( 198506 )  2024/08/05 14:40:08  
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うねる線路で何度も脱線、空襲の危険も 「逃げることはできない」石炭にまみれた少年機関助士 #戦争の記憶

読売新聞オンライン 8/5(月) 11:01 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/e826ffc290af07a65942e17c683fd8acd8fdcc28

 

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丸山吉治さんは現役時代の作業着を着て草津温泉から長野原草津口駅までの支線で働いていた。

彼は戦時中にも同じデザインの支線で働いており、脱線や空襲の危険にさらされながら、蒸気機関車の機関助士として勤務していた。

丸山さんは戦争に参加したいと思っていたが、母親に引き止められ、鉄道省で働くことを決めた。

戦後も鉱山支線を支える仕事を続け、後に電気機関車や電車の機関士として活躍しました。

彼は78年に国鉄を退職しましたが、戦時中の苦労や鉄道の役割について若い世代に伝えることを大切に考えています。

(要約)

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現役時代の作業着を着た丸山さん。戦時中もほとんど同じデザインだったという(群馬県高崎市で) 

 

 日本三名泉の一つ、草津温泉(群馬県)の最寄り駅であるJR長野原草津口駅からはかつて、鉱石輸送のための支線が延びていた。終戦の年に突貫工事で開通したうねる線路を何度も脱線し、空襲の危険にもさらされながら駆け抜けた蒸気機関車の「少年機関助士」が、石炭にまみれた日々を振り返った。 

 

主に貨物用として使われた蒸気機関車「D51型」。丸山さんも機関助士時代に従事した 

 

 「ヤッター、ヤッター!」。1941年(昭和16年)12月9日、高崎市の第一国民学校高等科の教室は熱気に包まれた。真珠湾攻撃の戦果を伝える朝刊を読み、興奮する少年たちの中に、当時13歳だった丸山吉治さん(96)がいた。 

 街中には旧日本海軍の「海軍飛行予科練習生」を募集するポスターが貼られていた。俗称は予科練。航空機の搭乗員に必要な基礎訓練教育を行った。ゼロ戦の活躍を伝える報道に憧れを抱く少年も少なくなかった。「よし、俺も」――。社会の雰囲気に押され、丸山さんの気持ちも予科練へと傾いた。 

 

 そんな丸山さんを、母は「20歳を過ぎたら徴兵で入隊できるんだから、それまでは勘弁してくれ」と必死で引き留めた。丸山さんに鉄道省で働いてほしいと思っていたからだ。丸山さんの伯父にあたる母の兄は機関士として勤めていた。月給は55円。籠職人だった父と比べ、羨ましいほどの高給だった。 

 ただ、給与以外にも理由はあった。丸山さんは「鉄道関係に入れば、すぐに前線に出されずに済むだろうと母は考えていたのではないか」と振り返る。予科練に応募し、戦死した少年もいた。 

 

機関助士になるため「東京鉄道教習所」に通い、記念撮影をする丸山さん(丸印)と同級生ら 

 

 母の説得を受け、丸山さんは勉強に励み、翌42年2月、鉄道省の採用試験に合格。国民学校高等科を卒業後の4月には、群馬県の高崎機関区へと赴任した。職場周辺はSLから出される黒い煙で覆われ、石炭のにおいが鼻についた。 

 初日に機関区長から、「戦時下で機関士らは戦地に軍属として派遣され、鉄道輸送で活躍している。先輩がいなくなった分、銃後の守りとしての役割を諸君に果たしてほしい」と訓示を受けた。当時は機関士が中国などへ徴用され、丸山さんらはその補充という形で、若くして採用されたのだった。 

 

 

東京・万世橋にあった広瀬武夫中佐の銅像前で記念撮影をする丸山さんら。戦後、銅像は戦意高揚に結びついたなどとして撤去された 

 

 最初の配属は、車庫に並ぶ汽車の清掃や整備などを担う「庫内手」だった。作業着を真っ黒にしながら、乗務員が乗り込む前の汽車を磨いた。人身事故を起こした汽車を清掃したこともある。血肉を洗い落とす時の気持ち悪さは今でも忘れない。 

 43年6月に、機関士を補助する「機関助士」を目指し、東京・池袋にあった「東京鉄道教習所」に入所した。同年代の約100人とともに、複雑な汽車の操作を学んだ。同級生らと上野や万世橋などを見学し、空襲で焼ける前の街並みは活気があったのを覚えている。試験に合格し、44年4月に群馬県に戻り、念願のSL乗務が始まった。 

 

 機関助士の主な仕事は、炭水車の石炭をスコップですくって、焚(たき)口(ぐち)戸(ど)から火室に投げ込むことだ。走行に合わせて火力を調整したり、維持したりするのは技術と体力が必要で、簡単な仕事ではない。 

 高崎機関区には貨物用のD51(愛称デゴイチ)や、旅客用のC57(シゴナナ、貴婦人)があった。それぞれ焚口戸の大きさが違い、機関車によってスコップを使い分けた。「片手持ちの小スコップだと何往復もする必要があって本当に大変。勾配がある路線に従事したときには、腕が鉛のように重くなった」 

 

【地図】長野原線太子線 

 

 その頃、県北西部へ延びる新路線の工事が急ピッチで進められていた。兵器製造の需要が高まり、国内の地下資源の開発が急務だったからだ。 

 草津温泉の近くに鉄鉱石の沈殿鉱があり、採取した鉄鉱石を神奈川県の製鉄所へ運搬するために約50キロに及ぶ鉄路が計画された。  

 昼夜を問わない突貫工事には沿線住民らも駆り出され、丸山さんも泊まり込みで線路の敷石の調整などを担った。45年1月、路線は着工から2年半という異例の早さで開通した。 

