかなくて。だから一時期、自分で値付けして、これより安いと売りませんと言っていました」 

 

 すると、いつしか“嫌がらせ”を受けることに。 

 

 「問屋としては買いたい商品が買えないと心が萎える。それが何年か続いて、永尾のところは高いからもういらないとなっていたようです」 

 

 そうした状況でも小売に大きく舵を切ることはできなかった。なぜなら市場に卸す利点もあったからだ。 

 

 「それこそ市場は30キログラムの袋に茶葉を放り込んで、ポンと出せばまとめて買い取ってくれます。それが小売になると、自ら一つ一つ小袋に詰めたり、パッキングしたりとどうしても手間がかかりますよね」 

 

 自分が作ったお茶の価値を知ってもらい、もっと高値で買ってほしい。でも、市場のスキームから抜け出すことはできない。永尾さんもまた、理想と現実とのはざまにもがき苦しんでいた。 

 

■「1杯1500円で売りたい」に茶農家は騒然 

 

 そんな北野さんと永尾さんの視界が急に開けたのが、2016年6月ごろのことだった。 

 

 ある日、先輩の副島さんから「今度こういうイベントがあるから話を聞いてみない?」と誘いを受ける。そのイベントとは、同年8月に初開催の伝統文化と食をテーマにした「うれしの晩夏」。そこで上質なうれしの茶と茶菓子を提供する喫茶空間「嬉野茶寮」を企画するため、茶農家として参加してほしいという呼びかけがあった。 

 

 北野さん、永尾さんが会合に出向くと、参加者は15人ほどで、半分が顔見知りの茶農家だった。そこで出会ったのが、和多屋別荘の小原嘉元社長だった。 

 

 「面識はなかったですね。あー、この人が新しい和多屋別荘の社長か、と思ったくらい」(北野さん) 

 

 その初対面の場で、北野さんや永尾さん、さらには副島さんにとっても耳を疑うような言葉が小原さんの口から飛び出す。 

 

 「お茶を1杯1500円で売りたいです」 

 

 

 
 

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