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戦禍から逃れ、毒ヘビと伝染病の危険潜むジャングルで生活 台湾で終戦迎えた4歳の夏 #戦争の記憶

読売新聞オンライン 8/7(水) 11:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/925dac0129274db53d7aa35ab87650e30319f298

 

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台湾で生まれた相羽さんが幼少期の過酷な体験を振り返る。

父は日本統治下の台湾で砂糖の販売業をしており、戦時中は空襲を逃れながら過ごしていた。

日本語を話す日本人の集まりもあったが、戦況の悪化により空襲が増え、高雄は米軍の集中攻撃を受けた。

避難生活ではジャングルで毒ヘビと伝染病との闘いがあり、4歳の相羽さんは幼い妹のために豆を探し求めた。

終戦後、日本の台湾統治が終わり、相羽さん一家は日本に引き揚げた。

相羽さんは台湾への不思議な思いを抱えながらも、二度と同じ恐怖を味わいたくないと願う。

(要約)

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台湾での過酷な幼少期を振り返る相羽さん(神奈川県横須賀市で) 

 

 日本の統治下にあった台湾で生まれた男性は戦時中、空襲を避けてジャングルへと逃げ込んだ。毒ヘビや伝染病の危険が潜む森で、生後間もない妹の母乳代わりの豆を探し奔走した4歳の過酷な記憶を語ってもらった。 

 

【写真】日本統治時代のものとみられる台湾・台北の街並み。日本語の看板が目立つ 

 

 「護衛艦なしでは砂糖は送れない。無理だ」 

 台湾で砂糖の販売業務を手がける父が受話器にどなる姿を、神奈川県横須賀市の相羽喜元さん(83)は時々、ふと思い出す。 

 相羽さんは1940年10月、父・喜久夫さんと母・孝子さんの長男として、日本統治下の台湾南西部・台南で生まれた。喜久夫さんは、当時の明治製菓などの販売代理業だった「明治商事」に勤務し、砂糖の一大産地だった台湾に赴任していた。41年、喜久夫さんがさらに南の高雄の販売所長に任命されると、家族も一緒に高雄へと引っ越した。 

 

1943年10月に撮影された3歳の相羽さん(右)と父・喜久夫さん(相羽さん提供) 

 

 高雄は重要港で、市街地を少し離れれば工場が立ち並び、近くには日本軍の基地もあった。街は活気があふれ、全速力で人力車が走り回り、道を渡るのも一苦労だったという。 

 販売所と社宅が兼用だったため、相羽さんはビジネスマンとしての父親を見る機会があった。受話器を手に声を荒らげる父の姿を、相羽さんは「本社から砂糖を送るよう要求されて、大変だったのだろう」と振り返る。戦局の悪化によって、日本本土までの航路は米軍の潜水艦の脅威を受け、物資の輸送が困難になっていた。優しかった父がどなる姿は、少し怖かった。 

 

台湾・台南での祭りで集まった日本人の集合写真。後列の左から3人目は母・孝子さん(相羽さん提供) 

 

 台湾は日本にとって東南アジアなど南方進出の重要拠点だった。逆に米軍にとっては、沖縄本島上陸へ向けて背後の脅威となる懸念材料であり、台湾の「無力化」を目指す作戦を繰り広げた。台湾は44年秋頃から空襲が相次ぎ、45年になると連日のようにフィリピン方面から爆撃機が飛来した。周辺に陸海軍の基地が複数ある高雄は、集中攻撃を受けるようになった。 

 防空壕(ごう)の建設が急ピッチで進められ、疎開する日本人も増え始めた。相羽さんの同年代の遊び相手も日に日に減っていった。そんな中、12、3歳ぐらいの「もの知り李(リー)さん」と呼ばれた台湾人の少年を中心にグループができた。彼は台湾語と日本語を織り交ぜながら敵の飛行機の見分け方などを教え、「防空壕に入ったら手で耳とまぶたを守れ」と話した。 

 

 

喜久夫さんが所長を務めた明治商事高雄販売所(明治ホールディングス(株)提供) 

 

 市街地も空襲で大きな被害を受け、開店間もない明治商事の売店も焼失した。 

 ある日、相羽さんが一人で外にいると、空から落ちる「黒い粒」を見た。米軍機が投下した爆弾だった。とっさに頭に浮かんだのが、李さんの「教え」だった。一目散に防空壕へと逃げ込むと、脳が揺れるような爆音が響き渡った。丸まって手で目と耳をふさぎ、爆音がやむまでじっとしていた。「あのまま外にいたら死んでいた。生き延びることができたのは、もの知り李さんのおかげだ」 

 

米軍によって上空から撮影されたとみられる、戦時中の高雄市街の様子(米国国立公文書館所蔵) 

 