 

群馬鉄山跡。現在は鮮やかな「チャツボミゴケ」が繁殖している(群馬県中之条町で) 

 

 なんとか開通にはこぎ着けたものの、線路は鉱山に近づくほど劣悪で、「先を見れば、線路がうねっているのがはっきりと分かった」。時速20~30キロで慎重に運転せざるを得ず、それでも脱線が相次いだ。脱線が前方の車輪だけで済めば、丸山さんは機関士と2人だけで線路に戻して、復旧するとすぐに走らせた。 

 また、小型の蒸気機関車しか使えず、石炭くべは重労働だった。物資不足は作業用の靴にまで及び、油で滑りやすい床にげた履きで踏ん張りながらの作業は、車両から転落の危険と隣り合わせだった。 

 当時、鉄道は空襲の標的にもなった。この戦争で国が管轄する路線の5%、1600キロが空襲を受け、完全に廃車扱いとなった車両は27%に上った。 

 丸山さんは「首都圏に向かう機関車には危険が伴っていたが、逃げることはできない。なんとかやるしかないという思いだった」と話す。 

 

 

 45年7月、機関士になるために再び教習所に入所した。戦災により東京の教習所には通えず、高崎で学んだ。そして、試験に向けての勉強中に終戦を迎えた。ラジオで天皇が敗戦を告げる玉音放送を聞き、みな、ぼう然としていた。高崎駅では上野駅へ向かう汽車に乗るはずのある機関士が、「こんなことになるならやっていられない」と叫んで、そのままどこかへ行ってしまったという。丸山さんは「混乱も混乱、大混乱だった」と語る。 

 丸山さんが懸命に運んだ鉄鉱石が、戦力として十分に生かされることはなかった。度重なる空襲を受け、製鉄所が思うように稼働できなかったためだ。 

 

 終戦後の鉄道は、食糧不足で買い出しに向かう人々でますます混乱した。配給米は1人あたり1日1合5勺(しゃく)(約270グラム)に満たないこともあり、それも滞りがちだったという。新潟方面へ向かう列車には、米を求めに行く人が殺到。一度降りると再び乗るのは困難なため、川にさしかかると車内から用を足す人も多かった。「本当にみんな必死だった」 

 違法な取引米「闇米」などを売る「闇屋」も乗車していた。駅で警察官の抜き打ち検査が実施されると、「闇屋は慣れたもので物資を置いてそそくさと逃げるが、買い出しの女性なんかは米を抱え込んじゃうから警察官に捕まって没収される。あれを見るのは切なかった」。車内は社会の縮図でもあった。丸山さん自身も食べる物に困って体力が落ち、過労も重なって肺結核を患った。 

 

一部が復元された旧太子駅。鉄筋コンクリート製の「ホッパー棟」(奥)は国の登録有形文化財に指定されている(群馬県中之条町で) 

 

 3か月の療養後、職場に復帰。機関士の見習いとしてSL乗務に従事した。だが、鉄道の電化は進み、徐々にSLは姿を消していく。「電気機関車に乗ったときはずいぶん楽になったものだと驚いた」。その後は主に電気機関車や電車の機関士を務め、78年に国鉄を退職した。 

 戦後、鉱山への支線は鉄鉱石の運搬で復興を支えた。後に旅客用としても使われたが、71年に役目を終えた。跡地には、鉄鉱石を受け入れて貨車に積み込むための施設の一部が残り、国の登録有形文化財となっている。 

 丸山さんが暮らす高崎市は今年、高崎駅開業140周年を祝うイベントでにぎわい、記念列車のSLが汽笛を響かせた。「今は本当に幸せな時代だということを、若い人には知っていてほしい」。かつてのSL乗りはそう訴えた。 

(原新) 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました 

 

 

( 198508 )  2024/08/05 14:40:08  
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(まとめ) 

戦争体験者やその遺族たちの証言からは、戦争の悲惨さや困難な時代の厳しさがよく伝わってきます。

多くの方が、戦争やその影響が現代にも及ぼすべき教訓や警鐘についてコメントしています。

戦争の記憶を後世に残し、繰り返さないための努力が求められており、戦争体験者やその家族への感謝や敬意を表す声が多く見られます。

また、戦争に関する議論や今後の国際情勢についての考察も含まれており、平和や戦争に対する認識の重要性について改めて考えさせられるコメントもありました。

( 198510 )  2024/08/05 14:40:08  
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・御年96、おそらく戦争当時に実社会で働く大人として戦争を体験した最後の世代だと思う。こうした方が一人でもご健在のうちに、マスコミもただ単に沖縄戦や東京大空襲、広島・長崎の幼少時の朧げな恐怖体験を語る人々の話のみを誇張して伝えるのではなく、戦争の真実の側面を正確に記してほしい。 

 

 

・自分の曽祖父も当時国鉄で務めていたため、徴兵が後回しにされ、ついに招集がかかって九州に向かっている途中に終戦を迎えたと聞きました。自分は曽祖父に会ったことは無いし、祖父母から伝え聞きましたが、このような記事で昔の記憶を風化させないことが大切だと改めて感じました。 

 

 

