( 199556 ) 2024/08/08 15:09:26 2 00 「日本負けたんや」樺太で終戦迎えた中学生 占領したロシア人と過ごした日々 #戦争の記憶読売新聞オンライン 8/8(木) 11:03 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/4ec35b4997374401f9846baac021252b60d1810c |
( 199559 ) 2024/08/08 15:09:26 0 00 南樺太の地図から、生まれ故郷の豊北村小沼を指し示す千葉さん(札幌市北区で)
1945年8月15日、南樺太の旧制中学の4年生だった男性は、勤労動員に駆り出されていた陸軍の飛行場で「終戦」を告げられた。日本軍の飛行機は北海道へと飛び去ったが、その後も侵攻を続けたソ連に故郷を追われ、いまも複雑な思いを抱いている。
【写真】空を飛ぶ四式重爆撃機「飛龍」(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
小沼の街並み(稚内市教育委員会提供)
札幌市北区にある高齢者向け住宅の一室を訪れると、玄関ドアの内側には南樺太の地図が貼られていた。恵須取(えすとる)、真岡、大泊――。現在の学校の教科書では白地などで「帰属未定」とされる場所に、日本語の地名が並ぶ。 この部屋に住む千葉藤雄さん(95)が地図を指し示した。 「豊原市は、北海道で言えば札幌のような樺太の中心。そこから北に12キロくらいの豊北村小沼で生まれた。襟巻きにするための養狐(ようこ)業が有名な、キツネの村だったんだ」
小学4年生の時の集合写真(千葉さんは前から3列目、左から2人目)。日本へ譲渡される前のサハリンはロシアの流刑地で、同級生にポーランド人もいた
樺太(サハリン)は1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南がロシアから日本に譲渡された。 千葉さんの祖父は、北海道の寿都(すっつ)郡で客馬車を営んでいたが鉄道開業のあおりで廃業し、大正時代に樺太に移り住んだという。小沼(現ノボアレクサンドロフスク)は農業や酪農が盛んで、千葉さんは牛馬商をする父のもと、5人きょうだいの3番目として生まれ育った。 小沼国民学校初等科の6年生だった41年12月8日に日米が開戦し、翌年4月に千葉さんは豊原市(現ユジノサハリンスク)の豊原中学校に進学した。 中学校には30分ほどかけて汽車で通った。学校では勉強のかたわら、行進やほふく前進、射撃の練習もした。帰りの車内で友人と将棋を指していると、大人のやじ馬が「こっちだ、こうだ」と駒を動かし、最後は誰が指しているのかわからなかった。
豊原中学校(稚内市教育委員会提供)
最終学年の4年生になった45年春からは勤労動員が増えた。千葉さんらは6~7月、湾岸の弥満(現ノビコボ)でニシン場の手伝いをした。この時期のニシンは小さいが、油が搾れる。 作業中、青森・津軽から出稼ぎに来た漁師の「ヤン衆」に、「あんちゃん、日本は戦争に負けんじゃないかい?」と聞かれ、千葉さんは「神国の日本は負けないよ!」と言い返した。 「後から振り返れば、大人はわかっていたんだな、と思ったね」
【地図】ソ連侵攻当時の南樺太
7月末には4年生約150人で、豊原から30キロ余り北方の落合町にある陸軍・大谷飛行場に向かった。千葉さんは小学生の頃に1度、航空イベントで飛行場に来た覚えがあった。たくさんの機体が並び、宙返り飛行も披露していた。 飛行場にかつての活気はなく、あるのはシートがかけられた小型の練習機くらい。戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)には、木で造られた偽物の飛行機が置かれていた。 一機もいない格納庫で簡単な健康診断を受けると、スコップやツルハシを渡され、飛行機の誘導路を拡幅するよう命じられた。
四式重爆撃機「飛龍」(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
ポツダム宣言で降伏を勧告され、広島に原爆が落とされた日本に対し、ソ連は宣戦布告。8月9日に満州(現中国東北部)に侵攻し、樺太の国境付近でも戦闘を始めた。日ソ中立条約を無視しての参戦だった。 大谷飛行場にもソ連参戦の知らせが入り、豊原に住んでいた生徒は防衛戦力として帰された。残った「汽車通学組」は、千葉さんの記憶では十数人だったという。ソ連の空襲に備えて重要書類を兵舎に運ぶなど、飛行場はにわかに慌ただしくなった。 その頃、格納庫の前に突如、4機の飛行機が姿を現した。見覚えがある戦闘機「隼(はやぶさ)」とは違い、両翼に十字のプロペラがついていた。 「兵隊さんから四式重爆撃機『飛龍』だと聞いた。対米用の新しい特攻機で、それまでは山の中に隠してあったのだ、と」
小沼から豊原中に通った生徒たち。千葉さん(最前列、左端)は撮影時1年生で、後に日本歯科大学長となった佐藤亨さんらが同期だった
「日本、負けたんや。作業やめい!」 15日の昼食後、地下壕を掘る作業を再開していた生徒たちに、関西弁の兵長が叫んだ。午後3時頃には爆撃機が離陸し、1度旋回して爆音を響かせながら飛行場の真上を低く飛ぶと、そのまま南の空へ飛び去った。北海道・帯広の原隊に帰ったのだと聞かされた。 その夜はお汁粉、翌朝は白米が出た。「それまではイモと米が半々の芋飯ばかりだったから、本当においしかった。この先どうなるかはわからないけど、戦争が終わってほっとした気持ちだった」 16日の午前にはトラックで小沼の自宅まで送ってもらった。千葉さんの記憶では、その日の朝の点呼では、飛行場に20~30人ほどの兵隊がいた。その中には、ソ連に捕まってシベリアに連れていかれた者もいると、後日聞いた。 家では家族が布団などの荷物をまとめて待っていたが、北海道への引き揚げ命令は来なかった。