 連日の空襲や米軍の上陸を恐れ、相羽さんらは高雄からの避難を決める。会社の配給業務のため、喜久夫さんが一人残り、相羽さんは孝子さんに連れられ、20~30組の日本人と一緒に集団で避難した。先住民が暮らす山岳地帯の付近まで行き、ジャングルの中にあった木造の空き家で生活を始めた。 

 避難してまもなく、毒ヘビにかまれた同年代の子どもが大声で泣きわめき、のたうち回りはじめた。患部の右腕は腫れ上がっていた。適切な治療ができず、ほどなくして亡くなった。「数人で復讐だと鎌を持って毒ヘビの首狩りをしたが、空き家の縁の下までヘビが潜んでおり、あまりの多さに怖くなった」と当時の過酷な生活を振り返った。 

 

米軍の空襲により煙が激しく立ち上る高雄市街(左下)。1945年2月の空襲とみられる(米国国立公文書館所蔵) 

 

 ジャングルでの生活に慣れた頃、相羽さんは蚊を媒介とする伝染病・マラリアにかかる。高熱にうなされ、ほとんど気絶したような状態で数日を過ごし、なんとか命はとりとめた。周囲の騒がしい声に促されるように目を覚ますと、一人のおばさんが目覚めている相羽さんに気付き、「おめでとう。お兄さんになったね」と話しかけてきた。妹・瑞枝さんが誕生したのだった。45年8月10日、終戦の5日前の出来事だった。 

 孝子さんは出産や避難生活の疲労が影響したのか、なかなか母乳が出なかった。病み上がりの相羽さんは、母乳の代わりとなる食材を探しに毒ヘビが生息するジャングルへと向かった。 

「大人に『妹のために』と言われたらやるしかなかった」。 

 自生豆を採取し、それを細かく砕き、水で煮たものを飲ませていたという。朝起きるとジャングルの中を探し回り、夕方に小屋に戻るという生活だった。 

 

 

【地図】台湾の高雄の場所 

 

 避難生活も数か月がたち、空腹に耐えかねてジャングルの近くの道で座っていると、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。そして、「日本人はいるか」という大きな声。父だった。戦争が終わり、喜久夫さんが家族を探しに来たのだ。相羽さんはうれしくなり、近づいて来たトラックに向けて体を大きく動かし、自分の存在を知らせた。 

 父は家族をトラックに乗せ、高雄へと戻った。幸い自宅兼用の販売所は戦火を免れていて、相羽さんは久しぶりにぐっすりと眠りについた。 

 

 敗戦により日本の台湾統治は終わりを迎えた。45年10月には中国大陸から国民党軍が上陸した。台湾の現地新聞の1面は日本語から中国語に変わり、国民党軍を「歓迎」した。台湾にあった日本企業の財産の多くは中華民国政府のものとなり、明治商事の現地事業所なども46年2月に接収された。 

 「終戦後、街に大きな混乱はなかった」と相羽さんは話す。ただ、日本人と台湾人の立場は逆転した。仕事や家を失った日本人は内地へと引き揚げざるを得なくなった。相羽さん家族も46年春、米軍の貨物船に乗り、横須賀に向かった。船はすし詰め状態で、甲板には帰還兵らしき男性が多くいたのが印象的だった。「疫病の発生」を理由に行き先が変更となり、相羽さんが初めて訪れた本土の地は横浜だった。 

 

 引き揚げ後、母の実家があった東京都杉並区で暮らし、父の転勤に伴い北海道や秋田、仙台などで少年時代を過ごした。福島大を卒業後、電気機械メーカーに就職し、神奈川県横須賀市で暮らすようになった。現在は金沢市に暮らす妹の瑞枝さんは、幼いときから誕生当時の過酷な生活を聞き、「ここまで生きられたのも兄らのおかげだ」と語る。 

 相羽さんは、かつて慕った「もの知り李さん」に日本で一度だけ会ったことがある。李さんの父親が明治商事の現地職員だった関係で、李さんが日本を訪れたのだ。李さんは現地の銀行に就職していたというが、意思疎通はうまくできなかった。「かつてなら彼はもっと日本語を話せたと思うし、私ももっと台湾語が理解できていたのだろう」と気づかされた。 

 

 

 近年、中国の習近平(シージンピン)国家主席が中台統一への意欲を示し、「台湾有事」への懸念も高まっている。ニュースで「台湾」と聞くとやはり気になるが、相羽さんにとっては故郷というよりも「不思議な場所」だ。戦後、日本各地で過ごし、あの頃の台湾は「日本であって、日本ではなかった」と感じるようになった。 

 「パスポートをとって古里に帰る、というのも何だかね」。戦後は一度も台湾を訪れていない。ただただ、自分が幼い頃に味わった恐怖が二度と繰り返されないように、と願うばかりだ。 

(原新) 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました 

 

 