・今は亡き祖父が戦争体験者で兵隊として戦地にも行った人だった。小学生の時、戦争体験について身内に聞いてき発表するという授業があり祖父にいろいろ聞いた。その時の祖父が何も語りたくない顔をしたのをはっきり記憶している。結局戦争の事は何も話してくれず、それ以来こちらから戦争の事は聞こうともしなかった。きっと戦争の記憶を消したかったのだと思う。それくらい悲惨な体験だったのかもしれない。今は戦争の事を後世に語るべきだという風潮が常識だがこのような人もいることも理解してほしい。 

 

 

・こういう戦争時の話、子どもの頃はあまり理解できなかったんですけど、子どもを持つ親になってから少しずつわかるようになりました。どんな理由があっても戦争は良くないし、それを生き証人が伝えることに、とても重要性を感じます。 

 

 

・お母様の息子を思う気持ちに泣けました。そして、親の気持ちを受け入れて機関士になったことで、今日まで平和な日本の礎を築いてくださった。原爆投下の日や終戦の日には、戦争の犠牲となった尊い命に鎮魂の思いと祖国や家族を見守り続けてくださることに感謝を込めて、祈りを捧げることを日本人はずっと続けていかなければならない。そして、辛い経験をして私達に命を繋げてくれた祖先のためにも、2度と戦争を起こさない努力もしていかなければならない。 

 

 

・「時速20~30キロで慎重に運転せざるを得ず、それでも脱線が相次いだ」 

「2人だけで線路に戻して、復旧するとすぐに走らせた」 

 

当時の長野原線太子線をどんな機関車が走っていたか知らないが、160形やB20等の超小型機関車でも20トン。人手でレール上に戻せる重さではないはずだが、どんな工夫をしていたか興味が湧く。 

 

非力な機関車が故に苦労は想像を遥かに超えるものだったろう。貴重な話だ。 

 

 

・群馬鉄山跡は今はチャツボミゴケ公園っていう自然公園になっている。 

このコケが鉄分を貯める性質があるらしくて、膨大な年月をかけて鉄鉱石を作るそうな。 

コケが鉄を作るのも凄いけど、こんな山奥のちっさい窪地の鉄の採掘のためにわざわざ線路まで引いちゃう窮乏ぶりに切なくなる。 

 

 

・貴重なお話だと思います。 

資源の乏しい我が国で無謀と思えるほど 

急がれた石炭の輸送路の開発の様子もわかります。 

歪んだ鉄路でも輸送する。低速で。危険でも逃げることはできない。 

その鉄路も今は苔と水たまり。 

写真が月日の流れを感じさせます…。 

 

抜き打ち検査で闇米を取り上げられるくだりは胸に迫ります。 

肺結核まで患われてそちらのご苦労もお察しいたします。 

こういう身近な人からの戦争体験は 

音声や映像も残されてほしいと思いました。ありがとうございました。 

 

 

・1950年代の日本人のモラルは激悪で、車内の通路は足の踏み場も無いほどに弁当のゴミが散乱していたそうです。 

その後、電化が進み高速化していき車内での弁当需要が減って、通路がキレイになっていったそうです。 

今じゃ、日中の電車内で駅弁を食べる姿は、見なくなりました。 

新幹線ですら食堂車は無くなり、ワゴン販売も無くなりました。 

鉄道の利用者側目線で見た変化も面白いものです。 

 

 

・記憶を残していかないと……言いつつ、多くの人は数時間後にはこの記事のことなんか忘れて、日常で安穏としてるんだろう。 

戦争、自然災害、人災など、人ってのは実際に被害に遭わないと他人事だからすぐ忘れちまう。 

実際に遭った人でも忘れるくらいだし。 

でも記録は保存することができて見返す、聞き直すことができるから、できる限りどんどん後世に残して欲しい。 

 

 

 

・こうした話が聞けることは貴重なことだと思います。一方で、戦争はいけないと思いました、と必ずそこで思考停止されている方がおられますが、いまの日本ではどちらかと言うと、攻めるより攻められる可能性がはるかに高いのですが、それでも戦わないのでしょうか。たんに戦争の反省だけじゃなくて、攻められたらどうするのかどうなるのか、一度テレビ番組で真面目に討論したら良いのにと思います。 

 

 

・我が父の終戦の思い出。 

徴兵されて戦地に赴いた父は、そこでの経験で思うところがあって職業軍人になると決意。募集のあった士官学校への入学を希望して大陸から日本に一時帰国。農家の息子で高等小学校しか出ていなかったため、士官学校ではハイレベルな数学の習得に苦労させられたり(地形などの理由で目視不可な標的を攻撃する際に必須の知識)、ガスマスク装着でのガス室入場などといったレアな体験をしたり(毒ガスの使用は国際法で禁止されていたものの、万が一使われた時のための有識者教育が行われていた)、色々ありながらもどうにか卒業。卒業式が行われたのが昭和20年8月15日。式が終わり、卒業生一同は講堂的な場所に集まって、ちょっとした労いの会が開かれるのを待っていた。すると突然、出入り口の扉がバーンと開き、姿の見えなかった卒業生の一人が息を切らしながら飛び込んで来て、「日本が負けた!」と声を限りに叫んだそうな。 

 

 

・戦争体験はドキュメントであり、空想ではない。亡くなられた方は、話せないのだからご存命のうちにもっと記録に残して後世に伝えて行くべきだと思う。親父からも戦争の話を聞いてはいるが、ちゃんと聞いてはいないし、記録もしていない。100歳を超えた祖母からも聞けずに亡くなってしまった。後悔先に立たずを身に染みて感じている。 

 

 