故郷に侵攻したソ連や現在のロシアに対する思いを語る千葉さん(札幌市北区で)
北海道の北半分の占領をもくろんでいたソ連軍は南樺太に侵攻し、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃をやめずに南進を続けた。抗戦する日本軍や避難民らの犠牲は増え続けた。 小沼からは、西海岸の真岡(現ホルムスク)に浴びせられる艦砲射撃の音が聞こえ、停戦合意後、豊原駅前をソ連機が空襲して街から黒煙が上がる様子も見えた。 その後、家の前を、進駐するソ連の戦車やトラック、捕虜にされた日本兵の列が通り過ぎていった。ソ連軍にはスカート姿で自動小銃を担いだ女性兵もいて驚いた。ソ連兵たちはトラックから降りて、歌ったり踊ったりしていた。 「『負けたのだから仕方ない』という気持ちで、恨みや悔しさはあまりなかった。空襲などの被害を直接見ていなかったからかもしれない」
豊原中の卒業証書。縦約18センチ、横約25センチの証書に約6センチ四方の大きな学校印が押されているのは「戦後は紙が不足して本来の大きな証書が作れなかったから」(千葉さん)
ソ連は南樺太全域に加え、千島列島や北方四島を占領した。日本はサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島に対する権利を放棄し、北方四島の領土問題が現在まで続く。 千葉さんは終戦後の秋から通学を再開した。中学の校舎はソ連軍に差し押さえられ、市内の別の小学校でロシア人、朝鮮人、日本人の小中学生らが時間交代で学んだ。千葉さんたち4年生は午後に2時間、中学の先生から英語とロシア語を習った。 翌春には、ニシン場での労働を卒業条件に課され、1か月遅れでようやく卒業した。役場から頼まれ、同級生4人でパスポート発行申請の書類に書かれた日本名をキリル文字に書き換える手伝いもした。 家族で北海道に引き揚げることができたのは、翌47年冬。ソ連占領下の樺太での生活は2年余りにおよんでいた。
小沼で飼育が盛んだったキツネ「銀黒狐(ぎんこっこ)」(稚内市教育委員会提供)。千葉さんもソ連の国営農業とされた養狐場で働いた
千葉さんは、ソ連、そして現在のロシアに対し、複雑な思いを抱いている。 小沼では、父が育てていた乳牛がソ連兵に殺されて肉にされた。母が一人でいた自宅にソ連兵が押し入ってきて、タンスにあった千葉さんの置き時計や中学の制服も奪われた。 中学卒業後、ソ連のソフホーズ(国営農場)となった養狐場で働き、キツネの餌にする馬の世話をしていた時は、ロシア人の馬の扱いのうまさに感心した。増築資材を取りにロシア人らと北方の村に出張し、初めてウォッカを一気飲みして一緒に酔いつぶれた。仲良くなって、家を毎晩訪ねておしゃべりをしたウクライナ人男性は、引き揚げの際には泣いて別れを惜しんでくれた。 いま、千葉さんの目には、ロシアによるウクライナ侵略のニュースが樺太に重なって映る。 「ロシアは今でもウソばっかりの泥棒の国だと思っているよ。だけど、人間としてはロシア人も日本人もおんなじだ。友好的で信用できる国になってくれたらいいんだけどね」
札幌市中央区の旭山記念公園に戦後に建てられた豊原中学校の記念碑。開校100周年となる来年、千葉さんは数少なくなった同窓生と記念撮影をするつもりだ
はたして千葉さんが落合町の大谷飛行場で目撃したのは、本当に四式重爆撃機「飛龍」だったのか。明確な記録はないが、ソ連の樺太侵攻を研究して著書「知られざる本土決戦 南樺太終戦史」(潮書房光人社)にまとめた藤村建雄氏は、「ソ連参戦時、大谷飛行場に飛龍がいた可能性はある」と分析する。 樺太・千島・北海道を担当する陸軍第5方面軍の参謀だった福井正勝氏は戦後、「四式重爆は一時落合に移ったことがある。落合を根拠に訓練していたが、敵が樺太に来たので帯広に戻ったという記憶がある」と回想している。 藤村氏は、「飛龍は米軍に対して比較的安全な後方の北海道で訓練していたと思われるが、ソ連の侵攻を受けて樺太から帯広に移されたのではないか。ただし、飛龍が戦闘に参加しないまま8月15日まで空襲を受けるリスクがある樺太にとどまるのは合理的ではなく、15日に大谷飛行場から飛び立ったのは、他の任務に就いていた別の飛行機だったと考えられる」と指摘する。 第5方面軍は8月14日、北海道から樺太に向けて飛行戦隊を出撃させたが、宗谷海峡の悪天候に阻まれて引き返し、日本の航空戦力が戦いに加わることはなかった。 福井氏の回想には、飛龍を「樺太作戦に使いたかった」との言葉が残る。藤村氏は、「もし爆撃能力に優れた飛龍が戦闘に参加していれば、ソ連の侵攻を遅らせ、樺太の歴史は変わっていたかもしれない」と語る。 (深谷浩隆)
※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です ※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました
|
( 199560 ) 2024/08/08 15:09:26 0 00 ・日本が武装解除した直後を狙い北方領土を侵略し始めたソ連軍。 現状に置き換えれば、ウクライナがロシアの条件をのみ停戦合意や終戦、と決めた直後にロシアが攻め込む構図が浮かんでくる。当時と何も変わらないロシアの非道な考え方と行動に良識ある国々は徹底的に包囲し国際秩序を守るしかない。
・「北海道の北半分の占領をもくろんでいたソ連軍は南樺太に侵攻し、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃をやめずに南進を続けた。抗戦する日本軍や避難民らの犠牲は増え続けた」 ここ、学校が教えてくれない太平洋戦争のもう一つの事実。 終戦で白旗を上げた日本に対し、ドサクサに紛れて領土を奪いに来るロシア。あれから80年近く何も変わっていない。