( 199228 )  2024/08/07 15:22:23  
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(まとめ) 

戦時下や戦後の悲惨な状況や体験について語られる声が多く見られました。

過去の戦争体験が現代につながる重要性や平和の尊さを感じるコメントもありましたが、戦争を悲劇的なものとして語ることがある一方で、戦争に対する批判や政治家の責任、戦争の意味を考える声もありました。

また、戦時中や戦後の生活の困難さや恐怖に触れながらも、今の平和を守ることの大切さや、過去の経験を未来に活かす必要性についての意見も見られました。

それぞれのコメントから、戦争の悲惨さやその影響の重要性が示唆されていることが伝わってきます。

( 199230 )  2024/08/07 15:22:23  
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・昔は「もの知り李さん」のような博識な人が、それが外国人であることも、地域にひとりは居たものです。いま命があるのは李さんのお陰かもしれませんね。 

妹さんが生まれ、命拾いした命で、俄然、生きる力が湧いて来たのではと思いました。 

終戦を迎え、李さんともせっかく日本で再会できたのに、言葉の壁で十分な意思疎通が出来なかったのは残念に思いました。「自分が幼い頃に味わった恐怖が二度と繰り返されないように」との願いは、相羽さんに限らず、人類共通の願いだと思います。いつの日かきっと、穏やかな気持ちで台湾を訪れることが出来る日の来ることを願っています。 

 

 

・台湾は日本で大規模災害が発生すると、いち早く救援の手を差し伸べてくれる、親日国家と言っても過言ではないだろう。 

李登輝さんを始め、今でも日本を慕ってくれる人がいるのは、現地でご苦労された一般庶民の御努力の賜物だと思う。 

心から感謝したい。 

 

 

・私の父も終戦台湾からの引き上げで当時3歳だったそうで、当時10歳の伯父 

さらに生まれたばかりの叔母と祖父母の5人で引き上げ船で日本へ戻った 

そうですが、機雷を避けながらの航行なので昼間しか進むことができなかった 

そうです。その中で、幼いながら記憶に残っていることは、 

一緒に航行していた船が機雷に触れ沈没したことと、まだ生まれて間もない 

当時の叔母を見て周りの大人は、この子は日本の土を踏むことができないかも 

しれないねと言っていたこと と言っていました。 

その後 叔母も含めて無事日本へ引き上げ 父、伯父、叔母は今も健在でいます。 

 

 

・こう言うお話を聞きますと 

我々(家族や兄妹)は戦後の戦争を知らない子供として産まれて来て 

なんと幸せで豊かな生活をしていたのかと改めて感じます。 

戦後の高度成長期を何不自由なく過ごして来たわけですから… 

と、言っても幼少の頃は大好きなカレーライスには豚肉の代わりに丸大ハムの魚肉ソーセージが入っていたり、さつま揚げだったりしたのを思い出します。 

それでも野原で遊んで帰り、 

腹いっぱいカレーを食べるのが最高でしたね。 

 

 

・毎年この終戦の時期に、戦争に関する記事を拝見するたびに、戦争の恐ろしさ、過酷さ等を痛感します。4歳の子供が妹のために毒ヘビが生息するジャングルに一人で入って行くなんて、想像を絶します。戦争の経験は、決して忘れ去られてはならないことですし、どうか貴重なご経験を今後も私たち世代に語り継がれてください。 

 

 

・15年くらい前に初めて台湾に出張で行ったことがある、よくタクシーを利用したが女性1人だとわかると運転手さんがすぐにテレサテンのカラオケをかけてくれてイントロでハイ!!と声をかけてくれるので到着まで歌った。それが何度もあってなんだか嬉しかった。曲が愛人が多かったので内心複雑だったけど。どこでも親切にしてくださって楽しい何日かでした。 

台湾の方はいつも日本に親切でありがたい。 

 

 

・昭和3年生まれの父が貧乏から逃れるために台湾で働くことにして、単身海を渡ったのはおそらく今の中学三年生くらいの年頃だったでしょう。 

戦争がだんだん激しくなりある日防空壕に避難していたけど、どうしてもあるものが気になり一人それを取りに防空壕を出て、その直後に焼夷弾が壕に落ちたそうです。後でよく考えたら失くしてもどうということないお守り袋だったとか。その話を父から聞いた祖母は「ご先祖様が守つて下さった」と泣いていたと、父の一番下の妹から聞きました。 

若干17歳の時父は母親(私の祖母)への土産として絹の反物を背負い、命がけで帰国しました。 

当時のことは一切語らなかった父でしたが、そうなんですね。 

日本人を台湾から追い出すために中国人たちが押し寄せていたのですね。 

 

畑の真ん中でパイナップルを見つけて、皮ごとかじり口の周りが傷だらけになったという話を笑いながらしてくれました。それだけでした、、、。 

 