・神奈川県二宮駅では、旅客列車が米軍の戦闘機の攻撃にあい、多数の死傷者がでた。戦争展に何回か訪問したが、抽象的な戦争反対ばかり。戦時国際法違反ともいえる、一般市民への無差別攻撃について当時の米軍を批判する展示は少ない。なぜ。当時米軍兵士が低空飛行で、一般市民とわかるのに、攻撃をしかけたのかを深く問うべきだろう。攻撃した米兵も、上官からは武器をもたない一般市民への攻撃は、避けるように言われていただろう。 

 

 

・2023年まであった戦争体験者の話しを聞く会に大阪で参加してました。若い方も熱心に聞いてました。叔父も第八飛行師団の特攻隊員です。同期21名が沖縄海上に散華されました。皆んな喜んで征ったでと涙浮かび話してくれました。 

この国の平和だけを願い散って行った若者達がいます。今の平和に感謝です。 

 

 

・戦争を知らない私たち世代は、戦争の残忍さや人間同士が殺し合い生きるか死ぬかの体験談を何度も聞かされてきました。当時の日本を含む世界中が物資の調達と奪い合いで結局、世界戦争が勃発しました。つまり、国全体が戦争には何の疑念を抱く事なく、13歳の少年丸山さんが存在していても不思議ではなかったようですね。旧日本海軍の「海軍飛行予科練習生」を募集するポスターがに憧れた丸山さんの気持ちが良く綴られています。丸山さんの母が「20歳を過ぎたら徴兵で入隊できるんだから、それまでは勘弁してくれ」と必死で引き留めたのが懸命な判断でしたね。丸山さんはお陰で鉄道省で働いてこられ、命拾いをした訳ですが、これは単なる美談では無く戦争とは一体何なのか?現在も続く世界の戦争の動機や意味を改めて考えさせられました。 

 

 

・1945年に入ると、攻撃目標が無くなってしまったことからP-51は動くものは何でも標的として攻撃しました。 

機関車は格好の標的となり、攻撃前に機関士は乗客を客車の下に避難させますが、機銃弾はやすやすと貫通し多くの方が犠牲になりました。 

 

 

・乙種合格で入営を免れていた亡き父は学徒動員で国策企業の工場の総務部で事務員をしていた。7月が終わると、戦争について何か動きがあるとの噂が流れて来るようになり、そのうちどうも終わらせるようだとの情報も出て来た。8月15日の玉音放送はそれが公式に表に出て来たこと。すごい唐突感はなかったそうだ。 

 

 

・戦後、いろんな国の協力を得て、大きな成長を成しえた。 

 

その成長を壊していくフェーズに入っている。 

 

先を行った者が得た利己的な既得権益を守り、変えられなくなっていることで、大きな争いとなってきたと思う。 

物理的に争うことが戦争であるが、 

若い世代を犠牲にしてでも、現状の社会保障を守る、ということを繰り返した結果、現在のありようになっていると思う。 

 

多くの苦しみの本質は、1920辺りから、あまり変わっていないんじゃないか? 

 

 

・私は仕事柄、若い頃からお年寄りの話を聞く機会が多くおじいちゃん達の南方戦線やシベリア抑留などの武勇伝は散々聞かされてきました。一度話が始まると仕事中にも関わらず何時間でも続くので、右から左に聞き流し、戦争というキーワードは避け、早々に退避するという日々でした。それがいつの頃からか、そんな話がピタリと出なくなり、今では、戦争に行ったというおじいさんはいなくなりました。 

出兵したおじいさんはほぼほぼ、戦争体験を武勇伝のように語っていましたが、、中に「ああ行ったよ」とだけ答えて口をつぐんだ人がいて印象的でした。 

もっと色々、聞いとけば良かったと今では思います。 

 

 

 

・ウチの親父さん、小学生の時に埼玉の北部で終戦日を迎えたそうで、その日の事を聞いたら 

「まったく普通の日と変わらなかった。川で泳いでいた。ラジオの玉音放送も聞いていない。それまでも空襲で逃げたりとかなく遊んでいた。」 

とのことでした。 

のんきな気持ちで終戦を迎えたそうです。 

 

地域によって温度差あるなぁ~と感じましたわ。 

 

 

・私の祖父も95歳だけど、予科練受けて、戦後は国鉄に入った。 

B29が目の前に落ちてきたときはびっくりしたと言っていたなあ。 

 

ところで記事の最後の言葉だけど、 

>「今は本当に幸せな時代だということを、若い人には知っていてほしい」。かつてのSL乗りはそう訴えた 

 

残念だけど、現代人には分からないでしょうね。 

まず生活水準が昔と今とでは比べ物にならないからね。 

今の生活保護レベルの貧困層でさえ、戦前の中間層よりも生活水準は明らかに上なのに、今、貧困層の人が「今は本当に幸せな時代だ」って思っている人はいますか?恐らくいませんよね。 

だから分かるわけがないし知ろうともしない。 

それに、現代は当たり前のように人権が保護されているが、その有難みも感じず、もはや当然のように思っている。戦前は何の人権もありませんでしたけどね。 

 

やはりこういう戦前から生きてこられた方の言葉というのは重みがありますね。 

 

 

・戦争時の記憶は高齢で亡くなられてゆく中で、悲惨な記憶や記録を伝える人は貴重だと思う。 

いつか来た道を繰り返さないためにも歴史や起承転結を知る教育こそが何より大切だと思う。 

 

 

・記事を読むと機関助士の仕事も命懸けだったのですね。 

ただそれでも、予科練に行ってパイロットになっていたら死亡率は跳ね上がっていたと思います。 

それにしても20歳までの時間稼ぎ&徴兵回避の可能性&一生食っていける職業に鉄道省を選ばれたお母様のご慧眼よ。 

母の愛を感じられますね。 

 