・これまで、アメリカに負けただけとしか、それまで知らなかった。ロシアの侵略の事を知らなかった。なのでサハリンに数年前に行ってみた。 樺太には、樺太の地図のかかれた食品や街中に地図があるんだけど、北方領土も当然のように描かれている。 敗戦直後にかっさらっていったロシアはセコい。でも、現在の領土問題も生ぬるい日本人の感覚だと同じようにとられていくと思う。 今は、目に見えた戦争のかたちだけじゃなく侵略されかけている日本に不安を感じる。
・戦後の混乱の話が出るといつも思うのだが、沖縄を占領したアメリカは、よく日本に沖縄を返還してくれたな、思う。
北方領土を見るまでもなく、これがロシアだったら今に至るまで、絶対日本に沖縄は返還されていなかったであろう。
そのロシアと戦っているウクライナだが、こういったロシアの強欲さを知っているゆえに、一部領土を譲歩して停戦を、との声が上がり始めても、ゼレンスキー大統領は安易に停戦に応じられない、と考えているのだろう。
ロシアに一度譲歩した領土は譲歩したが最後、永久に還ってこないどころか、恐らくいつの間にかちょいちょい停戦協定を無視してその都度、またなし崩しにジリジリと削り取るように領土を侵略されてしまう、というのが目に見えている。
ウクライナ侵攻をウクライナの勝利、もしくは優位に終わらせる事は、その後の日本やロシアの近隣諸国の安全保障にとっても、とても重要な示唆や前例になる、と考える。
・>人間としてはロシア人も日本人もおんなじだ
東日本大震災の直後、ロシアの田舎にある日本向けの短波ラジオ局に「日本に向けのラジオ局なら日本の人々にメッセージが届くはず」と思った住民が次々に訪れ、「部屋が空いているから一家族ぐらいは住める」「納屋を自由に使ってくれていい」「両親を亡くした子供が居たらうちの子と一緒に育てる」等々、お金や支援物資は送れないけど何とか助けたい、役に立ちたいというロシア人の方が大勢居たそうです。その短波放送局の日本人運営者が帰国した際にNHKのラジオで話していました。 素朴ですけど、実に暖かい人たちだなと思いました。 個人個人は良い人達なのに、政治や国家が絡むと途端に厄介な国になってしまう・・・悲しい。
・私の母親が樺太生まれで、終戦時には3歳でした。祖父が営林署の山役人だったので、樺太には昭和の早い時期から移り住んだらしいです。 内地への引き揚げは昭和22年とか23年とか言ってたなぁ。最後の引き揚げ船だったそうで、それまでは記事にあるようにロシア人と普通に生活圏を同じくしていたそうです。隣家のロシア人とは普通にお互い行き来していたらしく、祖父は一緒に酒を酌み交わしたり、ロシア軍の倉庫にロシア人と酒を盗みに入ったりしたと聞きました。軍が後から家に乗り込んできたら祖父と隣人のロシア人が酔いつぶれてたって話も祖母からよく聞かされました。 海岸はニシンが来れば海が光り、タラバガニなんかも獲り放題だったそうです。 引き揚げの際、家にあった日本刀は庭に埋めてきたとか。 祖父母も母ももう鬼籍に入ってますが、樺太に帰りたかったのかなぁって思うときもありましたね。
・昔はソ連を大嫌いって言うお年寄り多かったな。 不可侵条約破るどころか、敗戦後に侵攻してきて、何より一番許せないのが、シベリア抑留で何人も仲間を殺されたって。 もうそんな戦争体験者の話をほとんど聞けない時代になりました。
・私の母が記事のこの方より3歳ほど下で、当時樺太から家族で祖父の故郷に戻ったと聞きました。 とにかくソ連が侵攻して来たので今すぐ逃げろという事で、取るものとりあえず身の回りのものだけ持ち出して船に乗ったそうです。 一つ前の船が砲撃で沈没したので、とても恐ろしくそれでも何とか北海道まで辿り着いたそうです。 既に亡くなっていた祖母(母の母親)のお墓に行くことなど到底出来ず、今でもそのままなのかどなたかが供養されているのか知る由がありません。 それでも今回のウクライナの様に国外に逃げなくてはならなかった事に比べると、日本に戻れたことはまだマシな方だったのかも知れませんね。 毎年終戦の時期が来るといろいろなドラマや映画が作られますが、この樺太を舞台にしたものは殆ど見かけないので制作してほしいと個人的に願っています。
・第二次世界大戦の対ドイツ戦で多くの艦船を失ったソ連は、日本に参戦する戦力が残されておらず、アメリカ側がプロジェクト・フラ作戦をソ連に提案し、100を超えるアメリカ艦船の供与でソ連軍は、南樺太や千島列島及び北方四島に上陸して占領しました。 この事実を日本政府は国民に説明しないまま北方四島は日本固有の領土であると、ロシアに主張していますが、アメリカにも言うべき事だと思います。
・こういう実体験をした人の話が一番いい。 ボクは戦争で盗られた北方領土は諦めるべきとの持論で、未だにロシアとの見込めない返還交渉をしている日本が情けなくなり、それに呼応して返還に応じないロシアに文句を言っている国民にも落胆してしまう。 だが、アメリカの占領下だった沖縄を考えると北方四島の人々はあまりに不憫であり、同時に日本の無責任さに怒りさえ覚えて来る。 それでもこの方のような境地に至る人がいたことは救われる思いだよ。
・その後にウクライナ系の方が住むようになりそこから北海道本島へ移り住んだのが大鵬の父親、王鵬の曽祖父、貴闘力の義理の祖父になる方でしたっけ? それにしても卒業証書が達筆すぎる。 昔の方の教育水準の基礎力の高さがよくわかります。
・学生時代から現在に至るまで、仕事やプライベートでいろいろな国を旅行してきた。その中にはロシアを含めた旧ソ連を旅した経験もあるが、私自身はロシア人に対してはいいイメージの方が圧倒的に強い。また、ロシアの文学や映画も好きなので、それが嵩じてロシア語を習ったこともある。
