( 210991 )  2024/09/12 15:05:09  
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信子さまは、寬仁親王の薨去後、旧宮内庁長官公邸で生活しており、近くの旧侍従長公邸も使用されていたことが明らかになった。

信子さまは医師の診断や夫婦仲の悪化により別居生活を開始し、20年以上にわたる家族の確執が続いている。

愛憎劇の歴史は、寬仁さまとの幸せな家庭生活から始まり、がんとアルコール依存症の影響で関係が悪化した。

信子さまと彬子さまの確執は修復不可能と言われ、皇室内の話題となっている。

信子さまは旧宮内庁長官公邸の改修を行い、宮内庁や国民の理解を問われている。

(要約)

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旧宮内庁長官公邸で生活されている信子さま /(C)JMPA 

 

「8月30日、宮内庁が来年度の予算の概算要求を発表し、皇室行事で着用される愛子さまのティアラ、ネックレスを新調する予算は計上されませんでした。 

 

【写真あり】信子さまとの断絶が囁かれている娘の彬子さま 

 

天皇陛下と雅子さま、そして愛子さまは、物価高のために多くの国民が苦しんでいることを憂慮されており、ティアラ新調を見送ることを決められたのです。 

 

そのいっぽうで、三笠宮家の信子さまのお住まいの改修工事に、2年間で約13億円も費やされることが明らかになり、宮内庁内でも驚きの声が上がっています」 

 

そう語るのは皇室担当記者。 

 

信子さまは、夫・寬仁親王が薨去する前から、旧宮内庁長官公邸で生活されているのだ。 宮内庁関係者はこう話す。 

 

「’04年春に信子さまは更年期障害や胃潰瘍と診断され、同年7月から軽井沢の実姉の別荘で、療養生活を送られました。2年後に寬仁親王邸に戻られた後も入退院を繰り返され、結局’09年秋から旧宮内庁長官公邸で生活されることになったのです。 

 

“寬仁親王邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発される恐れがある”という医師の見解も発表されましたが、夫婦仲の悪化による別居にほかなりませんでした」 

 

今回明らかになったのは、信子さまが旧宮内庁長官公邸だけではなく、隣接する旧侍従長公邸まで使用されていたことだ。 

 

「“事務棟”として使用されているとのことですが、ほとんどの宮内庁職員もその事実は知らなかったのです。2つの建物の間に渡り廊下を造ったり、段差を解消したり、エレベーターを設置するなどバリアフリー化を進めるそうです。 

 

信子さまは寬仁さまが薨去した後も、宮邸にはお戻りになりませんでした。それは彬子さまと瑶子さま、二人のお嬢さまとの間に深刻な確執が生じていたからです。しかし皇族とはいえ、“母娘が不仲で一緒に住めないから、別居宅の改修に13億円の税金を投入する”という事態に、理解を示す国民がどれほどいるでしょうか。雅子さまも宮家の状況に深く悩まれていると伺っています」(前出・宮内庁関係者) 

 

 

莫大な改修費を生むにいたった三笠宮家内の愛憎劇。その歴史は20年以上に及ぶ。“ヒゲの殿下”と呼ばれ、国民からも人気があった寬仁さまが、麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚されたのは’80年のこと。 

 

彬子さまと瑶子さまという二人のお子さまにも恵まれ、幸せな家庭を築かれたのだが、’91年に寬仁さまが食道がんに……。 

 

食事を6回に分けて召し上がらなければならなくなったが、信子さまは献身的に食事作りに励まれたという。当時、信子さまは本誌「シリーズ人間」に登場され、看病の日々について、次のように語られていた。 

 

《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》 

 

だが何度もがんを発症されるなか、寬仁さまの酒量は増え続け、夫婦の距離はどんどん開いていった。関係悪化の原因についてはさまざまな証言があるが、寬仁さまと長年の親交があった男性は、本誌の取材にこう語っていた。 

 

「お二人の関係が、こじれてしまったのはアルコール依存症の治療が原因だったのです。 

 

その当時は、まだ病名を公表していませんでした。信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院していただいたようですが、実際は依存症治療のための入院であることを知った寬仁さまが激怒されたのです」 