 

・この貴重な記憶の数々を後世の者たちが実際に実感として身に沁みる時は戦争が既に起こった時なんだろうと思うと虚しい 

戦争はやりたくなくても向こうからやって来る 

いくら国内で反対だと叫んだところで攻撃されてしまえばお終いだし、大抵の場合戦争は最終手段なので他にもう打つ手がない時なんだ 

どうしたら巻き込まれずに生き延びられるか 

国の命運を握ってはいない一般市民はどうしたらいいのだろうか 

 

 

・高崎機関区は国鉄内燃機関の黒歴史とは無縁だからねぇ。 

現在のJR東も近くに自前の水力発電があるでしょ。 

 

1945年8月以降とりあえずSLでなんとかしていたワケだが非電化区間の無煙化に関してすったもんだで全国規模で祭りが開催されていたのよ。 

 

特急用キハ80は炎上、DD54は棒高跳び事故。 

DMH17系なんてメチャクチャなモノがJR時代まで残る羽目に。 

こうゆうの、高崎区だと縁がない。 

 

 

・辛い思いをした体験談は必要だけど、それだけで終わったら意味がない。戦争しないようにしたいんだよね? 

戦争は辛い思いするから戦争やめようって言うだけでは、何も対策になってない。 

例えば仕事で失敗して再発防止策を出すとき、失敗しないように気を付けますとか言ったら、お前ふざけてんのか?となる。 

 

通常の問題解決と同じく、原因を分析して具体的な行動を対策とするべき。戦争が起きた原因を多角的に分析し、報じるのが戦争をしない第一歩。 

 

 

・母は、若い頃、東京大空襲のニュースをきき、この目で確かめようと、親友と2人、リュックに握り飯を詰め、十日町から飯山線上越線で上の駅へ着いたそうな 

 

昼飯を食べようと、上野駅を出たところで腰掛けリュックの紐をとくやいなや、目の前に浮浪児の行列 

 

その一人ひとりに握り飯が行き渡るよう分配し、空腹で気絶しそうになり帰宅したそうな 

 

一部始終を親に話すと、良い事をした、と労われたそうな 

 

それにつけても、よくぞ往復する列車があったものだ 

 

 

・苦労した過去があってもここまで長生きできるのは戦後の高度成長と社会保障の恩恵は大きいだろうね。国鉄なら戦後の労組も危険なほど強かったろうし、年金もたくさんもらっているんでないの? 

確かに今の世代、特に高齢者世代は幸せだろう。 

ただ、戦前世代が作った戦後の高度成長や蓄えた富はもはや食いつぶされて、これからの世代は困難がまたやっていくるだろうから、今の現役世代はいろいろ覚悟と責任背負って次世代を考えないとね。 

欲望膨らませると簡単に戦争起きるよ。 

 

 

・自分の祖父は徴兵され戦地へ行ってたそうで 

祖母の男兄弟は皆戦死したと聞きました 

戦争の無い世の中が一番ですが世界的に見れば色々な考えと己の欲や理念思想の為に混乱から紛争戦争となってしまってる 

ある程度の自衛の為に軍備軍隊は必要 

隣国が何かしら攻撃してくる恐れあるなら防衛防御は必須では? 

 

 

 

・この世代の方はいわゆる軍国少年と言われた世代です。 

日本を愛し、日本に誇りを持っている世代です。 

 

この世代の方のがお持ちの日本の国民たるの精神を、しっかり勉強して伝えていきたいと思います。 

 

 

・勘違いされがちだが、戦争直前までマスコミも日本政府も、戦争には大反対だった。にも関わらず国民は、満州にいる関東軍(軍部)を全面的に支持。戦争反対や平和維持を掲載した新聞社は、日本全国で不買運動を起こされ、売上は激減。日本政府は国民相手にもアジア不拡大方針をこれでもかとアナウンスするが、国民は止まらない。「民意を得た」と勘違いした軍部は、勝手に満州で自作自演テロ「満州事変」を仕掛け、これを中国側のテロとでっち上げ、いよいよ戦争を始めたのが日中戦争。後の世界大戦に繋がる。当時の日本人は、世界恐慌や関東大震災で悲惨な生活を送っており、「日清日露の時のような大義ある戦争なら特需になり、また豊かになる」と思い込んでいた。「違う!国やマスコミに煽動されていたんだ!」と言う人は、国会図書館で開戦前(1931年)の新聞記事を見ればいい。日本全国どの新聞社も、真っ向から戦争反対記事出してるから。 

 

 

・今、私たちは日本が戦後どうなるか知ってるけど、当時の日本人は戦争に負ければ、欧米の植民地支配を受けた東南アジアの国々と同じ目に遭うと考えてたから、敗戦は恐怖しかなかったと思う。 

負けはしたけど結果的に日本は東南アジアを植民地支配から解放する目的を達成したし、アフリカ諸国の独立も早めたと言っていいだろう。 

勝った欧米は植民地を失ったわけだから、結果的に日本は勝ち組だったのかもしれない。 

日本は多数の犠牲者を出したけど、犠牲者が少ないうちに降参していたらどうなってか。 

おそらく今の日本は無いでしょう。 

未だに世界は人種差別から抜け出せず、醜い植民地支配を続けていたかもしれない。 

 

 

・本当に大変な時代だったと思います。 

今政治が悪いと言っても、当時とは比べ物にならないほど生活しやすいですよね。 

それにしてもなぜ当時国民が困窮してるのに、食料の調達を国が禁止してたんでしょうね?国が蓄えてた食料を普通に配給するだけで、どれほどの命が救われたかわかりません。 

 

 

・あの異常な先の大戦。狂った思想の教育を受け、今の自民党の様に真実を隠した時代、沢山の尊い命が失われた。 

今を生きる我々は、後世にしっかり伝えて、二度と同じ過ちを繰り返さない様にしないと! 