しかし、ロシアという国家となると、これほど厄介な隣人はいない。司馬遼太郎氏のエッセイにもあるが、極端に猜疑心と防御本能が強く、それでいて大国意識も強い。また、遵法精神も弱く隙あらばいつでも何か掠め取ろうとする。日露関係史を見て、ロシアを好きになる人はおそらく皆無だろう。
この記事を見て、人として愛すべきロシア人と、国家として豺狼のようなロシアというギャップがどこから来るのかという、古くからの疑問を改めて思いだした。結局旧ソ連に関する名エッセイを残した大蔵雄之助氏の言う、親ロ容共批ソ反ス(プーチン)でつきあうしかないのだろう。
・結局は歴史的に見て国家で言う領土とは戦争により勝ち得た国のみがその利益を享受するので有って、負けた側には植民地的な支配が永久に残る意味合いで終始する。 日本の現状は負けた事でアメリカ、イギリス等からの経済支援と領土支配を受ける事で発展を遂げて来たのも事実。 戦禍で不幸にも家族を失い、家も無くなり時代に翻弄され続けた方々のお陰で、自分等の今が有る。 そんな事の意味を忘れる事無く1日1日を生きている。
・シベリアに抑留された方から実際に聞いたことがあるが、そこでは、そんなに酷くない扱いだったと言われていた。送られた場所や看守によって、かなりの違いがあったのかもしれない。この記事の方も、比較的良い状況で過ごす事ができたのでしょう。生きて日本に帰られて本当に良かったですね。
・日本の主張は現在”北方四島”返還のみですが、本来なら南樺太と千島全島も主張すべきだと私は思ってます。10を主張して10を得るのは極めて難しく、特に相手が優位な交渉においては10を主張して1とか2を引き出すのがセオリーではないでしょうか?大昔には北方経済圏と呼ぶべき日本海を中心とした人々の往来があったようですが、ロシアに阻まれいまだに閑散とした”田舎”のまま現在に至っています。おかげなのか皮肉にも千島列島には貴重な自然環境が残っています。ロシアが返還しなければ買収交渉しても領有すべきだと私は本気で思っています。ウロ戦争で国際社会が実力行使による現状変更を認めないとするならば、南樺太と千島全島も同じことじゃないでしょうか?ソ連崩壊が北方領土返還の最大チャンスだったとよく言われますが、近々再度チャンスが巡ってくるのは必至です。その時に備えてカードを切っておくべきではないかと私は思ってます。
・私の母も、母がまだ2歳の時樺太から北海道に引き揚げてきた。祖父は私が幼い時に、病で他界したけど、祖母は102歳まで元気にしていた。母の兄弟は13人と大所帯で、一番上の姉とは、20歳位の年の差だって、私が幼かった時、たまに母方の親戚にあって、樺太の話聞いたことあるけど、何故か祖母から怒られた事がある。それ以来聞かなかったけど、こんな想いしていたんだと、今更知り、申し訳なかったと反省している。幼かったとはいえ、何も考えずに聞いてしまった。
・一番の懸念はもうあの時の実体験された方が日に日に少なくなりもうその貴重な経験は書物になり自分からあえて探さないと知る事が出来なくなりまた繰り返す事だと思う。人間はそう言う生き物であるので欲からの争いにおける犠牲を無くすには、欲を上回る理性で抑え無くてはならない。様々な映像作品でも写し出せないクローズアップされて無い様々な物語が嫌な記憶と一緒にあの当時各所に有った事を考えると、余計に今行われてる争いは醜いと思うけど、やってる当事者や決定者は自ら前線に行く訳じゃ無いのだからゲーム感覚でしか無いのかと思ってしまう。
・樺太は何となく微妙なんですよね… 話し合いで「樺太はロシア領」ってなったのに、日露戦争で日本が侵攻・占領して、 結局「南側はやっぱ日本ね」っとなった土地ですから。 そうなると、ロシアも同じことして「南側もやっぱりロシアじゃい!」とされても、 それほど不思議でもないと言うか。
ただ大問題なのは、軍人でも何でもない一般市民が多数いる場所で 地上戦になったことだと思うのです。 有名な真岡郵便局の事件を始め、北海道への疎開船まで潜水艦に沈められたりと、 そんなのが許されて良いのか…と。 千葉さんの人間としてのロシア人と、ロシアという国に対しての異なる思い、 これはとても重いですね…
・当時を想像してみると不可侵条約を破棄して南樺太に進軍して来たソビエト軍に旧日本陸軍の飛龍四機が爆撃したところで効果は限定的だと思う、軍人はそれを理解していて参謀や上級将校などを乗せて北海道に逃げたのが真相でしょう、
実際ソビエト軍は海軍艦艇も戦闘に参加、艦砲射撃で準備砲撃を行い陸戦部隊が侵入してきました、 民間人にも危害を加え、電話交換手の方は毒を呑んだとか、南樺太を好き勝手に蹂躙したと記錄に有ります、飛龍四機が防衛に加わってもでは侵攻を阻止するのは無理が有ったでしょう。
・思春期に戦争を体験したこの世代の高齢者はもうほとんどいなくなってきただろう。 今の高齢者のほとんどは戦時中または戦後に産まれて戦争の記憶もなく、戦後のガラッと変わった教育を受けて育ち戦後復興、高度成長を謳歌した世代になる。 この数年の違いは本当に大きくて、昔は昭和一桁産まれは~なんて話もあったくらいで、まったく考え方が違う。 その辺の歴史を踏まえて今後の日本のありかた、おカネの使い方を考えていかなとね。
・私の父も豊原中学出身で、たぶん伯父がこの方と同級だと思います。 豊原で『江戸っ子呉服店』を営んでおりましたが、終戦間近に本土に逃げたようです。祖父はソ連に捕らわれシベリア送りとなったと聞きます。 父も、ロシア人は嫌いじゃないがソ連という国は嫌いだと言っていたのを覚えています。関係ありませんが、父の嫌いなものに『カニ』『サケ』海川に行けばいくらでも採れて食べ過ぎたから、『弁当』凍ってしまいお腹がすいてても食べられないから。
・樺太抑留を記事にしてくださってありがとうございます。当時を知る人もかなり減っているので貴重な体験談だと思います。
