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2024年7月、アニメのワンフェスにて展示されていたアシェットの「スコープドッグ」について。

バンダイナムコフィルムワークスのアニメ制作ブランド「サンライズ」は老舗で、『機動戦士ガンダム』など多くの有名ロボットアニメを制作してきた。

特に高橋良輔と富野由悠季は有名な監督であり、作風には違いがある。

高橋監督はミリタリズムを取り入れた陸戦を得意とし、その作品のロボットには現実的な要素が反映されている。

高橋監督がこれらの作品で描く世界観は、自身の人生経験や職歴に由来しており、特に乗り物に対する関心や整備技術が影響を与えている。

(要約)

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2024年7月、幕張メッセで開催された「ワンフェス」に出展していたアシェットの「スコープドッグ」(齋藤雅道撮影)。 

 

 バンダイナムコフィルムワークスのアニメ制作ブランド「サンライズ」と言えば、アニメファンの間ではすっかりお馴染みの老舗名称でしょう。アニメスタジオとして独立していた1979年に『機動戦士ガンダム』を放映して以来、数々の名作・傑作ロボットアニメを世に送り出してきました。 

 

【え、肩の色が赤い!?】これが東京に立つ実物大「スコープドッグ」です(写真) 

 

 そのような名物ブランドの看板監督といえば、『ガンダム』シリーズが代表作の富野由悠季さんと『装甲騎兵ボトムズ』シリーズを代表作とする高橋良輔さんの2人であるといっても過言ではありません。 

 

 両者は年齢も近く(富野さんが1941年、高橋さんが1943年生まれ)、ともに手塚治虫さんが立ち上げたアニメ制作会社「虫プロダクション」出身という経歴を持ちます。しかし、その作風は大きく異なり、富野さんがSF色を強く打ち出し、海・空軍の関係者を主人公にしたようなスマートな世界を描くのに対し、高橋さんはミリタリズム(軍事色)を前面に打ち出し、陸軍や海兵隊をイメージさせる、陸戦モノを得意とするという違いがあります。 

 

 むしろ、そうした汗と泥と血にまみれ硝煙の匂いが漂う作品こそ、高橋さんの真骨頂といえるのでしょう。実際、そのような世界観を反映したかのように、高橋作品に登場するロボットは、『太陽の牙ダグラム』の「コンバット・アーマー」にしても、『装甲騎兵ボトムズ』の「アーマード・トルーパー」にしても、実在する戦車や軍用車両を思わせるボルト&ナットを多用した、リアリティあるメカニズムが特徴です。 

 

 高橋作品の特徴ともいえる、これら要素が生まれた背景には、多分に高橋監督が歩んできた人生観や、アニメーターになる前に経験した職歴が大きく影響していました。 

 

新三菱重工(当時)が製造していたスクーター「シルバーピジョン」。少年期の高橋さんが乗っていたのは1950年代に生産されたいずれかのタイプになる(山崎 龍撮影)。 

 

 筆者(山崎 龍:乗り物系ライター)は以前、雑誌の仕事で高橋さんにインタビュー取材をしたことがあります。 

 

 そのときに「ご自身の作品の原点となったのは何ですか?」と尋ねたところ、「若いときに関心を寄せていたベトナム戦争であり、この戦争を取材した開高健や石川文洋などのノンフィクション文学です」との返答でした。続いて「メカ描写の原点は?」と聞いたところ「青年期に乗っていた鉄製スクーターかな」と語ってくれました。 

 

 高橋さんは太平洋戦争で父親を失ったため、母子家庭に育ちます。家計を助けようと、学業の傍らでおじの八百屋を手伝っていた彼は、店にあったオート三輪を運転する必要から、高校生のときに自動車免許を取得します。当時は四輪の付帯免許で自動二輪の運転ができたことから、親戚から新三菱重工(当時)製のスクーター「シルバーピジョン」を譲り受け、日常のアシとして乗り回していました。 

 

 それまで乗り物といえば自転車しか知らなかった高橋さんにとって、風を切って走る鉄製のスクーターは新鮮で、自宅のある足立区から荒川の土手道を東京湾に向けて、暇を見つけては走っていたそうです。 

 

 しかし、当時は舗装路が少なく土手道は凸凹だらけだったので、くぼみを通過すると衝撃ですぐチェーンが外れてしまいます。そのたびに高橋さんは手を油で汚しながらチェーンをはめ直し、少し走っては再び外れたチェーンをはめ……という作業を繰り返していたとか。それでも楽しくて苦にはならなかったと述べていました。 

 

 

富士重工(現SUBARU)「スバルR-2」。アニメの仕事をするようになった高橋さんが最初に手に入れた四輪車。「スバル360」譲りのシンプルな構造の軽自動車で、2ストロークエンジンをリアに搭載していた。高橋さんはスクーターに乗っていたときに会得した整備技術で簡単な修理やメンテナンスはDIYでこなしていたという(画像:パブリックドメイン)。 

 

 1961年に高校を卒業した高橋さんは、明治大学第二学部(夜間学部)に進学するとともに、赤坂見附に当時あった「伊藤忠自動車」に事務員として就職します。彼が入社した当時、同社は、ヒルマンやサンビーム、タルボといったルーツ・グループの英国車のほか、いすゞや富士重工(現・スバル)などの国産乗用車を販売していました。 

 

 このときに高橋さんが社用車として宛てがわれたのが富士重工「ラビット」で、この鉄製スクーターに乗って書類手続きのため会社から九段の税事務所へと頻繁に通ったそうです。 

 

 しかし、そんな高橋さんの会社員生活は突然終止符を打ちます。映画好きで「いつか映像関係の仕事をしたい」と考えていた当時の彼は、1964年のある日、たまたま新聞の求人広告で「虫プロ」が社員募集をしているのを見て転職を決意します。 

 

 念願叶って虫プロ社員となった高橋さんは、制作進行や演出を経験したのち、1969年に虫プロ出身者が立ち上げたアニメスタジオ「日本サンライズ」へと移籍します。アニメ制作に携わるようになってからは仕事が忙しく、オートバイとは縁遠い生活を送ることになりましたが、1972年にイタリア製スクーター「ベスパ」を手に入れたことで再びバイク熱が蘇り、休日になるとツーリングを楽しむようになったそうです。 

 

 こうした経験があったからこそ、『太陽の牙ダグラム』や『装甲騎兵ボトムズ』などは、見上げるような巨大ロボットというよりも、自動車やせいぜいトラックサイズの機械として描かれているのでしょう。 

 

 しかも彼の作品に登場するメカは、主人公機を含めてそのほとんどが量産兵器であり、ほかのロボットアニメに見られるようなヒロイックな要素が排除されているのも特徴のひとつとなっていますが、それもまた、スクーターや自動車といった工業製品を常に扱っていたからなのかもしれません。 

 

 高橋さんの作品に共通するメカニズムの持つ独特の質感やリアリティは、彼が愛用した鉄製スクーターでの実体験、そして自動車ディーラーでの職務経験が強く影響していることは間違いないようです。 

 

山崎 龍(乗り物系ライター) 

 

 

 
 

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