世界のあちこちで今紛争が続いてます。 

複雑な歴史が有る中東は特に危険。どちらが正しいでなく、対話をしっかり行い、1日も早い終息を願うばかり。 

 

 

・不思議と『昔良き時代』の思い出を語っているかのような錯覚に陥る。 

私の亡くなった祖父も、自分が英雄かのように戦争を話す事もあった。 

 

仮に、開戦せずとも、真珠湾攻撃の後の盛り上がりが起こったら、戦争は絶対にしてはならない動きが維持できるのだろうか。 

防衛相の機密予算の使い方の報道を見て、記事の時代に戻ってしまわないか、怖く感じる 

 

 

・最近の傾向で気になるのは「戦争の思い出に、なぜ悲惨な事ばかり求めるんだ? それ以外の、戦地で見た風景が美しかったというような事を学校の教師やメディアは否定して悲惨な体験ばかり求めるが、こういうものでも良いではないか」という事です。恐らく子供なんでしょうが、Xの投稿を見て驚きました。 

 

これこそが平和ボケだと思います。私も親族が男女共に戦争に行っていますが、話を聞く限りよく生きて帰れたなというレベルであり、楽しいも美しいもあったものではありません。 

 

親族曰く、戦場で頼もしかった部隊長は寡黙な人で、まともな武器も弾もない中であっても、なんとか工夫して戦い、勇敢な人でしたが戦死されたそうです。 

 

勇ましい事を普段から言う人は、有事の際は黙り込んで逃げると思います。勇ましい事を言う人が勇ましいのではなく、有事の際に頼もしい人は平時は寡黙かつ、やるべきことを淡々とやる人だと感じます。 

 

 

・この方は私の両親よりひと回り年配の方だ。記事をを読み進むだけで、私の世代など甘っちょろいほど過酷な労働環境の中で従事されていたことが想像できる。 

 

こうした方々の命や苦労・勤労のもとに今の日本がある。そうした世代の方々をヤフコメ民は、医療費その他の国費の無駄遣い・非生産世代などとして蔑む傾向が顕著だが、やはり祖母などの苦労話など様々なことに触れてきていると、高齢者を単純軽視することなど到底できない。私もあと数十年働かないと老後を維持できない立場だ。 

 

もちろん真の老害的思考は排除され変化を求めることは妥当だと思うが、新たな法律や制度ができるたびにどの世代もが閉塞感を帯びる。当然一言で言えることではないが、何か力を入れ方が間違っているように思えてならない。振り回される国と国民は、今後どこに向かおうとしているのだろうか。 

先人軽視だけではこの国に明るい未来はない。 

 

 

・現在90歳の義理の父は戦時中のことを絶対に語ろうとしないです。 

よほど怖い思い、辛い思いをして思い出したくないんだろうと思います。 

歴史を語り継いでくださる方はとても貴重だし感謝しかないですが、語りたくない人もたくさんいらっしゃるんだと、毎年この時期になると思います。 

 

 

・玉音放送は陸軍の妨害を恐れて事前に録音されたレコードだったという。国民を見下し威圧していた軍人は逃げ散って誰も責任を取らず国民は貧困に喘ぎ、孤児にも救済の手は差し伸べられなかった。それは今の被災地も同じで県は税金は徴収しても災害時にはそれで何もしないで置き去り。軍と民間が変わっただけでやる事は同じか。 

 

 

 

・戦争体験者からお話を聞ける機会は大切だと思います 

語り継ぐことはもちろん大切ですが 

リアルに聞けるのは貴重な体験だと思います 

 

 

・戦って負けても意地でも主権を取り戻すと奮起した世代の方からすれば、今は幸せなんでしょう。 

 

でも、今を生きる若者にとっては、正直この国の幸せだとか平和だとかはどうでも良いんですよ。 

今を生きる為には最低限の金しか手に入らない、そういう給料しか貰えないし、二言目には努力が足りないと飼い殺しにしてる側がほざく。 

 

こんな国よりも韓国や中国の方が魅力的に見える、そういう世代が今の若者世代。 

 

この記事の方たちには敬意を表しますが、この方たちの世代の子供が日本を今現在進行形で滅茶苦茶につぶしてるっていうこともお忘れないように。 

 

 

・あれだけの戦争を体験し経験し、戦場へ行った人達は皆、二度と戦争はしてはならんというのだけれど、防衛費は増え続け、沖縄に基地は増え続けている。歴史は繰り返されるという諺が現実化されないよう祈るばかりである。 

 

 

・若くても徴兵を免れる事が出来た人って結構いるのかな?公務員とか記事の様なインフラを担う人とか。 

陸軍中野学校の生徒は夜は訓練を兼ねて銀座で飲み歩いてたって聞いたことあるし。普通の生活みたいなのもあったのかもね。 

 

 