祖父が恵須取で家具店をやっていました。 祖父が出兵中にソ連に攻め込まれ、残された家族や親族は逃げ遅れて1年程樺太に抑留され、自宅に割り当てられたソ連人労働者と同居していたそうです。 ソ連人労働者は服がボロボロで食糧も無い状態だったため、あまりに哀れでパンを分けてあげていたと聞いています。もしかしたら連行されたポーランド人やウクライナ人等だったのかもしれません。 抑留中に祖父の4歳だった長男が破傷風で死亡、翌年に祖母も心労がたたり病死しています。
・結局領土視点でいえば第二次世界大戦はソ連のための戦争だった。フィンランドやポーランドもソ連に領土を取られたし、バルト三国、カリーニングラード、千島列島、南樺太、黒竜江省北岸と全部ソ連に取られた。 アメリカは枢軸国を倒したが、太平洋の島ぐらいしか取れてないし、フィリピンは独立。スターリンにみんなしてやられた。 世界がロシア人に奪われたものを取り返す時がいずれ来るんじゃあ。
・ソビエトの対日宣戦布告を日本に知らせる駐露大使の電報をモスクワ中央電信局は送電せず、日本側がソビエト参戦を知ったのは侵攻が始まってからだった。 そういうことも教えるべきだと思う。
・亡くなった祖父も軍属だったのでシベリア抑留されました。酷寒の地で重労働、1日の食事は黒パン一個と塩水のようなスープ。亡くなる人が出ても遺体は粗雑に葬られました。個々のロシア人は知りませんが国自体は征服と拡張、抑圧を繰り返してきた力の論理の国で全く信用ならないと思います。北海道だってまだ取れれば取りたいと思ってるのでは?ウクライナを見る限りロシアは何も変わってないと思います。
・樺太の真岡(まおか)の電話交換手の悲しい史実を描いた映画「氷雪の門」。40年くらい前、産経新聞のコラムで上映会があると知り、銀座のYAMAHAホールで観ました。 これが最後です。さようなら、さようなら… 涙が止まりませんでした。 子供の頃から北方領土は日ソ不可侵条約を破って一方的に乗っ取られた、と教わりそれ以降私はソ連が大嫌いになりました。 樺太の若い女性達が青酸カリを飲んで最期を迎えることに衝撃。 映画が終わり、客席から拍手が起こりました。それがとても印象的でした。是非、皆さんにも観ていただきたいと思います。
・日本の終戦は8月15日やけど、戦勝国の 記念日が少し後だな。天皇陛下が軍隊の 武装解除を遅らせたら、満州、樺太、北方四島 の悲劇は少しは解除出来たと思うけどな。 天皇陛下と軍隊の上層部が外交感覚の無さが 招いてた悲劇。沖縄も地上戦で壊滅状態やし GHQの戦犯でなく、日本国民も軍部に対して 同情でなく、批判の目を向けるべし
・今の政府は北方領土の返還を訴えるが、北の拉致被害者と同じように返還などあり得ないと思っていると思わざるを得ない。本気で返還を求めるのなら、人道的にウクライナ支援はするがロシアに制裁は困るといった方向に動くはず。それでも制裁をしなければならないのなら理解はできるが、少なくとも制裁すれば返還どころか漁業で生計を立てている多くの人たちの収入を絶ち北方墓参も止められることは分かっていたはず。尖閣も中国に奪われても何もできない気がする。政府は、無能で弱気な政府の実態を如何に覆い隠そうかしている気がする。はっきり言えることは、拉致被害者や北方領土の返還に真剣に向き合っていないということ。困窮を知らず困窮者の気持ちが分からない世襲政治では無理だと思う。
・関東軍は満州で玉砕し、居留民を守るべきであった しかし、ソ連参戦を知り、先に逃げたのが関東軍だ 卑怯極まりないではないか あのとき関東軍が日ごろの揚言どおりの行動をしていたら、樺太や北方領土までやすやすと占領されることはなかったであろう 旧日本軍は国民に対して罪があるといっても過言ではあるまい
・そう 国家と民間は違う 自分の祖母は母親がロシア人とのクォーターだったため、眼が青い 純日本人の祖父はシベリア抑留から帰還した後で祖母と結婚している 北海道だからかもしれないが、そのことでマイナスを感じたことはないと言っている そしてその影響で自分も大学ではロシア語を学んだ 史実だけではわからない歴史も沢山あるんだよね
・ふと思ったんですが、ロシアの態度や日本の弱腰的に最低でも数年はほぼ有り得ないと思いますが、北方領土を完全に返還してもらい、南樺太と千島列島が仮に日本に再編入された場合、そこは何県になるんですかね。 昔の通り『北方領土=北海道』『南樺太=樺太庁=樺太県』『千島列島=北海道』になるんですかね、それとも『北方領土=北方県』『千島列島=千島県』もしくは『北方領土&千島列島=千島県』と『南樺太=樺太県or南樺太県』になるんですかね。
・戦争に負けて、領土が削られたのは残念。 しかし、満州、朝鮮半島、台湾は、早めに手放せて良かった。ヨーロッパ諸国の植民地のように、独立運動に巻き込まれたら大変だった。 ただ、千島全島と樺太は古来より、アイヌの方々、日本人の足跡がありますから、絶対取り戻しましょう。
・この様な生きた庶民の証言を聞くたびに平和ボケとか言われるが平和憲法を守るべきだと思います。アメリカから押し付けられた憲法だから日本人で憲法を作ろうと言うのが自民党・日本保守党の言い分ですがホントにそれが正しいのですか?アメリカからの押し付け憲法ならなぜ朝鮮戦争の時にしなかったのかな?当時の日本政府も先の戦争でコテンパンに負けた。だから平和を求めたのではないのかな? こう言えば他国が日本に脅威を与えてになるから軍備増強する。これなら暴力団と変わり無いのではないですか?憲法も時の政府の解釈によってどうにでもなるようになっているのが現在の憲法解釈じゃ無いのかな? 報道などを見ても一般庶民はほぼ100%「戦争はよくない・すべきでない」と言いますよ。戦闘員で無い一般市民を無差別に殺害した空襲・原爆と言う大量破壊兵器を使用したアメリカに日本保守党は抗議してるのですか?