 

・戦争体験の記事、それに関連する記事を読むと、戦時下での大変な生活、戦争が終わってもなかなか本土に帰れない人、満州で孤児になった人など、いろいろな視点があり、本記事も大変興味深く読ませて頂きました。 

日本に台湾から砂糖など物資を送るように要請されていますが、ミッドウェー海戦で大敗北を喫してからは、空も海も連合国側が掌握していき、特にアメリカは、日本が南方に戦線が拡大していることをに目をつけ、補給船など、補給路を通商破壊しているので、護衛船をつけないで、物資を運ぶなどということは、この頃、無謀すぎます。 

怒るのも無理ないでしょう。 

当時狙われた、補給船は、日本政府も遺品遺骨収集しておらず、今もたくさんの補給船の残骸が海底に眠っています。 

もの知り李さん、蛇の話など、実際に経験したかたでないとわからない話だと思いました。 

日本だけど日本ではない感覚、大人になって一度李さんに会ったなど興味深かった 

 

 

・うちの母(昭和13年生まれ)も4歳の時台湾の高雄へ。高雄の国民学校へ7歳の時1年通った。祖父は警察官だったが終戦間際に召集された。時々帰ってきていたのでおそらく台湾の中。その頃疎開した。疎開先は山の中で夜中近所の人と一緒に祖母と兄、母親の4人でトラックに乗って行った。疎開先は2家族同じ家で竹の床の粗末な家だった。学校はあったが空襲でしょっちゅう帰っていた。終戦後祖父が帰ってきたが最初は父親と分からんかった。敗戦と同時に台湾人が石を投げてきたりして怖かった。日本に帰るときは家財道具いっさい置いてきた。現金は1人1000円と決まっていたので検査の前にじいちゃんが汽車の窓から金を捨てたのを覚えている。船に乗って宇品(山口県)に帰国。 

 

 

・この時期になると必ず敗戦による国民の戦争経験が記事になります。 

ことさら旧日本帝国や日本軍、特に日本陸軍が悪しざまに批判されます。 

二度とあのような敗戦は繰り返してはならないと思いますが、国家間の政治的な行き違いや様々な勢力の思惑などから、いつ我が国も再び戦禍に見舞われるかもしれません。 

 

その時は当時と同じく勝敗を予知することなどできません。 

国を守るために最大の努力と貢献をしたいと願うだけです。 

 

 

 

・年をとったからか、戦争体験を読むと感情移入してしまい年々辛い。激動の時代を生き抜いてきた戦時・戦後のお年寄りたちもきっと進んで語りたい話ではないだろう。この語り部たちがいなくなった時、戦後が戦前に変わりはしないだろうか。防衛外交もずっと同じことをしていればいいわけでなく、世界情勢に合わせて日本も動かなくては、国力が弱まれば搾取され攻め込まれるリスクは高まる。GDPもこの先ランクは落ちていくだろうし、アジア版NATOや核シェア、改憲の議論は進めて行かなければならないと感じる。平和を自力で維持できる防衛力は最低限必要。 

 

 

・詳しくは聞かなかったけど、子供の頃に父も樺太、シベリアに行かされてた話を聞いた事が有る。 幸せな時代に生まれて良かったとつくづく思うけど、今も各地で紛争が起きてるし昔と違って核の問題が有るから決して安心してはいられない。 平和を願うばかりだけど。 

 

 

・私の両親は昭和一桁で、子供の頃は戦争に行った近所のおじさんがいて、街には傷痍軍人さんがまだ物乞いをしておられて、両親は戦争の話をしたがらないような空気の中育ちました 

割合に戦争は身近で感じる出来事ではあったけれど、悲惨な事柄は両親も祖父母も話をしないという時代でした 戦争から20年たっていませんでした 

 

だから、両親から直接非常に悲惨な事柄を聞いたことはありません 

食べ物が困ったとか、疎開先で楽しかったとか、カルチャーショックがあったとか、そういう話は少しは聞きましたけれども 

 

この方より、両親は少し年上で、13歳、14歳くらいでした 

運よく学徒出陣やら、軍需工場やらには引っかからなかったぎりぎりです 

妻の父は昭和19年に召集され、体が小さくて合う装備がなくて、船が出せずに内地にいる間に運よく終戦になって助かりました 

 

若い人は戦争は歴史の話なんだろう と思う 

 

 

・本当に私達日本国民へは台湾の人も思いやりを持って接してくれる人が圧倒的で多い。日本人だと証明すれば嘘の様に対応も優しくなる台湾の人達。私達日本国民にとっても台湾は大切な国であり台湾の有事は日本の有事でもある。台湾には沖縄と同じでタイワンハブが生息しているが毒蛇の被害に遭わない様に台湾国民の人達も気を付けて欲しいと思う。ちなみに私は台湾なら花蓮と基隆が好きである。台北もイイけど昔ながらの台湾を味わいたいなら基隆や花蓮の方が私個人としては好きである。改めて台湾国民の人達へ日本の有事に対する感謝を申し上げたいと思う。台湾多謝深謝。謝謝。台湾加油。 