・日本は戦争にならないためにも軍事予算を拡大してはならない。 

戦争実現のために日本国民がさらなる税負担を強いられるようなことはあってはならない。 

軍拡は戦争の危険を招くだけであり、一般庶民は悲惨な戦争を体験する事になりかねない。 

そもそも日本の軍事予算は自衛隊員の不正受給があっても、なお余っている状況だ。予算を拡大すれば、さらに自衛隊員が私腹を肥やすことに使用するのではないか。 

軍事予算の拡大は必要ない。 

日本はアメリカの戦争兵器購入等にお金を使うのではなく、在日米軍基地の全廃や日本の軍事予算の削減と自衛隊の規模縮小といった平和を大切にする対策を取るのが良いだろう。 

戦争のない、平和で安全な暮らしを手にすることができるだろう。 

 

 

・勝てるはずの無いロシアに勝てたと言う成功体験がアメリカても何とかなると言う軍人の希望的観測を生んだ?ワシントン駐在武官だった山本五十六を始め多くの将官が無理だとわかって居たのにね。第二次大戦戦勝国のロシア、中国は相変わらず軍事力頼みで怖い。 

 

 

・最近はやたら英霊を称えるコメが多い。もちろんそれはそれで良いがむしろ大変だったのは終戦後の大混乱の中でみんな生きるのに必死だった時代。そこを今日まで紡いでくれた方々への感謝を忘れてはいけない 

 

 

・まぁ…。 

 

「現代は秒単位で価値観が変わる」とか。とあるネットニュースに書いてましたが…。この戦前戦後の「いきなり価値観が変わる」のほうがよりショックは大きいでしょう。 

 

思春期の少年らにはなおさらだ。我々はもっとWWⅡのことを聴きたいのに、当人らはなかなか話したがらない。気持ちはわかりますが残念なことだったですね。 

 

 

・アメリカの空襲により国内の民間人死者は約40万人です。 

これは、アメリカ兵の1941-1945年の死者数よりも多いです。 

民間人に対する攻撃は重大なジュネーブ条約違反です。 

なぜ日本政府はそれを問わないのか? 

 

バターン死の行進? 相手は正規軍人ではないか。 

真珠湾攻撃? 日本海軍は民間人を目標にしてないではないか。 

 

 

・国に散々尽くして、空襲が来てあちこち燃やされて、誰の目から見ても劣勢なのに勝った勝ったと言わされて、負けたらポイ捨てみたいにされて、泥水すするような、ある意味死ぬよりも辛い生活させられて、そりゃ戦争に対して左寄りな考えにもなるよな。 

 

 

 

・津波の記憶を、恐怖の経験を持っていた方々がすべて鬼籍には入れば 

津波が襲った場所に家を建てるようになる。 

 

戦争の記憶を、恐怖の経験を持っていた方々がすべて鬼籍には入れば 

けしからん奴らには戦争をけしかけていいんだという考え方の人が増える。 

 

 

・なるほど原新氏の記事か 彼は以前に読売の前橋支局で勤めていた記者で、緻密な取材と深掘りする記事に定評があった また群馬の記事を書いてくれて嬉しい 

 

 

・大東亜戦争での一番の被害者は、この人らの下の世代ですよ 

 

つまり、親と家を失った戦争孤児たちです。 

 

生きていくために犯罪を犯し、、それならまだ良い 

6歳から七歳ぐらいの子が、生きていくのが嫌になり、自殺をしたりするのですよ? 

 

今の子でも、いじめで自殺をしたりすることはあるが、小学校低学年の子が普通、自殺なんかしないでしょう。 

 

それほど心身共に疲弊してしまったわけでしょう.. 

 

なんとか生きていくために、不良になって愚連隊に入り、まともな生き方が出来ず、社会や国を恨んで大人になった人を我々は、どの面を下げて、差別をしたり反日だと言って批判することができようか... 

 

これらの被害者たちが生まれた責任は、その上の世代の全てにあるはずだ。 

 

 

・今は生きる事に夢や希望などという言葉が使われますが、この当時は明日を生き抜く事も必死な時代。 本当に今の時代のありがたさを身に沁みて感じなくては行けません。 

 

 

・日本て、こんな大混乱になっても必死に文句も言わず耐えに耐えて頑張ってきたんだな。 

全て心にしまい込んで我慢、我慢。 

でも、時には発散しても良いと思う。 

きちんと責任追及してこなかったがために、全て取っ払って一から出直さなかったために、こんなひどい国になってしまった。 

誰も責任を取らない、取らせようともしない。 

全て隠蔽、隠蔽。 

 

 

・そりゃ戦争は悲惨なのはわかるよ 

でも北朝鮮は広島型原爆の10倍の威力のある核兵器を50個前後持ってる 

ミサイルに搭載できるかはわからないけど 

船に搭載して特攻をかけることはできるからね 

よく資料は必要 

 

 

・馬鹿な政治家や軍部のせいで大変な時期を過ごされたと思います。 

300万人の国民を犠牲にして国土を失いどん底の生活をさせて誰も責任を取ろうとしなかった。 

東京裁判は公平とは思えないがあれが無ければこの国の指導者は誰も責任を取らなかっただろう。 

それは現在の政治家も同じ。 

 

 

・昭和の時代の国鉄職員の、態度の悪さは社会問題レベルだった。この人は普通だろうが 

 

 JRになり、かなりマトモになり、日本国民全員が安堵した感じ 

 故・中曽根総理に感謝! 

 

 

・貴重な体験を話して頂いて本当にありがとうございます。 

あと数年も経つと、戦後生まれの世代だけになります。 

少しでも戦争体験の話を次の世代に残して下さったらと存じます。 

 

 

・戦争の悲惨さと戦後の食糧難がよくわかる。 

今中国ロシアが日本に侵略してきても同じような事態になるだろう。 

日本もNATOに参加した方が良いのでは? 