・北方領土について誤解している人が多いですが、悪いのはアメリカです
まず大戦後半にアメリカがソ連に対日参戦を強く要求し、揚陸艇を貸し出したり軍事演習を行ったりしてお膳立てをしました これがプロジェクト・フラです
終戦後サンフランシスコ平和条約では日本は自ら南千島(択捉島・国後島)を含む千島列島を放棄しました 条約担当の役人だった西村熊雄が国会で「南千島は放棄予定の千島列島に含まれる」と答弁しているので事実です
その後、日ソ間で残りの二島返還(色丹島・歯舞諸島)をベースに交渉し、返還が決まりかけました ところが領土問題解決による日ソ接近を嫌ったアメリカが「日本がソ連と二島変換で妥協する場合はアメリカは沖縄を返還しない(それが嫌ならソ連への要求を四島返還に引き上げろ)」と日本を恫喝し(ダレスの恫喝)、日本側がこれを飲んで要求を引き上げた結果、ソ連との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました
・樺太って、私たちの太平洋戦争観の ちょっと域外になりがちなところだと思います。 アメリカに負けた→樺太はソ連です 沖縄は唯一の地上戦→樺太でも地上戦ありました 8月15日で戦争は終わった→樺太の悲劇はその後 私も詳しくはないのですが、 歴史が埋もれないようにしたいものです。
・こういう記事、もっと目に触れやすくしてください。ワイドショー的などうでもいいのをトップに持ってこないで、夏のこの時期だけじゃなく普段から目につくようにお願いします。我が子らと大事なことを教え話すきっかけになるんですよ。
・抑留された方の中には作業中に現地の方で作業に参加されていた(ほぼ女性)女性と恋仲になったなんて話もありますし、音楽を通じて言葉は通じないけど仲良くなったなんて話も見聞きしました。国の政策はどうあれ、1対1の個人なら仲良くなれるのでしょうね。
・大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)は、白人の支配からアジア圏の国々の主権を取り返すために日本が立ち上がった戦争である。 そして、当時のソ連スターリンは、日ソ中立条約があったため日本を侵攻しなかったが、 ヤルタ協定により米ルーズベルト英チャーチルの口車に乗せられ、日本が完全に敗北が決定的になってから動いたのだ。
ヤルタ協定の内容は、日本を侵略すれば、取った面積は自国のものにできる、というものだ。 ソ連は汚いやり方をしたと誰もが思うが、そのレールを敷いたのは米英なのだ。
アメリカは日米地位協定(日米安保条約)によって、核の傘を謳い文句に日本を完全に支配している。これは日本のどの場所であっても、米軍基地を置けるというものだ。
だから北方領土は帰ってこないのだ。ロシアは北方領土に米基地が置かれることを許す訳にいかないのである。 つまり諸悪の根元は米であるということだ。
・終戦時のドサクサ紛れ(それも敗北宣言とも言えるポツダム宣言受託後)に、千島列島ともども国際法からも何処からも合法的に日本領としていた南樺太に侵攻し、彼の地に居住する住民達を蹂躙さた旧ソ連軍のやり口を日本人は決して忘れてはならない。 今の日本、北方四島の返還を悲願としているが、個人的には「冗談じゃない、千島列島全て、そして樺太全島(サハリン全て)を日本返すへきだ!」と言いたい。 連合国の密約だか何だか知らないが、日ソ不可侵条約を一方的に違えての不法占拠など許されない! いくら敗戦国日本でも毅然と、言うべきことはいい、主張すべきは主張する!でなければ、本当の主権国家とは言えないだろう。
・関東軍は北進のための軍隊だったし、日ソ中立条約も独ソ戦を奇襲にするための偽装という説もあるし、「裏切り」云々についてはどっちもどっちというしかないところもある。ソ連の和平仲介に謎の期待をし続けた当時の指導層のあたおか振りとかを嘆いたほうがいい。北海道全部とられていても不思議はなかったのだから、アメリカに感謝したほうがいいのかも(ソ連参戦を要請したのもアメリカだが)。満州国とかのことを考えると、日本人がなにいってもおまゆうだね。
・帝国陸海軍の仮想敵国は本来、一貫してソ連だった。そしてソ連の脅威からの防衛という目的のために日英同盟を締結し、朝鮮を併合し、満州国を建国したにも拘わらず、日中戦争の泥沼から抜け出せず、戦争継続するための資源確保のため、英米蘭の植民地権益を侵害することになり、英米が敵国となり、ソ連とは相互不可侵条約を結んでしまった。中国大陸からは手を引けばよかったのだ。そして、政府・軍の上層部もそうしたかったのに、それでは日中戦争で命を失った兵士たちは犬死にではないか、との「国民」の声があってできなかったのだ。戦後、軍部の暴走が日本を無謀な戦争へと駆り立てた、という総括をされてしまっているが、違う。国民にも大きな責任がある。経済学で言うところの「埋没費用」にとらわれすぎてしまった。あのときソ連と不可侵条約を結ばなかったら、ソ連はナチスに勝利できなかった可能性が高い。世界は大きく変わっていたはずだ。
・日露戦争でもシベリア出兵でも樺太全島占領してたのに手放したのが痛すぎたね。樺太が日本の領土だったら石油も天然ガスも産出されるからだいぶエネルギー事情も良かったのに
・そもそもこんな国と国境を接することになる、日露戦争をするべきではなかった。 ロシアは西ではドイツ、オーストリア、オスマンといった国と対立し、朝鮮半島まで侵出する余裕は無かった。 ロシアがアジアで欲しかったのは、清が欧米の半植民地化する中での権益だ。
・ロシア人と関わった事がある人なら分かると思うけど、ロシア人は言葉が通じなくてもかなり親切にしてくれる人が多かった。そしてやはり飲みニケーションはロシア人と仲良くなる鉄則ですね。 しかしなぜか国家単位になるとかなり冷淡で裏切りも厭わない国。個人の付き合いで嫌な思いしたことないんだけどな。
・ポツダム宣言後に軍事侵攻、そしてサンフランシスコ條約で権利を放棄した、、、 想像だけどロシアの教育ではポツダム宣言が抜けてるんではないか?そしてサンフランシスコ条約での日本が権利放棄した事だけを正当化してるんでないのかと思ってしまう。
・>小学校でロシア人、朝鮮人、日本人の小中学生らが時間交代で学んだ
書籍で、樺太で終戦を迎えた朝鮮人のその後、を読んだ。上の記事の一文だけでも、それなりの朝鮮人が当時いたことが推測できるだろう 日本人はすぐではなくても、この記事の方のように母国日本に順次帰国できた
朝鮮人は半島の混乱、朝鮮戦争勃発、半島への帰国はかなわなかった。 朝鮮半島停戦。半島への本格的帰国が開始された。ソ連の友邦「北朝鮮」に限る。大きな病気をして、幸い?だろう、平壌の大病院に入院できた話もあった話はあった