 

 

・本当に苦しく辛い戦火の中を生きていてくれてありがとうございます。 

相羽さんの様な方がおられるから現在の日本が存在します。想像も出来ないような過酷な環境の中一生懸命生きてきたお年寄りに「老害」なんて汚い言葉を使わないで欲しい。もちろん何方も誰にも迷惑はかけてはいけない前提ですが。 

今の日本の状況を見てどう思われているんでしょうか··· 

現在の台湾を見て辛い想いをされていないでしょうか? 

現在戦争をしてなくても心中穏やかではないのでは? 

 

 

・父は8歳の時、高雄で終戦を迎えた。 

職業軍人の祖父が戦死し、シングルマザーとなった祖母が心機一転父を連れて教員として赴任したとのこと。 

食糧事情は良いとは言えなくても本土よりはかなり恵まれていたそうです。 

現実がどうだったのかわからないこともありますが、祖母と父は引き揚げてきてからの方が苦労が多く、台湾時代のことは良い思い出だったようです。 

 

引き揚げ時は3隻一緒に出港し、そのうち2隻が機雷で沈んだとのこと。 

 

祖母は台湾時代の教え子たちとの交流をその後も続け、自宅に招いたこともありました。流暢な日本語にびっくりしたことを覚えています。 

そして祖母が亡くなるまで互いに台湾と日本を行き来していました。 

 

 

・当時の台湾は同じ日本教育の高い水準ある統治国家だった。この時代のアジア諸国で活躍した日本統治にあった国を「植民地」と称する一部の学者が居るようですが、ならば台湾と言う国名は残さなかった筈、何を学んで植民地と言ってるんだろう。 

 

今でも日本統治の時代を知ってるアジア諸国民は多いのに。李登輝氏には「私の祖国への誇りは日本教育にあり」とまで言わしめた人達が存在した事をどう理解してるのだろうか。 

 

八田ダムやトウキビ畑を台湾の人達と共同で開墾して来た、台湾人の民族性を尊重して共存して来た歴史が今の日本と台湾を繋いでる。 

 

戦争経験者も台湾人と日本人とが同じ想い抱えて生きた時代が有った事を、我々現代人は学び知る責務が有りますよ。 

 

 

・台湾で生まれた日本人を湾生と言います。 

湾生の方々は帰国に当たってたくさん苦労されたそうですが、他の日本統治の地域と異なり、平和裏に帰国できた方が多かったようです。 

一方で、漢人、客家人、原住民族の方は日本兵として太平洋戦争に行かされ、多くの方が犠牲になったにも関わらず、戦後、日本からの補償は一切ないまま今日に至っています。 

大地震の際には、お互いで募金を送り合うなど、日台友好は盛んですが台湾に生きる人々の戦中戦後にも寄り添うべきだと思います。 

 

 

・2010年から高雄に住んでいます 

2010年から2014年くらいまでは,街のどの軒先や公園にも日本語を話せるどころか母語といってもいい台湾人のお年寄りがたくさんいて,話しかけるとすごい喜んでくださりいろんな日本の昔の歌も歌ってくれました 

でもだんだん姿を見かけなくなって今は…全然おられません 

尋ねるとみなさん戦時に一番幼い方は小学6年でしたが多くは戦争の頃もう大人でした 

だから2010年でも80代くらいでまだ元気だったのでしょうけど 

今は仮に生きておられても外には出れないのでしょう 

今は2024年…わたしたちと高齢者に同じ14年が過ぎ,もちろんわたしたちにも多少の変化はありますが基本変わらないのに,あんなにここそこで楽しそうに生活しておられたあの世代はみんな街から消えてしまった 

戦争がない=平和と錯覚するけど,戦争だけでなく病気や老化という人類の敵が常時,無情に君臨していることを実感します 

 

 

・戦争は悲惨です。日本も台湾も戦争は過去の事で、80年前の事を毎年思い出すのが8月ですね。 

しかし、世界には今も戦争している国がある。 

ガザの市民たちは、この記事のような経験を今していると思う。ウクライナの人々もそうでしょう。 

 

人間の愚かさをつくづく感じる。 

会って話せば、殺し合いなどしないのに、見えない敵だからミサイル打ち込む。死体を目の前で見なくても殺人犯には違いない。 

 

国境が消える日まで戦争でいったい何人が殺されるだろうか? 

