( 207516 )  2024/09/01 17:17:32  
00

20年前に比べ、浪人を選ぶ人が半分に減っている現在、浪人の経験による意識の変化や影響について浪人経験者のインタビューが行われている。

今回の米村高さんは3浪で兵庫県立大学に合格し、東京大学大学院に進学している。

高校では勉強環境や浪人生活などについて語っており、浪人を経て大学に進学するまでの苦悩や成長が描かれている。

(要約)

( 207518 )  2024/09/01 17:17:32  
00

※写真はイメージです(写真: Fast&Slow / PIXTA) 

 

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?  自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 

今回は1浪で私立中堅大学に入るも中退し、3浪で兵庫県立大学理学部物質科学科に合格。現在は東京大学大学院新領域創成科学研究科・修士1年生の米村高(こう)さんにお話を伺いました。 

 

【写真】3浪で兵庫県立大学に合格した米村さん 

 

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 

 

■大学に行くのが苦痛で中退する 

 

 今回お話を聞いた米村さんは、3浪で兵庫県立大学に入った方です。 

 

 「大学に行くのが苦痛」で中堅私大を退学した彼は、2度目の大学生活を「めちゃくちゃ楽しかった」と振り返ります。 

 

 その意識の変化には、フリーターをしながら再び受験勉強をしたことが大きかったようです。浪人生活のどのような要因が、彼の意識を変えたのでしょうか。彼の3浪の生活に迫ってみました。 

 

 米村さんは埼玉県の自営業の家庭に生まれました。幼少期は鉄道が好きで、買ってもらった時刻表を貪るように読んでいたそうです。 

 

 「時刻表から知識を得ていた子どもだったようで、小学校に上がる前には地名を覚えたり、四則演算ができるようになっていたそうです。ほかにも、プール、野球、サッカー、絵画スクールなどたくさん習い事をさせてもらいました」 

 

 習い事に対しては「特段嫌なわけではないので、とりあえず通うか」という気持ちで通っていたと語る米村さん。 

 

 その背景には、”子どもは小さいうちにさまざまな体験をするのがいい”という教育熱心な母親の考えがあったそうです。 

 

 「地方の私立大学出身だった母親は、子どもにはいい学校に行かせたいという思いがあったようでした。そうした考えもあり、小学校受験をして、私立の自由学園の初等部に入りました」 

 

 自由学園では成績を競う文化はなく、のびのび過ごしていたと語る米村さん。しかし、小学校3年生のときに人生を変える出来事が起きます。 

 

 

 「小学校2年生くらいから、両親が喧嘩をするようになりました。その時期から父親と僕で話す時間が増えたのですが、父から3年生の末頃に『お母さんと離れて暮らそうと思うんだ、一緒に来ないか』と言われたのです。父に親しみを感じていた僕は『行く』と答えて、和光市から練馬区の大泉学園に引っ越し、父親と2人で住むようになりました」 

 

■親の別居で転校し、中学受験を決意 

 

 離婚はせず、籍を残したままの「別居」は、米村さんの成人が近くなり、正式に離婚が成立するまで続きました。 

 

 「もともと自由学園は母親が入れた学校でしたし、父親はどちらでもよかったようです。僕自身は公立でもいいかなと思って転校したのですが、学校の授業が(前の学校ですでに習っていたところだったため)暇で、難しい内容を扱う塾のコースに入りました。そこがたまたま中学受験のコースだったので、その流れで中学受験をして、神奈川県にある鎌倉学園に合格しました」 

 

 こうして鎌倉学園中学校・高等学校に入った米村さん。元々、鉄道好きだったこともあり、鉄道模型を買ってジオラマを作ったり、毎年夏になると青春18きっぷを握りしめて全国を旅行したりと、鉄道研究部の活動に没頭しました。 

 

 高校に入ってからは弁論部に入り、中高生向けのディベート全国大会、『ディベート甲子園』を目指しました。それには鉄道研究部の定例会議で議論になった際に、なかなか自分の意見が主張できず、押し黙ってしまった悔しい思いがあったようです。 

 

 ディベート甲子園を目指して頑張ったものの、最初は試合に出ても負ける日々を送っていた米村さんですが、強くなるために他人の練習風景を見たり、大人のアドバイスをもらうなど努力を積み重ねました。 

 

 「全国大会に行けたというのが自分の中の成功体験として、大きかったです。そのときの経験から、自分なりに工夫すれば目指したい方向に行けるんだという自信になり、大学でもディベートを続けたいと思いました。当時日本語競技ディベートに取り組んでいる代表的な大学が東京大学とほかにもう1大学くらいだったので、東京大学理科1類を第1志望にしました」 

 

■東大はずっとE判定だった 

 