・自身、北海道の出身だが、母の話では、ある日、庭に隠れていた少女を見つけた。問いただすと、樺太から着の身着のまま逃げてきたと。それから、その少女をお手伝いとして家に置いた。数年後結婚先が決まり、母の家から嫁いで行った。
・本土決戦名目で、大陸から多くの軍人が参戦前に帰国している。 そっちも重要だが、満州の防衛をしないなら早めに非難させるべきだった
居留民の避難は人数が多すぎて不可能だから放置したのだろう。
本土決戦があったら、ここまで満州軍は非難されていない。
・日本は敗戦国とはいえ、ロシアと戦った訳でもロシアに負けた訳でもない。日本は広島、長崎に原爆を投下され、8月15日に戦争を放棄したのに、ロシアは9月5日に北方領土に侵攻したと聞く。日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、日本に軍事侵攻したロシア人は、未だに信用出来ない。
・ロシアにいくら働きかけても北方領土は還る事はないでしょうね。 ロシアにとって制空・海域どちらもこの上ない軍事的要。 プーチンが全ての権力を失うような崩壊が起き、ロシアが解体されるか、余程民主的な政権が後を継がない限り、日本は話し合いのテーブルにつくことさえ出来ない。 鈴木とか言う議員が今までロシアに尻尾をふって金儲けしていたようだが、結局墓参まで拒否されたようだし。 日本人はなめられてるんだよね。
・ロシアは北海道もロシア領土と思っている人がいる それは北海道もウクライナ同様の理論でいつ来てもおかしくはないのです
いつの時代も同じ 侵攻するかしないかは違うが 敵に勝能力を持っていなければ 守る事すら出来ないのだよ
韓国同様、日本もアメリカの核の傘ではなく 自国性の核が必要なのです
台湾奪取の指示も既に発動されているのだから 中、ロ、北は、いつどこで始まってもおかしくない時代に入っているのです
・>「ロシアは今でもウソばっかりの泥棒の国だと思っている・・・・ だけど、人間としてはロシア人も日本人もおんなじ ・・・友好的で信用できる国になってくれたらいいんだけどね」
第二次世界大戦の特に初期において、ロシア(旧ソ連)は明らかに侵略者。 ポーランドの東半分とフィンランドに軍事侵攻し、更にバルト3国やルーマニアのベッサラビアや北ブコビナを強引に併合し自国領土に加えてきた。 それがヒトラーのナチスドイツ侵攻後、 その膨大な被害から、正義の連合軍の一員として振舞ってきた。 だがしかし、現在のウクライナ戦争でのロシア政府の態度をみれば、 上記1行目の この方の言葉は依然として真実であり続ける。
・占守島の戦いが無かったら北海道はおろか場合によっては東北の北半分も取られていた可能性があった。ソ連軍艦は冬季凍結しない津軽海峡を航行して太平洋にどうしても抜けたかったんですよ。
・今度は取られた日本領土の北方領土を取り返す時期が来ますよね。ロシアが分裂は直ぐそこに見えて居ます。攻め込み取り返す事を大事です。誰か何を云おうが旧日本領土です。民兵組織の必要性があります。コレからは強い右翼政党が必要です。
・スキを見せれば攻められる可能性は今でも有ります。大陸や半島、北。我が国は核保有国と国境を接しているのです。 話し合いで全てが解決出来ると考えるのは危険です。攻める口実を与えない事、反撃を受けるリスクの存在を明確にする事。これ無しでは国家を守る事は出来ません。 既出国家に占領統治される事は死ぬよりも辛いかもしれません。私たちは日本人なのですから。
・「北海道の北半分の占領をもくろんでいたソ連軍」、、、多分、今もロシアは諦めていないよ!!!ウクライナ敗戦、ほとぼり冷めて北海道侵攻、、、、日本の政権交代時にありそうだね!そして、北海道の最前線では、元ウクライナ兵って感じがするな。情もなにもあったもんじゃないな!戦争なんて、ルールもモラルもありはしないよ!おまけに無敵君ロシアだしな。。。絶対にウクライナ敗戦を阻止しないと、今は、ウクライナにどんどん金を支援していかないとね。極秘に自衛隊をウクライナに送り込んでもいいくらいだよ!!!
・(外海)敵はどれほど卑劣であったか。
世界共通ではない。 外海は「損・得」で「善・悪」を決める。 「善悪や正義」は、その国の人々(先祖の生き方)や歴史・文化から受け継いだモノであり、 日本人は、その繋がりの中にいるから、理解しづらい。「きっと、そんなことはしないだろう。」と。
白人以外は人間ではないという世界で、どの国が人種差別に反対したのか、 また一方、彼らは遠く離れたアジアにいて一体何をしていたのか?
大東亜戦争で日本とぶつかる事を望み、結果、その触手を引っ込めたのはどの勢力か?
今、当たり前のように語られている表向きの価値観(戦争は悪)、それは欧米がどの国を恐れ、誰の犠牲で作られたのか? そして有りもしない罪で日本の英霊を殺害する。
日本が戦争で戦い守ったモノこそ損・得ではない、 今を生きる日本人の命、そして自由。
子や孫に命を繋ぐ意味を軽んじてはいけない。
・何でも事を荒立てたくない日本政府。
まあまあまあ…で分かり合えるのは日本人のみ。外国人にそんな事言ってたら、単なる譲歩以上のどうぞどうぞ。
未だに日本、北方領土も竹島も、しかりだけど、日本固有の…とか言ってるけど、実効支配が結局完全フォール勝ち。
とはいえ、日本は核も持たず大国と渡り合えるとか到底無理だけど。
※広島、長崎の悲惨な出来事を、知ってるし核の無い世界が勿論良いけど、平和脳は日本だけの話。難しいよね。
・日本の終戦は8/15ですが、当時ソ連はそんな事知るか!で侵攻しましたからね。 アメリカが原爆を投下したのも、戦後処理で優位に立つためとか言われてますし… ソ連に好きなようにさせたく無かったんでしょうね。 もしもソ連がそのまま北海道を占領して南下していたら、朝鮮半島のようになっていたかも…
・力で奪われたものは力で奪還するしかない。米英とで組んでロシアを弱体化させ、弱ったところで奪還するまで日本人は臥薪嘗胆の精神で頑張らねばならない。
・『ジョバンニの島』という北方領土をわかりやすくしたアニメ映画があります。あれを高齢の方が見てブチ切れて『こんなんじゃない!』…きっと歴史で隠されている事が沢山あると思います。
・日本では玉音放送のあった8月15日が終戦の日ですが、連合各国の認識は調印があった9月2日が終戦の日です。 軍を撤退した旧日本軍に責任があります。
・昭和の40~50年代。 都会の仕事場とか色々な所に、引揚者がいました。 樺太や満州の方々は、話すのが嫌だという方が多かったですよ・・・ 聞けなかったし・・・・ 叔父のビルマの方が、なんかマシな感じ。
