( 193926 )  2024/07/23 16:19:59  
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BIDOCOROの着想の原点である江戸時代末期の便器を愛用した豪商たちの歴史に触れた後、株式会社さかもとの現社長である坂本英典氏の家業の歴史や自身の苦難を乗り越えた経緯が語られています。

坂本氏は専務時代に厳しい決断を下し、会社の方針を転換して復活を果たした。

社員のリストラを含む大きな改革を行った結果、新しい高級洋式トイレ「BIDOCORO」で注目を浴びています。

会社の改革や考え方についても語られ、持たざる経営や身軽な体制を重視していることが明かされています。

(要約)

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BIDOCORO(ビドコロ)着想の原点になった、 江戸時代末期のころの豪商たちが愛用した便器。(写真は愛知県常滑市のLIXILミュージアム) 

 

「株式会社さかもと」は現社長・坂本英典氏の祖父が創業して80年以上続く水回り設備の専門商社だ。現在は、漆加工をした高級洋式トイレ「BIDOCORO(ビドコロ)」で注目を浴びる。坂本氏は25歳で家業に入ったが、業績は右肩下がりで、借金は3億円もあった。そして、専務時代に社員12人中10人をリストラするという厳しい決断を迫られる。「どん底」からどのように復活したのか、坂本社長に聞いた。 

 

【写真】漆塗りが施された「高級トイレ」の現品 

 

株式会社さかもと 代表取締役 坂本 英典 氏 

 

――株式会社さかもとの歴史を教えてください。 

 

1936(昭和11)年に祖父が創業し、当初は鍋釜を売っていたと聞いています。 

 

父の代になり、井戸ポンプを扱うようになりました。 

 

それまでは手動のガチャポンプが使われていましたが、松下電器産業(現パナソニック)と代理店契約を結び、モーターポンプを宇都宮に普及させたのがさかもとの1つの転換期でした。 

 

以来、住宅やビルの水回り設備機器を扱う商社となりました。 

 

――3代目として生まれ、会社を継ぐことをいつごろから意識しましたか? 

 

子どものころは全然継ぐ気はありませんでした。 

 

むしろ継ぎたくなかったんです。 

 

多分、反抗していたのでしょう。 

 

――大学卒業後、大手機械商社の山善に入社されています。 

 

工作機械や工具の営業をするのかと思いきや、新規事業のバルーン事業部に配属されました。 

 

ヘリウムガス入りの子ども用の小さなバルーンもあれば、イベントや店内装飾用のバルーンもありました。 

 

大阪の街を、自転車で駆け回って飛び込み営業していました。 

 

――山善をいつ退職し、家業に入ったのですか。 

 

実は、入社したときには3年で実家に帰ると自分で決めていました。 

 

上司に対しても公言していました。 

 

すると、上司や取引先から経営者になるためのいろんなアドバイスをいただけました。 

 

25歳で山善を辞めてさかもとに入りました。 

 

――そのころのさかもとはどのような状況でしたか? 

 

従業員が20人くらいで、年商が14~15億円だったと思います。 

 

ところが、業績は厳しくなる一方でした。 

 

当時のメイン商材はパイプやバルブといった配管資材でした。 

 

社員が一生懸命にトラックで資材を運んでも、現場で職人から「違うじゃねえか、すぐ取りに帰れ!」と、パワハラどころではないような扱いを受けることもありました。 

 

そんな社員たちに「ご苦労さん」と言って、給与で返せない。 

 

価格競争が厳しい市場で大手の競合他社と戦い、1個運んで5円しか儲からないような商売をやっていて、「社員を幸せにできるはずはない」とずっと思っていました。 

 

 

――どのように会社を変えようと考えましたか? 

 

売り上げの規模拡大よりも、少ない人数で利益を取れる仕事だけに注力する会社にしたほうがいいと考えました。 

 

専務時代、経営者仲間にも相談した結果、本社を売ってメイン事業をやめるべきだと判断しました。 

 

――本社売却について、社長はどう考えていましたか? 