 

夫婦ゲンカが絶えなくなり、信子さまは’04年から別居生活を始められたが、このご決断は、彬子さま、瑶子さまとの亀裂を生じさせることになった。 

 

彬子さまはのちに『文藝春秋』(’15年7月号)に掲載された手記で、母と絶縁関係にあることを明かされた。 

 

《最近ある雑誌にも書かれていたけれど、寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》 

 

“十年以上”とは、信子さまが軽井沢でのご療養を始められた時期と一致する。前出の宮内庁関係者によれば、 

 

「’22年に彬子さま監修の寬仁さまの遺稿集『ひげの殿下日記』(小学館)が出版されたことからも明らかなように、お嬢さま方は心の底から寬仁さまを敬愛されています。お二方からすれば、“病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて許せない”というお気持ちになったのでしょう。 

 

寬仁さまは’12年6月6日、千代田区の杏雲堂病院で薨去。危篤状態の寬仁さまに会うため、信子さまは何日もタクシーで病院に通われたのですが、“ご家族の意向”により、ご夫婦の対面は最後までかないませんでした。 

 

ご葬儀も喪主は彬子さまが務められ、信子さまは参列されていません。結果的に看取ることも、葬儀への参列もできなかった信子さまは、三笠宮家への態度をより硬化されていったのです」 

 

別居から20年、寬仁さまの薨去から12年……、母娘の確執は“もはや修復は不可能”とささやかれるほどになっている。 

 

「“寬仁親王家の消滅”もさらに確執を深める原因となってしまいました。寬仁さまのご両親である三笠宮崇仁さまと百合子さまの後押しもあり、彬子さまが親王家の当主の座に就かれることになったのですが、信子さまが絶対に認めようとされず、実現しなかったのです。 

 

彬子さまにとってお父さまのお名前を冠した宮家が、“母の反対により”消滅してしまったことは痛恨だったことでしょう。また’13年に信子さまが公務に復帰された際、“姑”の百合子さまは対話を求める手紙やファクスを送ったそうですが、信子さまは応じようとしなかったのです」(前出・宮内庁関係者) 

 

 

信子さまと彬子さま、両サイドの主張はメディアも巻き込んで真っ向から対立している。 

 

’15年、『週刊文春』が“信子さまの現状を知る人物”のこんな証言を報じた。 

 

《(問題の)すべては寬仁殿下のドメスティック・バイオレンス(DV)に端を発しているのです》 

 

この報道直後に、彬子さまは『週刊新潮』の単独取材に応じるという異例の対応を取り、DV疑惑を次のように完全否定されたのだ。 

 

「私が見ていた限り、父が母に対して手を上げたことは一度もありませんでした」 

 

国民から敬愛を集める皇室で繰り広げられてきた、夫妻、母娘、そして嫁姑の確執……。 

 

「天皇皇后両陛下も、心を痛め続けてこられました。ただ皇室では、他家の内情に口出しをしないことが不文律になっており、ご仲介もできなかったのです。 

 

彬子さまは留学記『赤と青のガウン』(PHP研究所)がベストセラーになり、9月16日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にも出演される予定で、いまや“皇室のスポークスマン”とも言うべき存在になっています。いっぽう信子さまは、何かにつけて両陛下のもとにご相談に行かれているそうです。女性皇族のリーダーである雅子さまとしても、どちらかに肩入れすることもできず、苦悩されているのです。 

 

また、いまのお住まいを大規模改修するということは、信子さまにとって“もう婚家の三笠宮邸はもとより、自宅だった寬仁親王邸(現・三笠宮東邸)にも戻るつもりはない”という意思表明にほかなりません。このことが母娘バトルの鎮静化を意味するのか、さらなる激化を暗示しているのか、関係者は注視しています」(前出・宮内庁関係者) 

 

’92年の「シリーズ人間」インタビューでは、「厨房は子どもたちとのコミュニケーションの場でもあります」と、語られていた信子さま。 

 

母娘が在りし日のキッチンでの語らいを思い出されることはあるのか。 

 

「女性自身」2024年9月24日号 

 

 

 
 

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