為政者にとって国民の命は自分のペットより軽いかもしれない。 

 

 

 

・自分の親父も戦前の台湾生まれ 

台湾統治中に爺さんが台湾で何かしらの工場を経営していて数十人の台湾人を雇ってたと聞いた 

親父が生前に生まれ育った台湾に一度戻りたいと言ってたなあ 

一度連れて行けばよかったと後悔してる 

 

 

・私の父は、昭和3年生れ。木更津航空隊にいました。焼夷弾の破片が、太ももに刺さったままでした。戦争時の話聴いた事ありません。48歳の若さで、亡くなりました。 

仕事柄(原寸技師)出張が多く 

娘3人を、育ててくれました。孝行したい時には、あの世の人に。天国で、見守ってくれてるだろ!父の歳を越しましたね。 

今となれば 戦争時の話を聞きたかったわ。 

 

 

・戦争になるかならないかは、そこの国の大統領か首相次第で戦争に発展してしまう、国民がいくら戦争反対と言っても選挙で選んだトップ次第でどうにもなってしまう、各国は国の代表を選ぶ際には国民の慎重さが必要でしょう 

 

 

・過去の記憶、特に子供の頃には後の人生の影響で変わることもあるけどな 

機銃掃射を受けた人も初めはパイロットの顔は見えなかったと証言してたのに晩年は笑い顔が見えたと証言が変わってたし 

 

 

・毒ヘビとはハブでしょうか。 

今なら咬まれても血清を打てば問題ないと思うのですが 

命を落としてしまうのは本当に可哀そうで無念だったと思います。 

 

 

・日本はドイツ優位を信じ開戦しました。 

以下はWiki「瀬島龍三」の項から引用。<日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」> 

早く終戦すべきでした。 

 

 

・タイでは、道で毒ヘビとインド人に出会ったら先にインド人の方を叩けという言い伝えがあります 

蛇の道は蛇、地元の人の言うことは素直に聞いておいた方がいいです 

 

 

・94歳の祖母が女学生の頃、汽車通学で米空軍の機銃掃射に遭ってバラバラの死体が沢山あったと話していた。本人は線路脇の窪みに逃げ込んで助かった。 

戦争は経験しないとどれだけ悲惨なものか分かりようがない。 

 

 

・台湾が当時日本領と言うのは頭ではわかっていましたが、こうして米軍の攻撃を受けていたという事実を聞くとそれがただの地図上のことではないことが実感できました。 

 

 

・戦争の記憶は、人の数だけ存在する。遠藤誉の体験を読むだけで胸一杯で 

もう十分。 

 

毎年、この時期に頻繁に出始める「戦争の記憶」とその「悲惨さを共有させようとする」とするプロパガンダ。特にNHKによる子供たちへの洗脳は酷い。 

 

「戦争の悲惨さ」を幾ら共有しても、戦争は防げないのに。判っていても思考停止したまま、やたら「平和」を叫ぶ。 

 

「戦争は悲惨」、これを避けるために何をすべきこそ大事。 

その為にも、「なぜ戦争が起こったのか」を、「日本が一方的い悪かった」という戦勝国史観に固執しては教訓を間違える。 

 

「日本=侵略者」という戦勝国史観を泣く泣く受け入れざるを得なかった敗戦直後の祖父母たち。「日本=侵略者」で教育され、その大義も理念も否定し「何かを失った」戦後の日本人。 

 

連合国の国々が集った「大西洋憲章」と「開戦の詔勅」を、「日本=侵略者」という目の鱗を取り除き、今一度、読み比べて欲しい。 

 

 

 

・終戦日近づくと毎年日本では必ずこの様な”戦争の悲惨さを報道”し反戦を訴え続ける。そこで疑問だけど海外でも同様なのだろうか?(少なくとも中露北、米英などが同じ様にやってると思えない。だとすると虚しい(戦争仕掛ける危険度が高そうな国がやらず、一方平和過ぎると言われる程の国がやってる..のだから)。 

 

 

・しかし、勝てば官軍負ければ賊軍で、負けたら戦争は悲惨だの二度やるもんじゃないとって都合良すぎ。 

 

散々欧米列強は他国を侵略してアジアのあちらこちらを植民地支配して来た中、日本も欧米列強なみに力を付けないと攻められて植民地支配されてたかもしれないのに。 

 

朝鮮半島も力を付けてくれないとロシアに攻められてしまうから、財政破綻寸前の大韓帝国を保護国にして、力を付けてもらいたかったのにインフレ整備や大学まで作ったのに、あれやこれや抵抗するから、言うことをきかせる為に植民地のようになってしまったんだから。 

 

 

・団塊ジュニアですけど 

小学生の頃、死んだおばあちゃんとかからよく戦中、戦後の話を聞かされました 

まだ戦争体験者が多く残っていて、戦争番組も多くやってましたね 

今では、そのことを語る人も少なくなったな 

 

 