 

 

 

・今は亡き母親から戦中戦後東京から新潟に米の買い出しに行って、警察の臨検によくあったそうで米を没収される人が多い中、母親は没収をまぬがれたと子供頃聞いた記憶があります。 

 

 

・戦時中を生きた人生の大先輩の語る戦争体験は絶対に語り継いでいかなければなりません。マスコミにはこういう大事な使命もあることを忘れずに頂きたい。 

 

 

・あまり歴史に詳しくないが 日本のいちばん長い日 と言う映画見てほしい(元作とリメイクあり) 

このことがどこまで事実か分かりませんが 玉音放送のに関する場面もあります 

 

 

・私が子供のころ、大人たちは皆戦争経験者だった。 

食べ物、水道、電気、ガス、無駄にしない大切に扱う、もったいない、が当たり前だったが、いちばん有難がっていたのは 

「言論の自由」 

だった。 

「大本営発表」が眉唾でも口に出して言うことはできなかったという。 

 

 

・ありがとうございます 

今日も日本は平和です 

令和の時代、多様な問題はあれど些末なこと 

着るものがあり食うに困らず寝るところがある 

幸せなことであるけれど忘れているオイラさんたちがいる 

 

 

・当時、玉音放送が降伏を意味しているとは理解できず、取り敢えずがんばれと言う事だと思って、万歳した人も多かったとか。 

過去を知っている現代の目線で見てはいけないのですr。 

 

 

・母上が予科練に反対してくれて本当に良かったですね。 

機関士も決して安全な仕事ではなかったとはいえ、南洋に行くのに比べたら、と思ってしまいます。 

 

 

・たかがそんなもん。8月10日にポツダム宣言受諾を同盟通信とNHKが報道した後のトラファルガー広場もタイムズスクエアも勝利の喜びで大変な騒ぎだったって当時の記録にあるけど。 

 

 

・自民党の改憲案は、大日本帝国憲法さながらの非人道的な内容です。 

自民党は、国民が飢えて戦地に送られ、権力者だけが安全地帯でお腹いっぱい飯を食う、そんな日本に戻そうとしているのです。 

絶対に許してはなりません。 

 

 

・1945 08 15の日は敗戦の日です B29で焦土とされ非戦闘員が焼き殺され 原爆で数十万人被ばく殺傷されて 降伏を余儀なくされた日です 終戦ではなく敗戦の日です 

 

 

 

・米軍が撮影した列車を空襲するシーンなんかをみると、あの列車にも機関士や助士、車掌さんらがいたのにと思い、胸が痛みます。 

 

 

・今更言っても仕方ないが、社会の雰囲気が異常であったのは、皆が洗脳された状態だったのだ。恐ろしいことですよ。 

原爆投下とソ連参戦まで、そのことがだれも分からんかった。 

 

 

・昭和元年生まれの亡父 

召集されて、九州の山奥で終戦を迎え、 

玉音放送の数日後に知らされ、 

みんなで戦争終わった!バンザイ! 

したそうです。 

 

 

・ある人が書いてたな。 

終戦の玉音放送を聞いて、落ち込んだが 

鉄道の人が、一生懸命整備する姿を見て 

この国は大丈夫だと思ったと。 

 

 

・爺さんが昔、朝鮮にて戦闘の中、民家の扉あけたら家の家族がいて、殺害したって聞いた時あります。恐ろしいと思いました、戦争は残酷なんだと。爺さんも左目なかったですね、やられたの?とかは聞いてませんでしたけどね。小学生になる前に死んでしまったので 

 

 

・なかなか光が当たらないところによく届いたな。読み応えがあった。太子線を草津温泉まで伸ばせたら良かったのにな。 

 

 

・不要不急線や私鉄の戦時買収、出世機関車など戦争と鉄道にはエピソードが事欠かない印象ですね。 

 

 

・戦後の日本の高度経済成長を支えたのは、この記事の丸山さんのような「昭和一桁世代」ではないかな。 

 

 

・戦争に負けた時は日本中が打ちのめされたどれほど悔しかったからスポーツで負けた処の話しじゃ無く再起不能だったと思う 

 

 

・国土が空爆される。こんな事にならない為に、軍備を整え侵略されない様にしなければならない。 

 

 

 

・蒸気機関車を走らせることに興味のある方は、岩波映画が製作した『ある機関助手』をご覧あれ 

 

 

・玉音放送を全て聞けば、「(核戦争を回避するために)堪え難きを耐え」と仰られたことがわかる。 

 

 

・徴兵というのは恐ろしい国家権力だよな、 

 

でもどんな時代でも国家でもそれは合法的に出来るからね 

 

 

・>庫内手 

 

が、 

どの様な立場で具体的にどの様な作業をしていたかは、なぜか花輪和一先生の漫画に詳しく載ってる。 

 

 

・日本がやったこと、受けたことを近代史の教育できちんと教えるべき。 

 

 

・祖父は警官だったから徴兵されなかった。 

それ故に「戦争にいかない卑怯者」と陰口を叩かれていたらしい。 

 

 

・甲組の徹というコミック単行本で当時の少年機関助士の働きがわかります。 

 

 

・帝國鐡道機關士は敵機の攻撃に身を晒しながら良くぞ運行して頂いた。 

 

 

・来年は昭和100年。直接戦争体験を聞くことがますます難しくなりますね。 

 

 

・時代に翻弄されて、それでも必死に生きた当時の日本人に感謝します。 

 

 

 

 
 

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