 高校2年生のときの成績は、学年170人中30~60位と悪くはなかった成績。しかし、東大を目指すには振るわず、トータルの偏差値はよくて全統河合記述模試で55前後。MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)でやっとC判定が出ましたが、東京大学はずっとE判定でした。 

 

 

 「このままではさすがにまずいのはわかっていたので、高2の秋で部活を引退して、受験勉強に集中しました。食事や寝る時間以外は勉強に費やすぐらいの生活を送り、行き帰りの電車の時間もずっと勉強していたのですが、成績はなかなか伸びず、高校3年生の4月ごろには横浜国立大学の理工学部に志望校を変更しました」 

 

 とはいえ、横浜国立大学でも判定はE~Dがほとんど。センター試験では65%に終わり、前期は横浜国立大学・後期は電気通信大学を受けるもどちらも不合格に終わりました。 

 

 さらに私立は早稲田・東京理科・明治などたくさん受けたものの、センター利用で合格した中堅私大以外は全滅でした。 

 

 「3年生の夏に、『米村くんは(成績的に)明治以上の大学を受ければいいよ』と先生に言われたのですが、ダメでした。(センター試験も)鎌倉学園生としては下のほうで、伸び悩んでしまいました」 

 

 合格した大学はあったものの、米村さんは浪人を決断します。その理由は、「最低でもMARCH以上に行かないとダメだと思ったから」でした。 

 

 「うちの学校では、MARCHには行けるだろうという空気はあったのです。だから、自分が受かった中堅私大では行く意味がないと思い込んでしまい、そこに行く自分を受け入れられませんでした」 

 

 「今では合格をいただいた大学には本当に申し訳なく思っていますが」という前置きのうえで、当時の悔しさを語ってくれた米村さん。 

 

 しかし、どうして十分な勉強量を確保していたにもかかわらず、高校3年生になってから成績が伸び悩んでしまったのでしょうか。 

 

 話を掘り下げて聞いてみると、どうやら「暗記偏重の勉強」が大きな原因であったようです。 

 

 「参考書の記述を見てわからないことがあったら、わからないまま暗記をして済ませていたんです。理解するまで考えたり、ほかの文献を参考にするという習慣がありませんでした。高3の9月ごろまでまったく偏差値が変わらず、自分より下の成績だったはずの人たちにどんどん抜かされたことで、ようやく自分の勉強法がおかしいと感じました」 

 

 

■休むことなく勉強したが、まさかの全滅 

 

 しっかり理解することの重要性を現役の受験で学んだ彼は、駿台藤沢校に通って1浪目の生活を送ります。 

 

 朝8時半の授業開始に間に合うように予備校に行って、17時まで授業を受け、21時まで自習室でひたすら勉強する1年を過ごしました。 

 

 その結果、この当時志望していた東北大学の判定ではD~C判定が出るようになりました。センター試験も、前年度より点数を100点ほど上げて75%。「今年こそ受かる!」と思い各大学に出願します。 

 

 「1年間まったく雑談をすることなく、昼休みも国語の参考書を読む生活でした。1日11時間くらいは勉強していましたね。だからセンター試験の結果を見て、東北大は厳しいけど、自分の能力にしてはよく頑張れたと思ったんです。それで前期は北海道大学、後期は金沢大学に出願し、私立大学は一般が明治、東京理科、センター利用は法政、明治、東京理科、青山学院に出しました。何校かは受かるだろうと思っていました」 

 

 しかし、ふたを開けてみればなんとこの年も全落ち。これにはさすがに米村さんも想定外で、とても驚いたそうです。 

 

 「落ちた理由はよくわかりませんでしたが、今にして思えば、予備校の膨大な課題を消化できるほどのキャパが自分自身になかったのかもしれません。復習も時間をかけたつもりですが、人に伝わるように自分の言葉で話せるほどの理解度ではありませんでした。深い理解をする復習ができていなかったのでしょう」 

 

 まさかの事態に慌てた彼は、「2浪はきつい」と思い、私立大の後期試験で唯一合格した大学に進学することに決めます。しかし、この大学は現役のときにも受かった中堅私立大学でした。進学した大学で彼は、自己肯定感が地に落ちてしまったようです。 

 

■いったんは進学するものの、悩む日々 

 

 「受験勉強にたくさん時間を使ったのに結果が出ず、病んでいました。その中堅私立大学では授業中に先生から『うるさい!』と注意される学生が多くて、なんでこんなにやる気ない人たちと一緒に授業を受けないといけないんだと思って悩んでしまいました。 

 

 それが積み重なって、緊張の糸が切れていき、生活のためにやっていて楽しかった塾講師のアルバイトのときだけ外出するようになったんです。でも、2~3月になると成績表が届き、父親が後期の単位をすべて落としているのに気づきました」 

 

 

 
 

IMAGE