・コロナ禍のときに街頭インタビューで「色々な制約があり大変。戦争中も今の私たちと同じように大変だったんだろうな」みたいなこと言ってる人がいて驚きました。 

コロナも大変でしたが、全く大変のレベルが違うと思います 

 

 

・連合軍の国々は国民の支持でトップが戦争の舵を取ったけど日本は国民は我慢しろの方針なら負けて当然だよな。負けるにしても民を犠牲にする前にターニングポイントっていっぱいあっただろうに。 

 

 

・この時代の方は大変な屈辱と苦労をされたと思います。 

馬鹿な政治家と軍に翻弄されて300万人の国民と領土を無くした。 

戦争に反対すれば憲兵隊に連れていかれ拷問を受ける北朝鮮のような国だった。 

いまの政治家もそうだが当時の政治家も軍も誰も責任を取る気が無い、東京裁判がなければそのままだっただろう。 

 

 

・国を、家族を必死に守ろうとして、 

多くの犠牲者が出ただけでなく、 

残された人達も相当な苦労をされたと思います。 

そして今の日本と言えば、政治家は自分の事を守るので精一杯です。 

戦後生まれの人達とはいえ本当に情け無いですね。 

 

 

・日本も約80年前までは戦争をしていたと思うと現代は凄まじい発展だなと思う。 

そして凄まじい精神力だとも思う。 

 

現在でも戦争中の国があると思うと 

居た堪れない気持ちです。 

 

 

・子供の頃(1970年代)小学校の社会脳授業中に先生が 

今も戦争をしてる国がある。と話した時 

子ども心にホントに驚いた記憶がある 

あれから数十年、、、 

今も戦争をしてる(仕掛けてくる)国がある 

人間は、なんて進歩の無い生き物なのだろう 

ホントに嘆かわしい 

 

 

・ものすごく恵まれた当時の上級家族のこと記事にされてもな 

こんな恵まれた家族はいないと思うし悲惨からかけ離れた家族だと思う 

本当の戦争の悲惨さを体験した人は多くを語らないと思う 

 

 

 

・戦後生まれがほとんどになり戦争を体験した人が年月と共に少なくなってきている。 

親父や祖父が存命の時に戦争の話を聞いておけば良かったなと思います。 

我々は平和ボケしているから危機感がないし政治にも関心が持てないのだろうな。 

 

 

・記者はmy手柄にしたくてこういうのを掘り出してくるんだろうけどさ。。 

 

4歳の記憶を80年後に語らせるより 

昭和40年代に盛んに行われた従軍兵士たちの回顧録を掘り起こした方が 

よほど現世のためになると思わない? 

 

4歳の時、この記者は時勢も背景も過去からの継続としての今も、何もかも分かんなかっただろうに。 

その4歳に「グスン、こわかったあ」を語らせて感情で反戦機運をもり立てて何になるんだ。 

 

どうすれば戦争状態に陥らないか。 

先の大戦から学ばなければならないのはそこだろ? 

 

 

・台湾は今でも親日国でとても大切な国です。もし台湾有事があれば日本は自国と同じように守ってあげなくてはならない。同じ日本だった半島は反日国になってしまったのは残念だな 

 

 

・満州帰りの身内からはきいたことはない。 

みんな口を閉ざして何も言わなかったが、勤め始めたころ上司で戦争経験者が言い放ったのが戦争っていいよな、”好き放題奪い放題殺し放題”ってただ問題なのは自分が殺されるかもしれないって。 

南京辺りでの話みたい。 

それからこの上司とはできるだけ距離を取りましたが。 

 

 

・祖母が戦時中、子供の頃は韓国にいて、日本に戻ってからも何度か韓国に行っていた。 

韓国人のお手伝いさんがいて、キムチの作り方を教えてもらったと本場のキムチをたまに作ってくれてた。 

お年寄りだとキムチは朝鮮人だ、と嫌う人もいたけど。 

 

 

・俺今日ハブに噛まれる夢見たけどくそ怖かった。 

噛まれたらどうすれば良いか分かってて処置も受けたけどすごい怖かった。それが現実に起こったことだからマジで想像を絶する怖さだと思う 

 

 

・毒ヘビかも怖かっただろうな 

身体が5つに裂けた異様な外見の巨大生物たちが 

生息圏に踏み込んで荒らしまくるんだから 

 

 

・ヒャッポダという、タイワンコブラの伝説は聞いたことがあります。 

嚙まれると、その猛毒のため、生きて歩けるのは100歩が限度とか? 