 

社長だった父にしてみると、自分が大きくした会社を縮小するというシナリオは思いもつかなかったでしょう。 

 

「売り上げの規模ばっかり望んだって、伸びるわけない」「お前の営業の力がないからだ」と、父と年中言い合いをしていました。 

 

本社は、いわば父が築いた城です。 

 

これを売ることに対して、さすがにすぐに「うん」と言いませんでした。 

 

当時、売り上げが4億円くらいで、借り入れが3億円以上ありました。 

 

とても返しきれない額でしたが、その間にも借金は増えていきました。 

 

7~8年かけて父を説得し、メインの配管資材卸売業から撤退することを決め、本社の土地・建物を売却するとともに、全在庫も売却しました。 

 

――大英断ですね。 

 

経営者仲間は「さかもっちゃん、よく判断したね。なかなかできないよ」と美談のように言ってくれますが、私は全然思っていません。 

 

ほかにやり方があったのではないかと今でも思ってます。 

 

――12人いた社員を2人に減らす大リストラを行ったそうですね。 

 

事業縮小の絵を描くのは簡単です。 

 

しかし、今まで支えてきてくれた社員たちの人件費も減らさないといけないわけです。 

 

祖父の代から勤めていた社員にも辞めていただきました。 

 

これはさすがに胃が痛くなるというレベルではありませんでした。 

 

一人ひとり順番に呼んで「会社をこうします」と伝えました。 

 

その場で泣いた社員が何人もいました。 

 

「明日から生活どうしたらいいんですか?」と言われました。 

 

ある社員は「専務、会社を残すためにはそうしたほうが私もいいと思います」と言ってくれました。 

 

ありがたい言葉ですが、申し訳ない。 

 

そんなことを従業員に言わせた私は、経営者として最低だと思いました。 

 

――リストラした社員はどうなったのでしょう? 

 

実は、地元の経営者仲間5~6人や顧問税理士に事前に話をして、社員を路頭に迷わせないために、受け入れてくれる当たりを付けていました。 

 

すると、「さかもっちゃん、分かった。任せときな」と言ってくれる人が何人もいました。 

 

実際、経営者仲間の会社や税理士事務所に移った社員がいました。 

 

自慢じゃないですが、当時の社員とは、今でも会えば普通に話せます。「“元”専務、今、すれ違いましたよ」と笑いながら電話をかけてくる元社員もいます。 

 

苦しい思いをさせてしまいましたが、恨まれるようなことがなかったのがせめてもの救いです。 

 

 

左:株式会社さかもと 代表取締役 坂本 英典 氏 右:さかもと氏の父(会長) 

 

――会社の改革で意識したことはありますか? 

 

3つあります。 

 

1つ目は、水回りの設備を提供するという存在価値であり、強みは守り続けること。 

 

2つ目は、会社を継続させること。 

 

今は会社を再生する手法がいろいろありますが、決算期が第何十期と続いていくことが大事だと私は判断しました。 

 

3つ目が「持たざる経営」です。 

 

土地や建物があればお金持ちに見えるかもしれませんが、私にとっては何の役にも立ちませんでした。 

 

これからの激動の時代を考えると、身軽に会社の体制を自由に変えられる方が望ましい。 

 

今は多様なアウトソーシング先があるので、コアの部分だけを残して身軽になりたいという思いが強かったです。 

 

――専務時代に会社を大きく変革し、その後に事業を承継したのですか? 

 

会社のつくり変えがほぼ完了した2019年5月、令和元年に切り替わるタイミングで私が跡を継ぎました。 

 

良かったと思うのは、父とけんか別れにならなかったことです。 

 

最終的に父も納得してくれました。 

 

父は今も元気にスポーツジムに通っていますよ。 

 

株式会社さかもと 代表取締役 坂本 英典 氏  

1971年栃木県生まれ。東海大学経営学部卒。大手機械商社・山善を経て、25歳で家業の水回り設備商社「さかもと」(1936年創業)入社。業績悪化から脱却すべく、メイン事業からの撤退や本社売却、在庫全売却、社員のリストラを断行して、2019年に46歳で3代目として事業を承継。研究開発の末、2016年、漆加工の洋式トイレ「BIDOCORO」をリリースし、注目を集めている。 

 

 

 
 

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