それぞれの歴史的背景があるけど、戦前からの赤軍行動は特出して残忍だったのは不文律。 戦勝国になったせいで、消されてしまっているのが滑稽でもあり、人類の後退の歴史。
・公文書よりわかることはアメリカ主導で行われたことですがロシアも便乗したわけです。折り合いをつけるにはやはりアメリカに納得してもらうのが先になりますね
・樺太の占領軍はソ連だから、沖縄より戦後は過酷。未だにというか永遠に返還されないだろう。でもロシアと直接国境を接したくはない。
・母も樺太からの引き上げ者です 全身真っ黒に焼けただれ助けを求める女の子を横目に懸命に逃げまわったのを今でもおぼえていてその事を無理やり忘れていたのを最近やっと話せる様になったと
・本当は 日本の半分南側はアメリカ 日本の半分北側はソ連 と別けるつもりだったらしいけど 結果、北海道以南はアメリカ占領でよかった
もし、日本が南北で別けられていたら、今の朝鮮半島みたいになっていたかも
・ソ連は後出しジャンケンで卑怯なやり方をしたからね。そのやり方は今も変わらないけど。
戦争の悲惨さ惨さを伝え残さなきゃならん とか言うわりに、この時期になると放送していた火垂るの墓や はだしのゲンを放送しなくなったよね。 何で? 言ってることとやってる事が真逆じゃん。
・ソ連は日ソ不可侵を破って日本を攻撃したけど、ヤルタにて連合軍は了承済み。 しかも、終戦は8月15日で無く正式には9月2日。 結果、国体護持をこだわって国民を犠牲にした当時の政府がいちばん愚かな事は間違い無い。
・どうせ帯広に退避させても結局は戦勝国に没収解体されるんだろから、抗戦に行っても良かったかなとは考えられるけど乗組員の犠牲も伴う判断になるよね。
いずれにせよ、軍は沖縄でもそうだけど住民を退避させずにさっさと逃げ帰ってたんだから、ある意味戦犯だよね。
・腹立たしい内容だなぁ。 今はロシアと仲悪いけど、ずっとそれでいいのかも。 ロシアがウクライナと消耗戦の渦中 敵は本能寺じゃないが、敵は北方領土にありって、 戦前なら奇襲攻撃して奪え返しやってたんだろうなと。
・ロシアはソ連時代よりずいぶんと弱体化している。北方4島も維持する為に苦労している。将来はさらに衰える。ホンネは中国が恐い。冷たく眺めていましょう。日本が弱体化するスピードの方が問題。
・当時のソ連のやり方はとても卑怯で汚い。近所にシベリアから生還したおじいさんが住んでいたが毎日拷問と強制労働が続き冬は氷点下で次から次へと仲間が死んでいったと話していました。私はあの国を信用も許しもしないです。
・日ソ不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告してきたのは、日本の隣国のロシアである事を忘れてはいけない。 またロシアが攻めてきた時、今の憲法で交戦するのだろうか?
・憎しみは何も生み出さない。武力で奪えても人々の心までは奪えない、だからウクライナの人も最後まで戦うのだろう。
・エンジンの不調が表面化して もっと悲惨だったかもしれないが せめて紫電改か疾風の部隊が奇跡的にいたら 占守隊と短期間に追い出しす神風が吹いたかも 犠牲者に黙祷
・結局はアメリカの意向次第だったわけで 終戦日以降にもなお犠牲になった樺太の民間人、千島列島の軍人を思うと 切なく胸が苦しくなります
・まあ、先の大戦で日ソ平和条約を無視して突然、旧満州や樺太に侵略したソ連は一番許せん。二番目は敗戦が決まり敗戦を受け入れる御所会議中、ソ連スターリンに見せしめの原爆を落とした米国。
・もし今、南樺太に日本人が住んでいたら ロシアはウクライナじゃなくて樺太に侵攻してただろうね。ロシアは悪い国と言う印象を継続させたいよね。
・資源を持たない小国が、大義も勝ち目も無い 侵略戦争を おっ始めたのだから、今さらソビエトの蛮行に恨み辛みを向けても 仕方が無いでしょう... .....軍人軍隊や右翼が威張るような国に待ち受けているのは破滅です。
・そういやあドイツや日本はまだ国連の敵だったね。常任理事なんてことより、これを外してくれないかな、ロシアの牽制くらいにはなりたいよね。
・元をたどれば、全ては、宣戦布告をした日本が悪い。
ノーペナルティーで済むわけがない。
ちなみに。本土攻撃を受けるまでは、日本人は儲かるしイケイケで盛大に浮かれていたからな。
敗戦色が出てきてからの事をずっとネチネチと言っているだけだよ。
そりゃ辛くなるのは当然だよな。敗けてるんだから。
・そもそも大東亜戦争で無条件降伏を決心したのは、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州とソ連の国境付近においてソ連が侵攻してきたから。 さすがにね、アメリカと真正面で戦っているところソ連に横やり入れられたらそりゃ無理ってもん。 「原爆投下したし、条約破棄して侵攻するチャンスじゃね?」とか水面下でやってたんじゃねーの。
・ルーズベルト「ソ連!北方関連をやるから、俺と協力して日本をたたけ!」 ソ連「北海道もちょーだい!」 ルーズベルト「ダメだ。」 ソ連「なら協力しない」 (広島・長崎に原爆が落とされる) ソ連「あかん、このままじゃ日本が降伏して北方が取れないじゃん!せや!条約無視して北方及び北海道取ろう!」 これが事実。 尚同じことをトランプがしようとしている ※具体的に中国に尖閣やるから、台湾には手を出すな的な内容。
・ソ連は条約を破り日本に攻めてきた! 今もロシアはウクライナに攻め込んでいる。 昔と変わらないな! 自分達がウクライナに攻め込んでおいてウクライナからの反撃を侵略という言葉で非難する。 どこまで常識はずれの国なんだろう!
・ヤルタ会談で決めたのでは?早く終結させたいと・ ソ連と米国の利害が一致。お爺ちゃんはシベリアへ 帰ってきましたが、寒さで耳が難聴に、米国は核2発を、 戦争犯罪はないのです。勝てば官軍と・・・
・どうせなら占守島で必死に日本を守ろうと戦ってくださった方々の記事が読みたい あまりにも占守島で戦ってくださった方たちへの感謝を忘れてはいないか
・人と人はわかり合えるのに、国という単位になるとわかり合えない…。 わかり合うための努力はしてるんやろうけど…。戦争は無くならないのかなぁ…。
・"北のひめゆりの皆様"や"占守島守備隊"のことは教科書に載せて欲しい 玉音放送後の8月末まで"占守島守備隊"の奮戦なくば、北海道は奪われていたと思う
・占守島で戦ってくれた日本軍によって 民間人を避難させる時間を稼ぎ、ソ連の北海道上陸を防ぐことができた。 同じ日本軍でもさっさと武装解除して助かろうとした満州の日本軍とは大違い
|
![]() |