その話を聞いたため、怖くて台湾に行ったことありません。 

 

 

・ご苦労様でした。 

 

我々若者は80年前を憂い悲しむのではなく、新しい生き方を考え前に進んでいきます。 

協力いただけたらと願います。 

 

 

・こりゃ台湾は中国に侵略されたら日本侵略をするかも。台湾も中国もかつては日本にやられてたわけだから、やり返すチャンスと見られてもおかしくないよね。 

 

つうか台湾の人もかつては日本、今は中国とマジで勘弁って思うだろうな 

 

 

 

・福大を御卒業なさったのですね。福島県民として嬉しく思います。貴重な体験を語って下さった事に感謝致します。 

 

 

・戦争で受けた悲惨さだけでなく、外国の方にやらかした数々をも伝えてほしいとテレビを見ていて思うのです。 

 

 

・この方はとても運の強い子だったのだろう。 

でも当時亡くなった子供も多かったと思う。 

 

 

・・・そもそも他人の土地だし。 

割譲とかさせなきゃ台湾も爆撃されなかったろうし。 

美談仕立ては結構だが、どーせなら当時の日本と日本軍の問題点まで書いてくれりゃいいのに。 

 

 

・あのまま戦争をせずに軍国主義が続いていたほうが良かったのか、負けて今の日本になったほうが良かったのか、、 

 

私は今の日本で良かったと思う。 

 

 

・そんな生活やですね 

まあ今でも介護で大変な子供もいますね 

皆が楽しい世界が来ますように 

 

 

・今の日本があるのは全てアメリカのおかげ^ ^ 

原爆があったからこそ、今の日本がある。 

アメリカに感謝でしかない、ありがとう!!! 

 

 

・疎開先の原住民の人の住居から帰る時他の人を先に返す配慮も必要だったかもしれない。 

 

 

・大変なのはわかるけど毒蛇や伝染病の下り要る?そらハブも熱病もあるけど…そういう装飾されると冷める 

 

 

・こういうのを読むと 

抑止力をしっかりして 

戦争が起きないようしないといけないと思う 

 

実際核で脅してきそうな国だらけ 

 

 

 

・兵隊も大変でしたが、住民も苦しい思いをしたんですねー。よくここまで生きたね。 

 

 

・毎年この時期になると戦争の話題になるけど、地球から戦争はなくならないよね。意味あんのかな? 

 

 

・こういう事を語れる方が、年々少なくなっている。だからこそ忘れてはいけない。 

 

 

・アンケートで太平洋戦争の話しを聞いた事が無いって言う人が居るのには驚きしかありません! 

 

 

・平和が1番だが 

戦争の歴史があったから 

自分達が生まれてきたのは 

確かなんだろうな 

 

 

・ムツゴロウさんかと思ってしまった。 

確か去年の4月にお亡くなりになったはずだよね。 

 

 

・メディアの皆さん、この時期くらいは戦争のこと原爆のことを、多めに報道しませんか? 

 

 

・百歩蛇という毒ヘビかな。咬まれて100歩歩かぬうちに亡くなるというやつ。 

 

 

・戦争の悲惨さをさんざん強調しながら、 

どうすれば避けれたかに進まないこの愚かさよ。 

 

 

・もうよくない?この時期にあるこの手の戦争話 

もう80年近く経つし歴史の1つとしての扱いでいいでしょ 

 

 

 

・戦争にはカラクリがある、基本こいつの友達は貧困,国民をワザと貧困にする政策は基本戦争を作りたい輩がいると思った方がいいわ 

 

 

・本土決戦なんてとんでもない 

ドイツが負けた時点で日本も降伏すべきだった 

 

 

・今も昔もサバイバルの状況では、ヘビってご馳走なんだよ。 

 

 

・高校野球も台湾代表が出場していましたね。 

 

 

・日本がアメリカに戦争をふっかけなければ、こうした悲劇は起きなかった。 

 

すべての責任は、開戦を決定した当時の政府、軍部、そして開戦を止めなかった日本国民にある。 

 

 

・子供には将来開拓等の政府の募集は信じるなと教えてる 

 

 

・戦争の酷さをひしひしと感じた 平和の有り難さ痛感 

 

 

・立派な家系の方ではない方達はどうだったのでしょうか 

 

 

・初めて知りました 

ありがとうございます 

 

 

・現代の子が、こんな環境下に置かれたら3秒も持たないだろうな 

 

 

 

・こんな結果になることを日本は予想できなかったのかと。 

 

 

・兄弟の絆に感動するね 

 

 

・戦時中、うちの祖父(戦地にて)と祖母(疎開先にて)はヘビを食べてたらしい、、、 

 

 

・戦争、ダメゼッタイ 

戦争、かっこわるいよ 

 

 

・マムシとコロナは今も近所に蔓延してる。 

 

 

・写真がムツゴロウさんに見えたのは私だけ? 

 

 

・自分は、4歳の頃の事って覚えていないな~ 

 

 

・never againを願うばかりで、すみません。 

 

 

・ムツゴロウさん、生きてたんですね。 

 

 

・ムツゴロウさんが蘇ったと思った 

 

 

 

 
 

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